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カンボジア>カンボジア鉄道と共産党

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▲ポル・ポト時代に粛正の対象となった人々の肖像

 

 若い頃の調査結果を記したファイルが発掘されました。修正なしでそのまま掲載します。カンボジア鉄道の歴史の中でもっとも記録が少ない時期です。

●1975〜79年

 「クメール・ルージュ」はカンボジア共産党の別称で名付け親はシハヌークその人である。主要なメンバーの多くはフランスでへ渡った経験を持つ元国費留学生たちである。当時、サロット・サルと呼ばれていたポル・ポトやイエン・サリなどがそれにあたる。しかし彼らは学問を修めず共産革命の虜となった。 彼らが偏屈な共産主義者となってしまったのは、当時のフランスの若者の間で流行していた平和運動に感化されたからだと思う。

 早い話、リベラルであることが若者の間では格好良かったのだ。さらにカンボジアの未来を担うべき若者たちは先進国の文化に自ら接することで、深い劣等感に苛まれてしまう。その強烈な劣等感は彼らの心の成長をそこで止めてしまい、異様に偏執的な完璧主義者を作り上げた。

 彼らは帰国後に左翼的な団体を造り、時の独裁者であったシハヌークに対抗しようとした。だが既存の支配勢力は若者たちが思った以上に強固で、そう簡単に打ち破れるものではなかった。やがて彼らはシハヌークに睨まれ、身の危険を感じてヴィエトナムとの国境にある熱帯雨林へと姿を消した。それはホー・チ・ミン率いるヴィエトナム共産党に参加するためだった。

 またポル・ポトやイエン・サリはヴィエトナム共産党の組織内で過ごす課程で、後に露わにするヴィエトナム人への憎悪を育てていったと推測できる。彼らはフランスへ国費留学するほどの自称インテリであったので、共産主義のなんたるかも理解していないヴィエトナムの田舎者に偉そうに指導されることが苦痛だったに違いない。それでも立場をわきまえて我慢してきたのだが、1960年代になってヴィエトナム共産党がソヴィエトの指導でカンボジアから完全撤退して自国に引きこもってしまったときには、裏切られたという確信によって堪忍袋の緒が切れた。そこでポル・ポトやイエン・サリたちはカンボジア共産党を創設し、自らの理想を実現させる手段を探し始めた。

 結局カンボジアの共産党党員の集団はヴィエトナム共産党のオマケ的な存在に過ぎなかった。ヴィエトナム人とカンボジア人がお互いを必要としている時はなかなか良い協力関係を保っていたが、それでも結局はしっかりとした目標意識を持つヴィエトナム人主導という形で組織は活動していた。またヴィエトナム戦争終結後に行われたプノム・ペン包囲作戦までつながるカンボジア戦争でも、常に道筋を立てたのはヴィエトナム軍の力でありポル・ポトやイエン・サリたちの純粋な力で実現した快挙ではありえなかった。

 しかしそんな自尊心ばかりが強く今まで何事も独自の力で成し遂げたこともない、カンボジア共産党がカンボジアの主権を握る日がやって来た。それは新たな恐怖がカンボジア全土に広がるということを意味していた。

 1975年4月17日、首都プノム・ペンが陥落。やがてプノム・ペン在住者の各地への強制移住が始まる。移住先は主にバッタムバン方面とカムポット方面だった。当時プルサトからバッタムバン方面に至る区間の鉄道はまだ稼働状態にあったので強制移住者もまだマシであった。カムポット方面では鉄道や国道の輸送インフラが壊滅状態にあったので強制移住は徒歩で移住先を目指すしかなかった。このときロン・ノル大統領は既にアメリカへ亡命した後だったのだが、弟のロン・ノン大佐はプノム・ペンに残った。それはポル・ポトたちが、彼と親交の深かった同級生であったからだ。おそらく共にこれからのカンボジアを支えようとでも思ったのだろう。しかしポル・ポトたちカンボジア共産党の学友たちはロン・ノン大佐の甘えに対して、即刻死刑を実施するという厳しい態度で応じたのだった。

 同年、カンボジアとヴィエトナムの間で国境紛争が始まる。原因はシハヌーク時代にカンボジア領海と決まった島の近くで石油層が発見されたことである。ここに第三次インドシナ戦争の発端を見ることができる。

 同年、共産党勢力の勝利を喜んだ中国はカンボジアに大量の物資援助を行った。中国は本気でカンボジアを復興させ、ヴィエトナムでは失われた政治的影響力を強めることを考えていたようだ。海上輸送された援助物資の中には4000トンの鉄道用の資材と4000トンの鉄道用のディーゼル燃料が含まれていた。その援助は再びコンポン・ソムと呼ばれる様になったシハヌークヴィルの港から陸上げされた。ポル・ポト達も物資を受け取るためのインフラの再建に全力と尽くした。鉄道の場合、「革命後」に最初に再開通できたのはプノム・ペン〜コンポン・ソム(シハヌークヴィル)線、同年6月で、主に修復された場所はトゥク・メアス〜カムポット付近だった。またシソポン〜プルサトも同年の12月に再開通。このスピード修復のために、カンボジア共産党は北部カンボジアの農場から、鉄道職の経験者を集めた。また同年から翌年にかけて、タイのアランヤ・プラテートに接したポイペトでの国境市場は閉鎖され、ポイペト〜シソポン間のレールの一部が取り外されたことも重要に思えるので記載しておく。

 同年10月、プノム・ペン占拠後初めて、新生カンボジアの閣僚が決まった。ポル・ポトは国防と経済、ヌオン・チアはカンボジア共産党の責任者、イエン・サリは国家と対外問題、キュー・サムパンは国家元首のシハヌークの監視、そしてボン・ベトが鉄道などを担当することが決まった。カンボジア鉄道の後見人となったボン・ベトではあったが、彼自身も1976〜8年の間に粛正の対象となったことも付け加えておく。

 ところで「ポル・ポト」という偽名はこの時に初めて歴史の中に登場した。これ以前に「ポル」または「ポール」という偽名はサロット・サリ(ポル・ポトの本名)によって使用されていたが。それはつまり、イエン・サリなどがクメール共和国時代に政府にマークされていたにもかかわらず、ポル・ポトだけはまったく注目されなかったことを証明するはずだ。もちろんポル・ポトはクメール共和国時代でもカンボジア共産党という組織内では大物であった。それは北京にいたシハヌークがカンボジア共産党支配区に入ったときの記念写真に、ポル・ポトがわざと目立たない形で写っていることでも納得できる。

 1976年、カンボジア共産党は、クメール共和国の国名を民主カンボジアと改めたと発表した。さらにポル・ポトは革命後にカンボジアへ呼び寄せたシハヌークを軟禁して国の指導権を独占した。

 1977年、カンボジア共産党組織内の権力闘争に勝利したポル・ポトは自らの政策に意見を唱える者の粛正を開始した。反主流(ヴィエトナム共産党支持者)であったヘン・サムリン派は生命の危機から、カンボジアを去りヴィエトナムへと向かった。この後、民主カンボジア政府を完全に手中に納めたポル・ポト派は世にも不思議な鎖国政策を実施することとなる。ポル・ポトはカンボジアの経済的な難局の解決方法を農業に求めたのだった。米の増産の為に、大規模な水田や水路の開墾を目標としたという国家改造計画を打ち立て、それを農奴、つまり国民の強制労働によってまかなおうとしたのだ。

 この頃、カンボジアとヴィエトナムは険悪な関係に陥り、何度かの小規模な戦闘を経験した。

 同年12月10日、ポル・ポト一行がカンボジア鉄道を利用したことが記録に残っている。乗車区間はプノム・ペン中央駅〜ローメア駅である。彼らはローメア駅からは車でコンポン・チュナンへ向かったそうだ。実はポル・ポトがクメール共和国時代に二等車扱いのディーゼルカーに乗車している姿を映した写真が存在しているが、それはおそらくこのときに撮影されたものであると推測される。

 同年12月、ヴィエトナムは度重なるポル・ポト派の挑発に乗ってカンボジアへの大規模な越境攻撃を行った。強大なヴィエトナムの軍隊はカンボジアの南部を一時期支配下に置いた。この時にプノム・ペン〜コンポン・トム(シハヌークヴィル)の路線は再び破壊れた。カンボジア共産党はこの路線を二度と復旧することができなかった。

 1978年、カンボジア南部(オウムの嘴地帯)に居座っていたヴィエトナム軍は急にヴィエトナムへと引き返していった。この事件以来、国交を断絶したカンボジアとヴィエトナムは雌雄を決する運命を背負った。ポル・ポト達は対ヴィエトナムを目的にした新たな国家改造計画を実施。そして栄養失調に悩む若者たちの徴兵を実施した。しかしその結果はカンボジアをさらに疲弊させ、相対的にヴィエトナム軍を強力しただけだった。

 ポル・ポト支配の末期、カンボジアは鎖国政策と外貨不足から生じる物不足に陥っていた。しかしカンボジアの鉄道員たちは、車両整備用の交換部品やディーゼル燃料の不足に苦しみながらも、カンボジア共産党の課してくる穀物輸送ノルマを何とか果たそうと努力していた。

 同年12月、元カンボジア共産党のヘン・サムリンたちによる反ポル・ポト勢力であるカンボジア救国民族統一戦線が結成される。

 同年、ヴィエトナム軍がカンボジアへの第二時侵攻を実施。食料不足による餓えに苦しむカンボジア軍をの防御線を次々に破って首都プノム・ペンを目指した。カンボジア共産党軍はヴィエトナム軍との戦闘を恐れ、首都プノム・ペンを放棄して森の中へ退却した。

 同年12月下旬、プノム・ペンにヴィエトナム軍が迫り、カンボジアに派遣されていた中国人顧問や外交団などがカンボジア鉄道北線を使用してタイ・ラオス方面へ撤退した。

 1979年1月5日、カンボジア共産党に軟禁されていたシハヌークはヴィエトナム軍のプノム・ペン到着前に国外へ脱出に成功していた。彼は少数の側近と囲まれて中国へと向かい、新しい亡命政権を作ることになる。翌日の1月6・7日、カンボジア共産党軍構成員や負傷兵たちを満載した列車がプノム・ペン中央駅を後にした。

 同年1月、ヴィエトナム主導でカンボジア民主共和国が成立する。そして既にカンボジア共産党軍とは呼べなくなった、ポル・ポト派が各地で反撃を開始する。カンボジア全土で戦闘が始まりタイやラオスなどの隣国に膨大な数の難民が流出することとなる。








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