|
このページは、私が興味を持っている量子論について述べたいと思います。 いっぱい書いたのうっかり消しちまったよ〜(涙) 量子論とはなんぞや 物質の基本単位と考えられていた原子(分子)の世界はただ小さいだけであり 、その世界は我々の大きさの世界と同じ運動法則(ニュートン力学)で記述できるものと誰もが考えた。 しかし、実際はそうではなかったのである。 分子、原子(量子)の大きさの世界を記述する数学的論理を量子力学という。 我々はあらゆる所でその恩恵を享受しながら、この論理が与えた衝撃についてはあまり伝えられていないように思える。 この場を使って量子論の与えたショックについて一人でも多くの方に知ってもらいたい。 発端 物体は温度が上がると光を出す。 19世紀の終わり、ベルリンで鉄の加工技術の向上の研究をしていた若き科学者ウィーンは、1893年に「物体の出す光の内最も強い光の波長は、そのときの温度(絶対温度)に反比例する」という法則を発見した。 それより以前の1859年、ハイデルベルクで科学者キルヒッホフは、物質は、自分が出す光と同じ波長の光を吸収することに気づいた。 これによればいろいろな波長の光を出せる物体は、いろいろな波長の光を吸収できる物質、つまり「黒い」物体ということになる。 ウィーンは、鉄の温度と色の関係を正確に求めるために、温度と色の絶対的な指標を確立するため、この「黒い」物体を捜し求めた。 しかしそんな物体などあるはずもなかった。 そもそも自分の発見した法則に矛盾する。 試行錯誤の末、彼は特定の物質ではなく、小さな穴のあいた箱を使うことを思いついた。 これならば中に入った光は箱の中で限りなく反射するうち、減衰してしまうだろう。 この箱で実験を続けたウィーンは、この箱から出る(つまり、吸収される)光はどんな波長の光がどんな強さで混じり合っているかを表す公式を導いた。 この発見はボルツマンの熱力学をヒントにしている。 つまり、彼は「箱」の中に入って減衰してゆく光を気体(自由に運動する分子)に見立てたのだ。 光は波か粒子であるかという問題は何世紀も前から論争が続いてきたが、マックスウェルの波動力学の確立によって波動であるという考えが主流を占めるようになっていた。 ウィーンの説は光を粒子として捉えたものであるため、物理学界には不評であった。 しかしながら初期の段階では理論が実験と一致したので学界は混乱した。 しかし、実験の精度が上がるにつれ、彼の公式は短い波長の(つまり、青い)光については実験と良く一致するのに、長い波長の(赤い)光については実験との食い違いがひどくなってきたのである。 この問題に、当時の正統派の大物理学者、イギリスのレーレイ卿が乗り出してきた。 当然の事ながら彼は光を波と捉えた。 波は箱の中で節を作り、箱の中は有限であるから考えられる波の種類(波長)は限られる。 そしてそれぞれの波に等量のエネルギーを分配すれば、光の波長の分布は説明できる。 こうして導かれた公式は、ウイーンの公式で失敗した長い波長での光の分布をうまく説明し、実験とも一致した。 しかし、箱の中で両端が節になる波を数えると短い波長の波は、細かく波長の違った波が無数に数えられ、それらに等量のエネルギーを分配するとエネルギーの総和は無限になってしまう(例えれば、項が減少する数列の和が発散する場合ですね)。 これは明らかに馬鹿げている。 ここまでの話を総合すると、光の粒子説に基づくウィーンの公式は短波長での光の分布をうまく説明し、波動説に基づくレーレイ卿の式では長い波長の分布をうまく説明する。 なんともややこしいことになってきた。 さて、ここで御大マックス・プランクが登場する。 20世紀を翌年に控えた1900年、彼はこの問題(黒体問題と呼ばれる)について、大胆な仮説を試みた。 その仮説とはこうである。 彼は、物質粒子(あるいは波)はどんな振動数の振動もできるのではなく E=nhf という規則に従う振動数しか取れないと主張した。 Eはエネルギー、nは整数、hは定数、fは振動数である。 これをレーレイの説に例えて説明すると次のようになる。 光の波は連続した量のエネルギーを受け取れるのではなく、ある単位量か、その整数倍のエネルギーしか受け取れないとする。 つまり、その単位量に対応した限界波長というものがあり、それより短い波長の波はエネルギーを受け取れないのである。 この考え方は、レーレイ説の問題点を回避するとともにあらゆる波長での分布をうまく説明し、hの値を調節すると実験と良く一致した。 この説と実験に従って彼はエネルギーの単位量を求めた(上の式のh)。 これがプランク定数と呼ばれているものである。 しかし、ここで問題が残る。 プランクの仮説は、計算と実験を一致させるための「技巧」であり、なぜそうなるかということは全く説明されなかった。 黒体問題は説明できたものの、裏付けを欠いた説明であった。 そしてその裏付けは簡単に見つかりそうになかった。 1905年、スイスの特許局の職員であったアインシュタインは、ドイツの『物理学年報』に3篇の論文を発表し、物理学会の度肝を抜いた。 この3篇の内のひとつが、かの有名な「特殊相対性理論」について書かれた物だが、ここでは残りの内の一つ「光電効果」に関する論文の方が重要である。 金属に光を当てると、金属中にあったと思われる(自由)電子が飛び出してくる。 この現象を光電効果という。 この現象の奇妙なところは、まず、光の強さが一定の大きさ(閾値=いきち)を超えないと電子が飛び出して来ない事である。 そして、光の強さが閾値を越えて強くなってゆくと今度は出てくる電子の数が増えて行く。 奇妙な事は、その時一つの電子に分配される光のエネルギーは決して変わらないことである。 光の強さが連続的に強くなっても、電子にはある値の整数倍のエネルギーしか与えられないのである。 では光の強さが、その中間的な値を取るとき、残りのエネルギーはどこへいったのであろうか。 奇妙なことはもう一つある。 光の強さをどんなに変えても電子一個に配分されるエネルギーは変わらなかったのに、光の波長を変えると電子の受け取るエネルギーも反比例して変化するのである。 この現象を説明するために、アインシュタインは、光を粒子(光量子)として捉えた。 ニュートンの光の粒子説では、光の粒子は古典力学に徹頭徹尾従う質点のような物であったが、アインシュタインの考えではそうではなかった。 光電効果はプランクの式に当てはめると数学的には矛盾しない。 プランク定数の値の正しさはここでも実証されることになった。 つまりアインシュタインの光量子は、光の周波数(振動数)に比例したエネルギーの粒であり、波の考え方なしには表せなかった。 これは古典力学では説明できそうにない。 こう書くとアインシュタインはプランクの説を補強した形になったようだが、プランクは自分の式(プランクの公式)を古典力学の枠組みに矛盾しない形で理解しようとしており、アインシュタインの光量子仮説には反対の立場を取ったのである。 話は分光学に移る。 ナトリウムランプの光をプリズムで分光してみると、いわゆるD線(黄色く幅の狭い明るい線)が現われる。 このD線が実は2本であることを発見したフラウンフォーファーは、太陽光を分光してみて、無数の暗線が現われることを発見した。 これは特定の原子が特定の波長の光を吸収することによる。 女学校の教師をしていたバルマーは、水素ガスの出すスペクトルの線スペクトルに、ある関係があることに気づいた。 赤、青,二つの紫の四つの線の波長の比は9/5,4/3,25/21,9/8であった。 この2番目と4番目の分子と分母を4倍してみると(無論値は変わらない)、9/5,16/12,25/21,36/32となる。 分子は32, 42, 52, 62 であり、それぞれの分母は分子引く4である。 これをバルマー系列という。 詳細は省くが、これを波長でなく周波数の比にすると、それぞれの比が調和の取れた整数の比で表される。 これを行ったのはリュードベリである。 またちょっとした技巧によって、水素の別の線スペクトルの系列や、他の原子の系列も説明できた。 ライマン系列、パッシェン系列などである。 画期的なことは2本の線の周波数から、次の新しい線の周波数が予言できるのである。 そして、その周波数は、前の2つの周波数(整数)の加減によって得られるので、やはり整数である。 しかし、なぜ整数なのだろうか。 ボーア登場 水素原子のスペクトルについての説明がなされようとしていた頃、原子というものについての概念は、あまりまとまったものではなかった。 この仕事については、ラザフォードやその弟子の長岡半太郎が大きな業績を残しているが、彼らは、原子の放出する線スペクトルと原子モデルにおけるその説明に頭を痛めた。 第一の難問は、原子から放出される光が、電子から放出されるものだということはわかっていたが、電子が光を出せばエネルギーを失い、軌道を維持できず段々回転半径が小さくなり、原子核に衝突してしまうと考えられたことである。 無論このような現象は観測されない。 そこで、電子は、一定以上のエネルギーを失うと、それ以上エネルギーを出さなくなる(基底状態)のではないかと考えられた。 第二の難問は、線スペクトルである。 電子が連続的にエネルギーを放出すれば、それが線スペクトルの部分しか観測されないのはおかしい。 そこでボーアは、電子はエネルギーの出し入れに応じて回転半径を変化させるけれども、連続的な値を取ることはできず、基準的なエネルギー量の整数倍の値しか取れないとした。 それが線スペクトルの波長に対応するとしたのである。 これと対応して、電子の回転半径もいくつかの決まった大きさが存在して、電子はエネルギーの出し入れに応じて、不連続にその間を飛び移るとしたのである。 1913年、ボーアはラザフォードにこの考えをまとめた論文を送り、彼を納得させた。 コンプトンの実験 さて、先ほど光電効果について述べたが、1923年、コンプトンによってなされた実験は、興味深い問題を投げかけた。 金属表面に光を当てると電子が飛び出すと前に書いたが、この光の周波数を高くすると電子だけではなく、光も出てきたのである。 これは最初に当てた光と同じかと思って調べたところ、そうとも言えない。 中にはエネルギーを失って周波数の低くなったものもある。 これは、光を運動量など、古典的な粒子の性質を持つものとして考えなければならない。 ド・ブロイ登場 同じ年、これとは矛盾するような理論が、ド・ブロイ公爵によって提出される。 原子内の電子の回転半径が不連続な値を取ることは、電子を波と考えても説明できるという。 電子の軌道を波の通り道と考え、軌道上の一点を波の出発点(節)としてみると、軌道を波が一周して戻ってきたときに節がうまくつながらなければ波動が保てない。 そのような波動が成立する軌道半径は明らかに限られてくる。 この考えに基づいて電子の波長を仮定してみると、ボーアの結論と合致する(当然のような気もするが)。 そしてド・ブロイは物質のどの粒子にも一つの波が結びついており、その周波数と波数はプランクの方程式(前出)と、コンプトンの関係(p=hk)で与えられるとした。 光が粒子の性質を持つならば、粒子が波の性質を持ってもいいじゃないか、というつもりだったのだろうか、ド・ブロイのこの考え方をまとめた学位論文は、試験官がその扱いに困り、論文のコピーをアインシュタインに送ったところ支持されたので、めでたくド・ブロイは学位を取ることができた。 それどころか6年後、一部の研究者の嘲笑の的となったこのアイデアによって、ド・ブロイは、ノーベル賞を授かる。 ベル研究所で、電子のド・ブロイ波長が実際に測定されたのである。 粒子の性質を持つ波、波の性質を持つ粒子、そのようなもので満たされた世界、そんな世界をどんな先人が想像できただろう。 ともかく、量子論の登場する舞台は整えられた。 量子力学登場 このようにして、物理学による世界の解釈は大方の思いも寄らない方向に展開した。 真空中における光の伝播媒介物質として仮定されたエーテルは、20世紀初頭に、アインシュタインによって、ほぼ完全に否定されたが、光が波か、粒子かという問題はエーテルとは違って、波のようでもあるし、粒子のようでもある、という奇妙な結論を持つに至った。 また、粒子であるはずの電子は波かもしれないと考えられるに至った。 今や自然の中には、われわれ人間の自然な類推によっては感覚できない、隠された仕組みがあるかもしれないのだ。 しかし私見を述べれば、このような状況の中にあっても、物理学者達は楽観的だったように思える。 科学者といっても人間である以上、感覚になじまない世界観の書き換えには積極的にはなれない。 ましてや新しい世界観が日常的な感覚と断絶して見え、イメージすることも拒絶するようなものであればなおさらである。 当時の科学者は、まずは量子の解釈を例外的なものとし、いずれは古典的物理学に組み込めると大多数が思っていたように思える。 事実がどうだったはともかくとして、この奇妙な現象を秩序だって理解するための理論の登場が始まった。 ハイゼンベルクの式 1925年、ハイゼンベルクは量子系を一組の行列で表現した。 行列の要素の一つ一つが異なる物理量を表し、対角線上に並んでいる要素によって、系の物理量がある値を取る確率を表す。 対角線から外れた部分に存在する要素は、その物理量のとりうる、異なる値同士の関連の大きさを表している。 シュレディンガー方程式 同じ年、シュレディンガーは量子素材を波の形で表現し、このような波が従うべき量子的な運動法則、すなわちシュレディンガー方程式を表した。 ここでも量子の状態は、確率で表される。 ディラックの変換理論 ディラックは量子素材を、多次元抽象空間(純粋に数学的な産物である、5以上の座標軸を持つ空間、無論正確なイメージなどできない)の中で何らかの方向を指しているベクトルであると考えた。 量子素材の運動は、このベクトルの回転に対応する。 これを記述するためには、ベクトル空間に一組の座標系を設定しなければならないが、座標の取り方には大きな自由度がある。 座標をどう取るかで、同じベクトルに対し、表面的にはまるで異なる記述が得られる。 この理論は、座標の取り方を替える際の変化に特徴があり、ディラック自身、この理論を「変換理論」と呼んだ。 さて、三つの理論が登場した。 後にディラックが看破したように、これらの理論はどれも間違ってはおらず、表現方法が異なるだけ、ということがわかった。 これらの理論によって、量子の振る舞いは数学的な表現はできるものの、そこで何が起こっているか、ということについては相変わらずわからないままであった。 |
目次 |