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カンボジア鉄道応援会 Reborn!

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▲カンボジア共産党による経済実験の被害者達

 

 歴代のカンボジア支配者のなかでカンボジア鉄道の存在を無視した者はいなかった。常にそれを利用して経済活動を活性化させ国の再建を果たそうとしていた。もちろん悪名高いポル・ポトらのカンボジア共産党も例外ではなかった。しかしカンボジア共産党とカンボジア鉄道の関係は、「支配者」に対する「支配地域のインフラ」以上に深い関係がある。それはカンボジア鉄道はカンボジア共産党の誕生に深く関わっているからである。

 1960年9月、カンボジア共産党創立大会はプノム・ペン駅からバッタムバンへ向かう列車の中で(一説には貨物ヤードで)、行われた。またポル・ポト自身も幹部メンバーとして参加していた。これはいろいろな資料が示しているのでまず間違いはないと思われる。その史実を知った後、カンボジア共産党がカンボジア鉄道にどのような干渉を行ってきたかということにボクは興味をもった。

 カンボジアの資料を読み進めていく上でなるほどと思ったのは、カンボジア共産党はカンボジア鉄道を闘争の初期段階から戦略的な攻撃目標の一つに定めていたことだ。彼らはカンボジアという国が海岸線のほとんどが山脈地形で占められていることから、首都プノム・ペンへの物資の輸送をメーコーン河や鉄道に頼り切っているという弱点を見抜いた。そこで彼らの敵であるクメール共和国を屈服させるには鉄道を破壊して兵糧責めにするのが有効と考えたのだ。そんなことをふまえてカンボジア共産党とカンボジア鉄道の交流の歴史を読んでみて欲しい。

 CIAの指導で行われたとも言われるクーデター以来、ロン・ノル大統領の率いるクメール共和国軍に対してカンボジア全土で蜂起したカンボジア共産党勢力は、国内の物資の流通を停滞させるためにインフラ破壊を徹底して行った。結果として1969年に開通したばかりの鉄道路線であるプノム・ペン〜シハヌークヴィル港(全長約263キロメートル)を開通4カ月後に不通に追い込むことに成功した。さらに1975年にはポイペッド〜プノム・ペン(全長約387キロメートル)の分断にも成功し、クメール共和国の転覆に成功した。

 


▲ポル・ポトが乗車したディーゼル・カー

 

 カンボジア共産党はカンボジアの主権を握ってからはカンボジア鉄道への態度を一変させることとなる。今までの積極的な破壊活動をやめて保守活動に転じたのだ。彼らは中国から4000トンのディーゼル機関車用燃料や4000トンの鉄道用の資材を大量に輸入し、たった2カ月でプノム・ペン〜シハヌークヴィル港の鉄道輸送を再開させ、さらに6カ月後にはポイペッド〜プノム・ペンの鉄道輸送を再開させてしまった。

 これらの早業は物流を停滞させることでクメール共和国転覆に成功しただけに、カンボジア共産党は鉄道インフラこそが国家の生命線であることを熟知していたことの証明でもある。ただこれらの作業の進め方だけは非常にカンボジア共産党らしかった。彼らは北部カンボジアの農場から鉄道職の経験者を強引に集めて24時間2交代制の突貫工事で復旧作業を完了させたのだった。

 それほどに鉄道を重く見たカンボジア共産党であるだけに、彼らが列車を使用して視察地まで移動したという公式記録も存在している。だが古い機関車牽引の客車に乗車した記録が見つからない。で、どんな車両に乗車していたかといえば、1969年にフランスから輸入したばかりの最新型ディーゼル・パッセンジャー・カー(DC)がお気に入りだったらしい。実際に最新型DCのふかふかシートに腰を下ろしているポル・ポトとカンボジア共産党幹部が写った記念写真というものが存在している。

 カンボジア共産党がカンボジアの主人であった民主カンボジア時代、鉄道職のカンボジア人の待遇は基本的に恵まれた環境あったといわれている。といっても一般人よりも少しだけ高めのカロリーの摂取が可能であったことと家族と共に生活できるという大変にささやかな特権に過ぎなかったが……。もちろん鉄道職であっても虐殺から逃れる術はなかった。虐殺の対象とされた鉄道職のカンボジア人の中で、鉄道大臣であったボン・ベトとクン・スルン(クメール作家協会会員、1945〜1978年、代表作は1970年に発表された「第一の洞察」)の2人は国外での知名度も比較的高い。特にクン・スルンの場合は1974年の段階でクメール共和国を捨ててカンボジア共産党の解放区入りし、プノム・ペンで鉄道修理工として働いていたとても模範的な共産党員に過ぎなかった。しかしスパイ容疑という名目で1978年に妻子と共に粛正の対象となってしまった。

 そしてカンボジア共産党によるカンボジア支配の終焉を飾ったのもカンボジア鉄道だった。1979年のヴィエトナム軍の大攻勢を前にして、1月5〜7日に集中したカンボジア共産党軍(民主カンボジア政府軍)の逃亡を支えたのはカンボジア鉄道のシソポン〜プノム・ペンへ通じる路線だった。カンボジア・タイ国境へ移動するカンボジア共産党軍のチャーターした最終列車はカンボジア共産党軍とその支持者たちを満載して1月7日にプノム・ペン中央駅を後にした。

 それによってカンボジア共産党はカンボジア鉄道の破壊を目的とした行動を再開することとなる。だが鉄道路線は彼らの敵であるヘン・サムリン率いる解放軍とヴィエトナム軍の守りが堅く、散発的な攻撃をかけるのがやっとだった。おかげでカンボジア鉄道側の被害も2〜3日程度で復旧が可能な程度のダメージですんでいたそうだ。1979年以降のカンボジア共産党は、革命前のような神憑り的なパワーを喪ってしまったに違いない。おかげでカンボジア鉄道は再び発展期を迎えることができたのだった。

 ところで、カンボジア鉄道にとってカンボジア共産党とは一体なんだったのだろうか? とボクは考えずにはいられない。彼らは中国から輸入した鉄道用の資材への代償として、カンボジア全土から搾り取った大量の米の中国へ輸出するしかなかった。それによって生じた食糧不足によってカンボジアでは多くの餓死者が出てしまった。また国民を犠牲にしてまで投資したカンボジア鉄道に対しても、ノルマ重視の徹底的な酷使することしか考えない素人管理を行ったために、すべての車両とインフラをそうとうに疲弊させてしまった。この問いに対して自分を納得させる解答をするには、あるカンボジア鉄道職員が苦しげに吐いた言葉を流用するしかないだろう。








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