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▲フランスから輸入したディーゼル機関車
若い頃の調査結果を記したファイルが発掘されました。修正なしでそのまま掲載します。間違いがあっても若気の至りということで・・・。
●1991〜2001年
国連の仲裁によって、カンボジアでの内戦にも一応は決着が着いた。カンボジア国のフン・セン首相と民主カンボジアのシハヌーク大統領の長期間に及ぶ交渉の末に、「パリ和平合意」によって二つに別れた四派の勢力(フン・セン派vsポル・ポト派+シハヌーク派+ソン・サン派)が停戦条約に合意したのだ。そしてUNTAC(国連暫定統治機構)によって実施される総選挙で国民の支持を問う、という民主的な方法で国を再建することが決まった。
だが、「民主的な」という言葉に自信のない民主カンボジア勢力の主力戦力だったポル・ポト派は、選挙前になって突然に選挙への参加を取りやめて、自らが「解放区」と呼ぶ支配区域を確保しながら選挙の妨害に徹した。これはポル・ポト派が組織維持の為に下した決断であろう。ポル・ポト派は停戦後さらに六カ月の戦闘継続の宣言を出し、鉄道を初めとするカンボジア国内の物資輸送手段に対するゲリラ攻撃を開始することとなる。
1992年3月、UNTACがカンボジア入りし、暫定統治機構として活動を開始する。またタイ国境の難民キャンプよりカンボジア難民の帰国が開始される。
同年6月13日、4派の武装解除始まる(ポル・ポト派は拒否)。
この年、カンボジア鉄道はタイ国境から各地への難民の帰還プロジェクトの一部を担った。そしてUNTACなどの援助を得て、チェコスロヴァキアのCDKプラハから新型ディーゼル機関車1010型を4両を納入した。同年、カンボジア鉄道は全線で蒸気機関車を全廃に成功。
1993年、シハヌーク乱心。UNTACの選挙を無効、およびカンボジア国民政府樹立を宣言、そして撤回。
同年4月30日、難民の帰国終了。 同年9月、シハヌークが再び王位に着く。
同年、フランスがカンボジア鉄道の軌道などのインフラ整備の為に一七十万米ドルの援助を決定し、再生への道を歩み始めた。
同年、UNTACの行った総選挙の結果、シハヌーク殿下の息子であるラナリット王子を第一首相、フン・センを第二首相とする新生カンボジア王国が誕生した。一国に首相が二人もいるのは異常な事態に違いないが、これは選挙に負けたフン・センが不合理な圧力でもぎ取った首相のイスだった。後にこの不思議な内閣は1993年体制と呼ばれることになる。
1994年、国連がカンボジアに費やした予算は総額で八百六十万米ドルとなった。
その後バッタムバン州のパイリンを支配していたポル・ポト勢力の実力者であったイエン・サリが、身柄の安全を保障されたことから政府軍に投降した。フン・セン第二首相はイエン・サリをパイリン市市長に任命し、配下の兵士を政府軍に取り立てるなど、元反政府勢力の構成員を厚く遇した。少数精鋭であるイエン・サリ配下のポル・ポト派兵士を取り込んだフン・セン派(ヴィエトナム派)の力は大幅に増強された。これに危機感を持ったラナリット派(シハヌーク派)は他のポル・ポト派の自派への取り込みの努力を強めた。これに対してフン・セン第二首相はラナリット第一首相がポル・ポト派と通じていると激しく抗議した。それによってラナリット第一首相とフン・セン第二首相の対立が少しずつ表面化して行くことになる。カンボジアの騒動には因縁という2文字がよく似合う。
1997年4月15日、タ・モク参謀総長に監禁されていたポル・ポトは心臓発作で天寿を全うした(彼の突然の死には疑問が多い)。彼の死体や死の直前の映像はTVによって公開され、世界に大きな衝撃を与えた。そして彼の死体はタイ軍に引き渡され、ポル・ポト本人であると確認された。一時は救世主ではないかと勘違いされたこともある「カンボジアで一番の悪役」が歴史の舞台から降りたのである。
同年4月5〜6日、フン・セン第二首相の勢力(CPP軍=カンボジア人民党軍=カンボジア人民党)がラナリット第一首相の勢力(FUN軍=フンシンペック軍=フンシンペック党)に対して奇襲攻撃を仕掛ける事件が起こった。奇襲を直前に察知したラナリット第一首相は、この時にすでに国外へ避難した後だった。カンボジアに残されたフンシンペック軍は、さんざんな目に会った後で生き残った勢力をプノム・ペンより撤退させるしかなかった。
カンボジア人民党軍の勝利の結果、ラナリット氏がシハヌーク国王の恩赦で帰国するまでの間、カンボジアはフン・セン氏の天下となり、UNTACの作り出した1933年体制は完全に崩壊した。これはつまりカンボジアが再びヴィエトナムの影響下にはいったことを意味する。カンボジア人民党軍(=カンボジア人民党)はヘン・サムリンからフン・センが引き継いだ勢力であり、カンボジア人民党軍(=カンボジア人民党)はラナリットが父であるシハヌークから引き継いだ勢力であるからだ。国際社会はこの事件を容認する方向に傾いているが、この事実を忘れてはいけない。
1998年、カンボジアではUNTAC以来初めての総選挙が行われた。結果はフン・セン氏のフンシンペック党が過半数の122議席中の64議席を得るという大勝利だった。前回の総選挙の勝利者であったカンボジア人民党は43議席へと後退した。この勝利によってフン・セン氏はただ一人の首相となり、名実共にカンボジアで最大の権力者となった。なお、ラナリット元第一首相は下院議員議会の議長に就任した。
1999年、キュー・サムファン幹部会議長とヌオン・チア元人民代表議会議長が政府に続き、ポル・ポト派勢力の最後の一人、タ・モク参謀長総長がカンボジア政府に逮捕された。これにより、カンボジア全土に散らばっていたクメール・ルージュの組織が壊滅した。
2000年、カンボジアでは内戦中の犯罪者を裁く法廷が国連主導で行うか、カンボジア主導で行うかをモメている。現在のカンボジアの政治的権力者は過去に何らかの形で内戦に関わってきたことから、国連主導で判決を出されては首が危ないということだ。
2001年、カンボジア鉄道はレールの交換や鉄道施設の補修も少しずつではあるが始めている。また現在では1000型の機関車を4両、1050型の機関車を6両、1010型機関車を4両、パシフィック型の蒸気機関車1両、車両入れ替え用の小型機関車400型と410型を多数、通常型の客車を5両、転用された客車を5両、そして多数の貨車などを保有している。しかしほとんどの車両と施設に老朽化の傾向が激しく、修理補修↓故障不具合↓修理補修の繰り返しで、母体のカンボジアの国家情勢と同様に再生への道は困難である。
とは言え、カンボジア鉄道は明日に向かって微速前進中である。その第一歩として、カンボジア鉄道はパシフィック型の蒸気機関車に牽引された観光列車による、プノム・ペン〜シハヌークヴィル間の定期運行を計画している。この様に、前へ進むのを諦めなればきっと何時の日か、きっと前へ進む先進国の鉄道のレヴェルへ絶対に到達することができるに違いない。これは真理であり、道理でもある。
後日談。2008年、カンボジア鉄道ではディーゼル機関車の消耗がかなり進んだ。そのために中国から新車のディーゼル・カーを入手した。しかし、多くの悲しい事情で未だに車庫の中らしい。
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