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▲尾根街カリンポンの全景。チベット人の商業活動の最前線として繁栄を極めていた。しかし、中華人民共和国によるチベット侵略後は経済的に大規模な地盤沈下を経験した。今でも近隣の街から人が集まるため市場には活気があるが、太平洋戦争前の栄光の日々にはほど遠い状態にある。
カリンポンとは標高約1250mという高原の街。東西にそそり立つドルピン丘とデロ丘に挟まれた尾根と立地条件のため発展に応じた拡張性は低い。しかし、ダージリンと比べると街の過密度は低いので、街路は比較的歩きやすいという特徴を持つ。
チベット仏教文化圏とされるダージリン・シッキム域では、ダージリン、ガントック(シッキム州)に継ぐ知名度を誇る。現在の人口は約5万人。外国人にとってもなじみ深い観光地で、ロンリープラネットや地球の歩き方などのガイドブックでも大きく取り上げられている。
地理的はティスタ川を挟んでティスタ・バザール(正確にはリヤン)の正面と認識すれば良い(ただし標高差は約1200mほどあある)。
シッキム、ブータンへつながる山道が交差する峠町だが、チベット商人によって物流の中継地点として見出されたことで小さな山村から国際貿易の中心地へと変貌を遂げた。最盛期には周辺のチベット域の国々によっての外交の中心地ともなっている。
事実上の国際都市となってからは、多くの民族が集まりカオス的な文化を醸し出していたようだ。また、ダージリンと違って開放的な精神をもっていたのか、キリスト教のカソリック宣教師がヴァチカンへ送った報告書によれば『多数の住人の改宗に成功した』とされている。これは『ダージリンでの布教に失敗した』という挫折の後だっただけに、喜びが一際大きかったようだ。
英国統治末期になると、多くの民族活動家やスパイ達が集結するなど歴史を支える街の一つに昇格して行く。太平洋戦争前後には旧日本陸軍からのスパイなども潜入していたという記録が残っている。また、過去から現在に至るまでダージリン域とされている地域での革命の炎はカリンポンから上がることが多い。
そして、ダージリンが抱えている経済・民族・政治、主義などのすべての問題をイタズラに刺激する歴代のヤクザ的支配者達に対する暗殺未遂などもこの街で起こることが多い。最近の例ではビマ一ノレ・グノレソ(毛ー千ャ)がその対象となっている。
鉄道はシリグリー〜シウ(ヴ)ォーク〜カリジョーラ〜リヤン〜ジェレコラ(=ティスタ)に施設された約27マイル。1914年にシリグリーからセウォークの12マイルの区間から営業が開始された。翌年にはセヴォーク〜ジェレコラという残りの約15マイルが完成した。着工されなかったがシッキム王国のガントックまでの延長が立案されていたと記録されている。

▲ロープ・ウェイの遺跡。これはダージリンに残された ものだが、カリンポンの方もこれと同様の施設が貨物専用 輸送を担当していたものと推測できる。
ジェレコラ〜カリンポンは貨物専用のロープウェイが施設されていた。終点は大きな市場が建つティスタだったが、物流上の重要拠点はロープウェイ駅のあるジェレコラと見なして良いだろう。
地図だけ見ればダージリンを経由した方が早そうに見える。すでにダージリンまでは鉄道が施設されていたのだから、路線をさらにシッキムまで延長するだけで事が足りたように思える。しかし、2つの事情がそれを許さなかった。
1つ目は単純に地理的な問題だ。ダージリンとシッキム王国の間には高低差2000m以上の谷が横たわっているため、鉄道のこれ以上の延長が困難だったのだ。早い話、ダージリンは物流的に『行き止まり』であって『経由地』にはなりえなかったのだ。
2つ目は多少複雑な歴史的な問題だ。少し長くなるが事情を詳しく説明する。インドとチベット間のルートは、古代中国とローマ帝国をつないだシルクロードの南ルートであったと言われている。それほどの長距離であるからして、一つの商隊(キャラバン)が端から端までの全域を担当することはなかった。

▲ロープ・ウェイ基地のあったリヤン付近に掛けられていた吊り橋用 の鉄柱。橋本体はモンスーンの被害で落下してしまった。現在では やや下流にコンクリート製の自動車橋に架け直されている。
補足をしておくと、チベットが中国人民解放軍に蹂躙される前までは、ラサ(チベット)を拠点とするチベット商人はジェレプ・ラ峠を主要路に組み込んでいた。カリンポンをチベット商人とインド商人の縄張りの境界として、お互いのメリットの追求に励んでいた。
現在では主要となっている印中貿易ルートであるナトゥー・ラ峠は、シッキム王国のガントックから南下してカリンポンへ向かうと極端に標高が下がることから、熱帯地方特有の病原地帯を通過することになる。チベット商人はそれを嫌って、標高1000m以上を維持したままカリンポンに到達できるジェレプ・ラ峠を好んだのだ。
もちろん、平地に住むインド商人としても標高2000Mを越えるような空気の薄い山道を行き来するのは勘弁と考えている。カリンポンで交流を行うことは、チベットとインドのいずれの商人にとっても都合が良かった。だからこそ規模の大きな商売が長期間に渡って維持されたのだ。
以下は国際貿易の概念である。「行商人なにがし」が仕入れた商品をA街で仕入れて隣のB街まで運んで「行商人それがし」全てを売り払う。「行商人それがし」はB街から仕入れた商品を隣のC町街まで運んですべて売り払う新たな商人を探す。これの繰り返しで商品は中国を出発したローマ帝国に到着するのである。
▲カリンポンのバスターミナル。バスよりも乗り合いジープの方が圧倒的に多いがバスターミナルと呼ばれている。ダージリン、シリグリ、ガントックへのアクセスが可能。
例である。インド商人はシリグリー〜セウ(ヴ)ォーク〜ティスタ〜カリンポンの輸送を生業としていた。一方、チベット商人はカリンポン〜ジェレプ・ラ峠〜ラサ(チベット)を担当していたのだ。
これはかなり大まかな概念的な例で、実際はレプチャ、シッキム、ブータン、アホムなど多くの民族がごちゃごちゃに入り交じっている。
そこで注目されたのが標高約1250mの尾根街カリンポンである。先にも書いたがチベット商人とインド商人が望む地理的な条件を満たしていた都合で、インド・チベット貿易で扱われる商品の集積地として重宝されるようになっていた。
平地に住むインド商人は商品の受け取り/渡しや運搬が楽な平地の街シリグリーを好んだ。高地に住むチベット商人などは先述した通り、マラリアなどの熱帯地方の脅威が及ばない尾根の街カリンポンを好んだ。
シリグリーとカリンポンを信頼性の高い輸送手段である鉄道で有機的に結ぶということは、これら2つの異なる価値観を結ぶということも意味していた。ある意味、同線の施設は必然だったわけだ。
▲カリンポンの市場。規模はかなり控えめになったが今でも近隣地域から商人が集まって来る。ダージリンと違って観光用でなく生活用の市場なので取引される商品は生活必需品が多い。
もしここに補足的に3つ目を加えるなら、当時のシリグリー〜ダージリン間の山岳路線が現在では考えられないほどの過密路線だったことも考慮すべきだろう。山岳地形のために貨物の積載量も制限される、輸送時間もかかる、雨季には不通になりがち、などの問題も多い。道理を読める人間ならそこにギリギリで保たれる調和を好んで乱して非効率化を招くよりも、新たな手段を模索する方が現実的な手段を分かるはずだ。当時の英国人指導層はそういった理屈をよく理解していたと思われる。
カリンポンを経由する商路は古代中国とローマ帝国をつないだシルクロードの南ルートと伝えられるほどに長い歴史を誇っていた。そこについ最近になって歴史に登場したばかりの新参者(=ダージリン)が入り込む余地などなかったのである。
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