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2014.01.04
池長大司教様は「万人救済論者」と呼ばれるに十分である万人救済論 池長大司教様の言葉として既にこれを紹介しました。 神は罪人をも結局は救いあげるものとして存在しておられる。 これは「神は罪人をも結局はすべて救いあげるものとして存在しておられる」という意味だろうということも書きました。参照 そして、追加です。大司教様はこうもおっしゃっています。 十字架でキリストがすべての人のあらゆる罪を償われた。 嘘じゃないですよ。大司教様はそのようにおっしゃっています。この言葉は「引用」です、正確な。(後で紹介します)
私はこう思います。 Wikipedia から 万人救済主義 これは、すべてが神のあわれみによって救済を受けるという教理、信仰である。すべての人が、結局は救済を経験するとし、イエス・キリストの苦しみと十字架が、すべての人を和解させ、罪の贖いを得させると断言する。 *
私らしく、どぎつく書きましょう──
しかし、それは「異端」なんじゃないですか?
もっとも、遠藤周作氏によれば、「異端」という言葉は「もはや今日のキリスト教では、無意味になってしまった」のであり、誰かのことを「異端者」と呼ぶこと自体が「傲慢」を意味するようですが。 *
私達は池長大司教様に彼の使った「すべて」と「あらゆる」という言葉が具体的にどういう意味か──どういう「範囲」か──どこからどこまでを指すのか──を聞くまでは、彼を「万人救済論者」と呼ぶことを差し控えるべきでしょうか?
私は、あまりそう思いません。 しかし、もし必要なら、再びどぎつく、こう言いましょう──
では、大司教様、その「すべて」と「あらゆる」という言葉が具体的にどこからどこまでの範囲を指すのか御説明下さい。 あなたはきっとモグモグする(口を濁らす)しかないのだ。 *
さて、その言葉の在り場所を示します。 *
細かいところは各自お読み頂くとして、私の目に付いたところを書きます。
まずこれです──「父性的」「母性的」「遠藤周作」。 そして、その中で、大司教様はこんな事をおっしゃっています。 (1) 「十字架でキリストがすべての人のあらゆる罪を償われた」 とあります。 (2) しかも「...という救済論」と続けています。あたかもそれがカトリックの標準的な(高度な、でもいいですが!)救済論ででもあるかのように。 (3) そして、これらは「聖書が描く神そのものの姿」である、と結んでいます。 *
「宇宙に満ちる」「全てを抱擁し包み込む」「限りない」 そして、言葉というものは気の抜けないものである。 *
もう少し細かく見てみます。
「宇宙に満ちる神」
* そのような "言い方" もできるということを。
もちろん、全ての罪人が神の「関心の内」にはあります。また、ひょっとしたら地獄も、何らかの形で神の「関心の内」にあるかも知れません。そういうことを称して「神は宇宙に満ちる」と言うことも許されていいかも知れません。それを認めましょう。
「全てを抱擁し包み込む神」「神の限りない優しさ」
「十字架でキリストがすべての人のあらゆる罪を償われた」 注)本気で「教えて頂きたい」と思っているわけではありません。 万人救済論はなぜ悪いか
(1) 何よりも、それは真理と合致しないから。 (1) 例えば、もう何度も引きましたが、天主の聖言[みことば]に「永遠の刑罰」というものがあります。 そして、考えるべき事は簡単です、即ち、
ということです。 一万歩譲って仮に真実がそうだったとしても、それは私達には確かめようがありません。「確かめようがないこと」を、大司教様のように断定調で言うべきでしょうか。「確かめようがない」ならば、天主様の聖言を、つまり聖書の言葉を、その "姿" そのままに受け取ることが「まっとう」なことではないでしょうか。そして「謙遜」なことではないでしょうか。 もう一度、その聖言の "姿" を見ましょう。 こうして、この者たちは永遠の刑罰に、正しい人たちは永遠のいのちに入るのである。
マタイ 25:46
池長大司教様はこの聖言をどう「料理」したのか? ![]() 信仰の勝手な料理人 もう一つ挙げておきましょう。今度は黙示録から。 しかし、臆病者、不信仰な者、忌むべき者、人を殺す者、みだらな者、魔術を行なう者、偶像を礼拝する者、また、あらゆる偽りを言う者どもの分け前は、火と硫黄との燃える池にある。これが第二の死である。
黙示録 21:8
(池長大司教様にとってこの聖言は何ですか。黙示録記者の "脳髄" から出たものですか。彼が住んでいた地方の "伝統" から来たものですか。) 池長大司教様、私がこの種の聖言を何度も取り上げるからと云って、「この人は神の厳しい側面を過度に強調している」などと "誤魔化し" を言わないで下さい。私は、必要なら、例えば「新約聖書の中には神の御憐れみの面に関する記述が八割、神の裁きの面に関する記述が二割」とでも認めることができます。私が私の書く記事の中で神のお厳しい聖言を取り上げることが多くなるのは、一重に、池長大司教様などの現代的な聖職者達がその「二割」を不当に無視、実質的に無視しているからに外なりません。つまり、あなた方こそ聖書の或る面に関して「不当な過度の強調」をしています。「八割」をあたかも「十割」となし、残りの「二割」に対しては不当な、謂わば "マイナスの強調" をしています。しかし、そうではなく、あなた方は「正確」であるべきです。即ち、それが「八割」なら「八割」と言い、しかし残りの「二割」もちゃんと取り上げるべきです。 (2) に関しては説明不要だと思います。 |
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Qui habet aures audiendi audiat.
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