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2015.01.22
無思慮な一致崇拝 Part 2「一致」は無条件に良いのではない(1) 第二バチカン公会議以降、「一致」という言葉は魔術的な力を持つに至ったようです。なぜ「魔術的」という言葉を使いたくなるかと云うと、人々があまりにそれについて「考える」(「疑う」を含めて)ことをしないからです。「魔術的」という言葉が悪ければ、「催眠術的」という言葉に置き換えることができます。 私も「一致する」ことが悪いとは言いません。しかし、「一致」という言葉が、「現実」と離れて、それ独りで、何かこう、一種の “魅力”、一種の “吸引力” を持つようになれば、私達の心理にとってむしろ危険です。 「一致」は今やカトリック文書の至る所でお目にかかるものになっていますが、私達には、自分たちにとって「当り前」になっているものを「見直す」目も必要です。* *「跪いて舌で受ける御聖体拝領」のことを簡単に「過去の習慣」と言ってしまう神父様方が多く居ます。しかし、そのような神父様方こそ、実は、ご自分のしている事・言っている事を「見直す」ということをしていません。この事はまた後で書きます。
「一致」 は人間社会の中で珍しくないし、
近年のカトリック界では、本当はそんな大層な事でもないのに感激する(高価値を見出す)ことが流行って(?)います。
「一致」もまたそうです。
しかしそれは、教会の中に置かれることによって、カトリック信者にとって急に “神的光” を帯びるようになるのです。 人間社会の「一般的」な場所において「一致」が如何に “有り触れて” さえいるかを確認することが、少し役立つかも知れません。 音楽
スポーツ
曲芸的なもの
(左)複数機での曲芸飛行 (右)サーカスの空中ブランコ 軍隊
ナチス・ドイツ
彼らだって「一致」していたのです。右はその「一致」を教える教育現場。 宗教
左は池田大作のもとに「一致」している創価学会。 挙国一致
北朝鮮のマスゲーム
渡り鳥
お遊戯会
幼稚園の「一致」も捨てたものではないかも知れません。しかしそれでも、上の如く通覧すれば、ただ「一致した状態」というだけでは、必ずしも尊くありません。その価値が定かでありません。 それどころか、もし「一致の的[まと]」(或いは “方向性” )が悪ければ、それにいくら「一致」しても、その「一致した状態」は悪いのだし、もし「一致の的」が何らかの欠陥あるものならば、それにいくら「一致」しても、その「一致した状態」も欠陥あるものなのです。 「一致」の価値は、根本的に、私達が「何に於いて」一致しているか、この「何に於いて」という所にかかっています。それが正しくて初めて、それに一致した「状態」も好ましいものとなります。 私は今、書いていて、若干恥ずかしさを感じています。何故なら、本来かなり初歩的である筈の事を、如何にも偉げに演説しているような恰好になっているからです。しかしそれでも、人々(カトリック信者)は意外と、この、少し利発な中学生なら考えそうな事を、単純だが重要な真理を、振り返らないのです。 それは、一言で云って、彼らが教会をあまりに「信じ込んで」いるからでしょうか? 「教会の指導層の中には悪いものは生じない」ぐらいに思っているからでしょうか? そして、公会議。世界の司教様方が頭を寄せ合った「公会議」が打ち出したものなら悪いものである「筈がない」と云うぐらいに考えているからでしょうか? しかしそれは──今までこのサイトで見て来た所に従えば──「油断」というものです。 *
そんなふうに言わないで下さい。
──ぐらいに考えておくべきです。
何故なら、それは人間万般の弱点だからです。 だから、「見直す」用意を常に持つべきです。 次回、仕切り直して、別の仕方で、同じ事を言います。 |
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Qui habet aures audiendi audiat.
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