Gunma Life
ぐんまの歴史  ぐんまの郷土史本文へジャンプ 登録: 2010/01/29
更新: 2010/03/18
名称 高崎藩5万石騒動  たかさきはん ごまんごく そうどう
区分 ぐんまの事件・事故 農民一揆
発生年月日 1869年(明治 2)〜1870年(明治3年)
高崎藩5万石騒動 / 概要
どんな事件? 明治初期の廃藩置県以前の高崎藩城付5万石領地で発生した、農民らによる年貢軽減を訴えた一揆のこと。

高い年貢(田には73%の税)に、約4000人の農民が高崎城下に押しかけて、年貢軽減を訴えたが、農民代表の佐藤三喜蔵高井喜三郎小島文冶郎の3名が一揆の責任を取らされて1870年(明治3年)に処刑された。 農民達の要求は、廃藩置県後に認められた。
いつ起きたの? 1869年(明治02年)〜1870年(明治03年)にかけて発生した事件。
県民の受け止め方は? 当時の農民たちは、3名の農民代表が犠牲になったことで、事件が解決したとして、義民物語として語り継がれている。
   群馬の民謡「八木節」
   高崎かるた
などにも歌われているとのこと。
高崎藩5万石騒動 / 関連する人物
高崎藩 大河内 輝聲 大河内松平家の第11代当主、 最後の高崎藩主。 初代高崎藩知事。
農民大総代 佐藤 三喜蔵 佐野村下中居(現在:高崎市下中居町)の農民。 1回目の直訴の大総代。
年貢軽減の農民集会で45ヶ村数万人の大総代に選ばれ東奔西走するが、結局聞き入れられず52歳で処刑される。
辞世: 望みなき 身は今目限りに ちりぬるも  七度生まれて かなへてやみん
墓碑: 高崎市下中居町 普門寺
高井 喜三郎 大類村柴崎(現在:高崎市柴崎町)の農民。  1回目の直訴の大総代。
年貢軽減の農民集会で45ヶ村数万人の大総代に選ばれ東奔西走するが、結局聞き入れられず42歳で処刑される。
辞世: 吾人の ためになれと 身をすてて  いまいけにへと なりしうれしさ
墓碑: 高崎市柴崎町 進雄神社
小島 文治郎 六郷村上小塙(現在:高崎市上小塙町)の農民。  1回目の直訴の大総代。
貢軽減の農民集会で45ヶ村数万人の大総代に選ばれ東奔西走するが、結局聞き入れられず処刑される。
辞世: 人のため 草葉の露と 消ゆれども  名を後の代に 残すうれしさ
墓碑: 不明
丸茂 元次郎 住所不明。 2回目直訴の大総代。
 
高崎藩5万石騒動 / 詳細
事の発端 事の発端は、明治維新後に行われた東山道鎮撫総督が行った「農商工布告」にあった。 布告によれば、「苛政に苦しむものは申し出よ」とあった。
当時、高崎藩の城付領地の5郷56村の農民達は、他藩の年貢より酷く高い年貢に苦しめまれていた。
1889年 9月 7日 明治2年(1889年)9月7日夜、下之城村(現:高崎市下之城町)の如意寺に、城付五万石領5郷56村の代表が集まった。 召集のふれは100ヵ村にも及び、今日のうちにも蓑笠(農民が町に出るときの服装)で城下に押し寄せんばかりの勢いだった、という。 会議は紛糾したが、要求事項、組織、財政、戦術が決定された。 

まず、大総代3名が選ばれ、村々の要求を書いた願証文、車笠連判状、誓約書などが大総代に渡され、大総代は「命懸けて引き受けます」とした受け証を各百姓代に返した。 小八木村(現在:高崎市小八木町)百姓代の清八と弥五郎が「小八木村要求」を大総代3人に託した証文には、畑の年貢は金銭で納税に変更、田の年貢は岩鼻県並み(籾1升に付き米5合納税=50%、高崎藩は73%であった)の税にするよう要求していた。
1889年10月17日 明治2年(1889年)10月17日夜明け、柴崎村(現在:高崎市柴崎町)天王森に前夜から終結した百姓4000人が、西へ向かい高崎城下の通町木戸まで連なったという。 全員、百姓の身分を著す蓑笠で身を固め、小八木村などは村旗を押し立てていた。 直訴は整然と行われ、城下は百姓で埋め尽くされ、願書が3人の大総代から高崎藩役人に渡された。 町の衆も感じるところがあり、炊き出しなどを行って百姓衆をねぎらったという。
 
1889年10月28日 高崎藩は明治新政府と連絡を取り合ったうえ、「田方新領並(田の税率は50%)、畑方永納(畑の納税は金銭で行う)とする、ただし当年かぎり」と回答した。
百姓衆は、永年減税を直訴していたことから、この回答に納得をしなかった。
1890年 2月 4日 大総代3名、佐野村下中居佐藤三喜蔵、大類村柴崎高井喜三郎、六郷村上小塙小島文治郎が直訴の罪で斬首される。
1890年 2月下旬
高崎藩5万石騒動関連情報
関連の本 明治44年刊、 細野格城著、 「高崎五万石騒動」
高崎かるた 」 ・・・・・ 五万石 騒動高崎 夜明け前
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