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カンボジア>カンボジア鉄道ができる前

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▲フランスから持ち込まれた蒸気機関車

 

 若い頃の調査結果を記したファイルが発掘されました。修正なしでそのまま掲載します。間違いがあっても若気の至りということで・・・。

●1840〜1904年

 カンボジア鉄道に関するもっとも古い記述は、1904年に泰仏間で行われた何度目かの国境確定交渉の記録の中に見い出すことができる。

「シヤームはフランスがメーコーン河の東側とプノム・ペン〜バッタムバン間の鉄道を建設する権利を認める」

 この簡潔な一文ではカンボジア鉄道の発足の複雑な状況を伺い知ることは不可能だと思う。そこで、まずこの一文にたどり着くまでの状況を説明しようと思う。それはフランスによる東南アジアへの干渉の歴史と言っても過言ではないだろう。

 かつてアンコール帝国の威光をもってインドシナ半島からマレー半島までを広く勢力下に置いたクメール人たちの栄華は長くは続かなかった。シヤーム(=タイの旧国名)の西方面の最深部カンチャナブリーにまで達していた大帝国はやがて収縮を始め、ついにはかつて支配下に置いていたシヤーム勢力とヴィエトナム勢力の緩衝地帯として存続するしかないほどに矮小化してしまった。

 当時のヴィエトナムは後世の第二次インドシナ戦争とほぼ同様の様相で、南北に別れ一進一退の戦いを繰り返していた。おかげで強大な軍事力を常に保有していた。一方当時のシヤームは現在のマレーシアにあたるマレー半島のほとんどを勢力下に納めるという大帝国を作り上げていた。事実上、この二国が東南アジア内での主導権を争う強国だった。

 このような国際情勢の中で小国が主権と独立を保つのはまずは無理だった。カンボジアはまずは東の国境に面するヴィエトナムを宗主国と仰ぎ年貢を納めるようになった。しかしそれでも十分ではなかったようだ。1840〜47年になってカンボジア王であったアンメイ女帝(在位1834〜40)をヴィエトナムへ連れ去り、カンボジアでのあらゆる利権を享受した。

 シヤームがカンボジアを深く関わりを持つのはこのころからだ。その関わりを持つに至った理由を知るには、まずカンボジアとシヤームの関係を説明しておく必要があるだろう。カンボジア人とタイ人は同じグループの人種であり文化を共有し合うとのコンセンサスが古くから存在している。それを立証するものとして左記を見て欲しい。

 宗教=南方上座仏教(小乗仏教)、民間信仰(ピーとネアックターの類似性など)、文字=クメール文字とタイ文字はパーリ・サンスクリットを母胎としているので共通性が高い、言葉=系統的には別だが、互いに拾得が容易であるこのような共通性を持っていたからこそカンボジアはシヤームへ援助を求める決断をした。もちろんそれは新たな内政干渉をもたらすだろうことはカンボジア人にも分かっていただろう。

 しかしカンボジア人はヴィエトナムの最終的な目的が、カンボジアの植民地化どころか混血化による合併併合によってクメール人を地上から消滅させることである信じていた。そんな事情で手持ちの選択肢を検討してみたらシヤームが一番マシだったというわけだ。ヴィエトナムはインドから流れてきたヒンドゥー的文化圏に属す国ではなく、中華文化圏に属す国であったので宗教観も異なっていた。だからどうせ支配されるなら同じ生活を続けることができるシヤームの方がマシであると考えるのも無理はなかったのだ。

 カンボジア問題へのシヤームの進出を知ったヴィエトナムは、何度かの軍事的衝突の後でシヤームと平和条約を結ぶに至った。シヤームとヴィエトナムはカンボジアの王位にシヤームで教育を受けていたアンドゥオンを迎えることで合意し、互いに兵を引き上げた。これによってシヤームがカンボジアに対して今まで以上に強い影響力を持つことが確定した。

 これで当面の問題は片づいたはずだったが、ヨーロッパ列強の一つのフランスに目を付けられたカンボジアに安息の日々は訪れなかった。まずフランスはカンボジアとの貿易の中で、アンドゥオン王(在位1847〜59年)に対して港の開放と整備を依頼していた。当時カンボジアも日本同様に、国家の主権すら脅かす不平等条約に苦しめられていた。この場合、「依頼」は「恫喝」に値する。これによって漁村でしかなかったカムポット港がフランスやイギリスに開放されることとなった。また同時に王都ウドン〜カムポットの陸路の整備も行ったので、この事業には多大な経費がかかり国勢を圧迫した。

 このように在位中、アンドゥオン王は数々の試練のに直面した。当時のカンボジアは21世紀のカンボジアと同様に、税収の不足に苦しんでいた。その理由も21世紀のカンボジアと全く同じで長く続く内乱・紛争によって国家の経済的な基盤である農地・農業が衰退してしまっていたからだった。 カンボジアのどれほど貧乏だったかはシヤーム側の記録を読めば分かる。

「ニッパスで葺いただけの家が並び建ち……」

「経済難で王宮の建設もできなかったのでシヤームが資金援助を……」

「ただの漁村に過ぎなかったカムポットを訪れたカンボジア王はニッパスを葺いただけの建物に腰を降ろし……」

 これらがシヤームに残る当時のカンボジアに関する記述(翻訳)である。貧しさを表現する言葉の連続には記述者が持っていた隣国への軽蔑の念が色濃く表れている。しかしこれはどう少な目に見積もってもかなりの真実が含まれている。何故かと言えばこの頃のカンボジアでは王位継承者たちの教育まで、宗主国であるシヤームで行われていたからだ。確かに属国の次期国王が宗主国で若年期を送るというのは人質という意味もある。しかし長年の内戦・紛争によって、仏教寺院という当時の東南アジアでは唯一の教育機関までが荒廃しきっていては、国外に留学させる以外に高い教養を身につける手段はなかったことも確かだ。

 仏教寺院が当時の東南アジアでは唯一の教育機関と書いたのでここで触れて置くが、世界情勢などの広域に渡る学問の教育を行う公共機関は19世紀の東南アジア地域に属する独立国家ではほぼ皆無だった。それは必要性が認識されなかったことやその分野の専門家も皆無だったせいだろう。おそらく国外問題にもっとも強かったのは現場を切り盛りする商人だったのではにだろうか? こんな事情による東南アジア支配階級の国際感覚の欠如は西欧列強との駆け引きの上では大きなマイナス要因だった。

 ヨーロッパ列強国とは当時の東南アジアの常識に照らせば、常識外れな集団だった。それだけに彼らは東南アジアに強烈な刺激を与えずにはいられなかった。20世紀にはヨーロッパ的な価値観が東南アジアにも浸透し始める。ただあまりの刺激の強さに、我を忘れて性急な道を採る支配者が後を絶たなくなる。例えば、ロン・ノル、そしてポル・ポトなどがその代表例だろう。

 1858〜67年の間、ヴィエトナムとシヤームがカンボジアで睨み合ったり手を握ったりして、東南アジアの2つの大国は迫り来る驚異に気づかずに猶予期間に何の対策も取らなかった。しかしフランスはその期間にも精力的に侵略を続け、1862年になって「サイゴン条約」を根拠として占拠していた南部ヴィエトナムを、フランス領コーチシナとすることに成功した。その後もフランスはヴィエトナムに経済・軍事の両分野で執拗な干渉を続け、ヴィエトナムにさらなる混乱をもたらすことになる。

 そんな不安定な時代、1859年にそれまで何とかカンボジアをまとめ続けてきたアンドゥオン王が崩御した。その責任の重い王位をノロドム(リミヤウォタイ)が継承した。カンボジア王ノロドム(在位1859〜1904年)もまた父親であるアンドゥオン王との共通点を見いだせる。それはシヤームで育ち、仏教寺院で学んだということである。

 彼の視点はカンボジアに固定され、周辺国に起こりつつある変化には無頓着であった。おそらく人との信頼関係を大切にする善人だったのだろう。しかし、善人には何故か不幸が続く。フランスに操られたヴィエトナムがカンボジアとの新たな国境線を主張し、承認を迫ってきたのだ。ノロドム王は引くに退けずにこの紛争に巻き込まれてしまう。そして戦況の悪化を知った宗主国シヤームはその義務を全うするために、援軍を派遣することを決定した。当時のシヤーム国王ラマ四世(モンクット王)はノロドム王の腹違いの弟、シヴォータに精鋭部隊を託して戦地へと送り出した。

 しかしこのシヴォータは実父であるアンドゥオン王からも問題視されていた粗暴な男だった。アンドゥオン王は遺言の中でシヤーム国王ラマ四世に対して次のように願っている。

「ノロドムに王位を継がせた後にシヴォータをカンボジアには帰国させない欲しい」

 アンドゥオン王の予想は的中してしまった。故郷に帰国したシヴォータはカンボジアでの官位を要求して、シヤームへの帰還を拒否した。しかし自らの要求が受け入れられないと知ると、すぐにノロドム王に対して反乱を起こした。これにカンボジア宮廷の有力者たちも加わったためにノロドム王派は王都ウドンを追われてしまう。一方王都を支配下に納めたシヴォータは王位へ着くことを宣言してしまった。これによって確実にシヴォータがカンボジアの支配者になるものと思われた。 だが大方の予想に反してシヴォータの天下はそう長く続かなかった。

 1863年、ノロドム王は弟から国を奪い返すために、国外勢力である仏領コーチシナ総督のド・ラ・グランディエールと手を結んだ。ノロドム王は「フランスによるカンボジアの保護条約」に調印し、ノロドム王の軍はフランスの援助を受けることとなった。その後ノロドム王はシヴォータの反乱軍を駆逐し、3年かけて国家を平定することに成功する。その後フランスのアドバイスに従って王都をウドンから、水上交通の要所であるプノム・ペンに遷都した。

 これによってカンボジアは短期間で安定し、実質的な独立を保つことに成功した。この時の「保護条約」では、カンボジア側にとって厳しいことは書かれておらず、フランスにとっては宗主国として認められたこと以外にはそれほど旨みはなかった。この条約だけを見て判断すればカンボジアが実を取り、フランスが名誉を取ったという美しい国家間の協力態勢のモデルにもなりえたろう。

 しかし平和は長く続かなかった。「恐怖は人気者の顔をしてやって来る」というが、フランスもまたそれにならった。言葉を換えれば「名誉」だけではなく「実」を収穫する時期が到来したのだ。

 1874年、フランスはヴィエトナムのトンキン湾へ侵略を開始。これはフランスがついにコーチシナだけでなくヴィエトナム全土を手中に収める決意を被侵略国に伝えることとなった。ヴィエトナムは果敢に戦ったが、とうとう侵略者との間に「フエ条約」を結ざるえなくなった。1883年、全土がフランスの支配下に入り、北部ヴィエトナムがフランス領トンキン(トンキン保護領)に、そして中部ヴィエトナムがフランス領アンナン(アンナン保護国)となってしまった。 1884年、フランスはさらに隣国のカンボジアでの野望を実現する機会が到来したことを知った。

 1863年にカンボジアと保護条約を結んだド・ラ・グランディエールの後任であるシャルル・トムソンは深夜、睡眠中のノロドム王を襲撃した。メーコーン河をさかのぼらせた砲艦アルーエット号の砲門を王宮に向けた後、トムソンは王宮に乗り込み、王への会見を要求した。謁見を申し入れたのでなく……。そしてカンボジアの主権をフランスに譲渡するように要求した。もちろん、要求に応じなければ実力で主権を奪い、王宮を攻撃で破壊し、ノロドム王を退位させるとの恫喝も忘れなかった。トムソンがノロドム王に提示した条約の条件は1863年のそれとは段違いに厳しかった。しかしすでに拒否できる状態ではない。ノロドム王は泣く泣くトムソンの提示した条約に署名した。それはカンボジアが植民地インドシナの一部となった瞬間であった。

 後日締結された新条約の屈辱的な内容を知った他の王族や官僚たちはノロドム王に猛反発した。シヴォータを初め、少なくない数のクメール人は反フランスの勢力を集めて再び反乱を起こしたが、目立ったものはすぐに鎮圧されてしまった。

 カンボジア全土を手にれたフランスだったが、やはりそれだけでは満足することはできず、さらなる領土拡張路線をとり続けた。 1887年、フランス領インドシナ連邦が発足した。これは実質、フランスが手に入れたヴィエトナム(トンキン、アンナン、コーチシナ)とカンボジアを一つの植民地にまとめ上げたということだ。それもヴィエトナム中心にカンボジアをまとめ上げるという形で。これは旧日本陸軍がフランス領インドシナ連邦を「仏印」と一つにくくって調査書を書いていたことからも分かることだ。

 フランス領インドシナ連邦成立後、シヤームはヨーロッパ列強国の脅威を認識し、国内での中央集権の確立と国際的に認知される国境の確定を急いでいた。シヤームはメーコーン対岸のラオスを影響下に組み入れていたのだ。これ以上の植民地帝国による「シヤーム連邦」への侵略を防ぐために併合を試みたのだった。だがそれはカンボジア、ヴィエトナムに続いてラオスを狙っていたフランスを刺激してしまった。フランスはこれを好機と捉え、シヤームのアンナン侵略として抗議を始めた。

 1893年、フランスよりシヤームへ一通の書状が届いた。書状の内容はシヤームが不法に占拠しているカンボジア領土を返還するようにということだった。このフランスの言いがかりをシヤームが認めるわけもなく、そしてシヤームの主張をフランスが認めるわけもなかった。

 フランスは二匹目の泥鰌を狙って砲艦にチャオプラヤー川をさかのぼらせ、シヤームの王都バンコク(クルン・テープ)全地域を射程圏に納めた。そして再び「シヤームが不法に占拠しているカンボジア領土を返還するように」と恫喝してきた。

 結果、シヤームはたった2隻の砲艦による威圧に屈した。そしてフランスとの仲介を求めたイギリスにも裏切られたシヤームはこの屈辱をずっと忘れることができなくなった。シヤームはその時舐めた辛酸の味を忘れられなくなった。そんな悔しさが後にピブゥンを対日協力へ走らせたのかも知れない。

 東南アジアで唯一残っていた強国シヤームを屈服させたフランスは占領地の安全を確保できたことを確信し、1900年にシヤームと国境を接していたカンボジアでもインフラの整備を開始した。それは国道と水路の整備に始まったが、やがて鉄道も含まれることとなる、カンボジアの大改革だった。この国土整備計画はフランス本土がドイツに占領される1936年まで続けられ、フランス人の指導のもと、9,000km以上の整備された新しい道路網と377kmにおよぶ鉄路が誕生することとなる。

 その後もフランスは軍事力を同伴させた「交渉」をシヤームと繰り返した。結果として、1904年にシヤーム王はストゥン・トレン、ムルー・プレイ(現ラタナキリ)、トンレ・ロパウ(現プリヤウィリヤ)の3県の所有権を放棄した。当然、放棄した3県はフランスが自らの勢力圏に組み込んだ。

 この事件は「シャム危機」として広く知られている。また三つの意味でアジア諸国にとっては大事件だった。(1)縮小を続けてきたカンボジアの領土が拡大したこと。(2)領土が拡大したことはカンボジアにとって喜ばしいことであったが、すべての事件においてノロドム王は蚊帳の外にあり、結果のみがもたらされたことは大問題だった。(3)河の近くにある都市を砲艦で圧力をかけて屈服させるという作戦は、アジアの他の都市にも有効であろうこと。

 歴史ある都市というものは大河に隣接する場合が多い。それは当時のアジアの国々の都市に共通している。それはつまりヨーロッパ列強の軍事力に対して、アジアのどんな強国であろうと刃向かうことができないということだ。








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