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▲軌間がブロードゲージに変更された元キシャンガンジ支線。写真はネパール国境至近のバグドグラ〜バターシ間で撮影。
インド帝国が長い独立運動の末に英国の植民地支配から脱した経緯は、米国のハリウッド映画『ガンジー』などが詳しい。独立時の指導者であったガンジーやネルーが夢※見ていたのは『一つのインド』、多数の民族同士の調和が生み出す超巨大民主国家の誕生だった。しかし、夢は破れた。西パキスタンと東パキスタン※※はインドと袂を絶つ形で独立した。
※どうやら『博愛』というシャレにならない精神を持ち合わせていたらしい。ただし、ガンジーはそれを前面に、ネルーは全面に掲げて政治を行ったという印象だ。進歩主義者を除いた国際的な批評家達がネルーに対する評価を厳しくせざるえないのは、『国際勢力間の中立(非同盟政策)』や『アジア共同体構想』と言ったその後に修正を余儀なくされる無茶な政策に寄る所が大きい。
※※東パキスタン。現在のバングラデッシュの地域を指す。パキスタンはインドを挟んで東西に領土を持つ異なったため、便宜的に西パキスタンと東パキスタンと呼ばれることが多い。なお、東パキスタンは西パキスタンの事実上の植民地として扱われていたため、1970年に独立戦争を起こして分離独立を果たして現在に至る。
英国は『インド帝国』を1つの経済圏として完結するように無駄のない開発を行っていた。だから、インドと東西パキスタンへの分離独立は、英国時代に発揮していたポテンシャルの大幅低下=経済システムの機能不全※は当然の結果である。
※英国が行きがけの駄賃としてそれを望んだ節もある。英国式運営でインド帝国が成立した場合、英国への復讐も含めて世界における大変な脅威へと成長する可能性を恐れたとも推測できる。だが、その後のチベット関連の国際的なコメントも含めて、ジョンブルの嫌らしさの結晶のような意地の悪い決断が続いたのは推測ではなく客観的な歴史だ。もちろん、この時期に自信を失った英国が自信を失って自棄になっていた可能性も捨てきれないが。
西パキスタンとインドは、大規模な経済交流はジャンムー・カシミール地方に限られているため、地勢的には異なる経済・文化ブロックに分けられると言って差し支えないだろう。両国は陸続きであるが広大なタール砂漠と言う砂の海ややアラヴァリ山脈という鉄の壁で隔てられているため、イントと西パキスタンはお互いに同地域でかろうじて地峡によって繋がっている程度の連帯感しかなかったようだ。
実際、アレクサンダー大王の東征でもパキスタン西部は蹂躙されたが、インド側では平穏が保たれていた。
その一方で、旧東パキスタンであり、本来は東ベンガル州であった現在の『バングラデッシュ』は、インドの西ベンガル州と2州で1つの経済圏を構成した。東パキスタンで収穫されたジュートなどのほとんどの原料が、西ベンガル州に運ばれて加工されて輸出されていたからだ。東西ベンガル州としてはお互いがいなければ商売が成り立たずに破産するという、運命共同体だったのだ。
しかし、東ベンガル州が分離独立したことで、カルカッタとアッサム地方はベルリンの壁以上に長大な鉄のカーテンで遮断されてしまった。さらに、カルカッタから東へ向かう鉄道はすべて東ベンガル州を経由していたのだから大変だ。インドは東部からアッサム(インド北東辺境部)を結ぶ独自の鉄道が失われしまった。
海に突き出たインド亜大陸とヒマラヤ以南の大陸側にへばり付いたアッサム域(インド北東辺境部)は、ベンガル地方と呼ばれるデルタ地帯という狭い地域で結ばれている。ベンガル地方の南はベンガル湾、北はヒマラヤ山脈で囲まれているという事情があってバングラデッシュ付近は地峡的な地理条件を醸し出している。その狭い地域のほとんどの部分がインドをヒンドゥー教徒の大国として警戒するパキスタンの領土となってしまった。
この状況はインドを焦らせた。東パキスタンがそこに存在するだけでインドには都合が悪い。東パキスタン領がインド東部と大アッサムの交通を遮断する実に微妙な位置にあったからだ。今まで直線で行き来できたというのに、これから北に大きく迂回しなくてはならない。
当時の情勢では、インドの国力が低下する機会※を狙ってパキスタンがアッサムのパキスタン化や分離・独立などの運動を仕掛けてくる可能性も捨てきれなかった。実際、インパール作戦中に旧日本帝国陸軍と共闘関係にあった一部ナガーランド勢力の行動は無視できないものとなった。
ナガーランドのピゾなど一部勢力は1947年8月、ガンジーからの自治権の付与を無視して一方的に分離独立を宣言した。同時にパキスタンは東パキスタンを通じてピゾへの支援を開始した。これはインドという巨大な民族ダムを崩壊させる蟻の一穴になりえる危機だった。パキスタンによる危険な遊びは東パキスタンが独立するまで続けられた。
※どうやらこれがパキスタン建国以来貫かれる対インドの外交方針らしい。驚くのはこの方針は政権与党の移り変わりには左右されない一貫性がある。実際の所、インド政府やインド知識層(富裕層)としてはパキスタンでいたいのだが、定期的に戦争やテロを仕掛けてくるので困っている。パキスタンの本音としてはインドに無視されるのが一番腹立たしい・・・つまり、第三者から眺めていると悪性の『ツンデレ』状態に陥っている様に見える。なお、西パキスタンに弄ばれたナガーランド全体が独立を公式にあきらめるのは1975年になるまで待たなければならなかった。
インドは実現化する可能性の高い悪夢を、根本的な解決方法で消し去る決断をした。それが国家プロジェクト『アッサム鉄道結合計画』だった。
しかし、『アッサム鉄道結合計画』はインドという国家は救ったが、旧ダージリン・ヒマラヤン鉄道会社組織は2本の支線を紙一枚の命令書で奪われることで希薄化という存続の危機をもたらした。大変に皮肉にも、である。
当時を知る元鉄道員ディクシット氏によれば「え? マジ?」と驚くばかりだったが、同時に「計画の必然性も理解できた」そうだ。
同時のダージリン・ヒマラヤン鉄道会社には、英国支配時にインド人として初めてインド国鉄のオフィサーに就任したと言われる逸材が業を司っていたそうだ。
高齢な為か、お話にはやや不明瞭な点もあったが。しかし、彼の話を通じて得た印象は、当時のDHRの鉄道員達はインド中央政府に対して協力的な対応を選択したということだ。

▲アッサム鉄道結合計画を体験した元鉄道員ディクシット氏。 2005年11月にカルシャンのご自宅で撮影。
さて、本題に入る。アッサム鉄道結合計画によって失われた路線はキシャンガンジ支線とティスタ渓谷支線の2本。
シリグリーから西へ延びる区間には『ダージリン・ヒマラヤン鉄道キシャンガンジ連絡支線』という名称が与えられた。まずはこちらについて説明したい。
キシャンガンジ支線はキシャンガンジ分岐点と山岳本線を結ぶ連絡線として1913年に着工された。インド国鉄はカルカッタ・ハウラー駅〜シリグリー駅までのメーター・ゲージの路線は保有していた。
太平洋戦争前の記録によれば急行列車を使用すれば、約18時間で同区間を移動できた(21世紀の急行列車ダージリンメイルでは約10時間まで短縮されている。ただしルートは異なり現バングラデッシュ領と通過するもの)。

▲NJPで出発を待つダージリンメイル。現在では優等列車の整理が進んで『メイル』を名乗る列車のスジも減った。意図的に減らしているわけではない。植民地時代と独立を果たした現在では交通の要所がじょじょに変わりつつあるということだ。。
キシャンガンジ支線はまだまだ調査が進行中だ。ここにまとめられている情報はダージリン・ヒマラヤン鉄道の保存資料で構成されてはいるものの、全く未整理の状態で積まれていたので未消化な部分が多い(資料を収集してあるだけでも感謝しているが)。
取り扱いも後回しにしてきたので資料に触る段階でも知識も乏しかった。ダージリン域の3本の鉄道の中で、もっとも興味が薄かったせいだ。ここは隣国のネパール鉄道(旧ジャナクプール鉄道)と同様に、ドラマが少ない路線であるからだ。
後日により信頼性の高い古地図の発見などに成功して訂正が入る可能性高い暫定仕様ということで。
キシャンガンジ支線の総延長は67マイルとダージリン・ヒマラヤン鉄道会社の系列では最長距離を誇った。全線単線、軌間は610mmのナロー・ゲージで、停車駅は17カ所と推測している(もしかしたらもう1駅発見できるかも知れない)。
運用された蒸気機関車で確認できている形式は3種類。同支線専用仕様とされたパシフィックのDHR-C形(軸配置462)、汎用仕様のDHR-B形(軸配置040/042とDHR-A形(軸配置040/042)となっている。
DHR-C形は俗に言う『新C形』であり、DHR初期に導入された『旧C形』とは異なる。テンダー式の英国NBL製の車両で全長はDHR史上最長を誇った。納入は1914年でDHR-C形37-38号、IR車両番号では807-808とされた。同支線の軌間が変更されてからは行き場を失っていたが、1970年代までは車籍を保っていたらしい。
DHR-B形は本線仕様だけでなく、実験的にテンダーを与えられた時期もあった。それによって車軸配置は040/042の2種類が存在していた。
▲シリグリー・ジャンクション(分岐点)から空港の街バグドグラ、国境の町パニタンキを通過してガンジャリア、キシャンガンジへ抜ける路線はブロードゲージながら非電化となっている。
DHR-A形もB形と同様に、実験的にテンダーを与えられた時期もあった。こちらは山岳線での貨物列車の仕様が困難となっていたことから、可能な限り平地路線へと投入されていた。
駅施設の詳細は、始発駅をシリグリーとし、パンチェナイ、バグドグラ、ナクサルバリ、バターシ、ガルガウア、タクルガンジ、と来る。その後はかなり駅間が短くなり、タラブプール、ポーティア、イスラムプル、グンジャリア、ダントラ、ガイサル、イカルチャラ、パジラパーラ、キシャンガンジ・タウン、そしてキシャンガンジ分岐点を終着駅とする。
現在ではいくつかの駅が廃止され、その代わりにいくつかの駅が新設されている。2009年調査時では駅の順番は下記の通り。シリグリー分岐点、マティガラ、バグドグラ、バターシ、アディガリ、ガルガリア、ピップリタン、タクルガンジ、タクルガンジ、ポティ、アルアバリ、ガンジャリ分岐点ア、キシャンガンジ。かなり変わっていることがお分かりいただけると思う。
この路線には2本の盲腸線が存在する。1本目はマティガラ〜バグドグラ間、ちょうど北ベンガル大学を通過した所で北上して森林部に突入している。2本目はバグドグラ〜バターシ間で、インド・ネパール国境線で途切れている。国境町パニタンキ※まで延びているのだが、これはネパールに対する「インドに直接乗り入れできる鉄道が欲しくないですか?」というプロポーズである。
※インドとネパールの国境の町。インド側がパニタンキで国境となる川を通過するとネパール側にはカーカルビッタという町がある。日本人にはなじみがないかも知れないが、陸路の国境の場合は境目のどちら側にも町がある場合が多い。例)ジャイガオン(インド)=プンツォリン(ブータン)、アランヤプラテート(タイ)=ポイペット(カンボジア)。なお、パニタンキは悪の巣窟とか言われることが多いが筆者はトラブルを経験したことはない(でもインド、ネパール、バングラデッシュの人がみんなそう言う)。
ついでに、現在のコルカタ〜アッサムの幹線は、キシャンガンジ以東は下記の撮り。キシャンガンジ、アルアバリ、ドゥラバリ、マングリジャン、ティ−ンマイルハット、ダムダンギ、チャッタータット、ニジバリ、ランガパニ、NJP〜グワハティー(アッサム州)となっている。
実際、不明な点も多い。筆者が知る限り、現状では分岐点はキシャンガンジではなくガンジャリである。ガンジャリでレールが分岐してアルアバリまで完全に平行してやっと北上を開始する。何故、分岐器をアルアバリに設置しなかったのか推測するとメーター・ゲージとブロードゲージが混在した時代の名残ではないかと閃く。その辺りにアッサム鉄道結合計画時代を理解するに不可欠な痕跡があるのではないかとも考えている。
キシャンガンジ連絡支線方面におけるアッサム鉄道結合計画を振り返ってみると、キシャンガンジ分岐点〜バルソイ分岐点は新規で鉄道を施設しているに気付かされる。そこでキシャンガンジのさらに西側(というか正確には南側)に目を向けてみると、大分岐点となるカティハール〜バルソイ〜ラディカプールという路線が目に付く。ラディカプールの先はバングダデッシュ領で現在では鉄道は途切れているが、英国植民時代には横断して、インド領のハルディバリからアルプール・デュアルまたはチャングラバンダへ直接抜けてシリグリーへ乗り入れ可能な鉄道網(1)に気付かされる。それと大都市パンタ〜プルネア〜カティハール〜クメドプールまたはバルソイという鉄道網(2)も気になる。
推測に過ぎないが、(1)の鉄道網の先がバングラデッシュ領内でDHR時代のキシャンガンジに肉薄していたのはないかという仮説を思いついた。そして、アッサム鉄道結合計画は(2)をベースとした連絡線に違いないだろうと考えている。それが正解であればキシャンガンジの分岐点という説明も付く。
今後もサジを投げずにゆっくりと研究を進めたいということで、この謎はひとまずは横に置いておきたい。
本題に戻るが、キシャンガンジ連絡支線の部分開通は1914年3月で、全線開通は翌年1915年5月とされている。もっとも平坦な路線であったことから、純正パシフィックであるDHR-C形(新C形の方)などのテンダー式蒸気機関車を運用するなど山岳本線とは異なる独自の文化を育みつつあった。
このナローゲージの支線がメーターゲージの幹線化工事が開始されたのは1948年。すべてのナローゲージがはがされ、代わりに強度の高いより重いレールが備え付けられた。そして、すべての作業が完了したのは翌年、1949年となった。
もしかしたらこれは同路線にとっては昇進のようなものだたのかも知れない。軌間
610mmというトイトレイン扱いを卒業して、一時時期に限定されるとは言え軌間1000mmでありながらも国家の存亡を左右する鉄道網の大動脈という大役を担ったのだから。
しかし、それによって同路線はダージリン・ヒマラヤン鉄道の魂が完全に抜け落ちてしまったことは否めない。それだけが残念である。
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