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▲カンボジア鉄道はやっと人民の手に届く存在となった
若い頃の調査結果を記したファイルが発掘されました。修正なしでそのまま掲載します。こいつも長いです。
●1954〜1975年
シハヌーク王は、クメールの大地と民をフランスより奪い返すことに成功した。しかし落ち着いたところで国の外を見回してみれば、世界の大舞台では資本主義覇権国家と共産主義覇権国家の勢力圏拡張ゲームのまっさかり。何と2つの超大国同士の対立がその後も長く続くことになる冷戦構造を作り出していた。そして元仏領インドシナは覇権国家の一つになりたくて堪らない中華人民共和国に国境を接していた。これではただで済まされるはずがない。カンボジアもまた、たちまち覇権拡張主義の大波に呑み込まれていくことになる。
フランスからの独立戦争の主役を演じ切り、インドシナ三国の雄となったホー・チ・ミン指導下の北ヴィエトナム。その大きな存在感は傍らに大輪の花に添えられたカスミ草の花のような、小国カンボジアにも多大な影響を与えずにはいられない。北ヴィエトナムはソヴィエト連邦や中華人民共和国などの援助により強力な共産主義国家の一つとして力を蓄え、南ヴィエトナムの解放を目指した。
一方、南ヴィエトナムもアメリカの援助を受けて資本主義の広告塔として、さらに北ヴィエトナムを仮想敵国として軍備を増強させていった。そんな東南アジアで有数の軍事大国となった両国を象に例えるならば、2頭の象が身体をちょっとぶつけ合っただけでも、蟻のように小さいカンボジアは大怪我を被ってしまう。さらに国力がある程度の均衡状態にある南北ヴィエトナムが仮想敵国を出し抜くには、隣国のカンボジアを取り込むのが手っ取り早かった。具体的にはカンボジア領内から侵攻し、さらに戦闘で形勢が不利に転じた場合にカンボジアへ退却するということだ。
ここでカンボジアは二つの陣営から激しいラブコールを受ける。南ヴィエトナムを支えるアメリカからの協力の呼びかけは、カンボジア領内の北ヴィエトナム軍への攻撃の黙認だった。その見返りには破格の経済援助が用意されていたので大変魅力的だった。北ヴィエトナムからは自軍によるカンボジア領内の通過の黙認だった。その見返りには北ヴィエトナム軍によるカンボジア領内を「無断で」通過しないという国同士の面子が立つというものだった。しかしカンボジアが反目し合う南北のヴィエトナムのどちらかの勢力へ一方的に荷担することは危険すぎた。もしカンボジアが南ヴィエトナム側に付けば、ヴィエトコンは間違いなくカンボジア領内を通過するついでに破壊活動を繰り返すだろう。そして北ヴィエトナム側に付けば、アメリカはカンボジアをヴィエトナムと同一視して、遠慮なく攻撃対象に加えるだろう。そんなわけでシハヌーク王はカンボジアの中立化宣言を定期的に繰り返すしかなかった。
1955年、シハヌーク王は政治的な自由を得るために、自ら王位を退いてカンボジアの元首となった。王位は彼の父であるスラマリットが引き受けた。
1954年からロン・ノルのクーデターが起こる1970年まで、カンボジア鉄道は順風満帆の日々を送ることになる。また開始時期は不明であるが、カンボジア鉄道とタイ鉄道の鉄路はポイペッドーアランヤ・プラテート間で再連接する。この連接がどのような形で利用されていたのかは分からない。おそらくは貨物のみで旅客は行われなかったのだろう。
同年12月9日、カンボジアは日本と友好条約に調印。日本への戦後賠償の請求権を放棄した。
1956年2月6日、カンボジアは中立政策を表明。シハヌークは中立化によってのみ隣国や強国の干渉から逃れることができると判断したのだ。
1957年11月4日、カンボジアは中立法を交付。シハヌークは自らの決断を立法化することでより強固なものとした。
1958年6月18日、南ヴィエトナム軍が許可なくカンボジアに進入し、同国内を通るホーチ・ミン・トレイルを攻撃した。これはソヴィエトや中国政府の援助によって日に日に力を蓄え、南北に分断された国土を再統合するという意志を表明し続ける北ヴィエトナムに対する南ヴィエトナムの対処だった。
同年11月24日、カンボジアとタイはプリヤウィリヤにある遺跡の所有権をめぐって対立。カンボジアはタイとの国交を断絶する。
1960年9月、プノム・ペン駅からバッタムバンへ向かう列車の中で(一説には貨物ヤードで)、カンボジア共産党創立大会が行われる。この場には当然、後にカンボジアの悪名を世界にとどろかすポル・ポト(サロット・サル)も指導的な立場で参加していた。
1961年、カンボジアとタイと国交断絶により鉄路の連接契約を更新することできなかったため、ポイペッドとアランヤ・プラテートで結ばれた両国の鉄道連接は書類の上では解かれることとなった。
1963年6月30日、フランス大統領シャルル・ド・ゴールがインドシナ中立化構想を発表する。
同年、フランスの支援によってプノム・ペンに代わる外港として、コンポン・ソムにシハヌークヴィル港が完成する。シハヌークヴィル港は喫水の深い大型船が横付けできるカンボジア唯一の海港となった。
カンボジアがシハヌークヴィル港の開発を急いだ裏には困った事情があった。シハヌークヴィル港以前のカンボジア第一の港とはプノム・ペン港だった。だがそこにたどり着くにはメーコーン河をさかのぼって入り、さらにトンレ・サープ河を経由する必要がある。当時すでにヴィエトナム戦争は開始されており、ヴィエトナム領内のメーコーン河(メーコーン・デルタ付近)を通過する水上輸送が事実上不可能となっていた。それに対処するために至急で海港を開発するしかなかった。
シハヌークの支配するカンボジアとかつての宗主国であるフランスの関係は実に良好なものだった。それは後のシャルル・ド・ゴール首相のカンボジア訪問を待つまでもなく明らかだった。それはインドシナだけでなくアルジェリアなどの植民地までも放棄し、インドシナ中立化構想を発表したフランスが、アメリカとは異なるスタンスでカンボジアを接したからだろう。一方アメリカはカンボジアに対して莫大な援助と引き替えに、共産勢力(北ヴィエトナム)に対する経済的、地理的、軍事的な包囲網に参加することを求めて続けていた。しかしそれはカンボジアが北ヴィエトナムの攻撃対象となる危険を犯すことを意味した。アメリカの期待に応えることはシハヌークにはできない相談だった。
同年11月20日、カンボジアはアメリカへ経済援助受領拒否の意向を伝える。これにはアメリカが主謀と思われるシハヌーク暗殺事件も影響していると思われる。
1964年、ソヴィエト、中国、フランスが相次いでカンボジアへの軍事援助を開始する。
1965年5月3日、カンボジアは『非同盟政策』をかかげると同時にアメリカや南ヴィエトナムとの国交を断絶した。シハヌークが反米的な行動によって失ったのは国内経済を支えていた莫大な国際援助の中の8割であった。だが彼もその収支の穴を埋めるアテがなければこの決断はできなかっただろう。彼はこの莫大な収入を中国式の社会主義経済を国家方針に取り入れることでまかなおうとしたのだ。
シハヌークは貿易や銀行を公有化しさえすれば、効率的な経済成長ができると信じていた。しかし世の中はそれほど甘いものではない。アメリカとの国交の断絶は経済援助だけでなく海外からの資本投資までが途絶えさせた。それは一般投資家などがカンボジア経済の共産化し、政府が資本を強制的に没収するのではないかと恐れたからだ。またカンボジアでは国外市場に通用するような魅力的な商品の開発が十分ではなかったので外貨収入の道も途絶えた。60年代のカンボジアの政策を現在の目で見てみると、無理と無茶の連続にしか見えない。しかし当時はそれしか選択がなかったに違いない。アメリカは半分本気で世界征服の野望を隠そうとはしなかった。
一方ソヴィエト連邦は表面上だけは『世界の植民地の民族自決を応援する』と語って、独立したばかりの国の未熟な指導者たちの心を虜にしていた。こんな魑魅魍魎がうようよする世界では発展する前にやっと手に入れた独立を守ることを優先するしかない。その見地から判断するとシハヌークの採用した非同盟政策は本当に賢明な決断だった。
同年、アメリカがヴィエトナムへ直接介入。第二次インドシナ戦争が勃発。この戦乱はラオスにまで飛び火したが、シハヌークの見事な舵取りによってカンボジアだけはかろうじで大きな被害を受けることに成功した。
同年、カンボジア鉄道初の幹線用ディーゼル機関車がフランスより納入された。緑というカンボジア国鉄標準色に塗装されたセンター・キャブ方式のBB1000型の登場はカンボジアへも無煙化(蒸気機関車全廃)の波が到達したことを物語っていた。
1966年、フランス大統領シャルル・ド・ゴールがカンボジアを訪問する。
1967年、カンボジア共産党が中国から援助を背景に武装闘争を開始する。これによって中国の大躍進運動や文化大革命の影響がカンボジアにも到達した。これに驚いたシハヌークはアメリカとの国交の再会を再考し始めた。
1969年、シハヌークはカンボジア経済の自由経済化を宣言した。その様子は長く水中に潜っていた人間が水面に出て息を乱しているようなものだった。国内は経済に限らずすべてのシステムが機能不全に陥り、海外からの経済援助を大量にそして早急に必要としていた。
同年、アメリカによるカンボジア南部の秘密爆撃が始まる。爆撃の目的はカンボジア領内を通過しする南ヴィエトナムへの攻撃・補給ルート、「ホーチ・ミン・トレイル」をつぶすことにあった。なお、カンボジアへの無差別爆撃に対し、国際世論が反発しアメリカは早々に爆撃を停止した。
しかしシハヌークはどうして1969年までの経済的な政策方針の決定を誤ってしまったのだろう? それはおそらくマルクス・レーニン主義者という、経済学万能主義者が経済学は経済をもコントロールできると過信した人々の意見に耳を傾けてしまったからではないだろう。
同年年末、シハヌークが長年の夢としていたプノム・ペン〜シハヌークヴィル港を有機的に結ぶ鉄道の新線(263キロメートル)が完成した。これによってプノム・ペン〜バッタムバン間(274キロメートル)、バッタムバン〜ポイペッド(113キロメートル)と合わせて全650キロメートル鉄道路線が完成した。
カンボジア鉄道には新線開通に会わせて、再び幹線用ディーゼル機関車がフランスから届けられた。それが深緑と薄緑というカンボジア国鉄標準色で塗装されたBB1050型である。センター・キャブ方式はとは異なり、車両の前後にキャブかあるので極めて前方視界が良好な造りになっている。
同年、カンボジア鉄道には初めてのディーゼル・カー(DC)もフランスから届けられた。それは前後に運転席のある動力客車を配置して真ん中に無動力客車をサンドイッチするヨーロッパでは一般的な客車のスタイルだった。この車両は全二等車扱いで、旅客業務を盛り立てようとするカンボジア鉄道の野心の現れでもあった。
1970年3月14日、タイのサッタヒープ港を目指して航行していたコロンビア・イーグル号がシハヌークヴィル港へ入港した。同船に満載されていたアメリカからの軍事物資は一晩の中に陸揚されていずこかへ消えてしまった。
同年、3月18日、まさに寝耳に水という感じで、シハヌークに衝撃的な大事件が襲う。彼がフランス・パリを外遊中だった隙をついてロン・ノルがクーデターを起こしカンボジアに親米政権を成立させたのだ。この事件にはアメリカのCIAが関与していたという説もあるが、はっきりしたことは分からない。ただコロンビア・イーグル号の件も含めた状況証拠ではアメリカは明らかに有罪、そしてクーデターを心から歓迎したのもアメリカだった。
同年5月、アメリカと南ヴィエトナムはカンボジア王国新政権の合意を得てカンボジアへの侵攻を開始した。目的はカンボジア領土内に入り込んだ北ヴィエトナム軍を排除するというものだった。
同年10月、ロン・ノルはカンボジア王国ちう国名を捨てて、クメール共和国を成立させた。
しかしロン・ノルは何故クーデターを起こしたのだろうか? それは裏と表の面があると推測される。救国的な面ではシハヌーク指導のまま中国の真似事をしているようでは、カンボジア経済が二度と立ち上がれないほどに傷ついてしまうと心配したこと。事実アメリカの経済援助を断ったシハヌークの読みは大ハズレで、国民の生活は窮地に陥っている。そして打算的な面では経済的な大失策を犯したシハヌークへの国民の信頼が失墜した今なら自分が王族に変わる支配者になれるという読みもあっただろう。
結果からすれば、シハヌークが経済的な難局を読み違えたようにロン・ノルもまた民衆の根強い王族支持を読み違えていた。都市部の中産階級や知識層はロン・ノルを支持したが農村部の民衆は王族のシハヌークを支持し続けたのだ。これがロン・ノル政権のネックの一つとなった。 同年、ロン・ノル政権に死刑を宣告されたシハヌークは中国で亡命政権を成立させた。中国に置かれた亡命政府の閣僚名簿の中には驚いたことにカンボジア共産党幹部であったフー・ニムやキュー・サムパンの名前があった。
農村部での民衆のシハヌークを支持はそのままカンボジア共産党の支持に流れてしまった。それはカンボジア共産党勢力がシハヌークの名を使って農村部で兵士を募集することができたからだ。国民の大多数が住む農村部を的に回してしまっては、ロン・ノル政権はカンボジア全土を支配する安定した政権など作るはずがなかった。
またシハヌーク時代は大きな反政権活動は行わなかった北ヴィエトナム軍も、親米政権であるクメール共和国に対しては全く遠慮しなかった。東南アジアの共産主義者達はヴィエトナムとの国境にある熱帯雨林を拠点として、プノム・ペンを目指してゆっくりと進撃して行った。そしてその勢力はクメール共和国成立の年にすでに首都プノム・ペンとシハヌークヴィエル港を結ぶ国道4号線の通るコンポン・スプー州へと到達した。コンポン・スプー州が陥落すればプノム・ペンへは何の物資も届かなくなり早々に干上がってしまうことを承知していたクメール共和国は、国軍だけではなく南ヴィエトナム軍の援軍までをも投入して死守の構えを見せた。一方カンボジア共産党勢力と北ヴィエトナムの合同軍がその防御戦の突破を目指して戦った。
このカンボジア南部での内戦の結果はクメール共和国の敗北だった。一時的にせよコンポン・スプー州はカンボジア共産党勢力の手に落ち、国道4号線は壊滅的な打撃を受けた。そしてさらにプノム・ペン〜シハヌークヴィル港間の施設されたばかりの鉄道もコンポン・スプー州の南に位置するカンポット州付近で大きな被害を受け、開通わずか4カ月間で運行不能状態に陥ってしまった。
カンボジア共産党勢力の輸送インフラに対するゲリラ的な破壊活動は留まるところを知らなかった。鉄道破壊もさらに続く。カンボジア北西部の路線(プノム・ペン〜バッタムバン)ではローメオ(コンポン・チュナン州)〜プルサト(プルサト州)間というカンボジア鉄道路線唯一の難所が破壊され、列車は山越えができなくなった。この区間も結局クメール共和国時代中は復旧することができなかった。
しかしプノム・ペン〜バッタムバン間の連絡が途切れてしまったことで、カンボジア鉄道は思いがけない機関車を手に入れることになる。NBL社製E型蒸気機関車がそれである。カンボジア鉄道はこの機関車をタイ鉄道から無償供与されたのだ。またこのNBL社製E型蒸気機関車は書類上は連接を解かれていたポイペッド〜アランヤ・プラテートを通過して届けられたと推測される。この無料機関車はポイペッド〜プルサト間をクメール共和国が滅亡するまでの間走り続けて、その後あっさりと引退させられた。
この事例の不思議なことは、1958年に国境問題で国交断絶されただけではなく大きな観光収入が期待できる遺跡をカンボジアに奪われたタイが何故カンボジアを支援したのかということだ。それは「敵の敵は味方」という不思議な法則に起因する。シハヌークを追い出したロン・ノル政権は敵の敵ということなのだ。
しかしアメリカとタイはどんな目的で存続すら絶望的だったクメール共和国を援助し続けたのだろうか? それはアメリカは資本主義陣営のリーダーとして地球上にこれ以上共産国家が増えることを防ぐ必要があったから、そしてタイはカンボジアの向こう側で暴れている北ヴィエトナム軍を警戒していたからに違いない。もしクメール共和国がカンボジア共産党勢力によって倒されることになれば、新たな共産主義国がタイの隣に出現する危機に面することになる。そうなれば、東南アジア最強と誉れ高い北ヴィエトナム軍がタイへと侵攻して来る可能性が生じるということだ。この『もしも』は当時としてはとても現実味のある話でアメリカもタイも極めて真剣だった。
1971年、クメール共和国軍はカンボジア共産党軍に対して大攻勢「チェンラII作戦」を敢行しする。目的はアンコール・ワットの奪回。ただし結果は失敗。
1973年、アメリカによるカンボジア南部への爆撃が再び始まる。
同年、パリ協定が締結され、アメリカがヴィエトナムやカンボジアを含むすべての東南アジアから手を引くこととなった。これにより南ヴィエトナムとクメール共和国は窮地に追い込まれる。
1974年、カンボジア共産党軍のゲリラ攻撃が首都プノム・ペンに到達する。
1975年、カンボジア共産党軍はメーコーンに浮遊機雷を設置して、水上交通を完全に封鎖する。すでにシハヌークヴィエル港と首都プノム・ペンを結ぶ幹線や鉄道はカンボジア共産党軍の手に落ちていた。カンボジア共産党軍は首都プノム・ペンに兵糧攻めを仕掛けたのだ。
同年、インドシナ最後の資本主義国家を名乗っていた南ヴィエトナムとクメール共和国は共産勢力によって倒された。新しいカンボジアの所有者はポル・ポトを含む中国の大文化革命に心を奪われたカンボジア共産党だった。ここに運命の時は訪れた……。
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