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▲現在でもフランスが選定したルートがそのまま使用されている
若い頃の調査結果を記したファイルが発掘されました。修正なしでそのまま掲載します。さて、鉄道事業がカンボジアでも開始されます。
●1904年〜1932年
フランスは力技でシヤームから広大な領土を奪ってカンボジアに組み込んだ。広大な新領土の中にはバッタムバンという東南アジアでも有数の穀倉地帯が含まれていた。それ以後、この肥沃な土地はシヤームにではなくフランスに大きな利益をもたらすようになった。フランスはその大きな収益を利用して南部ヴィエトナム(コーチシナ)、特にサイゴンなどの開発を加速させた。おかげでヴィエトナムの東海岸、トンキン(北部ヴィエトナム)のハノイからカンボジアのプノム・ペンまで通じる植民地一号公路(現在の国道1号線)沿いに早々と鉄道が施設された。やがてヴィエトナム地方の避暑地では、高原地帯に通じるアプト式の登山鉄道までが登場することになる。
ここからは出来事の順序をはっきりさせるために年表法式の記述をすることにする。
1904年、ノロドム王は国土、主権、民衆そしてプライドを奪われ、失意の中に崩御した。
同年、弟のシソワットがカンボジア王として即位した。シソワット王は兄ノロドム同様にフランスの決定に従う立場に甘んじるしかなかった。
同年、シヤームは国境紛争の戦後処理として、まず3県に対するカンボジア所有権を認めた。しかしフランスはそれでも満足せずジワリジワリと攻め続けた。交渉の中でシヤームはフランスが「メーコーン河の東側」と「プノム・ペン〜バッタムバン間」に鉄道を建設する権利を認めた。
1907年、鉄道建設の権利を足がかりとして、フランスはシヤームからさらなる譲歩を引き出し、バッタムバン、シソポン(現バンティ・メンチャイに当たる)、シエム・リアプの3県、さらにラオスといった広大な地域の所有権を手に入れた。当然、新カンボジア領土となった三県だけでなくラオスもフランス領インドシナ連邦に編入された。 1927年、シソワット王崩御。代わって息子のモニウォン(シソワット・モニウォン)がカンボジア王として即位した。
同年、インドシナ連邦はカンボジアにも鉄道を施設することを決定した。だがその鉄道は植民地鉄道の常で、別に植民地の民の生活の向上を目的としたものではなく、よりスムーズに植民地の富を国外に運び出す手段でしかなかった。しかし鉄道というものは当時最先端の技術であったので、モニウォン王にとっては「明るいニュース」と感じられたかも知れない。
なお、同じ東南アジアの植民地であるイギリス領マラヤでは早期に鉄道工事が着工されいる。陸から離れているために着工の遅れたイギリス領マラヤのボルネオ島では1905年の段階でコタキナバル〜テノム間(140キロメートル)が完成していた。つまりカンボジアでの鉄道の開発はインドシナ半島やマレー半島の一帯では最後発だった。
1932年、測量の結果カンボジア鉄道最大の難所である山越えや雨期の水位の上昇に対処できるルートが決定したことにより、プノム・ペン〜バッタムバン間(274キロメートル)の鉄道建設が本格的に始まる。竣工式にはモニウォン王が参加した。
同年、シヤームは国名を「タイ」に変更する。これは次々と領土を失った過去と決別するための改革だった。
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