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インド>ダージリン>中華人民共和国の誕生と印・パ戦争

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▲コルカタ(旧カルカッタ)の中心地の風景。この街から車で1時間もドライブすればバングラデッシュとの国境に到着する。そのせいか数万を超えるバングラデッシュ人が不法移民(または経済難民)として暮らしている。インド人の街というより東西ベンガル人の街。

 

  1949年、中国共産党はヒマラヤ山脈のはるか向こうの北京において「中華人民政府協商会議」を開催した。そしてその場において共産主義国家『中華人民共和国』の成立を国際社会に向けて宣言した。

インドは元祖共産主義国家『ソヴィエト連邦』と並んで、中華人民共和国の国家承認をもっとも初期に行った数少ない国家の1つとして記録されている。これは流動的な国際情勢への配慮よりも、新たな発展途上国の誕生を純粋に祝福する良心に基づいた行動だったと推測できる。

現在の中華人民共和国とパキスタンの関係を知っていると、インドの判断を不可解に思う方もいるかも知れない。しかし、この当時の中華人民共和国とパキスタンの関係はまだ希薄だった。その後に到来する両国の蜜月はまったく予想できず、中国がまともな国であれば、インドの同盟国となる好都合な未来も十分に期待できたのだ。

インドと中華人民共和国の歴史も、その始まりは大変に好意的なやりとりに満ちていたと感じられるかも知れない。しかしよく観察すると、やりとりというのは間違いであることが分かる。実はこの期間の中国はインドに対してリップサービスを除く好意を示してはいない。つまり、インドが中国に一方的なラブコールを送っていた、というのが正しい状況認識なのである。

インド人の側としては列強国の影響から解放されたという点で、中国も自らと立場が近い『仲間』であるという親近感があったようだ。そうでなければ元宗主国である英国よりも早く、また西側随一の大国である米国の意向を無視してまで、後の歴史を知れば大変に迂闊だったとしか評価できない国家承認を即断で行う理由がない。

米国は中華人民共和国が大陸から排除した中華民国を軍事・経済の両面から支えていた。

中国人としてみればインドは『わざわざ葱と調味料を背負って現れた世間知らずの鴨』に見えたことであろう。とりあえず善意は満腹になるまで頂いて、都合がちょっとでも悪くなれば手のひらを返せばよいと言いう方針でのお付き合いが始まったに過ぎなかった。中国は建国当初から凍り付くほどに冷たい利己主義に徹していたのだ。

1950年、インド憲法発布。

同年、中国人民解放軍が圧力をかけ続けてきたチベットについに侵攻する。

同年、助けを求めるチベット使節をカリンポンで迎え、インドは中華人民共和国の侵略行為を国際連合へ正式に提訴する。これはインドとしても驚きだった。インドはチベットを中国との緩衝地帯と考えていたため、国家間の利害対立は少なくとも直接的には生じないと見込んでいた。

インドの政治判断としても、中国と国境を接するチベット東部への共産主義勢力の干渉は避けられないと考え・・・一応は黙認する意向を示していた。中国はこれを逆手にとって、チベット全土の植民地化に乗り出した。

共産主義勢力の急激な膨張を脅威を感じたのはインドだけではなかった筈だ。何故なら、チベットが完全に併合された場合は、パキスタンを含めた周辺国家のほとんどが緩衝地帯を失って、インドと同様に非常に好戦的な国家と国境を接することになるからである。

1951年、国際連合はカシミール地域の広域はインドへの帰属として調停を果たした。

同年、パキスタン首相リヤーカト・アリー・ハーンが暗殺される。政局の不安定化が極まることになる。

中国人民解放軍のチベット侵攻を脅威と感じて守りを固めるため、インドはカシミールの西方約1/3の領土の回復をあきらめて早急な解決を求めたようだ。一方、パキスタンも同様の判断を下しながらも、燃え上がったインドへの肉憎しみをなんとかねじ曲げて終戦を実現した。

そんなパキスタンが抱え込んだ『やるせなさ』は、その後に続く第二次・第三次印・パ戦争の原動力となって行く。

 

▲商業都市コルカタのアーケード街。バングラデッシュ人達はこの街の人々の生活を支える安価な労働者として受け入れられている。


   一方、反対側の東パキスタンでは国境確定に伴う戦争は懸命にも回避された。多少のトラブルはあった様だが、西パキスタン側とは違って後世に語り継がれるほどに大きな被害が生じなかったことは間違いない。これはウエスト・ベンガル州とバングラデッシという隣接する人々が、温厚・聡明な民族として分類されるベンガル人であったことが原因かも知れない。

小さなものは勿論ある。実は現在でも両国間に国境線確定に関する小競り合いのニュースを目にする。実はバングラッシュ軍がインド国に対して一方的にイタズラを繰り返しているのだ。 最近の例では『インドに不法占拠されたバングラデッシュ固有の領土を取り戻す』として国付近にあるインド軍の駐屯地を奇襲で攻撃・占拠している。バングラデッシュ軍としては必死の作戦だった可能性があるが、インドとしては大きな問題と考えずに弟の可愛いイタズラくらいにしか認識していない節がある。インドとしては、両国間の経済格差に対する不満のガス抜きとして放置しているのではないかと思われる。

これら2つのエリアは本来は経済的に一塊と逝って過言ではない。パートナーシップを抜きにしては商売が成り立たないという共通認識を持っていたとも考えられる。また、一説によれば、当時は西パキスタンよりも経済的に優位にあった東パキスタンが、イデオロギー的な戦争を嫌ったからではないかと言われている(筆者もその仮説に賛成する)。

正直、デリーからアフガニスタンまでのエリアの人々の社会性に関する評価は先進国圏ではあまり芳しくない。先入観かも知れないが、『ベンガル人が見る夢は明日のインドが見る夢となる(だったかな?)』という格言が広まるほど先進性に富んだ人々を多く生み出した人々である。

世界的に有名な詩人ダゴールもベンガル人である。そんな知識層が指導する社会が、民族的気質の違いから西パキスタンのジンナーやその後継者達とは、その過激でグレイゾーンの幅が狭い価値観を共有できなかったと考えても不思議はなさそうだ。

これらの幸運のおかげで、インドはインド東部とインド東北辺境部を結ぶ新たな幹線を短期間で完成させ、全国土の掌握への大きな一歩を記すことに成功した。

1954年 朝鮮戦争や第一次インドシナ戦争の集結を目的とした国際会議『ジュネーブ会議』直後、中華人民共和国国務院総理の周恩来はインドを訪問してインド初代首相のネルーと会談を行っている。

その場で両国は『領土と主権の尊重・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和共存』という平和五原則を共同発表している。

インド初代首相のネールと中華人民共和国国務院総理の周恩来の関係も、中華人民共和国のチベットへの影響力拡大を容認するなど、表面上は良好だった。しかし、アジアの新生国家同士の平穏な関係はそう長く続かなかった。


▲カルシャンの高級ホテル『コチレーン・プレイス』のスーペリアー・ルーム。実は初代ダージリン駅長バタベリーの住まいを再現した部屋。寝台など備え付けられた家具はすべて実際に旧駅長が使用したもの。


  

  

  

  








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