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▲カリンポンの街並みと双丘の一つドルピン・ヒル。丘の頂上付近にはダージリン域でもっとも大きな陸軍基地が配置されている。
ティスタ川渓谷支線は、英国領インド(インド帝国)がシッキムやチベットへの足がかりとして建設した鉄道だった。計画倒れであったが、シッキム州のガントックまでの路線の延長も考慮されていた。もし、計画が実行されていたならダージリン・ヒマラヤン鉄道会社の路線の中でも最長となっていただろう。
インド、チベット、ミャンマーなど各地を探検した著名な英国人シード・ハンター『キングドン・ウォード』も、1924年の活動時に機材や物資の輸送にティスタ川渓谷支線を利用したと著書に残している。
駅施設は合わせて6つ。始発からシリグリー、シウォーク、カリジョーラ、リヤン(ロープウェイとの接続駅)、ジェレコラ(=ティスタ)の順に通過することになる。
シリグリー〜シウォーク間は街シリグリーの市街地やマハナンダ国立公園の森林地帯を通過する。その後は終点のジェレコラまでティスタ川沿いを走る。
▲ティースタ(テースタ)のバザール。現在では観光客も通過しがちな冴えない町に落ちぶれたが、かつてはダージリン方面とガントック方面へと分岐する大商業ネットワークの分岐点だった。
ティスタ川が底の流れる渓谷に沿ったルートを採用していたことが名称の由来だ。ティスタ川はヒマラヤを水源とすることから季節による水位の増減が烈しく、さらにモンスーンなどの影響でしばしば重度の土砂災害を起こすことでも知られている。いわゆる暴れ川である。
ティスタ川が底の流れる渓谷の底には、長い歴史を誇る交易路として旧P.D.Dロードが存在していた。インド〜チベット間の物流を支える動脈で、チベットが中華人民共和国に侵略・併合されるまでは近隣諸国の外交団が集まるほどに栄えていた。
ティスタ川とランギート川の合流点からシウォークまでの区域でティスタ川を渡河するには、英国人による植民地時代には上流方面の吊り橋、または下流方面のコロニアル・ブリッジのいずれかの橋を通過する必要があった。
ティスタ川沿いにはティスタ、カジョラ、シウォークという3つの町が存在していた。また、それ以外にはそれなりの規模を持つ寺院(マンディール)も存在していた。
▲グラハム博士の銅像。孤児を集めて最上の教育を施して世に送り出すことで知られるドクター・グラハム学園をカリンポンに作り上げた教育者だ。生前はキングドン・ウォードとの交流があり、ツアンポー峡谷最深部を目指して探検中のシード・ハンターに代わってティスタ川渓谷支線で送られて来る荷物を受け取るなどの好意を示したと記録されている。
◎シリグリー〜シウォーク
始発はダージリン行きの本線と同じシリグリー駅(現在のシリグリー・タウン駅)だった。路線ルートは最初は本線であるシリグリー〜ダージリンを結ぶ山岳路線が施設されたヒルカートロードに沿って進むがすぐに東に大きく反れる。線路はマハナンダ川にぶつかるが、本線とは異なる専用鉄道橋で渡る。
その後はシウォーク・ロードを進んでシリグリーを通過して、マハナンダ国立公園の森林地帯を横断して、再びマハナンダ川を渡って、シウォークまで到達していた。
なお、現在ではメーター・ゲージは拡張されてブロード・ゲージ化された。また、ルートも国道NH31号※に付かず離れずのルートに変更されている。よって、シウォーク・ロードは自動車交通に完全に明け渡されている。
※国道NH31号はインド東部からインド北東辺境を横断する自動車道幹線である。日本人の感覚では第一級の高速道路に相当する。
◎シウォーク〜カリジョーラ
シウォークは暴れ川として有名なティスタ川沿いの町だ。現在では国道NH31号沿線でもっとも大きな町と言えるだろう。正直、ティスタ川渓谷支線が残した数少ない痕跡である鉄道橋が放置されている以外には話題はない。噂だが旧シウォーク駅、またはレストハウスの痕跡が残されているという話もある。
◎カリジョーラ〜リヤン
ティスタ川渓谷支線でもっとも重要な区間である。国道NH31号線がシッキムへ向かう国道NH31号A線とアッサムへ向かう国道NH31号C線に分岐するコロニアル・ブリッジ、カリンポン行きロープウェイの駅、渓谷の東西岸を結ぶ吊り橋などが集まっている。
コロニアル・ブリッジは現存する巨大な渡河橋。観光地的な扱いになっていてインド人はこれをバックに収めて写真を撮るのを好む。カリンポン行きロープウェイの駅は貨物専用で旅客が扱わなかった。吊り橋はその後のモンスーンによる被害で崩落。再建は放棄されてコンクリート橋に掛け替えられた。なお、現在でも両岸に吊り柱だけは残されている。
◎リヤン〜ジェレコラ(=ティスタ)
ティスタ川渓谷支線の終点。ジェレコラはダージリンとカリンポンの中継地点である。ダージリンの尾根とカリンポンの尾根の間にできた谷の底と行った方が分かりやすいと思う。古くからインド物産とチベット物産の並ぶ市場街として発展した。標高がほぼ平地なので高地民族には辛かった。現在では何の特徴もない田舎町である。
この区間では鉄道と国道NH31号C線はティスタ本流ではなく支流沿いに進む。またティスタ本流・支流の分岐の近くに大きな水力発電ダムがあるのは公然の秘密となっている。
なお、ジェレコラ駅に関しては同地を通過した旅行者の手記からは『カリンポン・ロード停車場』とする記述も発見できる。
▲コロニアル・ブリッジ。ティスタ川渓谷支線建設以前から使用され続けている英国人の置きみやげ。ティスタ川最大の渡河橋で、その美しい外見のおかげで最近では観光定番スポットの一つとして人気を集めている。
調査が進めばもう少しいろいろ出てくるのだろうが、現状ではこれが精一杯。
なお、未整理な資料・情報からの推測では、道床などの対軸重圧は山岳区間の本線とほぼ同じ。運用されていた車両も山岳線と同じ。蒸気機関車は、山岳区間仕様の完成系とされるDHR-B形が完成したことによる余剰かしたDHR-A形などが回されていたようだ。
渓谷支線の特徴は山岳区間本線と同様に保守が困難な鉄道であるということだ。
強固な岩盤に支えられた平野部の地盤と違って、ゆっくりと流動する傾斜部の地盤であったことが原因だった。
雨季が来る度に大規模な土砂災害やティスタ川の大増水に脅かされることは、施設計画当初から見込まれていたリスクだったのだ。
山岳区間本線と同様に自然災害で鉄路が寸断されることが前提の造りなのである。そして、彼らが求めたのは可能な限り早急に復旧可能なインフラの構築でもあった。
つまり、使い捨ての鉄路を敷いて、壊れたら早急に作り直すという『ダメージコントロール』を意識した路線だったわけだ。
このあたりのノウハウは山岳区間本線で培われたものと想像できる。ティスタ川渓谷支線開通後の時代になっても、山岳区間本線は自然災害との間合いを計っている最中だった。
極地に施設される輸送インフラの世界では『破壊と修復』を繰り返しながら、最終的にどんな災害にも対応可能な柔軟なシステムの構築に成功するというスタイルは珍しくない。
これはあらゆる災害をはね除けることだけがインフラの完成形ではないことを物語っている。想定される規模の破壊を積極的に受け入れることで、技術的な問題を乗り越えるという極めて現実的な運用もアリなのだ。
ただし、渓谷支線は山岳本線と違って完成形までたどり着く幸運には恵まれなかった。何故なら時代がそれを許さなかったからだ。
〜続く。またテキストが溜まったらアップします。タイトルは『残されたティスタ川渓谷支線が二度目の死を迎えるまで』の予定です。聞き取り調査、特にチベット関係は中国人民解放軍に負われて命からがらダージリンに逃げてきた人なので、親チベットな取り扱いはご勘弁くださいね。それとチベット人、清貧どころかダージリンでは色々とやり方がエグ過ぎるの嫌われてます。援助で回ってくるお金を賄賂に使ってやりたい放題という一部の人々も目立っています。キチンとお付き合いして社会の外面(ソトヅラ)以外を覗いてみるとブラッド・ピット主演の名作映画『チベットでの7年間』のイメージとかかなり異なります。ぶっちゃけ一般的な難民(難民の実体を知る人は少ないと思うけれど)、そのものです。その点はここに証言しておきます。後、DHRネタなのに中国の話になるのかという話ですが、全体の流れを眺めないと、書き手に都合が悪い誤解を確実に招くからです。リアルな社会ではどんな矮小な出来事でも漫画や小説のフィクションと違ってスッキリとした文章で書き表せるほどに小さな世界で起承転結してくれません。また、この後に書く予定のシッキム関連、ブータン関連の取り扱い上で不可欠と判断したという事情があります。
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