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カンボジア>内戦時代のカンボジア鉄道

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▲タイ国境から多くの帰還民が鉄道で
それぞれの故郷へと向かった

 

 若い頃の調査結果を記したファイルが発掘されました。修正なしでそのまま掲載します。間違いがあっても若気の至りということで・・・。

●1978〜91年

 カンボジア人とヴィエトナム人の間には複雑な事情がある。カンボジア人はタイ人とヴィエトナム人に長い期間に渡って支配されてきた。だがカンボジア人はタイ人へは激しい嫌悪感を示すことはない。一方ヴィエトナム人に対しては「ユーン」というヴィエトナム人を指す慣れ親しんだ(!)蔑称があり、あまり良好な関係にあるとは言えない(どこかの国民が日本人ではなく「チョッパリ」と呼ぶのと同じ)。これは宗教と文化の違いが大きな原因と思われる。ほとんどのタイ人とカンボジア人は南方上座仏教(小乗仏教)信者で、宗教界でも綿密なつながりを持っている。またカンボジアが西から伝来して来たインド文化圏の限界点なことからタイとも同じ文化グループに入っている。

 一方ヴィエトナムは中国伝来の大乗仏教の信者が多く、また中華文化圏の南の限界点でもある。つまりカンボジアとヴィエトナムの国境は宗教や文化の境界線でもある。カンボジア人としてもどうせ支配されるなら同じ文化圏の民族にされる方が良いと思っていることだろう。さらに植民地時代にヴィエトナム人に間接統治された怨みも上乗せされているので、カンボジア人の隣人に対する嫌悪感は思った以上に根深い。

 カンボジア人とヴィエトナム人の因縁だが、実はもう一つある。もちろん本当ならこちらの方が重大な問題でもある。ヴィエトナム人はカンボジアをヴィエトナム国カンボジア県にしたいという一つの目標を持っているとも言われているのだ。これは混血によってクメール民族を取り込むという壮大な計画である。少なくともそう感じるカンボジア人は多いようだ。事実、1997年のフン・セン第二首相が勝利した内戦でも、彼を応援しているヴィエトナムの特殊部隊がどういうわけか民間人に紛れてプノム・ペンを訪れている。彼らがカンボジアで一体どのような観光を行ったのかは誰も知らない。

 1978年12月、海外からのジャーナリストによるポル・ポトへのインタビューによって、彼自身がサロット・サルであり、「ポル・ポト」とは偽名であったことを認める。

 1981年、カンボジア鉄道のほとんどの路線が再開通する。それによって、シソポン駅〜コンポン・ソム(シハヌークヴィル港)までの列車の運行が可能となった。

 1982年6月22日、マレーシアのクアラ・ルンプールでシハヌーク派、ポル・ポト派、ソン・サン派が集い民主カンボジア連合政府の成立を宣言する。これによってカンボジア国内での戦闘はさらに激化することになる。カンボジアでの内戦はソヴィエトと中国の代理戦争となりつつあった。ところでここで初めて登場する「ソン・サン派」の「ソン・サン」とは元シハヌークの宮廷顧問でありながら、1970年にロン・ノルに同調してクーデターに加わった男の名前である。彼を中心にしてパリへ逃れたクメール共和国時代の実力者達が反ヴィエトナム戦闘に新たに加わったのである。

 一方ヴィエトナムとしても何時までもカンボジアでの戦闘に関わっていられなかった。第二次インドシナ戦争でアメリカに勝利した後に、その傷も癒えないまま始まったこの戦争が国内経済の発展を阻害する要因となってきたからだ。時代が変わり、戦争が割に合わなくなってきたのだ。そこで賢明にもヴィエトナムはカンボジアからの撤退の道を模索し始める。

 ヴィエトナムに説得されてか、ヘン・サムリンは首相の座を退いた。しかしこの譲歩によって、カンボジア和平への道は進展し始める。悲劇の連続であったカンボジアの歴史は、ここで明らかにターニング・ポイントを向かえた。

 1984年5月30日、シハヌークが日本を訪問し、援助を要請する。

 同年11月より、ヴィエトナム軍が乾期攻勢を開始。これによってダムレイ山脈などに潜んでいたシハヌーク派、ポル・ポト派、ソン・サン派は壊滅的な打撃を受ける。この大敗はその後のカンボジアにおけるカンボジア人の軍事勢力を著しく後退させることになる。

 1985年1月14日、フン・センがカンボジア人民共和国の首相に就任する。この人事効果によってヴィエトナム勢力とカンボジア勢力が和平を前提した接触を開始することになる。フン・セン首相は民主カンボジア勢の精神的なよりどころであったシハヌーク派の中心事物であるシハヌークとの交渉を開始し、内戦の終結方法を模索し始めたフン・センとはヘン・サムリン同様にポル・ポト派の粛正から身を守るためにヴィエトナムへ避難していた元カンボジア共産党幹部である。

 同年11月、ロン・ノルが亡命先のアメリカで死去。彼の死は既にカンボジアに何の影響も与えないものとなっていた。

 1987年12月2日、フランスのパリでシハヌークとフン・センが会談。和平を軍事力でではなく政治によって実現させることを互いに同意した。

 1988年、カンボジアを支配するヴィエトナム派(フン・セン派)とシハヌーク派、ポル・ポト派、ソン・サン派がインドネシアのジャカルタで非公式ながら戦闘終了に向けて会談を行った。

 1989年6月、カンボジア人民共和国はカンボジア国と名称を改めた。そして同時に1975年以来の長い期間、ずっと息をひそめていたカンボジア国内での仏教組織の再生と再構成が開始されることとなる。

 同年7月11日、カンボジア国は永世中立宣言を発表。カンボジア和平パリ会議が開催される。カンボジアに駐留していたすべてのヴィエトナム軍がカンボジアより撤退する(公式に、である)。これにより和平の最大の障害が取り除かれた。

 同年、中国がポル・ポト派への武器援助の中止を発表。

 1991年10月23日、フランスのパリで三派が和平に合意することとなる。なお和平会議に参加した四派は交渉の合意発表の寸前まで、和平後の交渉をより有利に進めるために戦闘のラストスパートをかけたことも記述しておく。

 同年11月9日、UNTACの先遣隊であるUNAMICがカンボジア入りする。カンボジアの暫定統治とはたった3年間に費用だけで一五億八千万米ドルかかったとという大プロジェクトで、これによりカンボジアにUNTAC特需が訪れた。

 同年11月14日、シハヌークがカンボジアへ帰国する。








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