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▲タケオ駅に停車した貨客混成列車PK21。ここで昼食休憩だ。
●2000年3月、ゲスト・ハウス〜プノム・ペン中央駅間
04時30分、何時ものように時計のアラームがボクに朝の到来を告げる。カンボジア鉄道は朝に弱い人には非常に厄介な交通手段である。何故なら、ダイヤの上では旅客列車は5/6の確率で始発駅を日の出と共に出発するからである。
今朝は今回の旅では最後の列車乗車となるので気合いが入る。目的地はシハヌークヴィルだ。港町なので久しぶりに海が見れるだろう。
シャワーを浴びてからホテルをチェック・アウトした。そしてバイク・タクシーをつかまえて、プノム・ペン中央駅へと行き先を伝えると、彼は「バッタムバンへ行くのか?」と訊ねてきた。ボクはバッタムバンではなくシハヌークヴィルへ行く旨を伝えると、彼は「今日はシハヌークヴィル行きの列車は出ない」と言った。
ボクはそれでも彼をプノム・ペン中央駅へ向かわせた。実はプノム・ペン〜シハヌークヴィルの往復は二日に一往復、つまり2日1度だけプノム・ペン中央駅を出発する。そしてそれは基本的に、奇数日がシハヌークヴィル→プノム・ペンの混成列車PK22番の運行。そして、偶数日がプノム・ペン→シハヌークヴィルの混成列車PK21番の運行と発表されている。しかし12回ある月の全てが偶数で切りよく終わるわけではなく、31日→1日というように奇数→奇数に日付が変わることもあるので、運行予定が度々ひっくり返ることになる。そんな事情から、その日は奇数日であったが、プノム・ペン→シハヌークヴィルの混成列車PK21番が運行される場合もあるのだ。そんな訳でプノム・ペン〜シハヌークヴィルを列車で移動する方は列車の有無を事前に駅で確認する必要がある。また最悪、シハヌークヴィル行きの旅客列車がないという場合は、混成列車PK401番、貨物列車KSPP1番そして不定期な貨物列車の運行の有無をチェックして、貨物車両になどにもぐりことも不可能ではない。もちろん、貨物列車への乗車は客車を連結してる混成列車PK21番の旅の快適さには遠く及ばないが。
※あくまで2001年までの話。

▲カンボジア鉄道の中心的な存在、プノム・ペン中央駅。
●プノム・ペン中央駅
05時40分、プノム・ペン中央駅では既にバッタムバン行きとシハヌークヴィル行きの列車が専用プラットフォームへ到着していた。混成列車PK21番には客車が2両、混成列車PB11番には3両が連結されている。列車の回りは荷物を満載した人力車、バイク、沢山の物売り、そして乗客がごったがいしている。しかしその人たちのほとんどは客車内には乗車しない。彼らの多くは客車や貨物車両の屋根の上、そして屋根なしのトロッコの上である。
客車や貨物車両の屋根の上に乗車するというのは、カンボジアでは決して恥ずべき行為ではないことを知って欲しい。人々を指導する立場にある、黄色い袈裟をまとったお坊さん達までそこに乗車していることが何よりの証明だ。結論、屋根上の乗車は仏教の戒律では禁じられていない。
06時40分に混成列車PB11番がプノム・ペン中央駅を後にする。これは本当のところは40分遅れなのだが、ボクは混成列車PB11番が定刻の06時00分に出発するところを目にしたことがない。それはおそらく、可能な限りの乗客と貨物を乗せようとするカンボジア鉄道側の方針ではないかと思われる。
このプノム・ペン〜シハヌークヴィル間の路線の全長は263kmで、全区間乗車すると乗車運賃は3800リエルである。全線の開通は1969年なのだが、開通4カ月後には生半可な補修作業では復旧できないほどに破壊されて、運行停止に陥った過去がある。そんな不運な路線は全区間が単線である。列車の車掌さんが持っている乗車運賃表によれば、路線中には8の駅と24の停車場、そして1つの港がある。
カンボジアではプノム・ペン〜シハヌークヴィル間はディーゼル機関車の運行を前提に建設された唯一の路線で、どの駅にも蒸気機関車の運行に必要な給水施設が見られない。この路線はプノム・ペンと1960年代中期になってからフランスの全面的な協力によって開発されたシハヌークヴィル港間の貨物輸送の充実を目的に作られた。
しかし何故1960年代になって突然シハヌークヴィル港の建設に対する全面的な援助が決定されたのだろうか? それは第二次インドシナ戦争の影響が大きい。カンボジアの植民地時代はカムポットとプノム・ペンの港に海外から、または海外への貨物を振り分けて積み降ろしをしていたという史実がある。しかし、プノム・ペンと外海をつなぐメーコーン河の河口にあたる南ヴィエトナムが北ヴィエトナムとの戦争状態に陥ったことにより、大河を使用した貨物輸送の安全が脅かされるようになった。つまりプノム・ペンに物資が届かずに都市機能の運営に支障を来たす可能性が日に日に高まっていった。かといってカンボジア第二の港のカムポットは漁港に等しく、大量に搬入される貨物が捌き切れるはずもない。そこで地形に恵まれた天然の良港、コンポン・ソム(シハヌークヴィル)に新港を建設することで問題を解決することにしたのだ。
こうして誕生したシハヌークヴィル港の価値は、バッタムバンやシエム・リアプ、そして北ヴィエトナムに接したカンボジア領土が赤化して首都プノム・ペンがゲリラの勢力圏に囲まれても、海へ通じる輸送路だけを守り通せれば、シハヌークヴィル経由で海からの援助物資の輸送が可能になることにある。そして本当に首都が守りきれなくなった場合の脱出路にもなる。
そんな目論見で開港に合わせてまず最初にプノム・ペンとシハヌークヴィル間の弾丸道路が建設され、さらに遅れて1969年に鉄道が開通した。それで輸送力の安定に期待がもたれた。
しかしアメリカやクメール共和国に敵対するカンボジア共産勢力にもこの路線が「プノム・ペン政府の生命線を握る輸送インフラ」であると認識できない筈がない。そこで妙な日本語表現になるが「集中的なゲリラ攻撃」を鉄道に対してを行った。その結果、カンボジア共産勢力を甘く見たアメリカとクメール共和国はこのインフラを守りきれず、鉄道は開通後わずか4カ月で運行停止にまで追い込まれたのだった。このエリアは後に「オウムの嘴地区」と呼ばれ、2度に渡る大規模なヴィエトナム軍の大侵攻をも受けることとなる。

▲旅の連れ合いとなったおじいさん。
鉄道破壊から20年の年月が経ち。平和になった内戦後のカンボジアにとって、シハヌークヴィルは発展の礎であり、カンボジアの海の顔となった。UNTACに参加した中国軍もこの港から上陸したのは記憶にも新しい。この路線ではこの1998年以来、貨物輸送の業務が増加した結果、近年ではバッタムバン〜プノム・ペンを抜いてカンボジア鉄道ではドル箱路線へと成長した。
説明が長くなってしまったが、混成列車PK21番の出発予定時間は07時00分である。しかし、列車は動く気配を見せない。実はこの日は混成列車PK21番はシハヌークヴィル発の貨物列車である貨物列車PK402番と貨物列車KSPP2番と交差する予定で、カンボジア鉄道も当初は貨物列車KSPP2番と貨物列車PK402番の出発をほぼ同じ時間にすることによってダイヤ上は一本のスジ線とする予定だった。そして混成列車PK21番は対向列車との交差予定地であるコンポン・トラート駅への到着のタイミングを測っていた。しかしその日は貨物列車KSPP2番に乗せる荷物の到着が大幅に遅れていたので、シハヌークヴィル駅は8時になってからカンボジア鉄道の列車管理部は貨物列車PK402番を先行発車させる指示を混成列車PK21番を担当する運転士へ伝えてきた。彼は混成列車PK21番の即時発車を決定した。8時を過ぎてから、混成列車PK21番の先頭に2両目の機関車の1002番と貨車が連結された。実はこの後付の車両はPK401である。これはプノム・ペン→シハヌークヴィルは運ぶ貨物が比較的少量である場合に行われる処置で、表現を変えるならばシハヌークヴィルへの回送車両である。
PK401が混成列車PK21番に連結された頃、ボクは相席のおじさんのおごりでパルメラ・ヤシのジュースを飲んでいた。それは自転車でやってくる屋台で販売されるカンボジアン・デライトで、ジュースは竹製の使い回しカップでサーブされる。濃厚な椰子の汁は美味なので誰にでもお勧めできる。一気にジュースを飲み終えてから上の方を見ると、列車の斜め上にもパルメラ・ヤシのこんもりとした葉が茂っていた。おじさんは「高いなあ……」と言いながら4杯頼んで200リエルを支払った。それを耳にして、カンボジアの物価はボクが思っているよりも安いんだなあと思った。それはつまり、ボクが街中でボラれているということなのだが。
カンボジア鉄道に乗車していて、いつも思うのは父親というのは家族の中で絶対なんだなあということ。力強くて優しくて、家族の尊敬を集めてる。パルメラ・ヤシのジュースをおごってくれたおじさんにも16才の娘さんがいて、何時もお父さんにべったりだ。そして旅に疲れてきた頃にはお父さんが「こっちにおいで」と娘さんを膝の上に抱いて、安眠できるようにはからってあげる。お父さんの膝の上で安心して眠っている少女の表情を見ていると、こちらまでも頬の筋肉が緩んでしまう。日本ではこんなお父さんはほとんどいなくなってしまったのではないだろうか? そしてこんな素直な少女もずいぶん長いことお目にかかってはいないと思う。バンコクにいる日本人少女たちはもっと小生意気で恐いもの知らずである。
このカンボジアでは確かに暮らしは貧しいかも知れないが、家族の中にいて孤独を感じることはないだろう。ボクはこんな父親になりたいし、こんな家族が欲しい。もしこの世界に神様がいるならば、この夢だけは心底から実現を願いたい。その為にならば日本を捨てるの覚悟できる知れない。
偉大な父が素晴らしい娘との親子の絆を確かめ合っている頃、謎の酔っぱらい白人の壮年の男が客車に乗車して来た。彼は英語、カンボジア語、謎の言語でちゃんぽんに乗客の皆さんとコミュニケーションを取りながら、客車中を歩き回っていた。そして歩き回ったことで酔いが最高点に達したとき、いびきをかきながら眠ってしまった。世界中で出会う白人にはイロイロと不思議な方がいるものである。

▲バンブー・トレインが本物の鉄道列車に道を譲る。
●プノム・ペン〜スラークゥー間
08時17分、混成列車PK21番とPK401の混成列車はプノム・ペン中央駅やっと出発した。列車は先日、ボクがバッタムバンからプノム・ペンへやって来たルートを逆走して進む。車両整備工場を二つ通り過ぎ、踏切で車の流れを止めてシハヌークヴィルへと進む。
都会の景色はすぐに見えなくなった。やがて混成列車PK21番はポーチェトン駅に到着した。この駅にも混成列車PK21番の後に続く「私鉄」のトロッコ列車がスタンバイしていた。列車は約一分の停車の後に「クロアーロード」とも呼ばれるPK9分岐点を目指す。
08時37分に野原の真ん中にあるPK9分岐点を通過した。すぐに線路は南へ続く至シハヌークヴィルと至バッタムバン線に分岐した。その辺りから、車窓の風景は草むらと茂みと水田と椰子の木が通過していくだけの単調なものとなる。
そこへ車掌さんが検札にやって来る。席で丸くなって寝ている白人の壮年男を見て、何だこれはという表情で辺りを見回す。その様子が回りの乗客の笑いを誘う。この車掌さんは後でこの白人に妙に気に入られてしまい、ずっと団体行動をすることになる。
列車はトゥローペアン・クローサン停車場、プロー・テァーラン停車場、ダーム・ルーフ停車場、プレイ・スツゥントゥン停車場、アン・プローッ停車場、をわずかの停車時間で通過して、スラーッ・サライ停車場に30分ほどの停車をした。
スラーッ・サライ停車場は相変わらず何もない停車場だった。回りには本当に民家一つないので、ここだけは物売りが一人もいない。これはチャンスと乗客達は草むらや椰子の木の陰に隠れて小用を足す。ところでそれはカンボジアの場合は男女平等に授けられた特権だ。女性の場合は薄い布地である「クロマー」を腰下に巻いて、さらに口で絶対にずれることがないように固定して用を足すのだ。特に女性の場合でもこれらの行為は公衆の面前で行ってもは問題にはならない、らしい。ボクは以前にプノム・ペンにある日本橋の袂の公園でそういった女性たちの団体で出くわしたこともある。これはやはり生活習慣の違いというものだろう。後日、知人の日本人女性とこの話をしたら、カンボジアの彼女たちは下着をつけていいないと聴かされた。本当だろうか? しかし男であるボクにはそれを確かめる術はない……。
列車はコーマーリーチィア停車場、トゥク・アンベル停車場、トゥク・バルチャ停車場を通過した。その辺りで隣の客車内が騒がしくなる。それは白人の壮年男がパンツ一枚で客車を走り、その後で車掌さんが追いかけていたからだ。パンツの男はボクの乗った客車に逃げ込んで「暑いんだ!」と言い、車掌さんは「駄目だ!」と言う。カンボジアは確かに熱いのだが、公衆の面前で裸になることが許されるのは子供だけだろう。その様子を見てカンボジアの方々は暇な長旅の良い暇つぶしにして喜んでいる。
実は列車の中のお約束的なエンターテインメントは存在する。それは盲目のおじさんや乞食のおじさんが楽器を演奏しながら客車の通路を通過して行くというものだ。時々、バック・ミュージック無しのアカペラなどという職人芸を見せてくれるのが嬉しい。彼らへのチップは100〜200リエルが相場だ。
ボクはスラークゥー停車場の辺りで、またまた客車の屋根に上ってみた。相変わらず屋根の鉄板は熱くなっているが、シソポン〜バッタムバンのように客車が茂みに突っ込むことはないので安心して景色を眺めることができた。カンボジアの風景は本当に長閑で、どこにでもあるパルメラ・ヤシの葉が揺れ、牛とアヒルが水浴びをし、子供達が手を振る。すると屋根の上で食事中の乗客はあまった食べ物を子供達に投げ渡す。そして時々火を着けた爆竹を投げる。車窓の子供達もそれに狂喜して歓声をあげる。もし日本なら無茶苦茶な行為になりそうだが、このおおらかなカンボジアでなら何の問題にもならない。ボクのような人間にはその感覚が妙にフィットしてしまい、居心地が良い。

▲最近では本物の鉄道以上に有名になったバンブー・トレイン
●スラークゥー〜トゥク・メア間
12時30分になって混成列車PK21番はタケオ駅に到着した。このタケオ駅はかなりの大型で、20両クラスの編成の列車同士でも交差できそうである。タケオ駅周辺もやはり椰子の森以外に何もないところだった。この辺りはまだまだ内陸なのでパルメラ・ヤシが多く見られる。かつてこの辺りに自衛隊が駐屯していたらしい。カンボジア人の話によれば娯楽を求めて、トラックの荷台に乗った自衛隊員達が部隊編成でプノム・ペンまで遊びに来たとのことだが、この何もない景色を見て自衛隊員達の娯楽と快楽を求める人間本来の素直な気持ちを少しだけ理解した。だいたいトラックの荷台から自衛隊の隊員が降りて整列した後に、指揮者の「撤収、ヒト・ヒト・マル・マル(11時00分)! 解散!」などという号令の後で、蜘蛛の子を散らすように闇夜の中に消えていく、なんて想像すると楽しい。
列車はタケオ駅でも貨車を何両か拾って、12時43分に駅を発車した。その辺りから、未来にカンボジアの大物になる予定のツゥロイ青年がボクの前に現れた。激しい英語攻撃には最初はボクも多少ひるんでしまったが、なかなか魅力的な会話術の主だったので話が延々と続いてしまった。彼は将来に何かしらの事業で成功する為に英語を勉強中だそうだ。今日はコンポン・トラートの実家にいるお母さんに会いに行くと言う。そしてその将来目標に近づくために一つボクに力を貸して欲しいと申し出た。それは、同じ客車に乗っている中国人の女の子を口説きたいので、日本人のボクがきっかけを作ってはくれないだろうか……という事だった。
彼に言わせると、カンボジアでは中国系カンボジア人は「中国人」と呼ばれて、金持ちの象徴であり、美男美女がそろっているそうなのだそうだ。一般のカンボジア人が美男美女という場合、それは肌の色が白いかどうかということである。カンボジア人の多くが良く焼けた褐色な肌の持ち主である理由から、彼らは白い肌に憧れている。日本人ならどうだっていいことだが、彼らはその問題に真剣に取り組んでいる。何と言ってもTVの化粧品の宣伝はどれも肌のコンディションを整えながら肌の色を白くするという、「美白効果」ものばかりである。過激なものではニッパスで葺かれた田舎の家に生まれた真っ黒な女の子が、某化粧品を使って色白になってお金持ちの男性との結婚にまでこぎ着けるという宣伝すらある程だ。
そんな事情で、この若者の将来の為にボクはその女性の所まで言って、列車が停車中の駅の名前を訊ねた。彼女は「トンマダー停車場ですよ」と笑顔で教えてくれた。よく見ると子連れであるが、ツゥロイ青年は一向に気にしていない。そこで、ボクたちとその女性の会話がお決まりのパターンで始まって行く。「貴男の国籍は何ですか?」、「貴男の名前は何ですか?」、「貴男のは何歳ですか?」というあれである。その辺りから巧いことツゥロイ青年は女性との会話を成立させ始めたので、ボクは邪魔にならないように列車がアンゲオア停車場に着いたときに再び客車の屋根に登って反対側の出入り口から自分の席へと戻った。
ツゥロイ青年は話の進展がある度にまめにボクに報告にやって来たので、ボクも彼女のプライベートを知ることになった。彼女は25才の未亡人で、実家に里帰りする途中らしい。そして間もなくツゥロイ青年を愛すようになる……らしい。
だが、彼はターニー駅に着いた頃に失敗したと言ってボクの所へ報告にやって来た。がっくりと肩を落としてる。訊ねてみると、何でも彼女の子供があまりにも可愛かったので、中華料理のスープにして食べたら美味しいだろうと冗談を彼が言ったら、酷く御立腹されたというのだ。当たり前である。お母さんにそんなことを言ってはいけない。しかしながら、折角のチャンスなので、ボクは「駄目で元々だから頑張っておいで」と再び彼を送り出す。その後彼はしばらく顔を見せなかった。
列車はトッラム・ソー・ソー停車場を通り過ぎ、トゥク・メア停車場に到着。この付近からカムポット駅までは1975年、つまりカンボジア共産党のカンボジア支配期の初期に大規模な補修が行われた。レールはシハヌークヴィル港から陸上げされた中国製に置き換えられた筈である。そしてその頃は今ほどにレールの状況も悪くなかったので、中国からの援助物資を満載した貨物列車が一日に4〜5往復と忙しく行き来していた。2往復が限界である現在とはずいぶん違うなあ、などを考えながらボクはタバコを吸っていた。すると、車窓の外にツゥロイ青年が彼女と一緒に歩いているのが見えた。彼は彼女の荷物を持ちながら手を振ってるではないか……。確か、彼の話ではこの先のコンポン・トラートの実家にいるお母さんが恋しいので会いに行く、のではなかっただろうか?
彼は幸せそうにボクの視界からフェード・アウトして行った。まあいいか。これがカンボジアに限らず、東南アジアの「味」である。

▲自称クメール・ルージュたち。見覚えのある黒衣が嫌。
●トゥク・メア〜コンポン・トラート間
コンポン・トラートの手前あたりから、列車の車窓から山々が少しずつ見えるようになってきた。それは列車が海側のダムレイ(エレファント)山脈に到達したということである。石灰岩の白色が露出していて、木々の緑色とよく調和して美しい。 この辺りは1999年まではポル・ポト派の残存勢力が出没して、気が向くと外国人をさらったりしていた。またUNTAC時代まで遡れば、白人バックパッカー誘拐→殺害される事件も起こっていた。この周辺のポル・ポト派を取り仕切っていたのはヌオン・チア元人民代表議会議長だ。しかしそんな非道の限りを尽くした男もやっと逮捕されたので、この辺りもとても安全になった。
そんな事を考えていると、平地の水田の中にも小さな墳がいくつも尽きだしているのが目に付いた。いつの間にか生えている椰子の木が、日本人にはお馴染みのココ・ヤシに姿を変えていた。それは少しづつ、海に近づいているということだ。
椰子の林の向こうに、ひときわ大きな山が西の方角に現れた。よく見ると支線が分岐してその山へと延びている。注意深く線路の先を見ると、そこには砂利の採掘所があった。その分岐線は山から採掘した砂利を運び出すための専用引き込み線だった様だ。
その山を通り通り越すとコンポン・トラート駅が見えた。目の前に座っていた家族の幸せを嫌味なく見せつける偉大な父と娘が、天井近くの棚の上から手荷物を降ろし始めた。列車が駅に到着したのは15時35分。ボクはその親娘に「まだどこまで会いましょう」と約束して、客車から見送った。
いっそう、その家族に混ぜてはもらえないだろうか? と真剣に考えながら外を見ていると、20羽以上の生きた鴨をぶら下げた棒を列車からピストン輸送してる一団に視線が奪われた。鴨はみるみる中に小山になった。山の下にいる鴨は窒息しないのだろうか? 一体何羽いるんだろう? そして一体誰がこんなに沢山の鴨を食べるのだろう?
●コンポン・トラート駅
コンポン・トラート駅では偉大な父と娘や鴨だけではなく、プノム・ペンから一緒だったほとんどの乗客が下車してしまった。すこし寂しくなったが、また新しい乗客がコンポン・トラート駅で乗り込んできたのは嬉しいことだ。今度の相席はおじいさんだった。彼は人生の厚みを感じさせる皺のある男だった。この彼もポル・ポト時代の強引な指導やその後の内戦時代を経験して生き残った男の一人なのだろう。よくよく考えてみれば、ボクと同年代以上の人間であれば、カンボジアではあの地獄の時代を確実に体験している筈である。だが、カンボジアの人々がそんな人生の陰を全く感じさせないのは不思議だ。
ボクの乗った混成列車PK21番は、シハヌークヴィル駅発の貨物列車PK402番との交差の為に、コンポン・トラート駅に停車し続ける。物売りをかき分けて車外へでると、白人の壮年男を背後に車掌さんが散歩をしている。まるで雌鳥と雛の関係の様だ。16時03分になって、ディーゼル機関車1055番に引かれてコンポン・トラート駅に到着した。そしてシハヌークヴィル駅へ向かう混成列車PK21番は16時05分に駅を後にした。
●コンポン・トラート〜カムポット間
その後ボクは一時間ほど眠ってしまったので、ダムナッチャンアール停車場、コウムサット停車場、カバール・ローメア停車場などに列車が停車したことも気づかなかった。ふと目を覚ますと、車窓から見える山の数が増えていた。そして17時43分に植民地時代の港町であるカムポットへ到着した。そこで相席のおじいさんも含めてコンポン・トラートで乗車した人たちのほとんどが下車してしまった。ボクはそこで、早目の夕食にと肉まんを500リエルで、そして焼き鳥を1000リエルで購入した。だがそこからがこの旅での苦難のハイライトとなった。混成列車PK21番は何時になっても発車しないのである。それもその筈、何とカムポット駅で交差する筈の貨物列車KSPP2番がまだ到着していないのだ。
やがて辺りは暗くなり、突然に冷たい風の突風が列車に叩き付けられた。その様はまさに寒冷前線の通過で、遠くでは雷が強く光っている。客車の全ての窓際の乗客は大急ぎで鎧戸を閉めてスコールに備える。ボクのところも閉めたか閉めないか中に強い雨が降ってきた。客車の通路も屋根の上から避難してきた人でいっぱいだ。しかし、ボクの乗った客車は標準三等車の鎧戸のある客車なので、窓を閉めても新鮮な心地よい風が入ってくる。おかげで電気一つない真っ暗な車内でも空気が淀むことはない。しかし、もしその客車がバッタムバン〜プノム・ペンを走っている臨時三等客車だったならば、地獄だったろう。その客車には鎧戸はなく、ガラス窓一枚が備え付けられてるだけだからである。ガラス窓では換気ができないので、もしも閉め切ってしまったら車内の空気は淀んで相当な湿度になるだろう。

▲こんな家族への仲間入りも悪くないかも。
突然に始まったスコールは20分ほど続き、唐突に終わった。鎧戸を開けるとそこには漆黒の闇が広がっていた。日の沈んだカムポット駅付近にはほとんど光というものがなく、その闇を切り裂くのは一瞬の雷の閃光だけたった。後でカンボジア人から聞いたのだが、「カムポット付近では特に山脈に海からの風がぶつかる為に大雨が頻繁に降る」ということだ。湿気を含んだ低気圧が山越えをする際に含んでいる水分を雨として絞り出されるのだろう それで毎日カムポットを通過する物売りのおばさん達は自分たちの回りに一本の蝋燭を立てた。それは蝋燭の光でお札の金額を読みとる為であった。言い忘れていたが、カンボジアには硬貨がない=全てが紙幣である。きっとそれは硬貨よりも紙幣の方が製作コストが低いからだろう。だから、カンボジアにはコーラの自動販売機の設置は無理である。もちろん、自動販売機よりも24時間コーラを売る人間を雇った方がコスト安という現実もあるが……。
客車の闇の中をたった蝋燭一本の光で照らされると心が落ち着く。まるで狩猟生活時代の人類の様な生活をボクが初体験をしていると、約二時間後にあたる19時23分に貨物列車KSPP2番がやっとカムポットへ到着した。ああ、よかった。これでやっと、シハヌークヴィルへ向かえる。混成列車PK21番はすぐにカムポット駅を出発した。 もう辺りは真っ暗なので列車は時々徐行をしながら前で進んで行った。真っ暗な闇の中で、顔の見えない誰かが列車がシハヌークヴィルに到着するのは明日だと教えてくれた。
●カンポット〜シハヌークヴィル間
ボクはガットー停車場を過ぎた辺りで、乗客の皆さんと一緒に眠ってしまった。おかげでボッコーク停車場、ゴッウトー停車場、トロペアン・ロッポウ停車場、ヴェアー・レーン駅、サムハオ停車場、ロールゥオス停車場は見ていない。夢の中で列車がガタンゴトンと進んで行く。夜行客車内はスコールが降ったせいもあって、とても涼しくて快適だった。次にボクが目を覚ましたのは、トゥモリアップ停車場だった。この区間はカンボジア鉄道側の話ではそうとうにレールが痛んでいるはずだったのだが、どうやらシソポン〜バッタムバンほどではないようだ。車両の揺れがボクの睡眠を妨げることができないようでは、「まだまだ」である!
混成列車PK21番はただの真っ暗闇の中のペットロール停車場に到着したところで、ぼーっとしながらタバコを吸った。列車が走り出すと、やがて暗闇の遙か向こうに光るものが見えた。近づくにつれてそれが最近カンボジアで流行っている、外国人向けの大規模カジノ場の「山頂娯楽城」の明かりであることが分かった。 ディーゼル機関車にひかれた長い列車は大きな緩いカーブを描いた後で、ゆっくりと停車した。そこがシハヌークヴィル駅だった。時計を見ると時間は25時23分。ボクは急いで客車から降りて駅の外のバイク・タクシーを拾った。こんな時間にゲスト・ハウスは開いているかどうかが心配だ。そう、ゲスト・ハウスは確かに閉まっていた。しかし、バイク・タクシーのお兄ちゃんは勇敢にも門番を叩き起こして、ボクの部屋を取ってくれた。ありがたいことである。
チェックインの後でボクは荷物を置いてから、就寝前に一日を振り返るためにホテルの見晴らし台へ行き、タバコを吸った。プノム・ペンからシハヌークヴィル、08時17分に出発したので、出発前の遅延の時間を除いて、鉄道での移動の所要時間は17時間20分で費用は3800リエル。これに対してこの区間をエクスプレス・バスで移動した場合、所要時間は約4時間で費用は10000リエル。あまりにも時間と体力の無駄が多すぎる。これではプノム・ペンからシハヌークヴィルまで列車に通して乗る人がいないのも当然だ。この事実を心から思い知った深夜、丑三つ時であった。
ところで、後で知ったのだが列車の運行表によれば同区間の所要時間は11時間37分である。今のカンボジア鉄道には到底実現不可能なスケジュールに思える。これだからカンボジア鉄道は奥が深いのだ。
シハヌークヴィルへの到着をもって、カンボジア鉄道の全旅客営業路線乗車というボクの夢が実現したことは間違いない。しかし、その夜のボクはそんなことはすっかり忘れていたので、無用な興奮に邪魔されることなくすんなりと眠りに入ることができた。
そう言えば……裸の白人の壮年男は何処へ行ったのだろうか……? コンポン・トラート駅で列車を降りてしまったのだろうか?
※ボクが通っていた頃は、日本財団がカンボジア鉄道にかなりの援助をしていました。路盤の改修や、水捌け用の水道などかなり工事が進んでいたのを覚えています。で、今度はアジア開発銀行からお金を借りることが決定したようですね。ヨーロッパの企業が受注して全線の改修を行うそうです。それから・・・煙草はやめて久しいです(笑)
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