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▲DHRの臨時列車がダージリン名物の茶園横を通過する。牽引車両はIR車両番号804番『QUEEN OF HILLS』、1両目の客車はトムソーヤの冒険の作者に捧げられた『105・マーク・トゥウェイン』、2両目の客車はヘリテージ・カー『14・エヴェレスト』。
ダージリン・ヒマラヤン鉄道は、19世紀に起業された会社組織『ダージリン・ヒマラヤン鉄道会社※』が運営する地方鉄道を前身としている。同地域で唯一の大量輸送手段であったため、貨物輸送や旅客輸送などのシェアのほぼすべてを手中に収めていた。
※ダージリン・ヒマラヤン鉄道会社自体も19世紀に起業された『ダージリン馬車鉄道会社』を前身としている。
ダージリンはインド帝国の主要産業の1つであった紅茶の産地であった。筆者は世界に流通する紅茶の4〜5割はダーリン茶であったと推測している。ともかく、世界市場を支えるに足りる量の紅茶の輸送を一手に引き受けていたため、ダージリン・ヒマラヤン鉄道会社は潤沢な資金を運用可能な優良企業であったことは間違いない。それらを証明する資料※は豊富に残されてる。
独自規格のディーゼル機関車、ディーゼル特急列車、ガソリンカー、二期に及ぶガーラット形蒸気機関車の採用など、現在の状態から想像も出来ないほどのパイオニア精神と、それを支えるに足りる資金力があったわけだ。
※DHRが保存していたこれらの資料に目を通すまでは、ネパール鉄道の「クリシュナ」以上に小型のガーラット形蒸気機関車が存在するとは知らなかった。ただし肝心な資料はまったく未整理で、手つかずのジグソーバズル状態。勿論、ピースがすべて揃っているわけではない。
▲ネパール鉄道(旧ジャナクプール鉄道)が使用してた狭軌仕様のガーラット。こちらも英国ベイヤー&ピーコック社のマンチェスター工場製。
また、企業としての実績が積み重ねられるにつれて信用も大きくなって行った。それは、大規模な開発投資を独自に行うに十分な量の・・・政府や投資家からの『善意』をも獲得できていたということでもある。
同社は610mmゲージ(ナロー・ゲージ)の近郊連絡鉄道を2本も追加開発するなどして、英国植民地時代末期=第二次世界大戦中に最盛期を迎えたようだ。しかし、誰もが羨むような『栄華』はインドの独立と英国の撤退によって四散してしまった。
▲ダージリン茶の花。種的にほぼチャイナ種に見える。彼の地では他にはアッサム種、それとチャイナ種とアッサム種の接ぎ木であるクローナルが栽培されている。
新生インド政府は英国からの独立を果たすと、混乱期に抱えてしまった数々の障害を克服するため、英国人が創造した『インド帝国』の中央集権体制の継承と再構成を急いだ。その時に発動された強権の一つが「領土内の全ての鉄道施設を国有化」だった。
これはインド全土で同時に起こった事件だった。ダージリン・ヒマラヤン鉄道会社も例外とはならず、インド国鉄に吸収合併されてしまった。そしてその混乱の中で、同鉄道が開発した2本の近郊連絡鉄道区間が歴史の舞台からひっそりと消滅した。
▲山岳本線で運用されていたガーラット。スイッチバックで切り返しをする際、車両全長が長すぎるために連結可能な貨物車両数が減少してしまうなどの問題が運用開始後に発覚した。持ち前の牽引力が活かせなかったことからDHRには定着しなかった。どの納期の車両にあたるのかは調査中。
歴史に「もし」はあり得ない。しかし、敢えて『もし、最盛期からの転落が経営方針の破綻など自らの責任に帰すものであったなら』と考えてしまう。経営の悪化が原因であれば良くも悪くも足掻かずにはいられないので、その痕跡まで消滅させるということは不可能となる筈なのだ。
少なくとも2本の近郊連絡鉄道区間は買収の対象となったことだろう。後で詳しく記述するが、特にシリグリーから東に伸びる路線の方は、当時は未だ有望な産業であったチベットとの交易ルートを支える重要なインフラだった。また、その後はインドが米国と共同で行っていたチベット支援作戦用のインフラとしての活用も期待できた筈だ。
しかし、そうはならなかったのだ。そういった事情は無視されて、この支線はある日突然に組織は解体された。あまりに早急な解体のせいで遺言すら残す猶予も与えられなかったということなのだろうか?
▲DHRで運用されていた貨物車両。観光客の荷物からプランターが出荷する紅茶まで、あらゆる輸送を担っていた。現在では全車両が廃車済み。
ともかく、シリグリー〜ダージリン区間の鉄道だけが21世紀まで営業を続けることができた。結果として、ダージリン・ヒマラヤン鉄道会社の最大の遺産は、ユニセフが作成する世界遺産リストに登録された。
この山岳鉄道区間は知名度は極めて高いが、消滅してしまった2本の近郊連絡鉄道区間の存在は長らく無視されてきた。
この件についてはダージリンという地元も同様で全貌を記憶する人がほとんどいない。さすがの海外鉄道に詳しい鉄道ファンでも一般的に流通している情報からだけでは、なかなか発見に至らないようだ。
また、発見したとしても現地に赴いて直接に資料を当たる以外に、この埋もれつつある歴史の全貌を知る方法がないこともこの問題の混迷度をさらに高めている様な気がする。
実際、当時を知る鉄道員達の話を収拾しても記憶違いのためか、矛盾点が多く多くの部分を「推測」よりも「推理」に頼るしかない。だから、これから語るのは歴史は確定したものでは決してありえない。
それでは、消滅してしまった『2本の610mmゲージの近郊連絡鉄道区間の推理』という本題に入る前に、それらが姿を消した当時の国際情勢の整理をしよう。

▲植民地時代のDHRインド人鉄道員の給与リストのコピー。 探してみるとこういう面白いモノも発掘できる。
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