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▲DHR-B形蒸気機関車とNDM6形ディーゼル機関車。軸配置は040とB-Bとなっている。設計の狙いと結果が良く似た牽引車両たちだ。
長いイントロによって、誕生前からインドを襲い続けたトラブルの連続という状況が、ここまでこのサイトの不毛さに堪えて読み通すことに成功した奇特な方には伝わったと信じたい。
ここで話はインドの独立直前の時代までわずかに遡る。分離独立をした段階で、インドにとってパキスタンとの諍いは『近未来に起こる可能性のもっとも高い懸案事項』の一つとしてすでに想定されていた。
インド側では回教徒の分離独立活動が激化したため、密かに危機管理対策を検討していた。具体的には、国土の保持・保全・掌握を最優先課題として研究を始めた。
また主権を手にした後には必要に応じて、国家の意思実現のためには強権も容赦なく発動したた。例えば、独立直後に発布された『全鉄道会社の国有化政策』もその一つだ。
国内の輸送インフラの再構成と高効率化は、経済・軍事両面での成功を実現する唯一の手段である。特にモータリゼーションの発達による輸送の多様化・相互補完が期待できなかった元植民地国家ではなおさらである。インドの政治家達はどうやらその事実を熟知していたようだ。
研究の結果、彼らは驚愕すべき事実に気付いた。それは、『大都市カルカッタで有名なインド東部とアッサム茶産地として有名なイント東北辺境部を結ぶすべての鉄道輸送網が、分離・独立する東パキスタン領土内を通過している』という問題だった。
カルカッタからアッサムへ鉄道で向かうには、例外なく『東ベンガル鉄道』を利用することになっていた。その連絡用幹線※となる『東ベンガル鉄道』の大部分が自国の鉄道ではなくなってしまうと、インドは領土内の物流を完全に遮断されてしまう。
自国の輸送インフラの命運を、決して他国の手に委ねる冒険は許されないと判断した。インドを敵視※する回教徒が支配する国が、物流を遮断する手段を持ち合わせるということは危険過ぎるからだ。
※東パキスタンは経済的には優位だったが、政治的には西パキスタンの方が優位だった。おそらく『声』が大きかったのだろう。その格差が極まった結果、後にベンガル人回教徒達は分離運動を起こしてバングラデッシュとして独立することになる。
カルカッタとダージリンを結ぶ急行列車『ダージリンメイル』もまた、この問題で被害を受ける列車に含まれていた。何故なら分離独立が予想された東ベンガル州内のパルバリプル分岐点やサンタハル分岐点を通過する最短・最速ルートで運行されていたからだ。
実際、カルカッタから東を目指す列車は例外なくすべて東ベンガル州を通過していたのだから仕方がない。
インド国鉄は東パキスタンの誕生によって生じるろう鉄道網の穴=『ミッシング・リンク問題』の早急に塞ぐ決断をした。その決断によって導き出された解決手段こそ、1947年から緊急に実施された『アッサム鉄道結合計画』そのものである。
計画の実体は、ネパール東部へとアクセスするパンタやカチハール方面の鉄道網とブータンへとアクセスする国境断絶路線を結ぶバイパス線の施設である。ただし、東部ではネパールと東パキスタンに狭められた政治的な地峡または回廊を通過する都合で、最短距離となる直線ルートは採れずにS字状となっている。
バイパス線の内容はバルソイ〜ファクラグラム間、実測距離にして約229kmとなっていた。平時ならば気長に行える簡単な作業だ。しかし、準戦時には『超特急』が要求される。一刻ではなく一瞬でも早く! という緊迫感のある状況は工期の無限短縮を要求された。現場に圧しかけられたプレッシャーも相当なものだった筈だ。
しかし計画には核となる存在があった。私営鉄道会社、ダージリン・ヒマラヤン鉄道である。同鉄道を接収することで、工事予定区間の主要部分であるキシャンガンジ〜ティスタ川までの区間の工事は終了できるという目算があった。
接収対象はキシャンガンジ支線(キシャンガンジ分岐点〜シリグリー)とティスタ渓谷支線(シリグリー〜ジェレコラ)の2本。
もちろん、レールはずべてナロー・ゲージだったのでレールを一度引きはがしてメーター・ゲージ化作業を施す必要があった。しかし、ルート選定の為の測量などの手間を省くことが出来た。
暴れ川として定評のあるティスタ川渡河橋の施設などの技術的な困難を伴う課題も残されていた。それでも新規の鉄道施設作業であったシウォーク〜ファクラグラム間でも、鉄道施設作業上の大きなトラブルがあったという記録は見かけない。
インドは革命直後から『火事場の底力』の発揮に成功した。先に発表して実行中だった鉄道施設国有化政策は、アッサム鉄道結合計画にとっては追い風※となっただろう。
※『マオイスト』という世界的に有名なテロリスト集団が誕生する前だったことがインドにとって非常に幸運だった。
▲アッサム鉄道結合計画によって掛けられたティスタ川鉄道橋。現在では優等列車の通過はなくなったが、開通当時はカルカッタとアッサムを結ぶ唯一の鉄路として栄えていた。
インド国内では、アッサム鉄道の他には連絡が寸断される事例は起こらなかった。しかし、最低でも42カ所で鉄道路線がパキスタン領に飲み込まれることで切り離されてしまったと見積もられている(英国統治時代の細かい記録が失われているため、インドの研究者も調査中である)。
例えば、インド帝国の西北鉄道は約3000kmがパキスタン領内に取り込まれた。この路線は後に東パンジャブ鉄道となった。
1947年10月、ジャンムー・カシミール藩での回教徒とヒンドゥー教徒に起こった宗教対立が激化して戦争状態へと発展した。
残念なことにアッサム鉄道結合計画は。パキスタンとの最初の戦争には間に合わなかった。しかし、インドはそれでも作業を進める手を緩める愚行は犯さなかった。
もし、アッサムがインドから物流的に離れた状態で長期間放置されれば、交戦国のパキスタンの後方攪乱作戦によって独立宣言を出すかも知れない。また、東パキスタンからの侵略が行われるカモ知れない。
それらの脅威に対処する現実的な手段とは、インドがインド東北辺境部のアッサムを忘れてはいないことと国の内外にアピールし続けるしかなかったのだ。
1948年、アッサム鉄道結合計画の工事が始まった。そしてジャンムー・カシミール藩において、インド軍とパキスタン軍の本格的な交戦が始まった。
同年1月、回教徒とに融和を唱えたマハトマ・ガンジーがヒンドゥー教原理主義者の放った教団に倒れる、死亡。インド、国際連合へ紛争の調停を依頼。
同年9月、インド、ハイデラバードをインドへの強制参加に成功する。パキスタンの国父とされるジンナー総督が死去する。
同年1月31日、国際連合の調停によって停戦が成立する。
1949年1月、国連の監視団の努力もあって、戦争状態からはなんとか抜け出すことに成功する。ジャンムー・カシミール藩は分割され2/3はインドに、1/3はパキスタンへの帰属が決まった。しかし、それによって周辺地域も含めたのヒンドゥー教徒と回教徒がお互いに迫害を恐れて、それぞれインドとパキスタンを目指してそれぞれ逆方向への大移動を開始することとなる。
それぞれの国を目指して移動中に、偶然にすれ違ってしまった難民達が疑心暗鬼による恐怖から殺し合う不運な事件が頻発した。この期間に暴力によって命を落とした人間の数は40万人以上、さらにこれら無差別殺人、いや・・・虐殺事件を知ってさらに増加した難民の数は両国で合わせて850万人に登ったと言われる。
▲アッサム鉄道結合計画で軌間変更が施された旧ティスタ渓谷支線。現在ではメーターゲージからさらに広いブロードゲージに変更されている。撮影場所はシウォーク付近。
ともかく大きな犠牲を払って戦争は終わった。
同年、バルソイ〜キシャンガンジ〜シリグリー〜シウォーク〜ファクラグラムの幹線施設工事が完成した。
1950年、1月26日(=インドの独立記念日)、旅客列車の運行が開始された。これによってミッシング・リンクは解消され、インド亜大陸とアッサム地方を結ぶ物流網幹線の再構築計画は完了した。
そしてその成果として、英国支配時代には辺境、または野蛮な地方として半分緩衝地帯とされていた大アッサム東方地域※の掌握も進むことになる。
※現在のナガーランド州などを含んでいたため。戦闘的な首狩り族として、英国、インド、ミャンマーなどの正規軍からも恐れられていた。
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