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カンボジア>植民地鉄道の始まりから終わりまで(大日本帝国干渉期)

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▲フランスから持ち込まれた131形蒸気機関車

 

 若い頃の調査結果を記したファイルが発掘されました。修正なしでそのまま掲載します。無意味に長いです。

●1936〜1954年

 当時の世界では、まだ陸上輸送の主力であったガソリンエンジンやディーゼルエンジンによる車やトラックは確実性や輸送量において、蒸気機関車牽引貨物列車を使用する鉄道には勝ち目はなかった。理由は左記の通りである。(1)蒸気機関がすでに完成の域に到達していたのに対し、ガソリンやディーゼル機関がまだ発展の途上にあったために出力や確実性では劣っていた。(2)鉄道ならばドライバーと機関助士一人ずつで何両もの貨物車両を牽引できるのに対し、車やトラックには各車両に一人ずつのドライバーが必要である。当時、日本を含むアジア諸国では、現在では運転という単純な作業が特殊技能であったことを忘れてはいけない。

 これらのことからも鉄道とは、当時もっとも信頼できる輸送手段だったことが分かる。その「力」を国家建設に利用できれば、その国は物資の流通や人間の交流のを無駄なく効率的に行うことができる。逆に鉄道を略奪者が利用したならばもっとも優れた輸送手段で、国内の富を海外へ運び出されてしまうこともできる。これこそが「植民地鉄道」という言葉がネガティブに響く所以だろう。

 だが「植民地鉄道」もまた植民者にとっても両刃の剣である。鉄道とは誰もがもっとも身近に接する高度な技術力と工業力の結晶である。鉄道の開通にともない植民地の民は蒸気機関車の迫力に圧倒された後に、少しずつそのカラクリ(技術)を学んでいくのだ。どれほどに圧倒的なものでも、自らも応用可能なことを知れば恐れるに足りぬと言う機運が高まる。さらに植民地の民は鉄道で往来することによって、嫌でも互いに交わらずにはいられない。やがて植民地の民同士の協力関係は育ち、知恵も集まる。そうやって植民者から学んだ技術を利用して虐げられた民は独立への道を歩み始める。この流れは必然であり、誰にも止めることはできない。数々の植民地で、植民者たちはこの動きを反乱と呼んで時の流れを逆行さようと死力を尽くすが、最終的に植民者は侵略した土地から追い出されることとなる。

 カンボジアにも、遅くとも1932年に「植民地鉄道」が誕生している(インドシナ鉄道カンボジア線という方が正しいだろう)。これはインドシナ三国の中で最後に建設された恒常的な鉄道となった。おかげで同じゲージ幅であったヴィエトナム鉄道で使い古した機関車などがカンボジアで活躍することになる。

 1936年、鉄道は路線がさらに延長されることが決定。バッタムバン〜ポイペッド(113キロメートル)間の鉄道施設工事が始まる。路線の終着点をポイペッドに選んだのは、タイ領側のアランヤ・プラテートまで施設されているタイ鉄道と連接させるためだ。だがこの路線はフランス人の指導のもと完成されることはなかった。

 1937年、日中戦争が勃発する。この「中」とは蒋介石の中華民国を意味する。 1939年、ヨーロッパや太平洋地区で第二次世界大戦が勃発する。

 同年、フランスの国土の半分がドイツに占領される。この戦争によって、フランスの植民地であるカンボジアの運命も思いがけぬ方向へと転じることになった。

 同年、バッタムバン〜ポイペッドの路線工事は約60キロメートル手前のモンゴル・ボーレイまで達したところで休止された。この工事計画はしばらく凍結されることとなる。

 同年9月23日、フランス・ヴィシー政権と日本の間で、「仏印軍事協定」が締結された。これによって同地への旧日本陸軍の駐留が認められる。だが当時の旧日本陸軍のフランス領インドシナへの駐留の目的は日中戦争の早期終了に過ぎなかった。ヴィエトナムを通過して中華民国の蒋介石へ届けられる補給ルートをつぶすということしか考えてはいなかった、らしい。

 1940年11月28日、泰仏戦争が始まる。タイは1907年の領土分割が不当なものであると長年フランスと国土の返還を求める交渉を続けていたが、フランスはやはり無視し続けていた。そのフランスの煮え切らない態度にしびれを切らしたタイは、実力で旧領土を取り返す決心をした。もちろんそれは前年フランス本土がドイツに占領されるという事情を知ったタイが、これを好機到来と判断したからでもある。

 タイ陸軍はサゲオ県付近の国境を突破してカンボジアへ進入し、インドシナ連邦軍との戦火を交えた。しかしフランス人は手強く、タイ陸軍はバッタムバンに敷かれたインドシナ連邦軍の防御線をどうしても突破することができなかった。戦況はすぐに泥沼化していった。

 一方タイ海軍の方も戦果は芳しくなかった。タイ海軍はシャム湾奥深くのチャーン島沖に主力艦隊を配置してカンポットなどのフランス領を牽制しながら、警備にあたっていた。この段階でタイ海軍はフランスの戦艦はすべてヨーロッパの戦場に送られヴィエトナムのサイゴンの軍港は空だと信じていた。しかしそれはフランス側の情報戦による偽情報だった。

 1940年6月(タイとの国境紛争直前)のインドシナ連邦駐留艦隊の内容は以下となる。巡洋艦(1隻)、通報艦(3隻)、砲艦(5隻)、水路測量艦(3隻)。また同時期の軍用航空機は全98機。その中で戦力となるのは戦闘機(17機、主力は旧式機のモラン・ソルニエ406)、爆撃機(20機)である。この戦力は日本と戦うには不十分であったが、タイと戦うならば十分な戦力と言えた。

 もちろん当時は、まだ航空戦力では戦艦は撃沈できないという大鑑巨砲主義の時代だったということもある。

 ある朝、何も知らないタイ海軍主力艦隊の6隻はボイラーに火を入れずに貨物船のように無防備な状態でチャーン島沖を漂っていた。そこを狙ってフランスの機動艦隊は奇襲攻撃を行って、一方的な勝利を得た。タイ海軍の被害はイタリア製の爆雷艇が2隻、そして日本で建造したばかりの最新鋭の砲艦「トンブリー」が1隻であった。これはタイ海軍ばかりでなくタイ政府をも大きく落胆させてしまった。

 タイは近代戦の恐ろしさと自らの無力を知った。そして打開策を探し始めていた。そこへ出てきたのは日本だ。日本はフランス領インドシナを支配するフランス本土のヴィシー政府とタイの和平交渉を仲介した。当時、ドイツの支配下にあったフランスは二分割統治されていた。ドイツ占領地とフランス人による自治が許されたヴィシー政府がそれらである。

 1941年5月9日、フランスとタイの間に和平が成立した。結果はタイにとって満足するに足りるものだった。タイは1907年に失った領土(25,000平方マイル)のほとんどを取り返し、再び東南アジアの大国の威厳を取り戻した。だがその中での唯一の例外はアンコール・ワットだった。フランスがアンコール・ワットの所有に最後まで固執したっため、アンコール・ワット付近のシエム・リアプ県はフランス領のままとなった。

 一方カンボジア王モニウォンはこの事実に激怒し、コンポン・チュナンへ隠居したまま失意の中に病死することになる。

 同年6月カトルー・インドシナ総督が対日譲歩を決断。インドシナ国境監視団(西原機関)がインドシナ連邦内の鉄道と飛行場の軍事利用の許可を申請する。直後にカトルー・インドシナ総督は更迭、次期インドシナ総督にはドグーが内定する。さらに中国との国境が閉鎖され、雲南鉄道が国境部のレールが取り外され、連接を解かれた。これによって旧日本陸軍の初期の目的であった蒋介石軍の援助物資搬入路の一つであったインドシナ・ルートの遮断が達成された。

 同年7月、ドグーがインドシナ総督に就任する。 同年9月28日、旧日本陸軍の大規模な戦力がサイゴンに上陸した。

 同年10月28日、親フランス派の筆頭(プロ・フランス)としてシハヌーク(ノロドム・シハヌーク)が実父であるスラマリットを飛び越して、カンボジア国王に就任した。

 フランスとタイの平和条約がカンボジアにもたらした結果に、シハヌークは大きな感情を引き起こされたに違いない。カンボジアの二大王家であるノロドムとシソワットの両家の血筋を引く王者中の王者として生を受けた誇り高き男が、自らが祖先より引き継いだ領土が失われるのをただ黙って見守ってることしかできなかったのだから。

 若きクメール帝国の後継者は知ったのだ。彼が手にした王国は外交権、軍事権、そしてほんどの内政権さえフランスに奪われた、抜け殻的な存在でしかないものだということを。そして彼もまたフランスにとっての被支配者の一人に過ぎなかった事ということを。そうでなければ、その後のシハヌーク王の精力的な独立への活動は説明がつかない。

 同年12月、旧陸軍宣伝班として作家の高見順氏がフランス領インドシナに上陸。プノム・ペンを経由してタイへ向かい途中に建設途上のカンボジア鉄道を目撃している。彼の残した日記に書かれた「旧国境付近の平坦の土地」、「道路にそって伸びる線路」、「トラックで国境から20分」という状況から推測すると旧国境はアランヤ・プラテート、道路国道5号線、路線はモンゴル・ボーレイ〜ポイペッドと思われる。

 1942年12月8日、旧日本陸軍とタイ国首相ピブンとの合意に基づいてタイへの進駐開始。カンボジア駐留軍は一夜にしてタイ領ラヨーンまでを確保。タイ南部ではヤラー県の浜辺から上陸して一路イギリス領マライへ向けて前進。しかしタイ南部ではピブンの軍部への連絡不徹底により、旧日本陸軍の進駐を侵略と誤解し一部のタイ国軍が攻撃。旧日本陸軍はこれをやもえず実力で排除。続けて英国に宣戦布告。タイ・イギリス領マライの国境を越えて、旧日本陸軍はコタバルへ進撃を開始した。この旧日本陸軍の快進撃の影にはやはり各国の鉄道が存在していた。

 同年「大東亜縦貫鉄道」建設に関する資料や意見書などが日本の各担当所に集められる。南満州鉄道東京支社にもカンボジア鉄道を含むフランス領インドシナの鉄道の詳細なデータが送られた。その資料に寄ればカンボジアとヴィエトナムの植民地鉄道は「機関車・284両」「客車・618両」「貨車・3,861両」を保有していることになっている。

 「大東亜縦貫鉄道」は当時の日本人将校の中でもホットな話題だったようだ。現在まで残る多くの将校の日記の中にこの計画に関する記述が見つけることができる。

 「大東亜縦貫鉄道」とはソヴィエト連邦領とイギリス植民地を経由せずに日本と西安(シーアン)そしてバグダッドを結ぶ約7,000キロメートルに及ぶ鉄道の建設計画である。その計画では、ヴィエトナムとカンボジアの鉄道も当然サイゴンからの南方回りのルートして組み込まれていた。

 1943年、モンゴル・ボーレイ〜シソポン〜ポイペッドの路線が開通。カンボジア鉄道はタイ鉄道と連結された。これによってプノム・ペン〜シンガポールまでの旅客・貨物の緊急な大量輸送が物理的に可能となった。

 1944年、アンナン(ヴィエトナム北部)で不作による米不足が発生。一方コーチシナ(ヴィエトナム南部)では米が豊作となる。旧陸軍とインドシナ連邦政府は全力で南から北への米の輸送を試みたが、英米軍による爆撃によって鉄道・国道などの輸送インフラが破壊されたために十分な量が輸送できずにアンナンでは飢餓が発生する。なおこの飢餓を旧日本陸軍による米の略奪によるものとする話は多いが、実際のところはどうだったのだろう?

 当時日本ではタイ米が流通し、1992年の米不足の時と同様に「臭い」、「パラパラしている」という集団的な過剰反応が起こったので、年輩の方ならば覚えているかと思う。そのタイ米がすべてヴィエトナムから略奪したものだと言う非難もあるようだが、こういう話もあるのだ。先の泰仏戦争の時、航空戦力で劣勢に立ったタイは、第一次世界大戦に中国の空でロシア空軍機を撃墜しまくった名機「97式」を大量に日本に発注した。しかし準備外貨が不足していたタイは、代金をタイ米による物納ですませたのだ。

 1945年3月9日、「明(あきら)作戦」によってフランス軍は武装解除され、カンボジア鉄道が旧日本陸軍の管理下に置かれる。 同年3月15日、カンボジア独立。

 同年、インパール作戦の失敗が原因でビルマを追われた旧日本陸軍は一度タイへと転進。その後すぐにサイゴンでイギリス・アメリカ軍を迎え撃つために、タイ領からフランス領インドシナへの戦闘部隊の大移動を実行する。軍隊の移動にはカンボジア鉄道が使用された。旧日本陸軍はプノム・ペンまでの行程に鉄道を利用し、後はトラックに揺られて植民地1号公路をサイゴンへと到着した。

 同年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏。

 すでに独立を果たした、カンボジアを含むインドシナ三国(ヴィエトナムに関しては正確にはまだ準備中)であったが、第二次世界大戦の戦勝国たちは既に同地の所有権をフランスへ戻すことを決めていた。だが旧日本陸軍が行きがけの駄賃として行った植民地の解放が、旧植民地の人々を民族自決の戦士へと急変身させていたことは思いも掛けないことだった。やがてフランスが全面対決する羽目になるインドシナの人々は、彼らがかつて知っていたほどに世間知らずのウブな若者ではなかったことを身を以て体験することとなるのだ。

 1945年8月、インドシナ三国の独立宣言を無視し、フランスの先遣隊はアメリカ軍を伴ってフランス領インドシナへ戻って来た。目的は同地の再植民地化だった。フランス軍の上陸地点であったこともあってか、この頃からヴィエトナムが先鋒となってフランス支配への挑戦を開始する。

 カンボジアには組織的にフランスへ対抗できる軍事勢力はなかった。一方ヴィエトナムにはインドシナ三国の中でもっとも協力な反仏組織を結成したホー・チ・ミン率いるインドシナ共産党がいた。ホー・チ・ミンの影響力はカンボジアにも届き、カンボジア人も「カンボジア地区のヴィエトナム共産党党員」としてフランスへの抵抗をゲリラ的な、目立たない程度に行った。

 同年9月2日、ホー・チ・ミンはヴィエトナム民主共和国成立を宣言。 同年9月23日、フランス軍とヴィエトナム軍サイゴンで衝突。

 1946年、フランスの大規模な上陸部隊がヴィエトナムへ上陸。 同年11月20日、ハイフォンでの軍事衝突が引き金となり、フランスとヴィエトナムが激しく衝突。

 同年12月19日、フランスとヴィエトナムの間で第一次インドシナ戦争が開始される。当初の結果は惨憺たるものでトンキン(北部ヴィエトナム)の、ハノイ(ヴィエトナムの首都)すら守りきれずに中国国境の山岳部へと追い込まれてしまった。

 1947年5月6日、カンボジア王国憲法発布。

 同年9月、自由カンボジア(クメール・イッサラー)政府成立。 1948年2月8日、カンボジアはフランス連合内の自治国として独立が認められる。ただし徴税権・外交権・自衛権は認められなかった。

 1952年、シハヌーク王による合法クーデター、「カンボジア王国」成立。自ら独立運動の中心的役割を担う。

 1953年、シハヌーク王がフランスを訪問しカンボジアの独立を訴えた。

 同年、カンボジアはフランスより司法権などを委譲された。 同年、カンボジアの独立がフランスに認められた。

 またこの頃から中国の人民解放軍が義勇軍として対フランス戦に参加し始める。それは宿敵であった「中華民国」の蒋介石を台湾へ追いだして、気をよくした「中華人民共和国」の毛沢東が余剰戦力を送ってくれたからである。おかげでヴィエトナム軍は中国義勇軍を主力として、フランス軍と正面対決できるまでの戦力の質と両を保有することに成功した。

 1954年3月13日、ヴィエトナム・ラオス国境付近のディエン・ビエンフーでヴィエトナム軍とフランス軍が戦闘を開始する。

 同年5月7日、ディエン・ビエンフーの戦いはフランス軍の大敗北によって決着が着いた。その後ジュネーブ会議でフランスとヴィエトナムは一応和解。ただ残念なことにヴィエトナムは南北(南=コーチシナ、北=トンキンとアンナン)に分断されてしまった。それはホー・チ・ミン率いる北ヴィエトナムが共産主義国家であったからとしか思えない。もし北ヴィエトナムが資本主義国家であったなら分断はされず、後にアメリカもわざわざ海を越えてまで長征を試みる気にはならなかっただろう。

 一方カンボジアとラオスはヴィエトナムに引っ張られる形で独立が国際的に承認されると言う幸運に見舞われた。

1954年に行われたジュネーブ会議の結果はヴィエトナムには辛いものなったが、フランスのインドシナからの撤退を余儀なくしたため、カンボジアに1953年に承認された独立をより実のあるものとした。まさに「棚からぼた餅」だった。

 第一次インドシナ戦争の終結によって、カンボジア鉄道の所有権はフランスからカンボジアへと移り、国家の発展を支える立て役者という新たなスタートを切ることとなった。またこの頃からフランスから500番代を名乗る新型蒸気機関車(SL231型とSL141型の500番代)がカンボジアへ送られることとなる。








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