歴史資料集
コムド問題に関係する歴史資料を記載しております。これらの資料は専門的な知識を
必要とするものが多いため、まず50音別分類表で簡単に説明しました。
このサイトでは、コムド問題に関係する視点から抽出して説明していますので、さらに詳しい
内容につきましてはインターネットの検索システムにて関連HPを参照して下さい。
ゲストブックを作成しました。もしよろしければ、このHPを検索した目的や
追加・修正した方がいい資料がありましたらトップページのリンク先へ書きこんでください。
あ行
あすかぶんか 飛鳥文化
奈良盆地南部で主として畝傍山(うねびやま)から香具山以南の飛鳥地方に栄えた文化の
こと。6世紀末の推古天皇即位(593)から大化改新(645)にいたる50余年を一般にさす。
間接的にはギリシャ・西アジア・インドなどの文化の影響も見られ,国際性のあふれた
文化であった。聖徳太子がたてた法隆寺の中門や金堂(こんどう)は,現存する世界最古の
木造建築で,柱のふくらみ(エンタシス)にはギリシャ建築の影響が見られる。
→文化
愛洲移香斎久忠:陰流・あいすかげノ流とも云う。
愛洲惟考とも云う。通称は太郎左衛門、別の名は勝秀。一四五二年伊勢国(三重県)志摩の
南勢で生まれたとも九州で生まれたとも云われる。 愛洲氏は伊勢五カ所(三重県南勢町)を
本拠とする守護であり、南北朝抗争の初期は南朝方の柱石であった。後世、一族は
熊野水軍と接触を図り海賊となる。 俗に云う「八幡海賊」であって、東シナ海沿海州を
荒らし回った。その剣法は三尺の豪刀をぶん回す一気呵成の荒技である。 当時隣国の
明では八幡海賊との戦いに相当苦労していたのだが、彼等は「片手に刀、片手に盾」の
スタイルだったので両手で構えて斬りかかってくる倭寇の戦法に怖れ、 「明兵の武術、
いまだし」の文を残している。三六歳の時、日向国(宮崎県)鵜戸権現の岩屋に参籠し、
参籠満願の日に鵜戸明神が猿の姿で現れ剣の奥義を示した。 これを元に開いたのが
「陰ノ流」である。 以後、彼は武者修行で諸国を巡り、晩年は鵜戸明神の元に戻り、
明神に使えて一生を終える。享年八七歳。
いしみとう 石見刀
石見地方は、出雲に優るとも劣らぬ良鋼の産地であり、特に出羽(現邑智郡瑞穂町)周辺を
中心とした出羽鋼の名声は天下にあまねく知られ、相州鍛冶(鎌倉正宗一門)もこれを
使ったといわれている。良鋼の産地であると共に、陰陽を結ぶ要衝であった出羽は、
石見刀工発祥の地といわれている。この出羽から移住した刀工たちが、長浜鍛冶(浜田市)の
濫觴 (らんしょう=起源) である。この長浜鍛冶の作刀が一躍有名になったのは、1404年に
足利義満が始めた勘合貿易(明から勘合符なる手形を受けて行った対明貿易)によって
である。なお、刀剣の輸出はすでに13世紀頃から始まっており、宋へ大量に輸出されていた。
1444年頃には、石見・周布氏も朝鮮貿易を行っている。しかし、1549年を最後に
勘合貿易も廃止され、やがて秀吉の刀狩りに至る時勢の流れの中で石見刀も
衰微していった。
えどじだい 江戸時代 Edo period
諸国の大名達は力関係、各々の身分に応じた刀鍛冶を側に置いて鍛刀させ刀鍛冶は、
その刀装具を制作する専属の金工師や鞘師達を従え、またお供をして駐鎚するという
彼らにとって華やかな時代でもあった。古刀期にあっては『古刀五箇伝』といって『大和・山城・
美濃・備前・相州』の国での鍛刀法などを、元来の『伝法』として五つに区分、
分類されているが、江戸時代新刀期には美濃鍛冶をはじめ、大和、山城など、それぞれが
全国に分散する(子弟が枝葉に分かれ自立を始める)ようになり始めた。そして親方達は
独自の鍛造法や、古刀期には無かった技法などに挑戦して確立させていく。『新刀特伝』などと
時代区分され、江戸では家康公お抱えの「越前康継」や大阪新刀の「井上真改」等々全国の
地で有名刀匠が顕れるのもこの頃。古刀期からの刀工の数は膨大で、名前やその
伝系などは省略するが、甲冑師として名を高め『如何なる刀を以ても我が鎧は破れぬ』と
豪語していた新刀期の東の横綱と呼ばれた名匠「長曽祢虎徹」が刀工に転向してその腕を
上げると、今度は『我が刀で切れぬ甲冑はない』と言ったことは刀剣界では有名な逸話で
ある。又「小野繁慶」と言って鉄砲鍛冶「清堯」から刀鍛冶に転向した変わり種刀工もいる。
か行
かたな 刀
刃長60.6cm以上で、刃方を上に向けて腰に差す様式。日本刀の正式な呼び方としても
用いられている。室町時代以降は刀が多い。 刀の一種であるが、激しい戦闘が続いた
室町時代に見られ、60cm前後で先反りが強く、片手打ちに適した形態をもつものには、
特に打刀(うちがたな)の名称がある。
かまくらじだい 鎌倉時代 Kamakura period
1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開いてから,1333年に幕府がほろびるまでの約140年間を
いう。清和源氏とは、平安時代の中ごろ、五十六代・清和天皇の孫である経基王が
皇籍(皇族の戸籍)から離れて、「源」という姓(かばね)を与えられたことが始まり。
刀では豪壮な骨格などと称され、鎧兜、甲冑を含めて実に堅固で精巧を極めるようになる。
中期頃になると鎌倉武士の特徴と言われた豪放闊達な気質が現れた。1333年、
鎌倉幕府が滅んだ後、王政復古の戦いは楠正成の尽力などで後醍醐天皇の勝利となるが、
足利尊氏の反乱を抑えきれず、南北朝時代(吉野朝)は60年続いた。この頃は、三尺程も
ある、或いはそれ以上の『大太刀』や『大薙刀』を凌ぐ『長巻き』といわれる武器が出現して、
刀の切っ先も、幅も長さも、広く、大きく、に変化した。刀の品位としては見劣りする物で、
戦乱の世を映してか、力強さや勇ましさ、切れ味ばかりに傾いた時代だった。
かみいずみ のぶつな 上泉信綱 1508〜1577
上杉家家老の箕輪城主長野業正を助けた上州大胡城主。剣術新陰流の祖で知られ、
門下から多数の剣豪流派を輩出し、剣聖と呼ばれた。槍術にも堪能で、上州長野家十六槍の
一人としても知られる。長野家滅亡後は武田信玄に招かれたが応ぜず、以後は一介の
剣士として生きた。竹刀の発明者。
きこうしんしょ 紀効新書 JIN XIAO SHIN SHU
中国明王朝将軍 戚継光Ming General Qi Jiguang は傑出した軍事家・倭寇と抗戦した
名将・民族の英雄。彼が著述した『紀効新書』と『練兵実紀』は、軍事訓練をメインとした著名な
兵書で、とても高い軍事的価値があり、非常に重視され、明王朝以降の兵学の発展に対して、
重要な影響をもたらす。『紀効新書』が世に問われて後、当時の朝鮮と日本の両国から
重視された。万暦二十二年(西暦1594年)、朝鮮が訓練都監を設立したとき、
『紀効新書』を教科書として用いた。改訂版も出版されたがその時は戚継光が剣術伝書を
入手したという話は記載されなかった。
→紀効新書
くだら 百済 Paekche
朝鮮の古代の国(?〜660)。「ペクチェ」「ひゃくさい」ともいう。三韓のうち馬韓族が,
4世紀中ごろソウルの近くにたてたが,北の高句麗に攻められ,6世紀には半島南西部に
中心をうつした。この間,高句麗・新羅とたたかうために,中国や日本とむすんだが,660年
新羅・唐の連合軍に攻められてほろんだ。このとき大和朝廷は,百済復興のために大軍を
送り,白村江の戦いで大敗した。 仏教がさかんで,僧や技術者など多くの人が,
百済から日本に渡来した。
→当時の半島国家
げきけん 撃剣 Ghihuck-Gum(韓国表記)
名称変更前の「剣道」を指す言葉。「剣道」と言う名称が一般化した背景には、
大日本武徳会が、当時の「撃剣」・「剣術」という語りを、大正8年に「剣道」と改称した事が
大きく影響している。法規上、始めて正式に「剣道」という用語が用いられたのは、
大正15年に中学校令施行規則が一部改正された時。
けん 剣 Sword
両刃造りで左右相似形のもの。実戦の目的よりも、密教の法具として三鈷柄をつけて
用いることが多い。
けんどう 剣道 Kendo
剣道は、剣道具を着用し、竹刀を用いて1対1で打突し合う運動競技(スポーツ)種目と
みられるが、稽古を続ける事によって心身を鍛錬し、人間形成を目指す「武道」をいう。
こうくり 高句麗 Kokuryo
(前33?〜668) 前1世紀頃、東満州にツングース系貊族が建てた国。 始祖は伝説では
朱蒙。 言語風俗は扶余に似ており、その別種といわれる。 北は扶余、東は沃沮、西は遼東、
南は韓と接する。 王の下には相加・対廬・沛者・古雛加などの官位が置かれた。
→当時の半島国家
さ行
さくほう 冊封
古代中国の自己中心的な世界観に基づく記号的な政治支配体制。世界の歴史学者の
中では、中国と周辺国家の朝貢・冊封体制が、日本・高句麗だけでなく インドまで含む
「世界」と中国との儀礼的な関係に過ぎないという見方が支配的である。中国がこれを
主従・服属の関係であったと機械的に解釈している点は多くの学者が批判している。
中国皇帝が直接支配下におさめていない領域に対しても「礼」と「法」を押し広げるのが
理想のため、中国皇帝は臣下の礼をとった周辺諸国の首長に対して王号や爵位を
与えてその領域の支配権を認知すること。中国では、周辺諸国からの使節派遣は中国皇帝の
「徳」を慕ってのことだと考えられていたので、中国側ではそれに対する返礼として豪華な
物資を与える(回賜・下賜)ことによって自らの「徳」を誇示することが必要と考えていた。
そのため「朝貢」には貿易的要素が含まれていた。周辺諸国の首長は自らが現実に
支配している領域の支配権をなぜ中国という他国から認知してもらう利益は
どのようなものだったのか?冊封をうけると定期的な朝貢や中国の暦を
使用することが義務づけられるものの、中国皇帝の政治支配をうけるわけではなく、
独立国家としての内実は維持される。さらに、中国皇帝を中心とした国際的な
政治・身分秩序のなかに編成されたので、圧倒的な大国である中国との
あいだに平和的な関係を確保することが可能なだけでなく、同じように冊封を
受けている国どうしの安定した関係を確保することも可能になる。また、ある領域に対して
冊封が行われた場合、冊封を受けた人物以外の勢力が中国皇帝のもとに使節を派遣しても
受け付けられないから、冊封を受けた人物は、中国との関係を権威の裏づけとして自らの
支配力を強化することが可能となる。周辺諸国の首長にしてみれば、
こうしたメリットがあった。
三人虎を成す「三人市虎を成す」、「三人言いて虎を成す」
まったく根拠のない噂も、多くの人が言えば聞き手は信用してしまう
と言う意味の故事成語。
前4世紀、魏の国。政治的策略により魏の国の太子は趙の国へ人質となることになった。
太子一人ではなく家臣の(ほうそう)も一緒だった。さて、このが魏を出発するとき、
その王にいうには、
「今、誰かが“市場に虎が出た!”と申しましたら、王様はお信じになりましょうか?」
王は言った。「いいや」
「では2人目のものが“市場に虎が出た!”と申しましたら、王様はお信じになりましょうか?」
王は言った。「半信半疑になろう」
「では3人目のものが“市場に虎が出た!”と申しましたら王様はお信じになりましょうか?」
王は言った「うむ。私は信じるだろう」
そこで家臣が言うには
「そもそも市場に虎が現れないのはわかりきったことでございます。
ところが3人のものが申しますと虎が出来(しゅったい)いたします。今私は魏を離れ
遠く趙へと参ります。そうなりますと私をあげつらい悪口を言うものは3人どころでは
ないでしょう。なにとぞ王様にはご賢察くださいまして、その讒言をお信じになりませんように」
彼が言ったとおり、魏を去った一行が趙につきもしないうちに早くもの悪口が王の耳に
入り始めた。あれほどが釘をさしたにもかかわらず、後に人質を解かれて太子と共に
再び魏の土を踏んだ時には、王は讒言を信じに会おうとはしなかったのである。
じがね 地鉄
板目、杢目、柾目など緻密なものも、粗雑なものもある。
しゅへきろく 手臂録 呉殳(呉修齢)
呉殳は中国の伝統剣術と日本の愛州移香斎創始の隠流目録から学んだ日本刀法を
研究工夫して十八勢の双手刀法(日本の剣道の様に両手で持つ刀法)を編出した。
しょうりんじ 少林寺
菩提達磨は西暦527年(北魏孝昌3年)、インドより来朝し、広州、南京、長江を経て
少林寺に入った。その後「面壁九年」の座禅を経て大悟し、中国禅宗の
第一祖となったとされる。現在でも少林寺には、座禅を行う達磨の影が焼き付いたといわれる
「面壁石」が保管されている。また達磨が遺した「易筋」、「洗髄」の二経から少林武術が
発生したという説があるが、これらは後世の創作であろうと言われている。禅宗は
達磨大師によって開かれて以降、後世の人々が大々的に広めたことから、唐代についに中国
仏教最大の一派となった。少林寺の武術を習う風習も、達磨大師が打ち立てたものである。
西暦1551年(明嘉靖30年)、月空和尚を首領とする少林僧兵100余人は、
中国南方沿岸部を荒らし回っていた倭寇を撃退するために出撃し、数度の戦闘で倭寇に
壊滅的な打撃を与えた。しかし度重なる激戦で、月空をはじめとする僧兵らも最後には
全員戦死、寺に帰ることはなかった。少林寺の西にある搭林(歴代高僧の墓碑)には、
月空和尚のための搭が今でも残っている。
しらぎ 新羅 Shilla
はじめて朝鮮を統一した王朝(?〜935)。「しんら」「シルラ」ともよぶ。もと朝鮮半島南部の
辰韓(しんかん)地域のうち,慶州(キョンジュ)付近にできた小王国で,4世紀中ごろに力を
のばして国号を新羅とした。真興王(在位540〜576)代に入ると,新羅は飛躍的発展の
時代となった。以後,北の高句麗,西の百済とあらそい(三国時代),7世紀,
唐 と同盟して百済・高句麗をほろぼし,のち唐の軍隊をしりぞけて,676年に朝鮮半島を
統一。935年,高麗にほろぼされた。 慶州を首都に中央集権をしき,仏教を国教として,
すぐれた仏教美術をのこした。慶州にのこる仏国寺・石窟庵(せっくつあん)などが有名。
→当時の半島国家
しん 清
清朝の乾隆帝は文武の政治に力を尽したが、刀剣にも趣味が高く、乾隆13年から22年に
かけて、経費を惜しまずに素晴らしい刀剣を作らせた。皇帝が積極的に保護したので、当時の
鍛造技術は再び大きく向上したのである。
すがた 姿
刀の長さ、幅、厚み、反りなど姿形の良さ。
すずり 硯
「日本書紀」によると高句麗の曇徴(どんちょう)が610年に高句麗の
26代嬰陽王(えいようおう)の命により日本に渡り、日本に絵の具と紙、墨の製作技術を
伝えたとされている。しかし島根県松江市の田和山遺跡から発掘された遺物から
石板状石製品・2点が出土した。内、1点は厚み7o、残存辺長4.1p。断面は台形状で
石質は流紋岩。 (図) 他の1点は厚み6o、残存辺長2.8p。片面に直径4.2p、
深さ1oの円形のすりばち状くぼみがある。まだ不明な点は多いが、
楽浪郡時代《BC108〜AD313》の石硯とすれば、日本の文字文化を考える上で、
弥生時代の日本列島にもたらされた数少ない関連資料として注目される。
http://www.city.matsue.shimane.jp/jumin/bunka/bunka/bunkazai/tawayama/04.htm
た行
たち 太刀
反りが高く、刃長60.6cm以上で、刃方を下に向けて腰に差す様式のもの。一般に古刀に
多いが、太刀として造られたものであっても、後に大磨上げ無銘にされているものは、刀と
呼んでいる。太刀の内でも特に大ぶりの場合は大太刀(おおだち)60cm前後と短めのものは
小太刀(こだち)と呼び区別している。時代は平安時代末期から室町時代初期まで。
たまはがねせいぞう たたらぶき 玉鋼製造
重要無形文化財「日本刀」の製作には良質の玉鋼が不可欠である。玉鋼を主材料に
用いることにより,日本刀に優れた性能が付与され,美術的に価値の高い刀剣が誕生しうる。
玉鋼を製錬するための「たたら吹き」は,江戸時代以来の伝統的な製鋼法であり,
その操業には,主として,たたらの築造とその操業方法に精通し,かつ,技法を硬度に
体得した技師長ならびに総監督の役割を果たす「村下」の指導が必要である。
たんとう 短刀
刃長30.3cm以内のもの。様式上腰に差す短刀を腰刀、衣服の内側に入れるものを
懐刀とも言う。
たんとうほうせん 単刀法選
耕余剰技(こうよじょうぎ)という、明代の少林寺の武僧である程宗猷が編集した冷兵器の
製造と使用に関する兵書の叢書の中にある、刀法の変遷と動作の図式を記述した項目。
劉雲峰(倭寇?)という武術家から日本刀を使う倭寇刀法を学んだ野太刀術。
(刃渡り3尺以上の刀を野太刀という)
長袖(ちょうしゅう)善く舞い、多銭善く買う
袖が長ければ舞のふりもよく、資金が多ければ上手な商いもできるということわざから、
資本が多いと仕事がしやすいと言う意味。
もしコムド陣営が剣道の商業化に成功し、大規模な宣伝・政治活動をおこなえば
あとから打ち破るのは困難になる。
ちょうせんおうちょうじつろく 朝鮮王朝実録
朝鮮王朝実録は朝鮮王朝の始祖である太祖から哲宗まで25代472年間
(西暦1392〜1863年)の歴史を年月日順によって編年体で記録された本であり、
総1,893巻888冊からなっていて最も古く、膨大な量の歴史書物。
朝鮮王朝実録は朝鮮時代の政治、外交、軍事、制度、法律、経済、産業、交通、通信、社会、
風俗、美術、工芸、宗教など、各方面の歴史的事実を網羅しており、世界的にその類例を
見ない貴重な歴史記録物。また朝鮮王朝実録はその歴史記述において非常に真実性と
信憑性が高い歴史記録という点で意義が大きい。
ちょうせんせいほう 朝鮮勢法 Cho Sun Se Bup
朝鮮人が所有していたとされる剣譜。
→諸説・仮説の紹介。
とう 唐 Tang dynasty
隋の有力な地方長官だった李淵(唐の高祖)が,隋末の大乱のなかで長安を占拠し,
煬帝(ようだい)が殺害されたと聞いて建国した。次の李世民(太宗。在位626〜649)の
時代は唐の全盛期で,当時の世界最大の帝国となった。この頃、日本から
遣唐使始まる(630〜839)。 唐の周辺では,新羅(しらぎ)・渤海・日本が唐の律令や
儒教・仏教をとり入れて,それぞれの古代統一国家をつくった。遣唐使は唐の制度・学問
・文化を導入するための制度なので、 「剣術を習得」=「怠慢」ということになるので処罰の
対象となる。 予定を切り上げて早期に帰国した人が処罰された記録もある。 空海も
処罰されそうになった。それぐらい厳しい縛りがあった。第6代の玄宗(在位712〜756)の
晩年に安史の乱がおこって以後,皇帝は権限を失い国家は衰退しはじめえた。国は荒れ,
やがて哀帝(李祝)が朱全忠(後梁の太祖)に位を譲り、唐王朝は滅亡した。
な行
なぎなた 薙刀 Halberd
長い柄を付け、主として薙ぎ払う機能をもったもの。古くは長刃と書いている。横手の無い
形状が普通で、切先が大きく、身幅も広く、中心(なかご)が長いことを特徴とする。今日では
切先が特に張って反りのあるものを薙刀と呼び、一般の形態を長巻と呼ぶことが多い。
室町時代から出現し、それ以前は長巻として区別する。
にちろせんそう 日露戦争 The Japanese-Russo War (1904-05)
にっしんせんそう 日清戦争 The Japanese-Sino War (1894-95)
にとうりゅう 二刀流
槍のような大型の武器を携行しない場合、片手で防御、片手で攻撃ができる二刀流は
十分有効だったと考えられる。京流、新陰流、寶山流、心形刀流など、多数の流派で
二刀流がある。
にほんとう 日本刀
日本刀とは、日本に於いて日本独自の鍛造法によって作られたものを指す。
国内で作られたもの全てが日本刀ではない。日本刀は玉鋼に軟鉄を覆う複合構造と
なっていて 切れ味と強度を併せ持つ(普通の切れ味の良い刃物は強度が弱い) 日本刀の
優雅な曲線美の「反り」は、東北地方の発掘調査で多く 出土している
「蕨手刀(わらびてとう)」がルーツと考えられ、平安期に奥州で活躍 した刀工集団の
「舞草鍛冶(もくさかじ)」が深くかかわっているという。
は行
はもん 刃紋
直刃(すぐは)のものと、乱れ刃のものがある。
ぶげいずふつうし 武芸図譜通志 Muye Dobo Tongji(韓国表記)
朝鮮は文禄・慶長の役で自国の刀剣技がまったく未熟であることを認識し、
明軍や倭人の捕虜を利用して刀剣技の導入にあたった。
『武藝圖譜通志』にみられる雙手刀は日本の影響を受けて成立した。
http://lily0.kyungpook.ac.kr/~z9703468/spk.html
左フレーム・上から5番目の左のが倭刀
倭剣の解説部分には、土由流、運光流、千柳流、柳彼流という日本の四つの流儀を
取り入れたと書かれている。これらは日本の剣術では聞いた事がない流名だが、土由流は
戸田流の誤記ではないかという説もある。
ぶし 武士
立場の弱い農民が自分たちの土地や財産を守るために,武器を持って戦いに
備え始めた。この自力救済の地方社会の中で武勇ができあがっていったのが武士の
起源である。そしてその地方で有力な農民が多くの農民を支配して武士のグループを作り,
自らは指導者になる者が現れた。この指導者のことを「棟梁」(とうりょう)という。
そして,この互いに助け合う組織を武士団という。
また、貴族に仕えてその警固にあたるようになると「さむらい」とよばれた。
これとは別に朝廷には軍防令があるから、弓馬の鍛錬と京都の公家社会から
完成していったのが武士の起源であるという見解もある。公家社会の起源説と地方武士の
起源説との違いは長い間、様々な形で論じられているが、両者とも同根であり、決して別々に
考える事はあまり意味をなさないと思われる。東国(鎌倉)武士こそ武士の典型であり
本流であるとのこれまでの支配的な見方は近代西欧史学の導入の影響が強いと思われる。
総合的にまとめてみれば、内容的には武士は私党の集団といえる。
ぶびし 武備志 Wu bei zhi
1621年編纂。 茅元儀。Mo Won Eui 武備志には、盾と刀をもって刺戟する明兵の
武術が長い一刀を両手で使って戦う倭寇の剣法に いかに不利かも書かれている。
『秘伝剣術 極意刀術』では、『武備志』の中で著者の茅元儀が、『刀術は倭寇の習熟している
ところであるが、倭寇が南方を侵略した際、辛酉の陣で戚継光将軍がその習法を入手した』と
述べ、図解資料を載せていると書いている。
→文献
へいあんじだい 平安時代 Heian period
桓武天皇が都を平安京にうつした794年から源頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年までの
約400年間をいう。平安初期には依然として唐文化の摂取が続いていたが、九世紀末に
遣唐使が廃止され、それ以後しだいに国風化の傾向が強まり、衣服も自然、日本の風土に
適する形態へと変わっていった。平安時代の中期(西暦940年頃)になると戦場での戦術が
変わって騎馬戦が主流となる。敵味方双方が馬を躍らせて近づき、すれ違いざま相手を
討つ戦法になり、馬上から相手を討てる利便性を考慮した刀が注目を集めるように
なった。反りが強く付き、切れ味が要求されるようになるのもこの頃。距離を置いて
射ち合った弓矢の戦が太刀、刀に移行していった時代。前後しますが、刀工としての銘、
名前が現れるのは『伯耆国安綱』とされていて、古伝書をなぞってはいるが、平安初期の
大同年間(807年頃)でこの頃を『日本刀としての成立時期』と言って良い。丹波の
大江山で源頼光が酒呑童子を倒したという伝説の『童子切り安綱』は刀剣書の殆どに
掲載されるほど有名な刀である。
ほくそう 北宋
北宋になると、当時の大科学者沈括はその著『夢渓筆談』に、磁州の刀鍛冶を訪ねて
鉄の精練を見学し、初めて本当の鋼を見たと書いている。その中で、大きな釘を10本柱に
打付けておき宝剣で一薙ぎすると、釘が全部折れたが剣は刃こぼれしていなかったとも
言っている。力を入れて曲げるとしなって、放すと音を立てて矢のようにまっすぐに
戻るのだそうである。
ぼっかい 渤海 Palhae
高句麗の滅亡後、領内の通古斯(Tungus)系靺鞨(Maka)人・旧高句麗(Ko-ku-lyo)
遺民がたてた国。のちの所謂満州と北朝鮮・沿海州の地域を支配し、唐王朝と並び立つ
豊かな国だった。日本との交流も盛んだった。渤海使者と菅原道真の交流は有名。
唐の滅亡と同時期に契丹族(遼)により滅亡する。のちの
女真族(金)・満州族(清・満州国)は靺鞨人の一派の末裔。
ほんごくけんぽう 本国剣法 Bon Gook Gum Bup
半島三国時代新羅の剣士が使っていたと韓国が主張する剣法。
現代の韓国人が武芸図譜通志に記されている「新」の字と故事から、そして剣舞を剣術と
仮定することにより「新羅の剣術」を主張している。少ない資料と仮説で18世紀の剣譜を
5世紀の剣術として証明するのは不可能である。普通に考えれば「新剣」とは、
日本と中国の剣術を元に「新たに作った剣術」という意味であろう。この他に証拠はない。
ま行
みん 明
明朝になると、戚継光は『練兵実紀・雑集』に当時の刀工は真面目に剣を研がないので、
深く切込まないのに刃こぼれがして、なまくら鉄になってしまうと書いている。
むろまちじだい 室町時代 Muromati period
1338年足利尊氏が幕府を京都に開いてから,1573年織田信長が将軍義昭を追放して
幕府をたおすまでの約240年間をいい,足利時代ともいう。1392年の南北朝合一までを
南北朝時代,1467年の応仁の乱以後を戦国時代と区別もする。
室町時代に入ると、刀剣は、日明貿易の重要な輸出品となった。15世紀半ばの頃、明での
売り値は日本の5倍。刀工たちは輸出品作りに精を出した。ヤミで作られた刀剣も多く
輸出されたといわれる。この時代は『太刀』から『打ち刀』に変化を遂げる時代である。刃方を
下に向けて腰に吊っていた太刀を刃方を上に向けて腰に差す打ち刀のスタイルに
変わった。同時に腰刀の代わり、という性質を持つ一尺二寸程度の『脇差し』を腰に
差し添えるという慣習が生まれた。『大・小一腰』と呼ばれ、映画や時代劇にも現れる
『二本差し』がこれにあたる。鎌倉時代にはご存知蒙古の襲来がありましたが、敵は『槍』を
駆使したのに対して此方は未だ弓矢と刀であった。戦の度に、その体験から戦術を練り直し、
進化していく。刀も戦場では長大なものは不便で効率が悪いことから、抜く動作、斬る動作、
の二段構えを、刃を上に向ける打ち刀での一段構えにして(抜いた角度、状態の侭討つ)
その一瞬の動作における利点を選択していった。
や行
やまたいこく 邪馬台国
『魏志倭人伝』や『後漢書倭伝』にみえる3世紀ごろの倭の国家。末慮国など約30国を統属。
はじめ男王であったが,2世紀後半ごろ国内が乱れ相攻伐したので,卑弥呼を共立して
女王とした。卑弥呼は鬼道を事とし,よく衆をまどわした,とあるから巫女(みこ)的性格を
もっていた。239年,大夫(たいふ)の難升米を魏の都に遣わし,男女の生口(せいこう)10人と
斑布(はんぷ)2匹2丈を献じた。魏の明帝は卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印紫綬,
難升米には率善中郎将の称号と銀印青綬を授けた。また銅鏡100枚なども与えたという。
243年に再び使者を遣わし生口そのほかを献上,247年には狗奴国の男王卑弥弓呼との
戦いを報告した。
やまとちょうてい 大和朝廷
畿内大和地方を中心とする政治勢力。4,5世紀ごろその基盤は固まり,7世紀後半の
天智・天武朝には律令国家へと移行する。現在では大和政権といわれる場合が多い。大和の
政権が畿内の一勢力から脱皮して東国・西国の諸方面に覇を唱えた時期は倭の五王の
時代を一応の目安とでき,『記紀』の雄略朝に注意すべきである。
6世紀には朝鮮半島諸国との外交上の問題もおこり,政権の中枢部を構成した
諸豪族どうしの争いも表面化した。とはいえ,大陸からの文物の導入に努め,隋唐にならう
律令国家の形成へと展開した。朝廷は大王(おおきみ)の権威のもと,大臣(おおおみ)・大連
(おおむらじ)を実質的な政務担当者とし,各地に国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)を
置き,多くの民を部(べ)に組織し支配をすすめた。氏姓制といわれる社会秩序もこのころ
行われたもので,それはのちの律令制下においても影響を与え続けた。
やり 槍 Spear
突くことを主目的とし、長柄をつけて用いた。柄の中に中心を差す形式と柄を下部に
差し入れて用いる袋槍がある。室町時代に多く時代と流派によって形式も様々である。両刃で
棒状のものは直槍、穂の特に大きいものは大身槍、枝のあるものは鎌槍などと呼び、
各種形状によって名称がある。
ら行
らくろうぐん 楽浪郡
前漢の武帝が前108年(元封3)に朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を攻め滅ぼし,その地に
設けたのが楽浪郡(郡治は現平壌の付近)である。これと同時に,この郡に隣接して
置かれたのが真番・臨屯・玄菟の3郡(玄菟は1年おくれる)である。その後,
前82年(始元5)には真番・臨屯が廃止され,臨屯郡北部の7県は楽浪郡に併合された。
『漢書』地理志には楽浪郡は25県で,その戸数は6万2,812戸,口数は40万6,748人とあるが,
これは前漢末の前2年(元寿1)の調査記録にもとづいたものとみられる。この郡の最盛期は
前漢時代で,後漢以後は郡の支配地域が縮小するが,2世紀末に遼東地方に公孫氏が
雄拠するや,その支配下に入った。しかし郡の南部が荒廃していたので3世紀初めに
公孫康が,この地に帯方郡を置いて発展につとめた。こののち楽浪・帯方の2郡は
238年(景初2)からは公孫氏を滅ぼした魏が,265年(泰始1)からは魏に代わった西晋に
継承されたが衰退の一途をたどり,楽浪郡は313年(建興1)に北の高句麗によって
滅ぼされた。
らくろうぶんか 楽浪文化
楽浪郡は420年間存続し,旧満州・朝鮮半島・日本の諸地域・諸種族に多大な文化的影響を
与えた。その歴史的意義は大きい。1916年(大正5),関野貞によって今の平壌の南方,
大同江の対岸の漢代古墳が発掘されて以来,日本の学界によって当代の土城址をはじめ
多くの古墳群などを確認することができた。その出土品としては銅器・金銀装飾具をはじめ,
漆器・布片・装身具・文房具など漢代文化の粋ともみられる工芸品ならびに日用器具が
多数発見され,中国本土における当代の文化の縮図をなしている。
れんぺいじっき 練兵実紀
戚継光が北方に赴任して兵士の訓練を担当した後の作品。そのなかの正文九巻は
隆慶五年(西暦1571年)に完成し、雑集六巻は万暦初年に完成した。現存のものは
晩暦二十五年(西暦1597年)の?階刻本、天啓二年(西暦1622年)の刻本、
清の道光二十三年(西暦1843年)の許乃サ刻本、そしてその他の多種の活字本、
抄本、鉛印本があり、少なからぬ叢書もまた収録している。戚継光の兵士の訓練が
将軍の訓練を重視している考えを全面的に反映している。
→文献
わ行
わ 倭
倭という概念で呼ばれる地域は,いったいどのくらいの範囲であったろうか。
『後漢書』に,〈韓の東南大海の中にあり〉とされ,百余国に分かれて群立する部族国家の
集合と考えられたとしても,おそらく北九州あたりの日本人をさすか,あるいはこの地域の
人々が自ら称していた名であったろう。光武帝に朝貢したのは,倭の奴国とすれば,明らかに
奴は博多湾周辺の部族国家であったからである。交渉が頻繁に行われるようになると,
日本への知識も深まり北九州の人々と同種族の人々もすべて倭人と呼ぶようになったもので
あろう。やがて部族国家間で一定の政治統合が行われるようになると,これを倭国という
概念で把握するようになったと考えられる。これからしても倭はもともと北九州の一地域を
さすものであったと見なしてよかろう。それが漸次拡大されやがて広く日本本土に
及ぶようになった。一方,北九州の地域が本来,「倭」であったとすれば,大和政権は倭の
別種であるとする認識も存在したようである。それが『旧唐書』に言う,
〈日本国は,倭国の別種なり〉ということばに象徴される意識ではなかろうか。
〔参考文献〕和田清・石原道博編訳『魏志倭人伝,後漢書倭伝,宋書倭国伝,隋書倭国伝』
和田清・石原道博編訳『旧唐書倭国日本伝,宋書日本伝,元史日本伝』
卜部兼方『釈日本紀』
わきざし 脇差
刃長30.3cm以上、60.6cm以下のもので刀と同様腰に佩(は)く。桃山・江戸時代には「大小」の
うちの「小」として一組にして用いたり、町人の帯刀にも用いた。
わこう 倭寇
13世紀から16世紀半ば過ぎにかけて,初め朝鮮半島のちに中国大陸の沿岸に出没した武装
した私貿易者集団。これに対する朝鮮・中国の側での呼称。彼らはしばしば沿岸を襲い,また
海上・内陸で掠奪を働く海賊行為に出たためこう呼称された。明は海禁政策
(鎖国・主眼は国家による貿易の統制)をとって、自由な貿易を制限した。
そのため貿易を求める日本の商人、海民は密貿易をし、時には海賊となって沿岸を
荒らした。倭寇の活動は二期に分けられ,前期倭寇は,鎌倉末から室町前期に朝鮮半島・
中国北部沿岸に出没し,米穀・奴隷の略奪を行った。その根拠地は壱岐・対馬・松浦半島に
あり“三島倭寇”とも言われた。高麗の滅亡を速めた一つの原因と目され,足利義満の日明・
日朝貿易に当たってその取り締まりが日本側に求められた。倭寇も後期になると、
貿易を求める中国人の方が主体となってくる。後期倭寇は,応仁の乱から
慶長のころで,東支那海・南洋方面にも出没,貿易品の略奪を行った。主勢力は中国人で
日本人は1,2割との記録もある。日本の海賊船に「八幡大菩薩」の旗を掲げたものもあり,
倭寇のことを“ばはん船”とも呼んだ。明代における日本の主要な輸出品目は銀と
刀剣であった。刀剣は、社会の不安定性を増し、それもあって明は日本との貿易を
制限したがった。1350 この年から、倭寇の活動が激化し、熟語としての「倭寇」が定着。
中国では“北虜南倭”と言い,北方からの異民族の侵入と倭寇に手を焼いた。
わじん 倭人
中国の史書に見える中国東方周辺の人々の呼称。『漢書』地理志に〈夫れ楽浪海中に
倭人有り,分れて百余国をなす。歳時を以て来り献見すといふ〉とあるのが初見。倭または
倭国の語は,『後漢書』東夷伝,志賀島出土の金印などにも見られるが,倭人について詳しく
記す最も古い文献は「魏志倭人伝」(通称)である。ここに〈倭人は帯方の東南大海の中に
在り,山島に依りて国邑を為す。もと百余国。漢の時朝見する者あり。今,使訳を通ずる所
三十国〉とある。『旧唐書』は〈日本国は倭国の別種なり(中略)倭国自ら其の名雅ならざるを
悪み,改めて日本と為すと〉と記し,『新唐書』は〈倭の名を悪み,更めて日本と号す〉と記す。
倭人を日本人の別称とするのがふつうであるが,倭が中華思想における東夷の
別称である点を考慮すれば,列島上の人々だけにそれを限定することはできない。
わに 王仁
考古学上の史料は一切なく、朝鮮においても、文献資料も考古学資料にも王仁は
一切登場しない。その実在性は証明されておらず、今のところ、王仁は伝説上の人物と
考えるべき。諸文献に王仁が出てくるが、「応神天皇の時に王仁(わに)が渡来して論語10巻
千字文1巻を天皇に献上した」という内容には大差ないようである。しかし、「論語」は
巻数が多すぎ、「千字文」は6世紀前半に作成されたもので、つじつまが合わない、日本に
漢字・儒教を本格的にもたらしたのは、百済の武寧王による五経博士と見るべきである。
現在の学説では、古代朝廷において文書を司った西文(かわちのふみ)氏一族の
祖先を立派に見せるために創作した伝承であろうとみられている。韓国においては、
王仁に関する文献史料も考古史料もない。いずれにしても、朝鮮半島からの論語・千字文を
含む先進的学問の渡来の事実を、王仁という人物に象徴して語り伝えたものだろうと
推測される。そもそも韓国が日本に初めて漢字を伝えたと言うこと自体正しくない。
漢委奴国王印は57年に日本へ来ているし、卑弥呼は外交使節を何度も中国へ派遣し、
そのときの資料の中に山ほど漢字を見ているはずだ。また銅鏡その他の考古資料にも
沢山の漢字があるので、読み書きできた日本人(渡来人・帰化人を除いても)が居たことは
確実である。王仁以前に漢字は日本に伝わっていたのである。ただ、まとまった資料として
大量に日本へ文献が渡来してきたのが応神天皇の頃という事になるのだろうと思われる。
墓は京都の儒学者並川五一郎(誠所)が、いわばねつ造したものである。実在すらも
疑われている王仁が、ここで死んだなどと言う確証はないのに、伝聞と伝承で強引に王仁の
墓にしてしまった。教育委員会はそれを知っているので、ことさらに「伝王仁墓」と「伝」を
強調している。しかし、ここまで大々的に日本に漢字を伝えた大恩人と評され、
「漢字博士王仁」として称えられていると、もう後には引けないという感じなのだろう。地元の
人たちを中心に「王仁塚の環境を守る会」もでき、清掃や木の手入れなどを続けている。
その努力や思い入れが、例え学術的には何ら根拠のないものだとしても、人々の善意を
打ち砕いてしまうには忍びないという所か。
わらびてとう 蕨手刀
蕨手刀は柄頭が蕨の若芽に似ていることからこの名前が付けられている。
全長53.3a(太刀長41a、柄長12.3a)、重さ約600cの鉄製太刀で、製作年代は奈良時代
末期から平安時代初期と推定される。蕨手(わらぴて)とは刀剣の柄の一形式で、刀身と柄が
共に鍛造されているものを言う。馬上の片手使いに用いられることが多いので、柄頭の郡分に
「そり」をもたせている。その形が蕨に似ているところからこの名がある。蕨手刀はまだ刀身が
まっすぐな直刀だが、やがて「毛抜形蕨手刀」のように柄の部分が大きく反り、透かしを入れた
刀が東北地方で誕生する。柄の反りは馬上から振り下ろす際の破壊力を増すための工夫で、
透かしは手に伝わる衝撃をやわらげる効果があるという。毛抜形蕨手刀が登場したのは、
朝廷(京都)が東北地方を支配下に置くため盛んに派兵していた時期。この戦いの中で
進化した刀の情報は中央へもたらされ、朝廷の刀に「反り」や「透かし」が取り入れられる。
出現期の蕨手刀は剣と同じように「突く」機能を優先させたものだが、岩手県を中心とした
東北地方北部で形態的(けいたいてき)に変化し、「突く」ことから「切る」あるいは「振り下ろす」
機能へと変質していく。蕨手刀はその後も「切る」機能を強化され、9世紀後半以降には
〔毛抜形(けぬきがた) 蕨手刀〕、柄のところに強い反りをもつ〔奥州刀(おうしゅうとう)〕、
そして現在の〔日本刀〕へとつながっていったと言われている。
http://www.kimitsugunshibunkazai-center.or.jp/kenkyu/kenkyu.htm
ワラビのような柄頭の刀(袖ケ浦市−奈良・平安時代)
根形台遺跡群]W−2地点で発見した奈良・平安時代の墓跡から、蕨手刀(わらびてとう)
という刀が出土しました。蕨手刀は、柄頭(つかがしら=手で握る部分)が芽を出したばかりの
ワラビに似ていることから名付けられたもので、東北地方を中心に出土するので
「蝦夷(えみし)の刀」とも呼ばれています。県内では数例しかなく、君津地方では初めての
出土例となりました。
平成11年度調査

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