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2014.02.12
歪められた言語感覚: 今や日本国憲法も「福音的」!
菊地司教様の言葉
今回は大阪の松浦
人は、彼のこの何気ない言葉遣いに十分な違和感を感ずべきである。
以前も言ったように(参照)、もし何かが "善" であるなら、それは必ず天主様がお示しになった何かしらと関係しているというのは「当り前」である。何故なら、天主様は全ての善の源泉であられるから。 松浦司教様の言葉 基本的に私たち教会は、政府がどのようなイデオロギーを持っているか、どの政党が政権をとるかなどのことは、それぞれの国民が選ぶこととして尊重しています。しかし、しっかりと見ておかないといけないことは、彼らの政策や方向性が福音的であるかどうか(一人ひとりの尊厳を守っているか、真の平和に向かっているか)なのです。どの政権、政党であっても非福音的な政策、方向に行くならば、教会は必要に応じて声をあげなければなりません。
「キリスト教の価値観と合う/合わない」という言い方なら、私としても受け容れ可能である。しかし、「福音」とは、その "善き便り" とは、「天主・御子がこの世に来られたよ」ということなのである。そして、「来られた」ばかりでなく「私達人類のために完全な救霊の道を設けられたよ」ということなのである。
平和主義が「福音的」なのではない。
司牧者の方々の、その辺の「言語感覚」である。
「福音」という一つの単語は、私達にとって普通の言葉ではない。
松浦司教様の言葉を振り返ってみよう。
もし或る政府の政策なり方向性なりが善であるなら、ただ単純に「それは善である」と言えばいい。或いは「共通善である」と。或いは、もしどうしてもキリスト教と結びつけたいなら、「それは私達のキリスト教的価値観とも合う」とでも。 ところが、現代の或る種の神学に於いては、共通善の伸張が即「福音的」なのである。私達の社会で共通善の伸張に向かう動きは全て「福音的」と称されるのである。或いは、「(内部的)福音化」の動き、とか。
しかし、そんな言葉遣いは〇カである。浅ハカである。
何故なら、聖書に於いて天主様は、その福音(善き便り)──もっと言えば、その聖福音(聖なる善き便り)──を、人類に自覚的に受け取って欲しいからである。人々が、自分ではちっとも気づいていないけれども、"内部的" に天主の光に照らされて、行ないが善くなった──もしそういうことがあるなら、善い事である。しかし、天主様はそれで満足されない。人類が御自分の御事をハッキリ自覚的に受け取ることをお望みなのである。 *
「福音的」と言わずに「聖福音的」と言うことを提案する。本来そうなのだから。 その頭は言語的であり、その心は案外と純真である神父様方、あなた方は、一見もっともらしく見えるが実は不実な言語表現によって、言語感覚を乱されています。私達の信仰の重要語について、本来の言語感覚を取り戻してください。 |
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Qui habet aures audiendi audiat.
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