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インド>ダージリン>回教国パキスタンの分離独立

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▲英国人が愛した避暑地ダージリンの全景。背後には世界第二の高峰カンチェンジュンガがそびえ立つ。ネパール、シッキム、ブータンに3方を囲まれた辺境のこの街は印・パ戦争の負の影響から逃れることが出来た。

 

  1947年、インドは長年続いた英国支配から脱出に成功した。インド皇帝エリザベスが支配した『英国領インド帝国』から、民族自決が不可能ではない『インド』として生まれ変わったのだ。

可能と判断しているわけではない。また、フランスやポルトガルなど英国以外の列強国に支配されていた地域はこの一文に含まれない。

当時の主要な政党であったインド国民会議派とムスリム連盟は当初は歩調を合わせて活動を行っていた。しかし、回教徒はインド帝国の独立成立が必至となった段階になって、突然に活動の内容を分離運動に変化させた。ムスリム連盟は自分たちが主役である新国家の建設を主張し始めたのだ。

英国はこの時期にインドという重荷から解放されたいという意思を持っていた。もうこれ以上の面倒に巻き込まれたくないとでも思ったのだろうか? インド総督マウントバッテン卿は回教徒によっる『パキスタン』の分離独立を承認した。

------藩単位でインドかパキスタンのいずれへの参加を決定する様に。

と通知したのだった。

現在のパキスタン・イスラム共和国を指す(国名が政権与党の都合によって頻繁に換わる)。当時のパキスタンは領土が二カ所に別れて(飛び地)していた。その都合で『東・西パキスタン』と呼ばれてた。西パキスタンは現在のパキスタン、東パキスタンは現在のバングラディッシュ。東西ドイツの様に2つの国に別れていたわけでなく、政府は一つに集約されていた。

英国はインドを英国領インド帝国の後継者の中核とした。世界でも有数の大国家となったインドは結果として、広域が他国と面する国境線の確定というデリケートな問題をも引き継ぐことになった。インドが少しでも勢力を弱めれば隣国の膨張圧力に屈していまう。それを避けるには経済だけでなく、軍事面でも均衡できるだけのパワーを維持するしかない。

デリー、ボンベイ、カルカッタ、マドラスなどの英国が統治に使用したシステムを都市ごと継承したという側面もある。

 

▲分離独立後、西パキスタンはヒンドゥー教徒の焼き討ちなど行うことで危機感を煽った。その結果、パキスタン領内に暮らしていた多くの非イスラム教徒は先祖伝来の土地を捨ててインドへ移住して行った。しかし、しばらく後になって、回教徒達はヒンドゥー教徒やシーク教徒などに多かったインド帝国時代の知識層を失ってしまったことに気付く。後悔先に立たずである。


   ともかく自立したばかりのインドとしては、その状態で軍事的な衝突は避けたい。そのために、インドは英国が植民地時代に周辺国と結んだ国際条約の批准を宣言することにした。そうすれば自然と周辺国も同様の決断をしてくれるに違いないと思ったようだ。例えば、在チベット英国領インド帝国外交部の全権を引き継ぐことで、国境線や通商条約の維持に努めた。

しかし博愛精神(仲間の立場をわきまえず一方的に他人に好意を寄せるという意味で)が近い将来に招いてしまう大国際問題は想定外だったようだ。インドの示した博愛の精神はインドに友好的な国だけでなく、不都合なことに敵対的な国家まで広く受け入れられた。善行の結果は実に惨憺たるもので、後々まで解決できないたくさんの不幸を招くことになってしまう。

インド初代首相ネルーが示した『博愛の精神』は、非常に残念なことに彼が愛する母国の国益に適うものではなかった。弱肉強食が当然という国際社会では、理想にまっしぐら巨大な新興国家の指導者は単なるカモネギとして認識され、最初から最後まで欺かれ続けた。

第二次世界大戦が終了したばかりの地球では、戦争の火種は細心の注意をもって取り扱うべきものだった。それは少なくとも西側陣営(米国、英国、仏蘭西などの旧列強諸国=資本主義勢力などのグループ)としては共通の認識だった。

しかし、東側陣営(ソ連、中国、新興の共産主義勢力)と呼ばれる『出遅れ組』の本音は違っていた。逆に発展途上地域に積極的に干渉することで、不安定化の創造や促進に務めた。目的は『共産革命を通じて世界を征服』だった様だ。

もしかしたら、ちょっぴりだけ、『人類を資本主義という厄災から救う』という使命感もあったかも知れない。とにかく、共産勢力が共産主義国家を粗製濫造して、自らの影響下に置くことを聖務と行動していたことは後の歴史が証明している(極めて穏健な表現に努めました)。

それらの歴史的な悪行を邪宗的な情熱と蔑むことも可能だが、当時としては共産革命とやらは西側世界でも『進歩的で理想的な発明』と信じる愚か者も多かったので笑い事ではないようだ。騙す人より騙される人の方がより迷惑なことは何処の世界、何時の時代、何の宗教でも同じことだ。

当時でも現実主義者(=リアリスト)にとっては成立不可能な主義であったことも間違いない。かつて革命を主導した2つの巨大国家の変節ぶりを見ると呆れるしかない。

 

▲カルカッタのインド博物館。ムスリム連盟はこれら、教育機関、司法機関、経済機関といった国家運営に不可欠なシステムを全てを切り捨てることで分離・独立を強行した。おかげでパキスタンは造幣局を持ち合わせず、独立後しばらくの間はインド・ルピーを使用し続けた。


  長く脱線したが、これはインドが独立直後から魑魅魍魎の世界に曝されていたことを伝えることが目的だ。次の項目で書くことになるが、その驚くべき人の良さは、中華人民共和国の成立を即時に承認したことでも察することができる筈だ。

インドによる国家成立の承認作業の直後に、中華人民共和国はチベットを征服。続いてインドへの侵略に乗り出すことになる。

当時の国際的な感覚ではパキスタンは回教徒の国で、インドはヒンドゥー教徒の国※とされていた。少なくとも英国領インド帝国時代に自称『比較的に少数派(実質的には第二位の宗教グループ)』とされた回教徒達はそう信じていたようだ。そういった事情があって『多数決でヒンドゥー教徒に負けないように』という名目※※で、回教徒の国として分離独立したのだ。

正しくは間違いである。インドは異教徒達の集合国家である。ヒンドゥー教だけでなく、拝火教、シーク教、仏教、キリスト教、回教だけでなくその他の無数の宗教を信じる人々が共存する社会である。

※※回教徒側の指導者ムハンマド・アリー・ジンナー達もネルーの様に一国の『頭目』になりたいという誘惑に負けたという一面もある。なお、ダージリン出身の国会議員である『ジャスワット・シン』が『パキスタン建国の父とされるジンナー』を賞賛する著書『ジンナー:インドの分離と独立』を2009年に出版して物議を醸し出したことは記憶に新しい。ヒンドゥー教派の政治政党『BJS』の重鎮であった筈が、即座に党を除名されてしまった。

2010年、なんだがBJSに復帰できそうな雰囲気です。

英国領インド帝国時代、回教徒は地域的には西(アフガニスタンとイランの東側隣接域)と東(ベンガル湾沿岸の一部地域)などでは多数派となっていた。それら東西両方のエリアが揃ってインドから分離した。東の方では比較的平穏に国境が確定したが、西の方では大きなトラブルが起こった。

英国領インド帝国解体時、各地の藩のインドまたはパキスタンへの参加の判断は藩王(=藩主)の意思に寄っていた。住民投票などの民主的な手段が採択されなかったのは、藩本来の姿がそれぞれ独立した王国であったからだ。当時と現在では常識的な判断があらゆる点で烈しく異なる点を見過ごすと、取り替えしの付かない認識錯誤に陥るので要注意だ。

だが、それが現在なっても解決できない宗教・民族問題の引き金となった。ちょうどインドとパキスタンの交流の場であったパンジャブ平原の北方、またはインド北西部の端に藩王がヒンドゥー教徒でありながら、藩の住人の多数派は回教徒だという複雑な事情をかかえるジャンムー・カシミール藩が横たわっていた。そのため、藩王はインドやパキスタンへの参加ではなく自主独立を望んだ。しかし、回教徒はそれは都合が悪いとしてパキスタンへの帰属を望んだ。

両国の間を縦断するタール砂漠やアラヴァリ山脈が都市開発用語で言う巨大な『分断要素』となっている。おかげで交流エリアはパンジャブ平原近辺に制限されている。現ジャンムー・カシミール州はパンジャブ平原(パンジャブ州)の北方に位置しするため、メインストリームというわけではなかった。実際、ジャンムー・カシミール州経由ではインド首都のニュー・デリーとパキスタン側の鉄道は連結できていない。21世紀現在になっても技術的困難を理由に一部が未着工のまま放置されている。

悩む藩王を余所に、一方的に独自ルールのイス取りゲームを開始した回教徒勢力は、ジャンムー・カシミール藩のパキスタンへの参加という既成事実の成立に走った。パキスタンの民兵がジャンムー・カシミール藩へ侵入し、回教徒の住人と一緒になって暴れ始めたのである。

混乱に乗じてちょっと脅せばヒンドゥー教教徒の藩王は逃げだし、ジャンムー・カシミール藩の領土がタナボタで手に入るという目算だったようだ。もしかしたら、その後に世界を席巻する『ドミノ理論』の実践を試みたのかも知れない。

棚からぼた餅。その餅は猫に小判かも知れない。実際に絵に描いた餅だったわけだし。

しかし、藩王の選択は極めて常識的な対応を採ることで、楽天的な火事場泥棒による未来展望を打ち砕いた。アザート・カシミール臨時政府の設立宣言を知るに至り躊躇する理由はなかった。悪化した治安を回復させるため、藩王の義務としてインド政府に救援を要請した。残念なのは、その引き替えに藩全体でインドへの参加することを承諾するしかなかったことだ。

国際社会でも十分に通用する事務手続きを全てクリアーした後で、インドはジャンムー・カシミール藩へ正規軍を駐屯させた。

藩王が迷いを断ち切って、急激に態度を硬化させたのは当然の結果だ。しかし、パキスタンは策略の失敗に戸惑いながらも、挽回策を求めて脊髄反射的に反撃を開始した。脊髄反射的、というのはカシミールでの戦闘は、パキスタン側には防衛面や兵站面※※で圧倒的に不利だからだ。

一連の出来事の結果、比較的冷静なインドと癇癪を爆発※※※させたパキスタンの正規軍による正面衝突=第一次印パ戦争が始まった。

ジャンムー・カシミール州の南部州境と接するパンジャブ州のアムリトサルとパキスタンの大商業都市ラホーレは双子都市と言って良いほどの近距離にある。だから、パキスタン軍がジャンムー・カシミールでインド陸軍を全滅に成功しても、インドはそのその隙にパキスタンの最重要都市の1つであるラホーレの直接攻撃を行う余裕がある。しかし、パキスタンは第二次印パ戦争で実際にインド軍がやってみせるまで、その危険性にまったく気付いていなかったらしい。この時、パキスタンは自ら先制攻撃を仕掛けたに側でありながら、インド軍がラホーレに肉薄した所で国際連合に依頼して無条件降伏を受け入れるという恥辱を味わっている。

※※この事情は21世紀になっても変わっていない。2005年10月8日にジャンムー・カシミール地方で発生した『カシミール大地震(マグニチュード7.6)』は、インド・パキスタン領支配地域に大きな被害をもたらした。特に、パキスタン実効支配地域では初期の救助活動が遅れたことから被害が拡大した。死者の数は確認できただけで9万人に登る(インド側の死者は約1300人と言われている)。これはパキスタン側のインフラが地震被害で壊滅してしまったため、救助作業がほとんど行えなかったことが原因である。結局、パキスタン政府はインドからの申し出を渋々受け入れて、インド側からアクセスするという変則的な自国民の救助活動が行った(ただしかなり時間が経過してから)。当時筆者はダージリンに滞在中で、TVや新聞の報道を通じて事件の経過を見守っていた。軍備優先の予算であるため、実効支配地域へのインフラ投資が滞っていたためと推測できる(対インド戦を考慮した焦土作戦の準備ではないと信じたい)。インフラ的にジャンムー・カシミールはパキスタンよりもインドに属していることの証明となるかも知れない。

※※※ジャンムー・カシミール州を保持することでパキスタンを流れる大河インダス川の上流国となれるメリットは、少なくとも当時のパキスタン側の指導者達は気付いていなかったと思われる(気付いていれば国境紛争は泥沼化していただろう)。インドはこのメリットのおかげ水源管理面などで、建国以来ずっとパキスタンに圧力を掛けられる立場にある(ただし、この問題はパキスタンとしては心底我慢ならない豊富な恨み事の1つに過ぎない)。

 

▲チベット文化の最前線であるダージリンにも多くのムスリムが暮らしている。これは街の中心地に建てられたモスクを撮影したもの。少なくとも現在のインド側では宗教間の対立がかなり解消されている。


   ところでインド側でのトラブルは皆無だったのだろうか? 勿論、無いはずがない。インド亜大陸中央デカン高原のハイデラバード藩など、逆に藩王が回教徒で住民の多数派がヒンドゥー教徒だった。

それらの地域ではパキスタンへの帰属を願う藩王、さらにはムガール帝国時代の様に独立を望む藩王も存在していた。しかし、インドはこれらの問題を大きなトラブルに発展させることなく自国領に取り込むことに成功した。

インドへによる強制併合はすべて1947年中にすべて終了したと記録には残されている。勿論、飴と鞭を烈しく、正し適切に徹したことは間違いない。

ただし、フランス、ポルトガルなど列強国に支配されていた地域はの併合は後回しとされた。

逆にパキスタンは、インド同様に飴と鞭を手にしていながら使い方を誤った。帰属問題に悩む地域の説得と暴力の使い分け方を誤ったようだ。これはパキスタンが最初に冒した政治的な大失敗と数えることが出来る。

個人的印象だが、カシミール問題とはパキスタンの政治の稚拙さが招いた軍事衝突だったのではないかと疑っている。つまり、回避できた殺し合いではなかったろうか、と。

  

  

  

  








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