| あ行 |
名 前(サイト内入口) |
年代 |
生年 |
職業 |
ど ん な 人 ? |
| 没年 |
出身、関連地 |
http: ( サイト外リンク ) |
| あ |
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| ま |
天野 八郎
あまの はちろう |
江戸/幕末 |
1831/
1868/ |
彰義隊副頭取 |
南牧村出身。 彰義隊副頭取、大政奉還直後の上野戦争において新政府軍に捕らえられ、獄死した。 彰義隊墓は上野公園の西郷隆盛像の後ろにある。 |
|
甘利 昌忠
あまり まさただ |
戦国時代 |
1534/天文03
▲ |
戦国武将 |
武田家家臣。 1566年(永禄09)武田信玄が箕輪城を落した後に箕輪城代となる。 |
| ん |
安藤 重長
あんどう しげなが |
江戸時代 |
1600/慶長03
1657/明暦03 |
高崎藩主 |
安藤重信の外孫でかつ養子。 1621年(元和07)上野国高崎藩の2代藩主。1632年(寛永09)改易となった徳川忠長を預かり城内に幽閉した。 |
|
安藤 重信
あんどう しげのぶ |
江戸時代 |
1557/弘治03
1621/元和07 |
高崎藩主 |
戦国武将安藤基能の次男で、兄は安藤直次。 男の子がなかったため外孫重長を養子にした。 1619年(元和05)上野国高崎藩主となる。 |
|
安藤 重博
あんどう しげひろ |
江戸時代 |
1640/寛永17
1698/元禄11 |
高崎藩主 |
1657年(寛永17)祖父の先代藩主安藤重長の死によって家督を継ぎ、上野国高崎藩の3代藩主となる。 老中に栄進し、1695年(元禄08)に加増の6万5千石で備中国松山藩主となった。 |
|
安中 景繁
あんなか かげしげ |
戦国時代 |
=> 安中忠成 |
戦国武将 |
安中城主・安中忠成が1564年(永禄07)武田家に落城され降伏した後に変えた名前。 |
|
安中 忠成
あんなか ただなり |
戦国時代 |
▲
▲ |
戦国武将 |
安中城主。 安中忠政の嫡子。 当初、長野氏に仕えた上野国衆であったが、安中城を武田信玄に落とされ降伏して武田家家臣といなる。 長篠の戦いで戦死。 |
| |
安中 忠政
あんなか ただまさ |
戦国時代 |
▲
▲ |
戦国武将 |
松井田城主。 安中城を築城。 子は忠成、忠基。 |
|
安中 忠基
あんなか ただもと |
戦国時代 |
▲
▲ |
戦国武将 |
松井田城主・安中忠政の二男。 兄安中忠成と共に安中城を守備したが、武田信玄に攻略され、落城時に出羽国庄内まで落ち伸びた。 |
| い |
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| い |
井伊 直勝
いい なおかつ |
江戸時代 |
▲
▲ |
安中藩主 |
井伊直正の嫡子。 佐波山藩主を継ぐも、大阪の役に病弱のため出陣できず廃嫡となる。 名を直勝と改めて安中藩(3万石)の初代藩主となる。 |
| |
伊井 直政
いい なおまさ |
安土桃山
江戸時代 |
▲
▲ |
戦国武将
大名 |
徳川家康の家臣。箕輪城主、和田城を改築して高崎城を建築し、高崎の縄張りを行った。後に、近江国佐波山藩主、近江国彦根藩の初代藩主となった。 |
|
井伊 直好
いい なおよし |
江戸時代 |
▲
▲ |
安中藩主 |
安中藩主・井伊直勝の子。 1632年(寛永09)に父・直勝が隠居して、家督を継ぎ、安中藩主となる。 1645年(天保02)に三河国西尾藩に移封される。 |
| た |
板倉 勝明
いたくら かつあきら |
江戸時代 |
1809/文化06
1857/安政04 |
安中藩主 |
板倉勝尚の長男(庶子)。 1820年(文政03)父・勝尚の死去により家督を継ぎ安中藩主となる。 奏者番を務める。 死後は養子(弟)の勝殷が家督を継いだ。 |
|
板倉 勝意
いたくら かつおき |
江戸時代 |
1755/宝暦05
1805/文化02 |
安中藩主 |
安中藩主・板倉勝清の六男。 1784年(天明04)に兄で藩主の板倉勝曉の実子が早死にしたため養子となる。 1792年(寛政04)兄・勝曉が死に家督を相続、安中藩主となった |
|
板倉 勝清
いたくら かつきよ |
江戸時代 |
1706/宝永03
1780/安永09 |
安中藩主 |
板倉重同の長男。 陸奥国泉藩主、遠江国相良藩主をへて1749年(寛延02)上野国安中藩主となる。 幕府においても寺社奉行、若年寄、側用人、西丸老中、本丸老中を務めた。 |
|
板倉 勝曉
いたくら かつとし |
江戸時代 |
1727/亨保12
1792/寛政04 |
安中藩主 |
安中藩主・板倉勝清の長男。 1780年(安永09)父・勝清の死により家督を継ぎ、安中藩主となった。 1784年(天明04)に長男が死亡したため、弟・勝意を養子に迎えた。 |
|
板倉 勝尚
いたくら かつなお |
江戸時代 |
1785/天明05
1820/文政03 |
安中藩主 |
備中国松山藩主・板倉勝政の五男。 安中藩主・板倉勝意の養子となる。 1805年(文化02)養父の死去により家督を継ぎ安中藩主となる。 |
|
板倉 勝殷
いたくら かつまさ |
江戸時代 |
1820/文政03
1873/明治06 |
安中藩主
安中藩知事 |
板倉勝尚の三男。 兄の藩主・板倉勝明の死去に伴い家督を継いで、安中藩主となる。 和宮降嫁の際には中山道の警備をおこなう。 初代安中藩知事となる。 |
|
板倉 重同
いたくら しげあつ |
江戸時代 |
1679/延宝07
1717/享保02 |
安中藩主
陸奥泉藩主 |
神保元茂の二男。 母の父の安中藩主・板倉重形の養子となり、1686年(貞享03)に家督を継ぎ、安中藩主となる。 1702年(元禄15)に陸奥国泉藩主に移封となる。 |
|
板倉 重形
いたくら しげかた |
江戸時代 |
1620/元和06
1684/貞享01 |
安中藩主 |
板倉重宗の二男。 兄重郷が家督を継いだが、後に摂津内に1万石を領する。 1681年(延宝09)に摂津・下野から1万5千石で安中藩主となった。 寺社奉行となる。 家督は養子・重同が継ぐ。 |
|
板割ノ浅太郎
いたわりのあさたろう |
江戸時代 |
▲
▲ |
博徒 |
博徒・国定忠治の若衆。 忠治の賭場が役人に踏み込まれたことから、三室ノ勘助の蜜告と思った忠治は、板割ノ浅太郎に勘助を殺害させた。 |
| な |
稲垣 長茂
いながき ながしげ |
江戸時代 |
1539天文08
1612慶長17 |
大名 |
上野国伊勢崎藩の初代藩主。 |
| う |
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| ち |
内村 鑑三
うちむら かんぞう |
明治時代 |
1861文久01
1930明治05 |
宗教家 |
高崎藩士の子として江戸小石川で生まれ、札幌農学校に進学、新渡戸稲造、宮部金吾らと同級になりキリスト教に改宗し宗教家への路を歩み、著作も残す |
| え |
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| く |
江口 きち
えぐち きち |
|
1913 1938 |
歌人 |
博打好きの父と耐える母、知恵遅れの兄の生活を支えるため河井酔茗、島本久恵について短歌を始めるが、失恋と生活苦から兄と自殺 |
| る |
エルウィン・フォン・ベルツ
えるうぃん・ふぉん・べるつ |
明治時代 |
1849 1913 |
医師 |
明治9年に来日、「近代医学の父」と呼ばれた。草津温泉の医学的効用を研究し広く世界に公表した |
| お |
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| お |
大河内 輝貞
おおこうち てるさだ |
江戸時代 |
1665寛文05
1747延享04 |
高崎藩主 |
武蔵川越藩主・大河内松平輝綱の6男。 5代将軍徳側綱吉の小姓。側衆として活躍し上野高崎藩主となる。 6代将軍家宣は輝貞を越後村上に移封するが、8代将軍吉宗が輝貞を再び高崎に戻し、家格も昇格させた。 |
| |
大河内 輝聲
おおこうち てるな |
江戸・明治 |
1848/嘉永01
1882/明治15 |
高崎藩主
高崎藩知事 |
松平輝聴の長男。 幕末の高崎藩の第10代藩主。 大河内松平家第11代当主。 藩政を奉還して姓を松平から大河内に改めて、初代の高崎藩知事となる。 |
| |
大前田 英五郎
おおまえだ えいごろう |
江戸時代 |
1793寛政05 1874明治07 |
博徒 |
江戸時代末期の博徒 |
| く |
小栗 上野之介 (忠順)
おぐり こうづけのすけ |
江戸時代 |
1827文政10
1868寛永04 |
旗本、勘定奉行 |
幕末のやり手幕府勘定奉行、明治維新で官軍に討たれる |
| た |
織田 信雄
おだ のぶかつ |
戦国時代 |
1558永禄01
1630寛永07 |
戦国武将 |
戦国武将・織田信長の次男、波乱の戦国時代を過ごし、晩年、小幡藩2万石の藩主となる。 |
| の |
小野 栄重
おの えいじゅう |
江戸時代 |
1763宝暦13
1831天保02 |
和算家、測量家 |
江戸で藤田貞資から関流算学を学ぶ、伊能忠敬に従い全国の沿岸測量にあたる、40歳ごろ板鼻にて和算を教える |
| か行 |
名 前(サイト内入口) |
年代 |
生年 |
職業 |
ど ん な 人 ? |
| 没年 |
出身地 |
http: ( サイト外リンク ) |
| か |
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| き |
書上 文左衛門
かきあげ ぶんざえもん |
明治・大正 |
1864元治01
1914大正03 |
実業家
(絹買次商) |
明治後半から大正にかけての、桐生絹織物の買次商・書上商店の大1代当主 |
| み |
上泉 信綱 (伊勢守)
かみいずみ のぶつな |
戦国時代 |
1508永正05 1577天正05 |
武将
兵法家 |
戦国時代の武将、新陰流の創始者。塚原卜伝とも交友があった。60歳で箕輪城にて武田信玄に敗れる。柳生宗巌、宝蔵院胤栄に勝つ。 |
| |
上毛野 竹葉瀬
かみけぬ たきはせ |
古墳時代 |
▲
▲ |
豪族 |
仁徳53 新羅に派遣される |
| |
上毛野君 大川
かみけぬきみ おおかわ(?) |
古墳時代 |
▲
▲ |
豪族 |
|
| |
上毛野君 小熊
かみけぬきみ おぐま(?) |
古墳時代 |
▲
▲ |
豪族 |
武蔵国造の乱が起こる。 笠原直小杵が上毛野君小熊に援助を求める。 |
| |
上毛野君 稚子
かみけぬきみ わかこ |
古墳時代 |
▲
▲ |
豪族 |
唐・新羅連合軍に百済が攻め滅ぼされた後、百済再興派が倭国に助けを求め、倭国・百済連合軍の前軍将軍に任ぜられ、中軍、後軍合わせ27,000の兵の指揮官となり、白村江の戦いに出征するが、敗戦 |
| |
上毛野君 形名
かみけぬきみ かたな(?) |
古墳時代 |
▲
▲ |
豪族 |
蝦夷が反乱を起す。 朝廷は形名を蝦夷征討軍の将軍に任じる。 形名は出征し蝦夷を鎮圧する。 |
| |
上毛野君 三千
かみけぬきみ ?? |
古墳時代 |
▲
▲ |
古代国造 |
681年頃歴史編纂の仕事についた。 川島皇子らと帝紀及び上古の諸事を記し定めた。 |
| き |
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| た |
北条 高広
きたじょう たかひろ |
戦国時代 |
1517/永正14
1587/天正15 |
戦国武将 |
長尾氏に仕えた北条広春の子。1563年(永禄06)長尾景虎が攻め取った、上野国厩橋城の城代となる。 後に小田原北条に寝返ったが、越後相模同盟が成立し、再び上杉に仕える。後に、武田家、織田家家臣滝川一益、小田原北条氏に仕えたが、晩年はよくわからない。 |
| へ |
木部 貞朝
きべ さだとも |
戦国時代 |
▲
▲ |
戦国武将 |
木部範虎の子。 父・木部範虎と共に武田家に仕えたが、武田家滅亡後は、滝川一益に仕え、その後、北条氏直に仕えて、小田原落城後も、氏直の高野山追放に付き合う。 |
| |
木部 範虎
きべ のりとら |
戦国時代 |
▲
1582/天正10 |
戦国武将 |
木部城主。 箕輪城主・長野業政の娘婿。 長野家に仕えた後、武田家に仕えた。
祖先は源範頼の子孫で、石見国木部から上野国へ移住した。 |
| く |
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| し |
櫛渕 虚冲軒
くしぶち きょちゅうけん |
江戸/幕末 |
1748/
1849/ |
剣豪 |
旧月夜野町出身。 江戸・幕末の剣豪、 神道一心流の創設者。 顕彰碑が上野公園内の不忍池中の弁天堂境内にある。 |
| に |
国定 忠治
くにさだ ちゅうじ |
江戸時代 |
1810文化07 1851嘉永03 |
やくざ |
上野国佐位郡国定村の豪農に生まれ、江戸時代後期の博徒、殺人や信州街道大戸の関所破りで、関東取締出役から一斉手配を受け、捕縛され磔刑となる。 墓は賭博に効くと削られてしまう。 |
| ら |
倉賀野 三郎高俊
くらがの さぶろうたかとし |
鎌倉時代 |
▲
▲ |
鎌倉武士 |
武蔵児玉党の支流の秩父平四郎行高の三男・秩父三郎高俊。 源頼朝の御家人となり倉賀野に住みつき、倉賀野三郎高俊を名乗り、初代倉賀野氏となった。 |
| |
倉賀野 尚行
くらがの なおゆき |
戦国時代 |
▲
▲ |
戦国武将 |
父が河越夜戦で戦死したため、幼くして倉賀野城主となる。 上杉憲政、北条氏康、上杉謙信、らが上野国を支配するたびに主君を替えたが、金井秀景の裏切りで落城、越後へ落ち延びた。 |
| |
倉賀野 秀景
くらがの ひでかげ |
戦国時代 |
▲
▲ |
戦国武将 |
当初は金井秀景と名乗り、倉賀野行政、倉賀野尚行に仕え倉賀野十六騎の1人だったが、後に、武田方に寝返り、倉賀野城を落城させた。 その後、倉賀野城主となり、倉賀野姓を名乗る。 |
| |
倉賀野 光行
くらがの みつゆき |
南北朝時代 |
▲
▲ |
▲ |
倉賀野城主。 倉賀野館を改修して、倉賀野城を築いた。 |
| |
倉賀野 行政
くらがの ゆきまさ |
戦国時代 |
▲
▲ |
戦国武将 |
倉賀野城主。 上杉則政に仕え、河越夜戦に参戦したが、討ち死にした。 |
| け |
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| こ |
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| か |
木枯し 紋次郎
こがらし もんじろう |
江戸時代 |
▲
▲ |
架空人物
渡世人 |
フジTVの連続ドラマ(股旅物)の主人公、中村敦夫が主演した |
| し |
小島 文次郎
こじま ぶんじろう |
江戸末期 |
▲
1870明治03 |
農民、義民 |
幕末期の重税に苦しんでいた高崎藩の農民の大総代として立ち上がり、減税を訴え(高崎5万石騒動)、1870年(明治3)2月4日に高崎藩により処刑された。 |
| さ行 |
名 前(サイト内入口) |
年代 |
生年 |
職業 |
ど ん な 人 ? |
| 没年 |
出身地 |
http: ( サイト外リンク ) |
| さ |
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| い |
斉藤 宜義
さいとう のぶよし |
|
▲
▲ |
和算家 |
|
| か |
酒井 家次
さかい いえつぐ |
江戸時代 |
1564/永禄07
1618/元和01 |
高崎藩主 |
徳川家康の家臣酒井忠次の長男。母は家康の叔母碓氷姫で、家康とは従兄にあたる。 関ヶ原の戦い後の1604年(慶長04)高崎藩主となる。 後に、越後国高田藩10万石の大名となる。 |
| |
酒井 重忠
さかい しげただ |
江戸時代 |
1549/天文18
1617/元和03 |
戦国武将
厩橋藩主 |
徳川家の譜代家臣・酒井正親の次男。 若い頃から徳川家康に仕え、武蔵国川越藩主、1601年(慶長06)に3万3千石で上野国厩橋藩(前橋藩)初代藩主となる。 |
|
酒井 忠清
さかい ただきよ |
江戸時代 |
1624/寛永01
1681/天和01 |
厩橋藩主
老中、大老 |
酒井忠行の長男。 1637年(寛永14)、前年に祖父、父が無くなり、家督を継ぎ、10万石で厩橋藩主となった。 後に江戸幕府の老中、大老となり、15万石になった。 |
|
酒井 忠恭
さかい ただずみ |
江戸時代 |
1710/宝永07
1772/安永01 |
前橋藩主
播磨姫路藩主
老中 |
前橋藩分家の越前国敦賀藩主・酒井忠菊の四男。 長兄・前橋藩主・酒井親本に子がなかったため、1731年(享保16)親本の養子となり前橋藩主となる。 江戸幕府では大阪城代、老中となり、のちに播磨国姫路藩の初代藩主となる。 |
|
酒井 忠挙
さかい ただたか |
江戸時代 |
1648/慶安01
1720/享保05 |
厩橋藩主 |
1681年(明暦02)父忠清が隠居し、15万石を継ぐも、2万石を弟酒井忠寛に与え分家・伊勢崎藩を建てる。 寺社奉行、大留守居役。 厩橋の名を前橋に改める。 利根川が氾濫し、本丸3層の櫓が倒壊する。 |
|
酒井 忠相
さかい ただみ |
江戸時代 |
1667/寛文07
1708/宝永05 |
厩橋藩主 |
酒井忠挙の長男。 1707年(宝永04)父・忠挙が隠居し、家督を継ぎ前橋藩主となる。 3ヶ月後の1708年(宝永05)42歳で死去。 家督は長男・親愛が継ぐ。 |
|
酒井 忠行
さかい ただゆき |
江戸時代 |
1599/慶長04
1636/寛永13 |
厩橋藩主 |
酒井忠世の嫡男。 1625年(寛永02)上野国板鼻に2万石の所領を持つ。1636年(寛永13)父・忠世の死で家督を継ぎ厩橋藩主となるが、同年に死す。 家督は長男・忠清が継ぐ。 |
|
酒井 忠世
さかい ただよ |
江戸時代 |
1572/元亀03
1636/寛永13 |
伊勢崎藩主
厩橋藩主
老中、大老 |
酒井重忠の二男。 上野国那波藩主、伊勢崎藩主をへて12万2千石で厩橋藩の2代藩主となる。 江戸幕府では、老中、大老となる。 |
|
酒井 親本
さかい ちかもと |
江戸時代 |
1705/宝永02
1731/享保16 |
前橋藩主 |
前橋藩分家の越前国敦賀藩主・酒井忠菊の二男。 1716年(享保01)前橋藩主・酒井親愛の養子となり、1720年(享保05)義父・親愛が隠居し、家督を継ぎ、前橋藩主となる。1731年(享保16)に死去し、養子(弟)酒井忠恭が継ぐ。 |
|
酒井 親愛
さかい ちかよし |
江戸時代 |
1694/元禄07
1733/享保18 |
前橋藩主 |
酒井忠相の長男。 1708年(宝永05)父・忠相の死で、家督を継ぎ、前橋藩主となるが、若年のため藩政は隠居していた祖父・忠挙が行った。 1720年(享保05)家督を養子・親本に譲り隠居。 |
| と |
佐藤 三喜蔵
さとう みきぞう |
江戸末期 |
▲
1870/明治03 |
農民、義民 |
幕末期の重税に苦しんでいた高崎藩の農民の大総代として立ち上がり、減税を訴え(高崎5万石騒動)、1870年(明治3)2月4日に高崎藩により処刑された。 |
| の |
佐野 源左衛門常世
さの げんざえもんつねよ |
鎌倉時代 |
▲
▲ |
鎌倉武士 |
旅の僧(鎌倉幕府執権北条時頼)に一夜の宿を頼まれる。 暖を取る薪が無かったことから、秘蔵の盆栽の鉢木を焚いてもとなした人物。 謡曲「鉢木」のモデル。 |
| し |
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| お |
塩原 太助
しおばら たすけ |
江戸時代 |
1743寛保03 1816文化13 |
江戸商人 |
1802/享和02年に江戸本所相生町2丁目に店をだす。 |
| す |
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| す |
杉木 茂左衛門
すぎき もざえもん |
江戸時代 |
1634寛永11 1686貞享03 |
義民 |
沼田藩主・真田信利の悪政に対し5代将軍綱吉に直訴し、磔刑で処刑された。 沼田藩主・真田信利は改易となった。 |
| せ |
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| き |
関 重嶷
せき しげぎ(?) |
江戸時代 |
▲
▲ |
武士 |
伊勢崎藩年寄、 伊勢崎風土記を1798/寛政10年に著す |
| |
関 孝和
せき たかかず |
江戸時代 |
1642寛永17
1708宝永05 |
和算家 |
上毛カルタに「和算の大家 関孝和」と読まれる数学の大家。筆算における代数の計算法を発明。 |
| ら |
世良田 頼氏
せらた よりうじ |
鎌倉時代 |
生年不詳 1272文永09 |
鎌倉御家人 |
鎌倉御家人の世良田氏の始祖 |
| そ |
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| た行 |
名 前(サイト内入口) |
年代 |
生年 |
職業 |
ど ん な 人 ? |
| 没年 |
出身地 |
http: ( サイト外リンク ) |
| た |
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| い |
平 将門
たいらの まさかど |
平安時代 |
▲
▲ |
豪族 |
平安時代中期の関東の豪族。 平氏一族の抗争の果てに、国衙を襲い国印を奪い、独自に新皇になった。 朝敵となり藤原秀郷らにより滅ぼされた。 |
| か |
高井 喜三郎
たかい きさぶろう |
明治時代 |
▲
1870明治03 |
農民、義民 |
幕末期の重税に苦しんでいた高崎藩の農民の大総代として立ち上がり、減税を訴え(高崎5万石騒動)、1870年(明治3)2月4日に高崎藩により処刑された。 |
| |
高津 仲次郎
たかつ なかじろう |
明治・大正 |
1857/安政04
1928/昭和03 |
国会議員
実業家 |
堀口蘭園の元に学び、板垣退助の愛国社にはいり、国会開設運動に参加。 群馬県会議員をへて明治23年第1回総選挙で衆議院議員となる。 群馬電力、東京電力などの取締役を歴任。 |
| |
高橋 お伝
たかはし おでん |
|
1848嘉永01 1879明治12 |
毒婦 |
仮名垣魯文の「高橋阿伝夜叉譚」の実在モデル |
| |
高山 長五郎
たかやま ちょうごろう |
明治時代 |
1830天保01
1886明治19 |
養蚕事業家 |
高山村名主、養蚕研究家、養蚕改良高山社の初代社長、私立甲種高山社養蚕学校の初代校長 |
| |
高山 彦九郎
たかやま ひこくろう |
江戸時代 |
1747/延享04
1793/寛政05 |
勤皇思想家 |
細谷村の豪農の次男、江戸中期の勤王思想家で、日本全国を旅をして、人と交わり旅日記を残す。後の幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与えた。 |
| き |
滝川 一益
たきがわ かずます |
戦国時代 |
1525大永05
1586天正14 |
戦国武将
箕輪城主
厩橋城主 |
戦国武将、織田信長の家臣で武田攻めの功で関東管領として箕輪城主に。 居城を厩橋城に変え上野国諸将の家族を人質に取る。 本能寺の変後、神流川合戦の際に諸将の人質を解放して戦に臨んだが、北条方に敗戦して清州会議に間に合わず没落した。 |
| し |
田島 弥平
たじま やへい |
明治時代 |
1822文政05
1898 |
養蚕研究家 |
父親の田島弥兵衛と2代にわたっての養蚕研究をまとめ、明治5年に養蚕新論として著し、近代養蚕を確立した。 |
| な |
田中 正造
たなか しょうぞう |
明治時代 |
1841天保12
1913大正02 |
公害反対運動家 |
下野の国小中村の名主、明治初期に江刺県花巻支庁に勤務、後に栃木県会議員を経て、第1回衆議院議員に当選したが、足尾鉱毒事件に遭遇し、残りの人生を公害反対運動に費やす。 |
| ち |
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| よ |
長利
ちょうり |
古墳時代 |
▲
▲ |
僧侶 |
上野国府そばにあった放光寺(現在は廃寺:山王廃寺)の僧であった長利は、母を弔うために、山上古墳を造営し、その記念に山上碑を建碑した。 |
| つ |
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| ち |
土屋 文明
つちや ぶんめい |
|
1890 1990 |
歌人 |
伊藤左千夫に師事し、島木赤彦没後に「アララギ」の指導者に、代表作は「山谷集」 |
| と |
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| く |
徳川 忠長
とくがわ ただなが |
江戸時代 |
1606慶長11
1634寛永10 |
駿河大納言
徳川家康の孫 |
徳川2代将軍秀忠の3男。 駿府藩主、駿河城主、駿河大納言。 兄である3代将軍徳川家光と将軍の座を争い破れ、高崎城に幽閉され自刃させられる。 |
| |
得川 義季
とくがわ よしすえ |
平安時代 |
▲
▲ |
平安武士 |
清和源氏の新田氏の支流、得川氏と世良田氏の始祖。 後に徳川家康により徳川の遠祖とみなされた。 |
| |
得能 関四郎
とくのう かんしろう |
明治時代 |
1842天保13
1908明治41 |
剣術家 |
沼田藩士の子として生まれ、直心陰流・長沼恂教から免許皆伝。廃藩後、東京で市中取締役、警視庁警護掛を経て1884年に松崎浪四郎に勝利、1895年には奥村左近太に勝利して範士となる。 |
| み |
富岡 直光
とみおか なおみつ |
▲ |
▲
▲ |
▲ |
結城の合戦で父持朝を失った結城持光は、甘楽郡富岡に落ち延び、富岡主税介直光と名乗った。 後に古河公方足利成氏に従い、功を上げ、1489年(延徳01)小泉城を築城する。 |
| よ |
豊城 入彦
とよぎ いりびこ |
|
▲
▲ |
古代皇子 |
崇神天皇の第1皇子、皇太子には選ばれなかったが、崇神天皇の命により東国(群馬・栃木)に派遣され、そこを治める。 赤城神社、二荒山神社を祀る。 上毛野君、下毛野君の始祖。 |
| な行 |
名 前(サイト内入口) |
年代 |
生年 |
職業 |
ど ん な 人 ? |
| 没年 |
出身地 |
http: ( サイト外リンク ) |
| な |
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| い |
内藤 昌月
ないとう まさあき |
戦国時代 |
1550/天文19
1588/天正19 |
戦国武将 |
内藤昌豊の嫡子。 武田家家臣で上野国箕輪城代であったが、武田氏滅亡後、織田信長家臣の滝川一益に従い、その後、北条氏邦に従った。 |
|
内藤 政里
ないとう まささと |
江戸時代 |
1713/正徳03
1746/延享03 |
安中藩主 |
安中藩主・内藤政森の二男。 1733年(享保18)父・政森の隠居で家督を継ぎ安中藩主となる。 家督は二男の政苗が継ぐ。 |
| |
内藤 昌豊
ないとう まさとよ |
戦国時代 |
1522/大永02
1575/天正03 |
戦国武将 |
武田4名臣の1人。 1566年(永禄09)武田信玄が落城させた箕輪城の城代となる。 信玄の死後は勝頼に仕え、1575年(天正03)の長篠の戦で戦死する |
|
内藤 政苗
ないとう まさみつ |
江戸時代 |
1741/寛保01
1802/享和02 |
安中藩主 |
安中藩主・内藤政里の二男。 1746年(延享03)父・政里の死去により家督を継ぎ、安中藩主となる。 1749年(寛延02)三河国挙母藩に移封される。 |
|
内藤 政森
ないとう まさもり |
江戸時代 |
1683/天和03
1738/元文03 |
陸奥泉藩主
安中藩主 |
陸奥国泉藩主・内藤政親の三男。 1696年(元禄09)泉藩主となる。 1702年(元禄15)上野国安中藩に移封。 安中城を改修する。1727年(享保12)百姓一揆が起こる。 |
| か |
中居家 重兵衛
なかいや じゅうべえ |
江戸時代 |
1820文政03 1861文久01 |
江戸豪商 |
蘭学者川本幸民やシーボルトに師事し、火薬の専門書「砲薬新書」を出版し火薬研究をリードした。横浜港開港後は上州生糸の輸出貿易をほぼ独占して財を成した。しかし水戸藩のシンパであったことから文久元年に突如消息を絶った。 |
| |
長尾 景春
ながお かげはる |
戦国時代 |
▲
▲ |
戦国武将 |
|
|
長尾 忠房
ながお ただふさ |
室町時代 |
▲
▲ |
▲ |
上野国府跡に築城されていた蒼海城主であったが、地形が複雑すぎて使い勝手が悪いことから、利根川岸に石倉城(後の厩橋城)を築城して、城主となった。 |
|
長野 業正
ながの なりまさ |
戦国時代 |
▲
▲ |
戦国武将 |
1566年(永禄09)に武田信玄によって箕輪城は落城し、 |
| |
長野 業政
ながの なりまさ |
戦国時代 |
1491延徳03
1561/永禄04 |
戦国武将 |
上野国箕輪城主、周囲に一族が厩橋城、室田城、鷹留城などを所有していた。 |
|
長野 業通
ながの なりみち |
戦国時代 |
▲
▲ |
戦国武将 |
上野国鷹留城。 1566年(永禄09)に武田信玄によって鷹留城は落城し、長野業通は、少数の敗残兵と共に吾妻方面に逃げた。 |
| |
長野 業盛
ながの なりもり |
戦国時代 |
▲
1566/永禄09 |
戦国武将 |
上野国箕輪城主、 長野業盛の嫡子。 1566年(永禄09)に武田信玄によって箕輪城は落城、長野業盛は御前曲輪の持仏堂で自刃して果てた。 |
| |
長野 信業
ながの のぶなり |
戦国時代 |
▲
▲ |
戦国武将 |
上野国箕輪城主。 長野尚業の嫡子。 |
| |
長野 尚業
ながの ひさなり |
戦国時代 |
▲
1503 |
上野国人
戦国武将 |
上野国室田城主、戦国長野氏の基礎を築いた人物、2代後の長野氏が本拠を箕輪に移す。
亨徳の乱では、将軍足利義政と守護山内上杉顕定が古河公方攻めを行った際、山内上杉顕定に従って参戦し、将軍から戦功を賞する文書を受ける。 |
|
長野 賢忠(方業)
ながの ???? |
戦国時代 |
▲
▲ |
厩橋城主 |
長尾忠房が築いた石倉城が、1534年(天文03)に利根側の反乱で三の丸以外が流出してしまった。 ここに、厩橋城を築城し、城主となる。1551年(天文20)後北条に攻められ城を明け渡す |
| に |
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| し |
西塚 梅
にしづか うめ |
明治時代 |
1825
1888 |
製糸技術指導者 |
藩営前橋製糸所にてスイス人から製糸技術を伝授され、工女や伝習生の指導に当たる。弟の桑島新平が創設した研業社の関根製糸所で教師兼工女取締りを務める。 |
| つ |
新田 義助
にった ぎすけ |
南北朝時代 |
▲
▲ |
南朝武将 |
新田義貞の弟。兄新田義貞の鎌倉倒幕に参加し、その功により従五位下駿河守に。 |
| |
新田 義顕
にった よしあき |
南北朝時代 |
1320元応02
1337建武04 |
南朝武将 |
新田義貞の長男。父新田義貞の鎌倉倒幕に参加し、その功により従五位下越後守に。1337年に足利尊氏に滅ぼされる。 |
| |
新田 義貞
にった よしさだ |
南北朝時代 |
1301正安03 1338延元03 |
南朝武将 |
河内源氏で上野に土着した新田氏の棟梁。 後醍醐天皇の呼びかけに鎌倉倒幕へ挙兵・倒幕する。 後に、足利尊氏により滅ぼされる。 |
| |
新田 義重
にった よししげ |
|
▲
▲ |
|
清和天皇の流れをくむ、源氏の祖である八幡太郎こと源義家の孫に当たる人物。 新田荘を所領地としたことから新田姓を名乗る。 里見氏、山名氏、徳川氏の祖。 |
| ぬ |
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| ま |
沼田 顕泰
ぬまた あきやす |
戦国時代 |
生年不詳 没年不詳 |
戦国武将 |
上野国利根郡沼田の領主 |
| |
沼田 景義
ぬまた かげよし |
戦国時代 |
1552天文21 1581天正09 |
戦国武将 |
沼田顕泰の庶子 |
| ね |
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| の |
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| は行 |
名 前(サイト内入口) |
年代 |
生年 |
職業 |
ど ん な 人 ? |
| 没年 |
出身地 |
http: ( サイト外リンク ) |
| は |
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| ひ |
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| の |
檜前部君 加味麻呂
ひのくまべのきみ かみまろ |
飛鳥時代 |
▲
▲ |
地方豪族 |
正倉院宝物の天平感宝元年(749)の庸布に、佐位郡佐位郷戸主・檜前部黒麻呂と同郡大領・檜前部君加味麻呂の名が記されている。 |
| |
檜前部 黒麻呂
ひのくまべ くろまろ |
飛鳥時代 |
▲
▲ |
地方豪族 |
正倉院宝物の天平感宝元年(749)の庸布に、佐位郡佐位郷戸主・檜前部黒麻呂と同郡大領・檜前部君加味麻呂の名が記されている。 |
| |
檜前部 老刀自
ひのくまべ おいとじ |
飛鳥時代 |
▲
▲ |
地方豪族の娘
称徳天皇の采女 |
神護景雲元年(767)上毛野佐位朝臣、神護景雲2年(768)本国国造、宝亀2年(771)従五位下を授けられる。 |
| ら |
平岩 親吉
ひらいわ ちかよし |
戦国時代 |
1542/天文11
1611/慶長16 |
戦国武将
厩橋城主 |
平岩親重の二男。 徳川家康と同じ年で今川家に人質としていた時代にも付き従っていた。 家安の重臣。 1590年(天正10)小田原の役後に、3万3千石で厩橋城主となる。 |
| ふ |
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| し |
藤枝 英一
ふじえだ てるかつ |
|
▲
▲ |
刀工 |
|
| |
藤原 寛一
ふじわら ひろかず |
|
1801享和01
明治15 |
歌人 |
多野郡吉井町でうまれた斎藤佐源治は、長じて橋本唯香の門人となり歌道を志す。 |
| な |
船津 伝次平
ふなつ でんじへい |
明治時代 |
1832天保03
1891明治31 |
農業研究家 |
富士見村出身で名主を務めた農業研究家で実践的な農業技術の改良に当る。 明治の3老農の1人。 明治維新後は政府に招かれ元東京帝国大講師。 従五位に列せられる |
| ほ |
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| う |
北条 氏邦
ほうじょう うじくに |
戦国時代 |
1541/天分10
1597/慶長02 |
戦国武将 |
北条氏康の4男。 北条家の上野国を担当した武将。神流川合戦で北条氏直を補佐して滝川一益を破ると、氏邦は箕輪城に入城した。 また名胡桃城強奪を行った沼田城代猪俣の司令官であったが、この名胡桃城事件により、北条は豊臣秀吉により滅ぼされた。 |
| し |
星野 長太郎
ほしの ちょうたろう |
|
1845
1908 |
生糸生産 |
水沼村の名家・星野家の長男として生まれ、生糸の生産で大成功する。 |
| つ |
堀田 正俊 ●
ほった まさとし |
江戸時代 |
1634/寛永11
1684/貞享01 |
安中藩主
下総古河藩主 |
徳川家光の老中・堀田正盛の三男。 1635年(寛永12)徳川家光の乳母・春日局の養子となる。1641年(寛永18)から家光嫡男・竹千代(後、徳川家綱)の小姓となる。1660年(万治03)安中藩主、1679年(延宝07)老中となり2万石加増。後に大老となる。 江戸城内で刺殺される。 |
| り |
堀口 藍園
ほりぐち らんえん |
|
▲
▲ |
教育者 |
幕末・明治期の教育者 |
| ま行 |
名 前(サイト内入口) |
年代 |
生年 |
職業 |
ど ん な 人 ? |
| 没年 |
出身地 |
http: ( サイト外リンク ) |
| ま |
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======= |
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− |
| ち |
町田 菊次郎
まちだ きくじろう |
明治時代 |
1850嘉永03
1917大正06 |
養蚕事業家 |
養蚕改良高山組で養蚕を研修、後に、養蚕改良高山社第2代社長、私立甲種高山社養蚕学校の第2代校長 |
| つ |
松平 輝徳 ●●
まつだいら てるあきら |
江戸時代 |
▲
▲ |
高崎藩主 |
5000石の大身旗本・松平信弥(のぶみつ)の次男。 高崎藩大河内松平家とは同属に当たり、松平輝承の急逝により養子となり家督を継いだが、翌年、死亡してしまい養子輝充が跡を継いだ。 |
|
松平 輝貞 ●●
まつだいら てるさだ |
江戸時代 |
▲
▲ |
高崎藩主 |
武蔵国川越藩主大河内松平輝綱の6男。 徳川綱吉、徳川吉宗の側近、側用人で老中格。 大河内長沢松平家の初代高崎藩主。 |
|
松平 輝高 ●●
まつだいら てるたか |
江戸時代 |
▲
▲ |
高崎藩主 |
高崎藩主ながら、寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中と出世し、高崎藩の7万2千石から8万2千石に加増された。 |
|
松平 輝聴 ●●
まつだいら てるとし |
江戸時代 |
▲
▲ |
高崎藩主 |
上総国大多喜藩主・大河内松平正敬の四男。 松平輝充の養子として家督を継ぎ、高崎藩主となる。 寺社奉行を務める。 1860年(万延01)に没し、家督は長男・松平輝聲が継ぐ。 |
|
松平 輝聲 ●●
まつだいら てるな |
江戸・明示 |
▲
▲ |
高崎藩主
高崎藩知事 |
高崎藩主時代には松平輝聲と名乗ったが、廃藩置県の際に姓を松平から大河内に戻して、大河内輝聲となり、初代高崎藩知事に任じられた。 => 大河内輝聲 (おおこうち てるな) |
|
松平 輝延 ●●
まつだいら てるのぶ |
江戸時代 |
▲
▲ |
高崎藩主 |
松平輝高の三男だが二男輝高が大坂で病死したため家督を継ぐ、高崎藩主となる。 寺社奉行、大阪城代となる。 |
|
松平 輝規 ●●
まつだいら てるのり |
江戸時代 |
▲
▲ |
高崎藩主 |
5000石の大身旗本松平信定の10男。 輝規の従兄弟である高崎藩主・松平輝貞の養子となり、家督を継ぎ、高崎藩主となる。 |
|
松平 輝充 ●●
まつだいら てるみち |
江戸時代 |
▲
▲ |
高崎藩主 |
美濃国高富藩主・本庄道昌の五男。 松平輝徳の養子として高崎藩主になる。 1846年(弘化03)家督を養子松平輝聲(てるな)に譲って隠居した。 |
|
松平 輝和 ●●
まつだいら てるやす |
江戸時代 |
▲
▲ |
高崎藩主 |
松平輝高の二男だが、兄が早く死んだため嫡子となり、家督を相続し高崎藩主となる。 寺社奉行、大阪城代となる。 |
|
松平 輝承 ●●
まつだいら てるよし |
江戸時代 |
▲
▲ |
高崎藩主 |
松平輝延の三男。 数え23歳で死亡し、子がなかったため養子の輝徳が家督を継いだ。 |
|
松平 朝矩 ●
まつだいら とものり |
江戸時代 |
1738/元文03
1768/明和05 |
播磨姫路藩主
前橋藩主
武蔵川越藩主 |
播磨姫路藩主・松平明矩の長男。 11歳の時、父が急死し姫路15万石を継ぐ。 しかし、姫路は西国を抑える重要拠点で、藩主が幼少なら国替えの不文律があるので、前橋藩15万石へ転封。 しかし、前橋城の本丸は利根川に水浸しにされ、居城を前橋から河越に移し、領地は松平家の代官支配とし、前橋城は廃城とした。 |
|
松平 直方 ●
まつだいら なおかた |
明治時代 |
1858/安政05
1907/明治40 |
前橋藩知事
伯爵 |
越中国富山藩主・前田利聲の次男。 1869年(明治02)8月13日に前橋藩主・松平直克の養子となり、同年8月17日直克が隠居し家督を継ぎ前橋藩知事となる。後に伯爵となる。 |
|
松平 直克 ●
まつだいら なおかつ |
江戸時代 |
1840/天保11
1897/明治30 |
武蔵川越藩主
前橋藩主 |
筑後国久留米藩主・有馬頼徳の十三男。 1861年(文久01)川越藩主・松平直侯の婿養子となる。 家督を継ぎ川越藩主となる。 幕府から前橋城築城が許可され前橋城を築城。 1867年(慶應03)前橋城に移る。 1868年(慶應04)新政府に帰順し、会津藩と戦う。1869年(明治02)前橋藩知事となり、同年に家督を養子・直方に譲り隠居する。 |
|
松平 信吉 ●●
まつだいら のぶよし |
江戸時代 |
▲
▲ |
高崎藩主 |
実父は桜井松平家の松平忠吉。 養父は藤井松平家の松平信一. 常陸国土浦藩主、上野国高崎藩主、のちに丹波国篠山藩主となる。 |
| |
松平 康長 ●●
まつだいら やすなが |
江戸時代 |
▲
▲ |
白井藩主
高崎藩主 |
戸田松平家の嫡流。 関ヶ原の戦い後の1600年(慶長07)上野国白井藩主、1616年(元和02)上野国高崎藩主となる。 1617年(元和03)信州国松本藩主となる。 |
| み |
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水野 元綱 ●
みずの もとつな |
江戸時代 |
1601/慶長06
1665/寛文05 |
安中藩主 |
三河新城藩主・水野分長の長男。 1620年(元和06)筒・分長が徳川頼房に付けられ水戸藩へいどうしたため、三河国新城藩主となる。 1648年(慶安01)上野国安中藩主となる。 |
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水野 元和 ●
みずの もととも |
江戸時代 |
1644/正保01
1680/延宝08 |
安中藩主 |
安中藩主・水野元綱の二男。 兄・元倫が早死にし嫡子となる。 1664年(寛文04)に父・元綱が隠居し、安中藩主となる。 1667年(寛文07)発狂して妻を切り家は改易、身は松本藩預かり。 長男の元朝に2000石が給され子孫は旗本として存続した。 |
| む |
三室ノ勘助 |
江戸時代 |
▲
1801/享和01 |
博徒 |
旗本の家臣・寛治忠行の倅として生まれるが、博徒となる。 国定忠治ともめごとになり、その若衆・板割ノ浅太郎に享和元年5月5日に息子勘太郎と共に切り殺される。 |
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三室ノ勘太郎 |
江戸時代 |
▲ 1801/享和01 |
博徒の子供 |
三室ノ勘助の子供。 国定忠治の若衆・板割ノ浅太郎によって、父勘助と共に切り殺される。 芝居の国定忠治では浅太郎が勘太郎を背負い、勘助の首を忠治に届ける、となっている。 |
| や |
宮下 秀冽
みやした しゅうれつ |
大正・昭和 |
1909明治42
1993平成05 |
筝曲師 |
造り酒屋の長男として生れるが、旧高崎中学卒業後に失明し、官立東京盲学校で筝曲を学び、筝曲の世界に入る |
| む |
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| も |
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| の |
物部 氏永
もののべ うじなが |
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▲
▲ |
反乱豪族/盗賊 |
上野国西毛の地方豪族もしくは盗賊の頭。 上野国衙が常設軍団を廃止したのに乗じて、国衙に対して寛平・延喜東国の乱とよばれる反乱を起こした。 鎮圧には10年かかった。 |
| や行 |
名 前(サイト内入口) |
年代 |
生年 |
職業 |
ど ん な 人 ? |
| 没年 |
出身地 |
http: ( サイト外リンク ) |
| や |
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| ま |
山名 義範
やまな よしのり |
鎌倉時代 |
▲
▲ |
鎌倉時代武将
山名氏の祖 |
新田義重(八幡太郎義家の孫、新田氏の祖))の庶子で上野国多胡郡八幡郷の山名庄を所領として分与され領地に入り、山名氏を名乗る。 山名八幡宮を建立。 源頼朝に従い御家人となる。 |
| ゆ |
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| ら |
由良 成繁
ゆら なりしげ |
戦国時代 |
1506永正03 1578天正06 |
戦国大名 |
下克上で主家・若松氏から新田金山城を奪い大名になる。 |
| ら行 |
名前(サイト内入口) |
年代 |
生年 |
職業 |
ど ん な 人 ? |
| 没年 |
出身地 |
http: ( サイト外リンク ) |
| ら |
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| り |
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| る |
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| れ |
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| ろ |
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| わ行 |
名前(サイト内入口) |
年代 |
生年 |
職業 |
ど ん な 人 ? |
| 没年 |
出身地 |
http: ( サイト外リンク ) |
| わ |
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| た |
和田 業繁
わだ なりしげ |
戦国時代 |
▲
1573/天正03 |
戦国武将 |
和田城主。 母は長野業正の妹。 関東管領上杉憲政に従っていたが、永禄5年に武田信玄に降伏し、武田家家臣となる。 天正3年5月21日長篠の戦いで戦死した。 |
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和田 信業
わだ のぶなり |
戦国時代 |
1560/永禄03
1617/元和03 |
戦国武将 |
和田城主。 甲斐武田氏の譜代家老・跡部勝資の子として生まれ、上野国衆・和田城主・和田業繁の婿養子となる。 父の戦死で家督を継ぐ。 後に、織田家、北条家の家臣となるが、秀吉の北条攻めの際、小田原城に籠城していた。 敗戦で家は没落した。 |