ダイヤ主水すくえあ>

記念館館長室
(旧随想録・野望)

館長の北畠氏についての戯言あれこれ・・・。


◆第拾壱回 中世都市研究大会2006 三重大会 (200.611.19)
 2006年9月2日、3日と2日にわたり開催。
 1日目は三重県立斎宮歴史博物館で開催されている「北畠氏とその時代」の見学と現地見学会。2日目は研究報告・シンポジウムという構成であったが、所用により当方は1日目だけの参加。受付で資料代と見学費を支払います。今までのシンポジウム参加が無料だったのでちょっと吃驚したが、公的機関が主催じゃないので仕方ないか。館内では既に展覧会の解説は始まっていましたが、こちらは実は既に2回目の見学。事前に1度見学しているもので。解説を聞きながらさらっと流しました。

 出品物は北畠神社所蔵の鳥形の青磁の香炉から逸方さんの寿像まで様々。県下に散らばる北畠氏関連のゆかりの品々の総合展ってかんじかな。また観音寺や浪岡など関連遺構の発掘物なども多数展示されていました。もしかしたら伊勢北畠氏の文物だけではスペースがあまるのかとか考えちゃう。それはそれとして、できればこれに国学院の「久我家文書」など、文献資料も展示していただければもっとよかったかも。更に欲を言えば、今回のような企画展ではなく、県下のどこかで北畠氏を常展で展示できる施設があれば文句無いんだけどね。三重県って総合的な歴史博物館がないから、郷土の歴史を紹介する意味でも是非ね。
北畠庭園を見学中
 お昼からは現地見学会。私は友人の北畠具顕氏とともに、Bコース。「国司の城下町」に参加。バスに乗り、揺られること約1時間半で到着。途中、松ヶ島などゆかりの地を解説を聞きながらだったんですぐでしたが。北畠神社、東御所、松月院跡などを見学しました。見学地自体はすでに何度も訪問しているところでこれといった発見はありませんでしたが、汗だくになりながら、一所懸命解説する小林俊之氏が好印象でした(笑)。
 今後更なる北畠氏研究の発展を祈念し、また今回楽しき1日を提供いただきました中世都市研究大会2006三重県大会実行委員会の皆様に感謝します。
◆第十回 第2回「木造氏と上野遺跡」シンポジウム(2004.10.21)

 先日10月3日、久居市中央公民館にて「第2回上野遺跡シンポジウム 木造氏と上野遺跡」が開催されました。当日は、多数の方が参加され、開催会場となった公民館の大会議室は満席。補助席が急遽出されるまでの人気を博していました。地域住民の木造氏への関心の高さが伺われた次第です。
 
熱弁を振るう藤田先生! 講演者は久居市教育委員会、太田光俊氏(阪大院)、藤田達生氏(三重大)、鈴木伸哉氏(ZTV)、山田雄司氏(三重大)の諸氏。
 まず久居市教委の学芸員(名前忘れちゃった−笑)から上野遺跡の概要と発掘遺跡の成果を紹介。太田氏は木造の地名を分析することで木造の現況と、これまでの木造氏の歴史的研究成果を結びつけ、木造荘の姿を明らかに。また今では本能寺研究のオーソリティーとなられた藤田氏は引接寺などに残された数々の「木造城下図」を読み解くことから戦国時代の木造の様子を復元し、解説。続く鈴木氏は、藤田氏らの研究成果を受けて、CGを駆使し、木造城を三次元的に再現。最後に山田氏から木造氏研究の原典ともいえる「木造軍記」を解説された。

 発表内容が考古学、地誌学、歴史学、文献学と多岐にわたり、またそれらの成果をCGによりビジュアルに再現するなど、4時間という短時間ながら多角的な方面から木造氏の研究成果が発表され、非常に実のあるシンポジウムでした。北畠氏を研究する上では、木造氏を知ることは不可欠。今後、更なる木造氏研究の発展と第3回、4回とこのようなシンポジウムが続くことを期待し、久居市中央公民館をあとにしました。また、今回のシンポジウムに参加する情報をいただいた草莽の民氏には改めて感謝する次第です。

◆第九回 2003北畠氏顕彰活動総括
 
 2003年は、FC活動も会長である某の多忙もあり、1度も活動できず会員の皆様には真に申し訳なく、陳謝する次第であります。ただ個人的とこととなりますが、一部の会員の皆様をはじめ2度にわたるオフ会に参加する機会をうるなど、志を同じくする方と親睦を深めることができたことは、非常に有意義でありました。今年は、このような機会をFC活動においても開催し、FC活動の更なる充実を図ることができればと考える次第です。

 さて2003年、北畠氏一番のニュースといえば、の北畠氏館址発掘調査報告ではないでしょうか。あらたらに館址から などが次々と発掘され、話題になったことは記憶に新しいことと思います。今後、調査において更なる発見など、北畠氏の全貌が次第に明らかになりつつあります。今度の調査の成果に期待したいところです。
 また出版会においては、北畠具教卿を主人公にあつかった短編小説「水琴窟」が彩図社より刊行されるなど、嬉しいニュースもありました。

 
◆第八回 北畠な風景第3弾 「為せば成る」車で行く多芸路編 (2003.12.05)
 
 北畠氏に対する信心から年に一度は北畠講と称し、友人など誘い合わせ北畠氏の聖地多芸に訪れるよう心がけています。
 さて今回はその往路復路における行程についてお話したいと思います。

 某の住む奈良からは近鉄線で奈良線、橿原線、そして大阪線に乗り継ぎ、まずは大阪線の川合高岡駅へ向かいます。えっ、なぜ川合高岡かって?ここで鉄道トリビアを1つ。「近鉄大阪線と名松線は近鉄の川合高岡で接続している」というトリビア!高岡駅を降り、南に向かって徒歩2分程度でなんと名松線一志駅に到着できるのです。よって大阪方面からの場合、わざわざ松阪まで行かなくてもその一歩手前の川合高岡−一志ルートで名松線に乗車できるのですよ。知ってたぁ?これで運賃と時間を少しばかし倹約できます。地元民以外は案外知らない意外な事実。しかし、これってすんごくある意味実用的な知識だなぁ。名松線利用者にとってはトリビアじゃないよな!?まあ殆どのひとにはトリビアなんでせうがぁ(笑)。

 さてはて一志駅からは名松線で終点の伊勢奥津駅まで向かい、奥津駅前の近鉄タクシーで多芸入りする寸法です。体力のあるころは、徒歩にて飼坂峠をこえ、伊勢本街道ルートで奥津から多芸、比津を踏破する荒業を見せたこともありました。しかし、それも今は昔、駅前のタクシーは廃業し、また歩いて多芸にはいる気力も体力も無い現在、それでなくとも陸の孤島であった多芸の里はますます遠くなりにけり...。

 そんな北畠講が年々危機的な状況に陥る中、以前より某の心の中で大胆にも計画していた案がありました。ずばり車で行く北畠講!特に奈良に住む某の場合、近鉄と名松線でいく道筋はかなり東に迂回する遠回りルート。時間もお金にも日常事欠いている某にとっては、以前よりこれらの無駄を実に歯がゆく思っていたわけです。しかも名松線の本数の少なさから多芸についても常に帰りの名松線の列車の時間に気を配らなければならないなど、決して心から信心できるような環境にはありませんでした。しかし、それら数々の難点を見事に打開する策が、そう車でゆく北畠講案なのです!ただそんな名案を今まで実行せずにあたためていた訳は...。

 ずばり某の運転技術にあります。決してそれほど技術が拙劣なわけではありません。免許を取ってからこの方、こすったことは2度ほどあるものの、無事故・無違反。まあそれ以前に事故するような危険性のあるところはいかないわけでして、近所のかって知ったる高規格2車線道路ばかりを走っているわけです。そんな人間が奈良から多芸に行くというのですから如何に無謀か!しかしいつまでも迷っているわけにはいきません。名松線の廃止も時間の問題でせうし・・・。ここは某の尊敬する鷹山公の「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」のお言葉を信じ、計画はついに動き始めたわけであります(言うまでもありませんが、勿論具教卿が一番ですよ)。

 まずは地図にてルートの確認!奈良より国道169を使い、天理を経由し桜井へ。桜井からは国道165に乗り換え榛原まで行きます。ここまでは、仕事などで暫し通るかってしったる道でありますので問題なし。イメトレもばっちりです。さて問題は榛原から美杉までの未知の空間
 予定では国道369を利用し、榛原から室生、曽爾、御杖を経由し美杉村まで行くわけですが手元にある地図を見れば、ところどころ道路の線が細〜くなっているではありませんかぁ(笑)。けどこの細さがどれぐらいの幅員を意味しているのかは不明。とりあえず狭いんだろうと!また地図だけでは心許無いので、すでに多芸に車で行かれた先達様のご意見や3ケタ国道放浪記さんのようなありがたいwebページで情報を細かく収集。危険箇所を事前にチェックし、また実施日より少し前から近所にあるあえて細い道を走り、狭道にたえうる運転技術の向上に励んだわけであります。

 当日は旅立つ前に神棚の北畠様とベルちゃん(wに安全を祈願。また万一の場合にそなえて、親に携帯を借り(電話嫌いのため未だに携帯は持ち合わせておりません)、損保会社の連絡先もチェック。これで何があっても大丈夫。準備播但線!ついに出発進行でござ〜い。

 9時丁度奈良の自宅を出発。TPDなどのお気に入りCDをかけ(ふる〜とか言わないように!)、気分も天気もめずらしく上々です。榛原までは道路事情も把握済みで、実にすい〜すい〜と難なくクリア。あっという間に榛原到着です。ただ、ここで1つミステイク。国道369に乗るはずが、間違って大宇陀方面に乗ってしまい、右往左往。地図をみてなんとか369に合流しましたが、こういうときカーナビがあると便利とつくづく痛感した次第。

 榛原からは一挙に田舎じみた風景が広がります。さてCDも一巡し、国道も林道が続く寂しい風景に突入したため、ここで娘。の元気のいいCDに交換です(笑)。♪あっぱれ あっぱれ キスして GATO〜(笑)。しばらくして前方に見えてきたのが開路トンネル。3ケタ国道放浪記さんの情報によればこのあとの下り坂とカーブを曲がりきったあとの狭道が要注意とのこと。トンネルを抜けたあと、記載どおり下りのカーブがつづき、道はほどなく室生村へ突入。また三叉路の交差点を通過したあたりからこちらも放浪記さんの情報どおり、ついに某のもっとも苦手とする強敵1.5車線野郎の登場です。とりあえず対向車が来ないことを願いつつ、右折左折の見通しの悪い狭道を速度を落としのろのろ走行。しかし特に対向車も無く、まもなく狭道はつき酷道区間を無事脱出。案じるより産むがやすし!第1関門クリアです。車は無事曽爾村へ。

 道は再び広くなり、先ほどの狭道が信じられないほどの実に走りよい道路の連続。車もいつしか御杖村へ突入。奈良県最後の自治体です。この村さえ通過すればそこは待ちに待った三重県美杉村。名張方面と分岐する敷津の交差点を通過し、いよいよ美杉村とおもった矢先、ここで最後の難関が!またもや1.5車線道路。さすが天険の地、美杉。そう簡単には足を踏み入れさせてもらえないのだぁ。「南無三瀬大権現、願わくばその功徳をもって我を多芸にとおしたまぇ〜」と祈りつつ、再び非常臨戦モードで酷道を走行。再びの祈りも通じたか、事故ることも無く、1.5車線道路をなんとか切り抜け、ついに念願の美杉村へ!奥津までは2車線程度の道。奥津からは高規格な2車線道路にもどり、いっきに飼坂トンネルを抜け多芸へ。到着は11時30分と自宅を出てから2時間半の長い道のでした。

 かくして、かねてよりの大願を成就し、時間を気にすることも無く、多芸詣を1年ぶりに満喫することが出来たわけです。勿論、帰りも問題なく無事奈良に帰着しました。
 さて今回の北畠講を通して感じたことを少しばかり。

@もしかして俺って運転上手いんじゃないの〜と妙な自身を得たこと(笑)。危険すぎる!?
A名松線の年間利用者が−2×(随伴者分)され、ますます危機的な状況に陥りつつあること。
B一応地図も持っていったわけであるが、地図の幅員表示が事実に反し、実にいい加減なものであったこと。3ケタ国道放浪記さんに感謝。
C今後、ますます多芸が近くなり、信心も一層深まるのではないかということ(多分)−笑。


そして最後に鷹山公のお言葉につくづくつくづく感謝した次第です。この意気込みで、仕事なども頑張っていけるといいのですが、現実そうはなかなかねぇ・・・(^^;)。

◆第七回 北畠な風景第2弾浪岡編 (2002.04.08)

 戦国史で北畠氏といえば、当サイトも扱っている伊勢国司家が取り上げがちですが、東北にもかつて南北朝以来の名門として浪岡北畠氏(以下浪岡氏)が青森県浪岡町に存在しました。浪岡北畠氏は、北畠親房の嫡子で鎮守府将軍として陸奥に下った顕家の末裔であり、顕家の曾孫顕邦の時代に津軽に入部し、その息子顕義が浪岡城を築き、以降浪岡御所を称しました。
 その後、時代は南北合一などを経て、戦国時代になると浪岡氏をとりまく環境も大きく変わり、浪岡氏はかつてはその支配下においた南部氏に庇護され、その領地も浪岡周辺だけを有するまでに勢力は縮小されていました。また浪岡氏はその領土が南部氏の仇敵である安東氏と隣接していたことから、安東氏ととも縁戚を結び、両家の緩衝的役割を果たしていたともされています。結局浪岡氏は、天正年6年7月大浦為信により浪岡城が調略され、当主顕村が自刃することで滅亡。奇しくも伊勢国司家滅亡のわずか2年後のことでした。その後、浪岡城には一時、大浦氏の城番なども置かれたようですが、まもなく廃城。城郭は田畑に帰したようです。現在、浪岡城は国史跡に指定され、現在史跡公園として一般に開放されています。
 さて、浪岡氏の浪岡城へは奥羽本線浪岡駅下車が便利。駅にも「中世の里」をキャッチフレーズとした広告が随所に宣伝され、浪岡町が浪岡城と浪岡氏を観光の目玉としていることは一目瞭然です。駅を出たところ雨がパラパラと落ちてきていたため、とりあえず浪岡駅からタクシーで、浪岡城より発掘された遺物などを展示する「中世の館」へ向かいました。途中市内には下記にみるようなマスコット(バサラくん)【写真@】が随所にお目見えし、これでもかといわんばかりに浪岡氏を大々的にアピールしておりました。さてタクシーに乗ること約10分程度で「中世の館」到着【A】。受付で入館料の200円を払い、いざ館内へ。館内には浪岡氏の歴史やまた発掘された遺物の数々、浪岡城北館の復元模型などを展示。なかでも圧巻は原寸大に復元された主殿の一部!このような中世の城館の一部を実物大で復元しているケースは貴重といえるのではないかな。これら多様な発掘物や復元模型の展示から、かつての浪岡氏の栄華を十二分に感じ、いざ実物の城跡を見ん!と中世の館をあとに浪岡城へ向かいます。
 雨は相変わらずというかさきほどより強くなってきた次第(鬱)。雨の中を道路沿いに歩くこと約5分程度で浪岡城と標された石柱【B】にたどり着きました。隣には長慶天皇の后(だったとおもう)のお墓ものあり、南朝のゆかりをつくづく感じました。さて浪岡城のゲートとなるこの石柱を右折し、ズブズブにぬれた田道を雨の中ゆくと、左手に土塁群が出現。浪岡城の西館の土塁【C】です。現在こちらはまだ未調査との事で何に利用されていたか不明との事。土塁を横手に見ながらさらに歩を進め、土塁を切り開いた道を駆け上り内館へ。現在内館には草草が生い茂る中にひっそりと北畠古城の碑【D】がたつのみです。碑の銘文は有栖川親王によるものだそうです。城主の郭であった内館からは城域を一望でき、浪岡城の予想外の規模に驚かされました。さすが津軽の名門浪岡氏の居城!その勢力規模の大きさを改め確認した次第。大雨のためあまり長居もできないのでいそいそと内館から二重掘の中央に築かれた土塁上を進み北館を目指します。この二重掘【E】は浪岡城の特色の1つで、堀の中央に土塁をのこし二重構造にしたもの。小生も沢山のお城を見ていますが、このような堀構造は初めてしりました。また土塁の上部が通路となっているという機能性の良さにも関心関心でした。さて関心しているうちに北館に。こちらは家臣が住んでいたところとされ、現在低板塀で区画されており、北館内の複雑な通路構造を体感できます【F】。当時は各敷地に、掘立柱や竪穴式など様々な様式の建造物が敷地内に建てられていたとのことです。各敷地それぞれに井戸が掘削されていたこともその特徴といえるそうです。浪岡城の郭内部についてもよく実感できたうえで、北館をあとにし、隣接する東館へ。こちらは落城後、大浦氏の城番が置かれていたところとされています。こちらの見学のポイントはなんといっても東端の土塁でせう【G】。その規模は浪岡城の中でも白眉中の白眉。土塁でも石垣相応の規模を造成することができるということに非常に驚かされました。巨大土塁を左手に拝みながら、坂道を下り浪岡城見学の最終ポイント浪岡城案内所へ到着。すでに靴はもちろん衣服から鞄までべちゃべちゃ。案内所へ駆け込み、とりあえずは一服。一息いれたところで係の人に申し出、映像ホールで浪岡城に関するフィルムを見せていただきました。フィルムを通し浪岡城の史跡的価値の重要性などを改めて実感、浪岡城見学を十分に満喫し、案内所あとに浪岡駅へ向かいました。
 中世の館とも浪岡城とも非常に見学価値のたかい遺構といえ、わざわざ青森まで来た価値は十分にあったように感じます。ただあいにくの天気にはほんと泣かされましたね。日ごろの行いが良さ過ぎる!?のも問題のようです。途中で気づいたのですが、小生が訪れた翌週のお盆には北畠祭がひらかれるとのこと【H】。う〜ん、1週間後に来れば、天気もよく!?お祭にも参加できたのになぁ、これだけが実に心残りでした。

浪岡城縄張略図
浪岡町発行 浪岡城跡より

バサラくん 中世の館 城址碑
@バサラくんがお出迎え! A中世の館!見所一杯。 B城址のゲートとなる石碑
二重掘 記念碑 西館堀
E二重堀中のL字道が中土塁 D内館の記念碑 C西館堀と土塁群
井戸址 巨大土塁 祭ポスター
F井戸跡などを復元 G5m程度はあったかな? H浪岡北畠祭ポスター。
天気最悪のため、写真写りも非常にわるくてごめんなさい。
◆第陸回 大河ドラマと戦国北畠氏 (2002.04.08)
 これまでも戦国史をあつかったNHK大河ドラマはたくさん放映されています。最近の作品では92年緒形直人の「信長」、96年竹中直人の「秀吉」、97年中村橋之介の「元就」などなど。 しかし、大河ドラマにおける戦国北畠氏はこれまでキャストが登場するどころか、ナレーションの1つすらも入れてもらえず、その存在自体、ドラマ上から完全に抹殺されてきたという不遇の歴史をもちます。「信長」、「秀吉」については信長、秀吉と主人公自ら北畠具教父子の籠もる大河内城を攻めたという史実があるにも関わらず・・・。今までがこんな具合だっただけに、北畠ファンとしてはどうせ今回の「利家とまつ」においても、北畠の「き」の字さえ唱えられることなく、ドラマは永禄12年をあっさりと通過すると思いきや、なんとキャストはないものの、一応伊勢攻めのナレーションと映像が入り、あのNHKがついに戦国北畠氏の存在を全国に知らしめたではありませんか。とりあえず放送内容を下記に復元!
映 像 @騎馬武者そして足軽をはじめとする信長軍団が、河川(雲津!?)をわたる風景。  〔テロップには「永禄12年(1569)10月伊勢」〕
A同じく渡河する反町信長のアップ。  〔「織田信長」〕
ナレーション 10月、信長は伊勢を攻めて、大河内城に北畠具教、具房親子を攻めくだし、次男の茶筅丸を養子に入れさせた。これによって伊勢は平定された。
 わずかの映像でしたが、北畠の名が大河を通じ、全国に轟いた事は間違いなし!すこしづつではあるが、大河における北畠氏の位置づけも見直されつつあるこのごろ。次の戦国大河ではぜひキャストありでお願いしたいとおもう今日この頃です。
◆第伍回 多気北畠氏遺跡シンポジウムレポート (2001.11.10)
シンポジウムパンフレット 10月28日、美杉村多気地域住民センターにて多気北畠氏遺跡シンポジウム「伊勢北畠氏と中世都市・多気」が美杉村主催で行われました。当日は、小雨混じりのあいにくの天気でしたが、北は青森県浪岡町から西は山口県の方まで全国各地から多数の方が参加されていたようです。
 シンポジウムは、矢田俊文新潟大教授の記念講演にはじまり、前川要富山大教授、藤田達夫三重大助教授の基調講演、小林秀三重県史編纂室主事、竹田憲治三重県文化財センター主事、美杉村教育委員会石淵誠人学芸員の報告、そして各氏研究発表の総括として公開討論が最後に行われ閉会となりました。発表内容はいずれも北畠氏と多気遺跡に関するもので、具体的な内容については省略しますが、足利幕府下における国司北畠氏についての位置づけやその権力構造、また多気が中世都市遺跡として如何に重要な存在であるか等が終始論じられました。また前日にはシンポジウムに先立ち、多気文化財見学会も開催され、半日かけて北畠氏館跡から西向院、六田館跡、松月院址など北畠氏ゆかりの遺跡を地元の郷土史家の案内のもと見学しました。現在でも多気遺跡の発掘調査部分は、その全体からすればほんの一部に過ぎないようで、その大部分が未発掘のままの状態にあります。遺跡の全体像が判明するまではまだ幾星霜かかるかわかりませんが更なる発掘調査の進展にあわせ、北畠氏研究も大いに進むことを期待したいと思います(他力本願(^^;)。また北畠氏或いは中世史を研究する上で、今回のシンポジウムは非常に意義深いものであり、今後とも貴重な文化遺産を有する多気の地にて、このようなシンポジウムが開催されることに期待したいと思いつつ、多気の地を後にしました。シンポジウム公開討論の様子
◆第肆回 伊勢北畠氏と大和大谷氏(2001.01.05)
 当サイトには歴史ファンのみならず、北畠氏ゆかりの方もいらっしゃられ、開設当初はその結構な多さに仰天しました。まだまだ北畠一族は日本各地のみならず全世界(イギリスの方もいらっしゃいました)に健在なんですね。さて、そんなみなさんの多くが、私に対して決まって質問して下さることがあります。それは「あなたもやはり北畠氏ゆかりの方ですか?」と。そしてその決まった質問に対して決まってする私の回答が「いいえ、何のゆかりもありません」(^_^;)。
 大谷一族の出自は、神話のふるさと出雲に端を発し、京都久我や伊勢美杉など北畠氏ゆかりのふるさととはにてもにつかぬ片田舎(美杉もそうですがぁ)にあります。また私自身もその居を大和国に構えているなど、血縁的にも地縁的にも北畠氏と大谷氏は全くもって関わりがないのが本当のところでございます!では、そんな縁もゆかりもない私がどうして北畠氏についてHPをつくっているのか?
 私と北畠氏との馴れ初めは、みなさまもご存じ光栄のシュミレーションゲーム、「信長の野望 戦国群雄伝」にあります。小学校時代から歴史好きな私でありましたから戦国シュミレーションゲームに熱中するまでに時間は要しませんでした。知っている方は当然ご存じと思われますが「信長の野望」というゲームでは多数の大名群の中から自分のプレーする大名を1つ選択し、内政と戦争を繰り返し天下を統一する歴史シュミレーションゲーム。大抵の小学生なら信長や謙信など英雄的大名か或いは地元の大名でプレーするのが一般的であると思えますが、そこは天の邪鬼大谷。それらみーちゃん、はちゃーんの大名を選ぶはずもなく私が最初に選択した大名は北畠でもなく、何故か丹後一色義道!貧しい丹後から弱小な家臣を率い全国統一を目指したのであります。しかし、あまりもの弱体さについに嫌気がさし、いつぞや他大名を物色するように・・・。そして、その落ち着いた先が伊勢北畠氏だったんですね。 では、なぜ北畠に落ち着いたか?
 理由@:知名度が低い! ・・・大谷は判官贔屓。いつも弱者の味方です。
 理由A:伊勢(現三重県)に親しみを感じていた。・・・奈良県民である私にとって隣県三重はなじみのあるところ。家族旅行や学校の遠足などを通し幼少時からかなり伊勢・志摩に訪れていたよう記憶してます。近鉄にのれば奈良から三重なんてあっという間ですからね。
 理由B:伊勢は国力が豊か ・・・伊勢国はゲーム上(実際もそうと思いますが)、兵糧が豊富など経済的に裕福な国であり、ゲームを進める上で結構有利な状態にあったようにおもえます。反面、その地理的条件から有力大名に周囲を囲まれ、とくに尾張の信長の軍事力に対し恒にビクビクしなければならなかったのも確かですが・・・。
 ざっと述べました以上のようなことから、私と北畠氏とのお付き合いがはじまり、それ以後は、もう北畠一筋。一に北畠、二に北畠、三,四がなくて五に北畠!その興味も、ゲームの枠を超え、北畠氏について書かれた資料を読み漁ることからフィールドワーク、ついには不智斎教の入信、ファンクラブの設立にまで展開し、とどまるところを知りません。偶然か必然か!?、北畠氏と私の関係は、今後とも生涯にわたって続いて行くことになりそうです。私にとって北畠氏(具教卿)は永遠の恋人です。
◆第参回 北畠な風景(2000.11.06)
 北畠氏のゆかりの地は伊勢に限らず、全国各地に結構ありますが、今回は先日11月4日、関西における北阪堺線北畠駅畠氏のもう1つのふるさと、大阪市阿倍野区において私大谷が探索した北畠ふるさとレポート第1弾(続くのか!?)を公開します。 北畠のふるさと阿倍野へは、阪堺電鉄上町線で向かうこととしました。阪堺線起点、天王寺駅前から懐かしい路面電車に乗りいざ出発です。乗客もそこそこで電車は発車進行。路面電車は、混雑する車の波をかき分け、約10分で、その名も北畠駅に到着しました。 駅周辺は、一昔前の下町っていった感がありますが、一筋入れば、あっとおどろく為五郎!蔵をもつ広大な和風住宅やら瀟洒な洋風建築が立ち並ぶ閑静な住宅街。そう北畠は、帝塚山に並ぶ大阪屈指の高級住宅街なんですね。その高級住宅街を東に向かい、あべの筋を北に行くこと数分で北畠公園本通商店街が右手に見えてきます。最近では郊外の大型スーパーにおされがちで低迷する商店街なんですが、この商店街は人通りも多く一見したところは、その心配はなさそうでした。さて、その商店街の北数十メートルに北畠公園があります。公園は木々にこんもりと覆われ、都会の喧噪を忘れ去るほどではな北畠公園本通商店街いですが、ひっそりとしており、現在阿倍野の地で無念の死を遂げた北畠顕家公のお墓が祀られております。まずはお参りと言うことで、小生も墓前に花こそ手向けませんでしたが、合掌し顕家卿を弔いと北畠氏の更なる飛躍!?をお祈りし公園を後にしました。北畠公園を後にした私は、とりあえず北畠駅まで引き返し、今度は駅の西側の探索に入りました。路地をいくことまもなく、右手に霊法会北畠講座(だったと思う)の看板が・・・。北畠氏ゆか北畠公園りの研究会かなんかでしょうか?それはさておき、学生がたむろする住吉高校の前を抜けると大阪税関の宿舎が左手に。ここも宿舎名に北畠とついてましたね。税関宿舎から坂を登り切ると正面にはまたまた北畠の名が付く、府営北畠住宅が!もう町中北畠だらかなんですね。北畠ファンとしてはほんと感無量。そしてこの住宅の南隣に鎮座するのが今回の最終目的地でもある、別格官幣社阿倍野神社です。明治15年(やったと思う)に北畠親房公と顕家公をお祀りするために創設され、現在境内には昭和に建てられた本殿や花将軍北畠顕家公の銅像などが祀られています。参拝中、顕家公の銅像の前で手を合わせる子供たちの姿はとても印象的でした。阿倍野では今も顕家公の存在は老いも若きも皆に慕われるみじかな神様なんですねぇ。私も本殿でお参りした後、しばらく境内を見学し、帰りは表参道から阿倍野阿倍野神社神社を後にしました。表参道の階段を下ること暫く、阪堺電鉄阪堺線の踏み切りがあります。そしてこの踏み切りのちょうど北畠顕家公像手前に阿倍野神社の石柱が!そこには「大日本は神国なり」と。これは北畠親房公が記した神皇正統記に記される著名な一文なんですね。さて踏み切りから間もなく北に行けば天神ノ森駅。ここから再び阪堺線に乗り終点恵比寿町に到着しました。奈良在住の私としては意外と身近な処に北畠のもう1つの聖地があったことに驚き(ここまで北畠パラダイスとは思ってもみませんでした)、そして未だに地域住民に慕われている北畠氏が非常に印象的でした。みなさんも大阪に訪れた際はUSJもいいですが、阿倍野にも是非一度お寄りされては如何でしょうか(一部文書校正02.07.05)。
◆第弐回 北畠具教卿の御影(2000.10.08)
 織田信長や豊臣秀吉、徳川家康のような著名な武将については、その生前の姿を書き写した肖像が残っているようですが、北畠具教卿については殆どというか全く残っていないようです。ただ具教卿が公家の流れをくむ名門北畠家の出身であったという事実(母は細川高国の娘)や剣豪という肩書きで天下に名を馳せた事実からすれば、ある程度そのお姿を想像することは難しくないかもしれませんが、やはりそのお姿は闇に包まれたままです。しかし、幸運にもふとしたきっかけから、この謎に包まれた具教卿の御影を書き下ろしていただくチャンスを得ることができました。今回はあっこさま書き下ろしによる若き頃の具教卿の御影をみなさまにご覧にかけたく思います。
北畠具教卿御影 「若き日の具教卿」  作:あっこさま(らぶらぶ日記)

(作者よりひとこと) 実在の人物を描くって(しかも写真も残ってないし!)したことがなかったんですが 勝手に想像させていただきました。 わたし的には楽しかったです♪
(解 説) さすが北畠の血筋、その御影からは名門北畠家に受け継がれた品の良さと知性がよく伝わってきますね。これには光源氏も真っ青じゃないでしょうか。またその鋭きまなざしからは後世剣豪と恐れられた卿の片鱗をも感じさせるなど、非常に完成度の高い肖像画です。具教卿を連想する上での新しいスタンダードとなる名作といえます。 

◆第壱回 天正4年北畠氏その後(2000.07.09)
 伊勢北畠氏は具教卿謀殺後、まもなく嫡子具房も死去するなど、一般的に一族は滅亡したということが定説となってます。私が今までに読んだ北畠研究家の多くの文献にも確かにそのように記されていました。しかし、この定説をことごとく覆す、新たなる説が現在提唱されています。つまり北畠氏は滅亡していなかったと・・・。 新説の詳しい内容は、当サイトと相互リンクでもある北畠研究会さまのサイト「北畠氏学講座」に記されていますので是非そちらをご覧いただくとして、ここでは研究会さまのサイトに記された内容をごく簡単に要約し、みなさまに紹介しましょう。
 三瀬の変がおこった天正4年11月25日、田丸城に監禁されていた具房の妻鶴女が北畠家重臣鳥屋尾石見守らの手により無事城内から救出されたことから話は始まります。当時鶴女のお腹の中には具房との子を身籠もっており、田丸脱出後匿われた北畠氏諸大夫吉田氏の屋敷で男児(のちの北畠昌教)を無事出産。この報告は幽閉中の父具房にも伝えられ、具房は昌教を奉じて御家を再興するよう命じますが、全ては信長の知るところになり、昌教はその追撃を避けるべく家臣の手に守られ伊勢を脱出。大和、摂津、出羽を経て、最終的には陸奥津軽氏のもとへ落ち延び、元和2年2月17日没したというものです。昌教には昌清なる嫡子がおり、以後北畠氏はゆかりの深い陸奥の地で、地元有力武将と結び御家を存続、やがて公卿としての地位まで復活するというものです(以下略)。
(新説系図)  具教−具房−昌教−昌清−(以下略) これら研究会さまの提唱される説については、これまでの定説を180度転回させる衝撃的な内容なだけに、北畠氏研究家!?の私としても大変興味深いものでありました。ただ、その真相については私自身、現在のところ全く手をつけていない領域だけに如何とも言い難いんですが、非常に興味深い内容だけに、北畠ファンあるいは戦国ファンのみなさまにおかれましても是非、研究会さまのサイトをご覧いただき、その真相について迫っていただければと考えます。
■第3回 具教の能力評価の変遷史(99.12.05)-旧具教卿の野望
 今回は信長の野望シリーズにおける北畠具教の能力評価の変遷について考えてみたいと思います。

《北畠具教の能力評価変遷史》
作品名 政治 戦闘 采配 知謀 教養 魅力 野望 足軽 騎馬 鉄砲 水軍
戦国群雄伝 77 71 92 72
武将風雲録 62 69 77 79 60
覇王伝 56 70 78 45 44
天翔記 122 150 94 92 50
将星録 62 75 47
烈風伝 53 70 68 27

@戦国群雄伝 ・政治戦闘共に両立したマルチ武将として評価されている。特に政治値はこの作品でピークに達し、以後は降下の一途をたどる。
A武将風雲録 ・政治、戦闘共に微減。この頃から戦闘型武将として位置づけられ始める。またこの作品では教養値をはじめて導入(最初で最後)。北畠氏は名器国司茄子や北畠庭園を有する公卿系家柄だけあって、具教卿の教養値もそれなりに評価されている。
B覇王伝 ・新たに知謀値を導入するが具教卿は信長の謀略により暗殺された経緯もあり、コーエーの評価はなかなかシビア(この数値評価については改めて論じたい)。以後、具教卿のプレーヤーは戦闘時においてこの低い知謀値に苦しめられることになる。
C天翔記 ・能力値のMAXは200。このシリーズから兵科適正が導入されはじめる。水軍の適正がやけに高いのは志摩、熊野水軍を指揮した名残か。それぞれの能力値は微増した。
D将星録 ・数値的には全作の天翔記の数値をほぼ継承。また、このゲームから史実において特技をもった武将については職業指定をうけるようになったにも関わらず、具教卿は何故か「剣豪」の職業指定を受けられず。一体全体、コーエーは何を考えとんのかぁ。兵科適正はCからBに!
E烈風伝 ・数値は微減(知謀は激減、これは辛すぎる)。また職業にようやく「剣豪」指定を受ける。
◎ひとこと ・政治、知謀値は低下傾向。戦闘、采配についてはだいたい70を前後に推移している。とりあえずシリーズを経るごとに戦闘型武将としての性格が強まりつつあることは間違いない。具教の能力値については決して満足できるものではないが、ゲームにおいてはそこそこ活用できる武将の部類に入るだろう。今後コーエーが具教の能力を正当に評価してくれることを期待し、今回は筆をおさめるとする。
■第2回「戦闘85、采配75位は当然、具教の実力」−旧具教卿の野望
 待ちに待った烈風伝がようやく発売になり、早速買いに行きました。烈風伝をとりあえずプレイした感想は、将星録のような煩わしさ(戦闘シーンなど)は改善され、かなりサクサクゲームが進行するようになり、操作性は抜群によくなったように思え、なかなかと思っていたわけではありますが・・・。
 やはり冷遇される北畠具教卿の能力値には納得がいきません。今回はやっと具教卿の兵法家としての能力が正当に認められ剣豪指定を受けているものの、戦闘力は相変わらず低い。70なんて数値なにをどう評価すれば、こんな数字がはじき出されるのか疑問でなりません。たしかに、具教卿は信長と戦い、最終的には卑劣な策略では破れたものの、2人が激突した永禄12年の大河内合戦において信長と互角に渡り合っています。大河内城に信長を迎えた具教卿は、少数の兵ながらも、度重なる織田軍の攻城戦を迎え撃ち、これを廃除。50日という長期間に及ぶ抗戦をつづけ信長軍大いにを苦しめたことは史実ですし、また具教卿が剣豪として有名なことも周知の事実。塚原ト伝より唯授一人の「一つの太刀」を授かったほどの実力者なのに・・・。そう具教卿は、軍団を率いる総大将としても、あるいは1人の兵法家としても一廉の武将として評価されてもしかるべきはずのに、戦闘70、采配68とはあまりにもひどい、ひどすぎます。と、信長シリーズが発売されるたびに、いつも同じようなことを喚いているのですが、いつしか具教卿の能力が正統に評価される日を期待しつつ沢山家宝を買い込むことで、具教卿をパワーアップすることが楽しみな大谷でした。
■第1回 「必殺!北畠氏勝利の方程式」-旧具教卿の野
 北畠具教卿はコーエーの歴史シュミレーションゲーム「信長の野望」シリーズにおいて伊勢志摩太守、安濃津城主あるいは大河内城主として登場することは、戦国ファンである皆さんもご存じのことと思うが、その印象といえば織田信長に瞬く間に破れ、滅亡する弱小大名というのが多くの人のイメージではなかろうか。実際、皆さんが北畠で信長の野望をプレーすると、織田家の度々の猛攻に悩まされ国力が付く間もなく滅びることもしばしばでなかろうか。しかし、それは、不遇な地理的環境に置かれた北畠氏の宿命であり、とやかく言っても仕方ない。また有能な才能を持ち合わせた家臣に恵まれない事実も大きい(具教卿の能力評価につては疑問を感じる)。しかし、私は、長年北畠具教卿を敬い、そして幾度もプレーし続けたことにより、北畠氏勝利の方程式なるものを編み出した。今回は将星録における「必殺!北畠氏勝利の方程式」を皆さんに紹介しよう。
●公式1:百地三太夫を取り込め!
 さて、家臣といい、地理的な環境といい不遇の地にある北畠家を存続し、天下に号令する最短手段の第一の布石は伊賀の独立勢力百地三太夫の取り込みである。ゲーム開始早々、使者を速急におくり(晴具自らか具教)、三太夫を見方に取り込もう。取り込みに際しては丁寧に応対すること。粗相があってはならない。丁寧に請えば必ず三太夫は我が見方になってくれよう(ダメならリセットだぁ)。三太夫を加えれば、具教卿だけでは不安な北畠氏の戦闘力が大幅に増強され、後々の戦闘局面においても必ずアベイラビリティーの高い存在となることは間違いない
●公式2:なによりも兵力を増強せよ!
 三太夫を取り込んだ後は、兵力を少しずつ増加させながら、田畑・商業を開発し、国力を付けよう。兵力はある程度無理をしながらでも確実に増強しよう。織田軍の侵攻をいつも念頭に置いておかないと早期滅亡は免れない。また国の影響力を広め、城防御度を高めるための築城も不可欠。軍備とのバランスをとりながら内政にもつとめよう。政治系は、晴具、具教卿、具政を中心にすすめるが、武将の数が不足するときは三太夫など戦闘用武将も積極的に動員すること。但し、その場合は築城など城付近の開発に限り、いつでも城にすぐに戻り、出陣できる体制をとっておこう。織田軍が攻めてきた際、彼方で開墾などしており、出陣できないようではもう取り返しがつかないのである。また、新戦力として在野の九鬼嘉隆をゲットしよう。三太夫と並びかなりと戦力とはなるが、あくまでもこちらは水上戦が主体となる。
●公式3:野戦で敵軍を叩け!
 さて、実際織田軍が攻めてきたら、具教卿、三太夫を中心に戦闘を進めるわけであるが、城内にかなりの兵力がある場合は、三太夫と具教による野戦をお勧めする。それは戦闘力の問題だけではなく、いち早く二人に勲功を与え昇進させるためである。武将は昇進させることにより多くの兵士を持つことが出来る。いくら戦闘が高くても、兵士数が低ければ、どうしても苦戦は免れない。とくに将星録では天翔記のように計略が自由に使えないため(特に籠城戦において暗殺が使えないのは三太夫を家臣に持ちながら非常に残念である)、兵士数はもろに勝敗に影響する。従って、少しでも多くの兵士を保有できるよう、戦力となる武将はこまめに利用し、少しでも早く昇進できるよう計らう必要がある。野戦に当たっては、地形を考慮したり、相手の背後を突くなど頭脳プレーが求められる。力責めでは織田軍にはとうてい勝てないことはおわかりであろう。そして頃合いを見計らい、籠城。このときある程度敵軍の兵力を減少させておく必要がある。籠城戦では野戦で出陣した武将が使えないため戦闘力はどうしても落ちる。特に櫓からの攻撃は戦闘力により、攻撃回数がきまるため、戦闘力の低い武将だけで敵軍を迎え撃つことは至難の業。このとき、相手軍にかなりの兵力が残っているようではまず勝ち目はない。野戦での頑張りが籠城戦に大きく影響するのである。配置は、晴具を本丸におき、残りの武将を櫓に分散する。ただ、木造具政の配置は注意。史実でも北畠家を裏切った逆臣。本丸横の櫓に具政を置くことは止めた方がいいかもしれない。いつ裏切るかわかったものではない。兵士数がすくない、あるいは野戦で相当数の敵兵を討ち取る自身が無い方は当初からの籠城戦をお勧めする。本丸に晴具、本丸横の櫓に三太夫、本丸前の櫓に具教を配置すれば本丸を攻める武将に集中砲火を浴びせることが可能であり、無敵である。他の武将も出来るだけ櫓に配置し、複数回の攻撃が出来るようにしよう。籠城戦の攻撃では敵の本体(黄色の旗付)を集中攻撃すること。本体を崩せば、残りの軍団も消滅するからである。これらの方法を実践することで1度の来襲は回避することが出来るが、複数回の攻撃も場合により予想されるので、やはりなによりも相当数の兵士を擁していることが不可欠である。
●公式4:近江から日本中を席巻せよ!
 以上の内政・軍事と戦闘を幾度か繰り返すうち、武将は昇進し、国力もある程度ついてくれば、次はいよいよ他国への侵出である。お勧めは近江方面、六角義賢あたりである。実際このころには六角氏は滅んでおり、斎藤氏などが占領している場合も多いが、近江には近隣にあまり有力な大名がいないなどの地理的な点からとってみてもやはり、近江はお勧めできる。戦闘は具教卿と三太夫を差し向け、幾度かの戦闘を繰り返し、相手の国力を下げよう。輸送隊も忘れずに。ただ、観音寺城は城門などが多く、かなりの苦戦が予想されるため、相当の覚悟がいる。籠城戦を有利にするため、抜け穴の特技を持つ武将を得たり、抜穴の特技を持たせることの出来る家宝を購入し、具教卿や三太夫などに持たせることは非常に有効で後々の籠城戦にも有意義な結果が期待出来るので是非お勧めする。観音寺侵攻後は周りの情勢を見、東か西に進かはそれから決めたらいい。但し占拠していく城の連絡体制が保つことが出来るよう考えながら戦闘を進めよう。ここまでくれば後はもう、あなたの腕次第である。早ければ、具教卿の時代に、おそくとも具房の時代に全国制覇が可能となるであろう。もし、晴具の時代に統一できればあなたは天才である。初!?の北畠氏全国制覇に向け、健闘を祈る。