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インド>ダージリン>中国人民解放軍のチベット侵略

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▲ダージリンの崖縁に建てられたチベット寺院『ブティア・バスティー』。チベットから命がけで脱出して来た人々が持ち込んだチベット仏教の曼荼羅など、歴史的に貴重な宝物が収められていることで有名だ。聞くところによれば宝物庫の内容は質、両ともにチベットのラサを上回るとか。

 

  またまた時代は少しだけ戻る。インドがカシミールでの軍事衝突で勝利を収める直前、世界が朝鮮半島で米国軍主体の国連軍と中国人民解放軍による自称義勇軍の激突に目を奪われている隙に、中国人民解放軍はチベットへの侵略をひっそりと開始していた。これは先に書いたようにインド、パキスタン、ブータン王国※※、シッキム王国、ネパール王国など周辺国にとっては無視できない大事件となった。

ただしパキスタンだけはすぐに敵の敵は味方という逃げ道を発見できる。

※※共産主義者のとって王という搾取者、王国という搾取体制は封建時代の亡霊以外の何者でもなく、いかなる犠牲を払ってでも『それら人民の敵を絶対に滅ぼさなければならない』とする絶対的なイデオロギーは広く知られていた。それだけに小さな王国にしてみれば脅威であったに違いない。

中華人民共和国が一方的に主張する『チベット領の所有権』の根拠を検討すれば、どのようにでも拡大適応が可能であることに気付かずにはいられない。中国共産党は英国植民地時代の国境の根拠となるマクマホン・ラインを認めないことから、チベット人の居住地のすべてがチベットであると主張している。そして、周辺国のヒマラヤ域においてチベット人が居住していない国などありえない。つまり、中国人民解放軍はそれを大義名分としてすべての隣国に自由気ままに侵略する権利を宣言したことに他ならないのだ。

これはマホメッド二世のトルコ帝国が東ローマ帝国を手中に収めたことによって、西ヨーロッパ全土への侵略する大義名分を得たのと同じ事例と言える。荒唐無稽な主張ではあるが歴史を振り返れば実効性が高いことは証明されている。

チベット侵略は誰も気がつかないほどに小さなニュースでしかなかった。これはチベット側にもその努力を怠ったという落ち度がある。侵略が開始された当初、ラサのチベット政府としはあまりなじみのない東部のカムパ人達の被害など他人ごとに過ぎなかったらしいのだ。

もちろん、世界の無関心は中華人民共和国にとっては願ってもないことだった。誰にも遠慮することなく計画を推し進める好機の到来としか考えてしなかった。

当時のインドは中華人民共和国と接する国境は存在しないと考えていた。二国の間には広大なチベットが横たわっていたからだ。当時の印度・チベット国境は西のジャンムー・カシミールと東のアッサムだけだった。中央のシッキムはまだ王国として独立していた。そのためナトゥー・ラ峠やジェレコ・ラ峠などの接点はシッキム・チベット国境に過ぎないと考えていた。

しかし、中華人民共和国がチベットを併合したことによって事態は激変した。インドは緩衝地帯を失い、強大な侵略国家と直接対決を余儀なくされた。

インドは中国人はインドとチベットが結んだ国境確定条約から描かれた『マクマホン・ライン』を承認していなかった真意を悟った。インドとしてはパキスタンとカシミール問題という近親憎悪にかまってあげるという優しげな余裕はないと判断するしかなかった。

▲人民解放軍による大虐殺、紅衛兵による大文化革命を逃れる為にチベットを脱出してきた難民一世。ダージリンのチベット社会でもインド産まれの二世や三世が中心的な役割を演じるようになり、着実に世代交代が確実に進んででいる。

 

  中国人民解放軍によるチベット侵略後の事件の流れを歴史を年表にまとめると以下の様にまとまる。

1950年、中国人民解放軍がチベットを開始する侵略する。侵略初期はチベット国内の通信の未発達などの事情で、中央政府や海外の国々もまったく気付いていなかった。ただし中国人民解放軍から度重なる干渉を受けていたチベットは、侵略が激化する前に大変に消極的なものに限定されてはいたが、すでにインドへ援助要請使節団を派遣していた。

使節団はチベットとインドを結ぶ商業幹線の端にあるカリンポンだった。カリンポンに到着したチベット人達からの情報を入手して、ことの重大さを悟ったインドは中国人民解放軍の蛮行を直ちに国際連合に提訴した。

チベット政府から使節団へ送られてくる情報は途切れがちだったようだ。また、大した権限や軍資金も持ち合わせていなかった。チベット政府としても侵略に対する統一見解を持ち合わせていなかったことが原因だ。それらの事情で名ばかりの使節団であったというのが実情である。

1959年、人民解放軍によって軟禁状態にあったダライ・ラマ法王が、ヒマラヤ山脈を横断してインドへの脱出に成功、同時に亡命を果たす。怒りが極限まで達した周恩来総理、チベット政府の解体を実行。ラサで始まったチベット人による大規模ゲリラ戦が全土で本格化する。

同年4月、ダライ・ラマ法王、インドにてチベット亡命政府樹立。

ダライ・ラマ法王を亡命者として受け入れたことで、イントと中華人民共和国の間の緊張は最大限に高まった。大包囲網を築きながらもまんまと『国賊ダライ・ラマ』と逃してしまうと言う失態は、インド人民を格下の存在と意識していた漢民族の面子と自尊心の両方を多いに傷つけた。

また、中国人民解放軍はチベットの平定には『インドによる不当な干渉(中国側の一方的な主観と被害妄想だが)』を封じる必要があるとも考えた。また、チベットの攻略を簡単に成功させた経験から、米国などの資本主義国家がインドを足がかりとして最新装備の軍隊を派遣した場合、自国の装備では防衛が困難なことは明白だった。

チベットへの逆侵攻を防ぐためにも、インドを先制攻撃して軍を展開する足場を奪う必要があると判断したのはそのせいだ。

同年8月、中国人民解放軍はインド・チベット国境に軍備強化を開始する。インドも挑発に応えて戦闘部隊の配置を開始する。



  

  

  

  








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