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▲スイッチバックを後進で登坂する蒸気機関車牽引の臨時列車。現在ではNJP〜カルシャンの山越え区間を走る定期列車はディーゼル機関車が牽引を担当している。
チベットにおける『動乱』とやらの『平定』に目途を付けた中国人民解放軍は、続けてインドへの侵略を開始することにした。
インドにとって誤算であったのは、中国の侵略欲が本気であったということだ。人民解放軍に防衛線の突破されるに至って、大慌てで対応を開始するが、精神面・物資面ともに準備不足であるために失地の挽回は至難の業だった。
万全の状態で戦争を開始した中国が戦闘の主導権を完全に握って放さない。インドは必死で応戦を試みたが、多くの戦場で敗退を続けてしまう。インドは国土と国民までを蹂躙され、面子を完全に潰されてしまう。
しかし、それも仕方のないことかも知れない。見込みが甘いと言えばその通りだが、インドの指導者達の気持ちが分からなくもない。インド・旧チベット国境の向こうで蠢く赤い軍団の活動をデモンストレーションに過ぎないと判断したのも理解できる。
『領土と主権の尊重・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和共存』
という平和五原則を共同で発表して10年もたっていないのだ。さらに、朝鮮半島でも自慢の人民解放軍が国連軍と総力戦の真っ最中だったわけだから、まともな国家であれば好んで新たな戦場を創造することは避けるという詠みもあった。
何より、建国を宣言しても世界からは無視されていた中華人民共和国を、もっとも初期に承認した友邦国であるインドを侵略するとは考えづらい。独り立ちしたばかりのウブな青年国家には、つい先日の恩を仇で返す様な邪悪な国がすぐ隣に存在すると認めるには・・・やや勇気が不足していたのだ。
インドはこの事件に大きなショックを受けて、目を覚ます必要性を認識した。トラウマとして心に大きな傷を残したが、おかげで今となって見れば愚行の極地であった友愛政治を一掃することに成功する。
1959年3月、ダライ・ラマ法王一行がチベットを脱出してインドへ亡命する。
同年9月、中国人民解放軍によるインド侵攻。武力衝突が始まる。
1962年11月、インド・中国両国の大規模衝突に発展する。
1963年11月、インド・中国国境紛争集結。中国人民解放軍はインドからチベットへ通じる主要幹線道などを含む地域を占拠に成功する。
インド・中国国境紛争は中国人民解放軍によるインドへの一方的な攻撃であった。インドは防御に徹するも、中国の圧倒的な戦力による攻撃に各所で敗退。結果として国土の防衛に失敗した。この教訓がインドの核開発の必然性に目覚めさせることとなった。
ところで、中国側の表向きの侵略理由は『インドによる不法は自国領の占拠』に対する抗議だったようだ。英国支配時代にインド帝国とチベットの間で交わされた国境確定条約で定められた『マクマホン・ライン』の実効支配の無効化を目標としていたらしい。
中華民国と中華人民共和国は古くからチベットの領有権を主張しているため、チベットが独自で結んだ『シムラー協定(1913〜14年、シムラー会議)』に基づく国境線の話など不愉快極まりないらしい。だから、その際に国境線とされた『マクマホン・ライン』などクソ食らえという態度をとり続けた。インドへの侵攻はそれらの態度が中国にとっては幸いしたようだ。
ただし、英国支配時代は軍事力による抗議には発展しなかった。理由は2つ。当時は中華民国と中華人民共和国のいずれもチベットの侵略を完成していないという地理的なもの。もう一つは、英国軍の実力を恐れていたという心理的なもの(ただし中国・チベット間の武力衝突は起こっていた。)
印・中両軍の主戦場はヒマラヤ山脈の高地だった。ネパールとブータンを挟んだヒマラヤ西部と東部。
ヒマラヤ西部ではカシミール、アクサイチン、ラダック、ザンスカールなどが戦場となった。
インドは中国の攻撃に完敗する。結果として、インドは広大な領土をかすめ取られた。アクサイチン(占領地の便宜上の呼び名。本来はラダックの一部であるが)などでは、現在でも中国により実効支配が継続している。
ヒマラヤ東部ではアルナチャール・プラデッシュ(当時はアッサム)が戦場となった。こちらは米国がインドの本格的な支援に乗り出したため、中国は一時占領していた地域を引き払って原状回復には成功した。正直、中国の流れを読み切った引き際には見事と言うしかない。
なお、中華人民共和国による領土的野心は2010年現在でも満たされていない。中国人民解放軍は特にネパールとブータンに挟まれるシッキム州やブータン東のアルナチャール・プラデッシュ州を『蔵南地区』と称して定期的な侵犯を繰り返している。
また、定期的に実力行使をともなう領有権主張を繰り返している。それは第二次印・注戦争の侵攻に備えた肩慣らし的な意味合いが強い。
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