エッセイ

(19)現代農法から自然農法への移行の戦略(2007.1.31)
1)現代農法
現代農法を単純化すれば、多化学肥料、多農薬、耕作、完全除草となるでしょう。この方法は誰がやってもある程度の収穫が確保出来るので、比較的万人向きの農法だと思います。もちろん人によってうまいへたの差はありますが、多くの参考書が出ているので勉強すれば上達は望めます。これで何十年もうまく行けば問題はありませんが、4年ほどすると土地が凹んできます。この原因が腐葉土が減ったためなのか土の団塊構造が化学肥料のために崩れたためかはわかりませんが、収穫は激減して行きます。農薬はもともと虫や細菌に対して毒ですから、人間に対しても多くの場合毒になります。しかし、化学肥料は毒として施すものではないので、巷に言われているほど人間に対しての毒性はありません。化学肥料の問題点は、畑やたんぼの土を荒らすことにあります。このため現代農法をしばらく続けた人は、だんだん有機農法に移って行きます。


2)有機農法
有機農法を単純化すれば、有機肥料、減農薬、(浅い)耕作、(部分)除草となるでしょう。多くの篤農家と言われる人たちは、現代農法と有機農法の中間くらいに位置すると思います。完全な有機農法で成功している例は比較的少ないのではないかと思います。それは有機肥料は化学肥料に比べれば、肥料成分が少なく大部分は腐葉土や枯葉などの土壌改良剤に近いものだからです。化学肥料と同じ肥料成分量の有機肥料を畑に入れようとすると体力的にとても大変で体が持ちません。自然農法をめざすにはこの時加える腐葉土等を畑にすきこむ必要はなく、土の上に被せて行けば良いわけです。これを毎年繰り返して行けば3年後くらいには自然農法の土と遜色なくなります。しかしそれにはかなりの体力を必要とします。

3)自然農法
自然農法は有機農法の困難さを解決するために、福岡先生が考案した方法だと私は考えています。その特徴はよく言われているように、無肥料、無農薬、無耕作、無除草になります。これは有機農法で用いる腐葉土を外部から入れずに畑の草を枯らして使用するやり方です。無除草ですが、草を刈っていけないわけではありません。畑の雑草は丈夫で地上部を刈ったくらいではほとんど枯れません。刈った草を草マルチよろしく畑の全面に重ねて行けば良いだけです。もちろんトマトやナス等の残差も最後には細かくして草と同じように扱います。春草は時期がくれば自然に枯れるので刈る必要が無い場合も多いですが、夏草は刈らなければ野菜が負けてしまいます。また、クローバ類は丈が高くならないので野菜がまけない限り刈る必要はないでしょう。私の場合は雑草の種を蒔くといやがられるので特にクローバは蒔いていません。
自然農法と言われるものは他にもありますが、それらのほとんどは有機農法に近いもので、福岡式自然農法ほど徹底していない気がします。例えば川口さんのやる自然農やMOAの自然農法等はたい肥の作り方等の説明が必ず出てきます。もちろん誰が正しいと言うことはないので自分の好きな方法を用いれば良いのですが、、、。

4)現代農法から自然農法への移行の戦略
現代農法から直接自然農法へ進めば多くの場合失敗します。たとえ成功するにしてもそれまでには8〜9年くらいの時間がかかります。これは化学肥料を使って荒れた土が自然農法の土になるまでの時間がかかるからです。そこで現代農法から有機農法を経て自然農法に移行するのが無理のない戦略だと思います。有機農法の土は自然農法の土とほぼ同じものと考えて良いと思います。具体的には、腐葉土を畑の表面に播き、耕すことをやめ、肥料は鶏糞や牛糞等や油粕に変更します。雑草は丈が高くなったら刈り、腐葉土の上に重ねて行きます。腐葉土の投入は2年か3年ほどすれば後は必要なく、毎年草刈りをすれば自然農法の土となります。1年分の草の量は想像以上に多いものです。刈った雑草は2年くらいかかって腐葉土となりやがて肥料に変わります。これは雑草の成分の中のリグニンがなかなか分解しないからです。また有機農法にすれば減農薬も可能になるのでこれを少しずつ減らして行けば無農薬が完成します。化学肥料では肥料の効果が高いので葉や茎は速く成長しますがその分、葉や茎は柔らかくなり虫にやられやすくなります。化学肥料と農薬は対となって効果を発揮します。有機農法では肥料の効果は鈍く、その分ゆっくり成長するので多少は虫に強くなります。自然農法ではさらに肥料の効果は薄く、葉や茎は硬くまた無耕起のため雑草の種類も増え、無農薬のため天敵も増え、特別の害虫が多く繁殖することは出来なくなります。実際にはなかなかたいへんですが、、、。

5)私の場合
私は平成8年頃に初めて自然農法に挑戦しましたが失敗しました。その頃は現代農法をやっていてだんだん畑が凹んで来て現代農法の限界を感じていた頃でした。突然、無農薬、無肥料、無耕作、無除草にしたのですから、野菜が全く出来なくなりました。これを2年くらいやりましたが、いくら趣味とは言え、収穫が全くないと畑仕事もつまらなくなり、結局現代農法に戻りました。平成11年の2月から有機農法に近いところからはじめようと決意して現在に至っています。平成11年からは無農薬と無耕作は完全に守り、除草は地上部を必要なところだけ刈って草マルチのようにしました。植物は結局のところ太陽の光の奪い合いになるので、小さいうちは苗の近くの草は抜いたり刈ったりします。肥料は発酵牛糞や鶏糞を少し使います。現在でも発酵鶏糞は使用しています。枝豆やモロッコ等一部の野菜を除いてほとんどのものは出来ます。ただ、白菜やキャベツは良い対策が無いのでネットをかけています。

(18)種の播き方について(2005.7.16)
ここ数年スナックエンドウやインゲンの発芽が良くなくていろいろ困っていたのですが、うまい方法が見つかったのでまとめておきます。特にスナックエンドウ等はここ数年の間、発芽状態が良くなく、それが虫による食害なのか発芽がよくないだけなのかよくわかりませんでした。これまでは支柱との関係でスジ播きをしていましたが、うまくいきませんでした。そこで種の播き方を工夫してみたところたいへんうまくいきました。それは、直径5センチ位の円形に播きます。無駄な種は必要になりますが、自然農法は基本的には種だけは多量に使いますからしかたがりません。その後、インゲンやオクラやきゅうりやトウモロコシなど全てうまくいくようになりました。これがなぜうまくいくのかを考えてみることは興味あります。ほとんどの植物は自分の根だけで水分や栄養を吸収できるわけではありません。実際には毛細根の周りにいる菌根菌の助けを借りて、栄養や水分を吸収しています。とくに発芽初期はこの力が大きく作用します。これを菌根菌の立場から見ると苗が小さい時にはただ一つの苗の根に依存しているのは危険極まりないわけです。菌根菌の方も自分が生き残るためには多くの苗と関係を保てればより安全なわけです。発育初期の菌根菌は菌糸がそう長くないから筋播きでは不利で、円形の方が有利となります。もちろんダイコンなどのほとんど菌根菌の力を必要としない植物は別ですが、豆科を始めとしてほとんどの植物は自然農法のような肥料の少ない農法を行う場合は特に種の播き方さえ重要ではないかと思われます。

(17)持続型農業について(2005.7.15)
地球全体が循環型社会に変換してかなければ生き残る道がない以上、いろいろ紆余曲折はあろうが地球全体の破滅をうまく避けて循環型社会へ変換していくことを信じたい。その時には農業もまた大きくそのかたちを変えていかなければならないと思われます。例えば化学肥料は肥料そのものとしては、巷で言われるほど悪者ではない。殺虫剤や殺菌剤は明らかに毒性の高いものではあるけれど、化学肥料そのものは毒性のあるものでもないし、植物は肥料として無機物質になったものを吸収する場合が多いから有機肥料と結局は同じことではある。しかし循環型社会では、できるだけ化石燃料を使用しないことが望まれるので、その意味では持続型農業では使える肥料は有機肥料のみと言うことになろう。また、肥料の環境汚染を考えれば化学肥料は濃縮された肥料のため、施肥のしすぎにより環境汚染を生じやすい。有機肥料ももちろん環境汚染はありうるけれど、もともとそんなに濃い肥料ではないこと、有機物のために環境の中で分解や消費されやすいので環境汚染と言う点からも有機肥料が推賞されるようになろう。我々の生活は昔に戻ることはできないけれど化学肥料を使う前の長い農業の歴史を持っているのだから、それらの知識はこれからの持続型農業の大きな参考になるはずだ。ところで、ここで福岡式自然農法は良く考えてみると、この持続型農業の手本みたいなものではないだろうか?無耕起、無農薬、無肥料、無除草という目標は何と持続型農業の本質を示していることだろう。これまで、私が何でこの福岡式自然農法に強くひかれるのかよくわからなかったけれど、最近その理由がわかるようになったような気がする。それは福岡式自然農法の目指すものが持続型農法そのものだからなのだろう。農業は確かに自然破壊ではありるけれど、福岡式自然農法でやると少しずつではあるが作物を作りながらなおかつその土地は豊かになっていく。その意味では自然破壊になっていない、驚くべきことではあるが、、、。

(16) 循環型社会へ(2005.7.13)
テレビや新聞のニュースや学会等の最近の研究を見るにつけて感じるのは、短期的視野では素晴らしい発明(例えば生産量を倍増できる方法とか)、しかし長期的視野では破滅への超特急と感じるのものが多いこと。21世紀はまちがいなく循環型社会への改革が行われなければ、地球全体として破滅への道しか残されていない、そういう世紀である。これを、いくつかの大きな柱を中心に考えてみると次のようになる。もちろんこれらの間には密接な関係がありそれぞれ独立に解決できるような問題ではない。
1)エネルギ-資源等の鉱物生産について
石油は今世紀のなかば2050年までにおそらく枯渇するだろう。しかし、ここで枯渇と言う言葉は慎重に使わなければならない。石油は掘削にお金をかければ、もっと長くまで生産できるので全くなくなると言う意味ではない。掘削にお金がかかるので、相対的に石油の金額が上がり、天然ガス、石炭に置き換わるだろうということである。ただし、天然ガスの埋蔵量はそう多くはない(メタンハイドレートを除けば)ので、石炭がやがて主流になるだろう。また、石炭から今日の化学製品を作る技術は基本的には現在あると考えて良いのでこの移行はそう大きな問題とはなるまい。その点では、エネルギー危機なるものは来ないだろう。問題は、これら化石燃料の燃焼による環境負荷が地球の再生能力を越えてしまうことにある。石油以外のいわゆるレアメタルと呼ばれる希少金属は今世紀中に良好な鉱石がなくなり、価格が極端にあがるだろう。
 したがってこの分野でめざさなければならないのは、これまで考えていた以上の極端な省エネ対策であろう。また、レアメタル等も完全な回収ルートを作らなければなるまい。
2)人口問題
循環型社会への改革で最も難しいのが人口問題だろう。しかし、最も重要なのも人口問題だ。欧米の先進工業国と言われる多くの国はこの点で問題ないが、それ以外のアジア、アフリカでは人口増が国を崩壊に追い込むことになろう。特に、中国とインドがたいへんだろう。地球全体としては、80億人くらいが文化的な生活を送れる限界値のようだ。最も富が公平に分配されることを前提としてだが、、、。
3)持続型工業
社会の発展の原動力として重要ではあるが、循環型社会では目指す方向は現在とかなり変わる。生産量の増加という方向はむしろ破滅への道につながる。生産の効率化、エネルギーの効率化、環境負荷の減少、リサイクルや修理系統の整備等が目指す方向となろう。失業者の増加や会社の得た利益の社会への公平な分配等の問題が生ずるだろう。ここで得た富を種々の問題解決に振り向けなければ、これまた地球全体としては破滅への道につながる。
4)環境汚染
地球温暖化、オゾンホール、異常気象、環境ホルモン、酸性雨、酸性霧等はまだまだ地球全体としての環境汚染としては序の口で、これからいろいろ予想していない汚染が地球規模で起こってくるだろう。我々の知恵と技術で克服していかなければ、破滅への道につながってしまう。取り組みが早ければ、循環型社会へ移行できる機会は残っている。残された時間はそう長くはないのだろうが、、、。
5)食糧問題と持続型農業
一般に食糧と言われるのは、穀物、肉、魚の3種類である。
 このうち肉類は主として豚肉、牛肉、羊肉が大部分であるが、穀物を食料として育てるものはむしろ穀物の中に入れるべき。それ以外の牧草を食べて肉を提供する牛と羊に関しては地球規模で放牧地はすでに一杯となっている。大体1985年頃から一人当たりの食肉生産量は増えていない。それどころか、むりやり頭数を増やそうとすために土地の劣化が進み、牧草が生えない土地が増えて来ている。
 魚は世界規模での漁獲量が1988年頃を境に既に減少して来ている。魚群探知機等の発達により文字どおり一網打尽に魚を取ることができるようになり、現在では最も高価なタンパク源となっている。もちろん今後の人口増に対して増収は見込めない。収穫を増やせばそれはやはり地球規模での破滅につながっている。
 従って、今後増産の可能性があるのは穀物類のみと考えて良い。穀物は単純には米と小麦とトウモロコシが大部分と考えて良い。しかし、地球全体としては、穀物耕地は1980年頃を境に減って来ている。人口一人当たりの穀物耕地が0.07haを切った国は穀物を輸入するか国内に餓死者が出るかいずれかとなる。2030年頃にはこのような国はアジア、アフリカに続出する。ただし、援助すべき穀物が地球上にはない。やはり、人口の増加を国ごとで押さえられなければ悲惨なことになるだろう。だからといって多量の化学肥料を与えて穀物の生産をあげるというこれまでの方法には既に限界が来ている。化学肥料の世界的な使用量は1988年くらいを境に減少している。これは、これ以上投入しても収穫が増えないために高価な化学肥料の使用が減って来ているためである。また、過度の化学肥料と消毒、殺虫剤等の使用により穀物耕地の劣化が進み生産放棄地が増えている。農業も持続可能型農業に変革しなければ地球規模での破滅は避けられない。持続型農業については項目を別にしてまとめたい。

(15)心貧しきものは幸いなり、天国は彼等のものである(2004.3.22)
 このタイトルをキリスト教でどのように解釈するのかは良く知らないですが、福岡先生流に解釈すれば次のようになるでしょう。欲望の少ない人や博学でない人は、実は幸せな人なのだ。なぜなら、彼等だけが覚者の世界へ入ることが可能だから。洋の東西を問わず確かに、キリスト様や老子様やお釈迦様等の福岡先生が覚者,聖人と言われる人々の言うことには多くの類似点があります。このタイトルなどはその典型です。すなわち孔子様のような博学な人は、教養が邪魔して覚者になりにくいとの見方はたいへんに面白い。これは、同じ程度の能力の人を教えていても、教わる人の性格や態度によってひどく成長に差が生ずることに似ています。注意して観察してみると、自分は何も知らないと知っている人あるいは謙虚な人は、白紙のカンバスの上に絵を書くように成長は速く、自惚れた人や物知りは、下絵が書いてあるカンバスに絵を書くようで成長が遅い。無知の知はわかったようで、実際には自分がその渦中にいるとなかなかわかりにくい。私は、無知の知で有名なソクラテスだけでなく、樽の中の哲学者ディオゲネスもやはり覚者ではないかと思います。

(14)悟りは覚者だけのものか?(2004.3.10)
 福岡先生の著書(”無”第2巻 無の哲学)によれば、悟りを開いた覚者と俗人の差は大きく、俗人はほとんど覚者の言うことを理解できないと書いてありますが、これは本当なのでしょうか?俗人は、確かに覚者のようにすべてのことを悟ることはできませんが、覚者の悟りの言葉の中の真実の持つ重みを少しは感じることができるのではないでしょうか。たいへん難しい、福岡先生の本が売れたり、それをもとに自然農法を志す人が出たり、聖書が売れたり、老子の本が多くの人に読まれたりするのは、何よりの証拠のような気がします。お釈迦様やキリストはその考えを書物に残すことはありませんでした。弟子達がその教えを書物にまとめたものです。それでも一般の人々が何か感ずることがなければこれほど長い時間を経て、これらの教えが現代に伝わることはなかったのではないでしょうか?
 福岡先生の教えや書物は、簡単なようでたいへん難しい。その本当の心を理解することは、ほとんど不可能に近いのではないかと思うことがありますが、それでもその中に含まれる真実の重みと言うか、そんな何かを強く感じることがあります。私ははじめは、自然農法についてあまり信ずることはできずに、実験をしてみようと始めました。そして最近、自然農法がうまくいくに従って、福岡先生の言うことには多くの真実があることを深く感ずるようになってきました。

(13) 緑の革命と科学技術 (2004.3.9)
 緑の革命とは東西冷戦のさなかに、アメリカがインドや東南アジアの共産化を防ぐために、各国の食料の自給をめざして投入した”奇跡の小麦”や”スーパー稲”のなした食料自給のための活動をさしています。イデオロギーの背景はありますが、貧しいインドや東南アジアの食料の自給を目指し、多収量品種の麦や米を投入し、成功した点では素晴らしい事業だったと思います。中心をなした科学者がノーベル平和賞を授与されたのは当然のことだと思われます。
 話がこれですめば問題はなかったのですが、成功は20年ほどで終わり、1980年代に各地に問題が生じてきました。”奇跡の小麦”や”スーパー稲”等の多収量の品種は、当然のこととして多くの水と化学肥料を必要としました。灌漑用水のやり過ぎから冠水(水が畑から引かなくなる現象)や地中から吹き出る塩害等により収量は格段に落ちたことです。また、土地そのものが疲弊して食料の生産ができなくなってきたことでした。その他にも、灌漑用水の多量の汲み上げにより、地下水の枯渇などの環境破壊も進んできました。穀物のつくり過ぎから土地が疲弊していくことは、実は古代からの人間の歴史では数限り無くあったということが、古代史の研究からはっきりしてきました。古代のインダス文明や黄河文明が滅びたのも、全く同じ原因であることが花粉考古学から明らかになってきました。福岡先生の”今まで農業に導入した科学技術でほんとうに役にたったものは何にもない”という言葉が重い響きを持ってくるのです。
 私達はここで進歩とか発展とか言う言葉に酔ってはいけないと思います。多収量の米や麦を導入した過程では、収入が2倍や3倍になり世の中は裕福になり、人々も科学者達も進歩や発展に何の疑いもありませんでした。しかし、その過程を今反省してみると、それは明らかに進歩や発展ではなくて、破滅への道を加速したにすぎませんでした。もちろん結果論なのですが、、、。全く同じようなことが、現在の我々の中でも進行しているに違いありません。
 確かに科学の応用は、すべてが片手落ちと言えるかもしれません。農業に導入した科学技術だけではなく、すべての科学技術は長期のスパンで考えれば、全く無駄なものばかりなのかもしれません。よく考えてみると、自然科学の発見というのは自然の中のほんの一部の真実を見い出したということであり、それ以外のものではありません。したがって、その一部の発見のうちで都合の良い部分だけを利用して行う科学技術の応用ではマイナスの部分についてはあまり考えていません。考えていないというよりは、そこまで人間は認識できないという方が正しいのかも知れません。福岡先生のいう長期的な視野でうまくいった科学技術は全くないという認識は辛いけれども真実だと思います。科学者のひとりでありながら、このような事実を認めなければならないことは、科学者の自己否定であり、ほんとうに辛いものがあります。それでも科学者は真実ならば、それを受け入れないわけにはいきません。福岡先生の言うように、人間は自然の中でその循環を乱すことなく、ひっそりと欲望を小さくしながら生きていくのが、最もまともな生き方なのかもしれません。

(12)なぜ、福岡先生だけが自然農法にたどり着いたのか?(2004.2.20)
 自然農法について確信らしきものが最近得られるようになって、なぜ福岡先生だけが自然農法に気がついたのだろうという疑問が頭をかすめるようになってきました。その疑問に解答を得ようと思い、著書”無”第2巻 無の哲学を読み始めました。私は紹介はしていますが、実はこの第2巻をこれまで真面目に読んだことがありませんでした。何度か読もうという努力はしましたが、難解で退屈でとても最後までは読み進めることができませんでした。今回は、表題のような疑問を持って読んだので、たいへん面白くむしろ興奮しながら読み切ったという感じでした。なぜこの本の題名が無であって自然農法ではないのか等、いろいろなことがわかりました。忘れないうちにそれらをここにまとめておこうと思います。
 福岡先生は始めに自然農法を発見して,それから独自の哲学を考えたのだろうと私は思っていました。事実は全く逆で、はじめに無の哲学に目覚め、その後に自然農法を実践した。自己の発見した哲学の正しいことを示すために、農業で実践してみせたというのが実際のようです。だから、著書でも哲学が先で、自然農法は3巻めに出てくるのでしょう。哲学の発見あるいは悟りの境地に達するのが先で、後で自然農法を実践するというのは少し分かりにくいかもしれませんが、この点では私は良くわかります。私は科学者であり教師でもあるのですが、自然科学ではいろいろな証拠を集めて実証的にやれば新たな発見にたどり着くかのような授業をやります。でも実際に、本当に新しいことを発見する時はそれは真っ赤なウソです。糸口すら見えずにしばらく苦しみながら(これが1年の時もあり2年以上の時もありますが)、ある日突然にあたらしい発見、これはほとんど確信に近いものに達するというのが本当のところなのです。誰かの随筆か何かで、彫刻の名人の話がでていましたが、それに似ています。彫刻の名人があまりに素晴らしい仏像を彫るので、どうして名人はそのような素晴らしい仏像が彫れるのですかとたずねたことがありました。名人は、自分が彫っているのではない。自分には木の中に仏像が見えるのだ。だから、木の中から仏像を取り出しているだけなんだと答えたと言います。悟りの境地に達した福岡先生は、その結果として自然農法の確信がはるか昔から見えていたのだと思います。その後の行動は、この確信を現実の形として取り出す作業だったに違いありません。
 そこで結論なのですが、他の篤農家の中にも同じような考えの人はたくさんいたのだと思います。ただ、確信に近いものを持っていたのは福岡先生だけだったのではないでしょうか?新しい発見は、それが革命的であればあるほど周囲から強い反発を招くものです。それを振り切って孤独の中でその発見を発展させるためには、この強い確信がなければ実際にはとても不可能です。新しい発見をする(たぶん悟りも同じと考えられますが)というのは端で見ているほど気楽なことではないのでしょう。この種の確信だけを自らの糧として、多くの偏見と孤独に耐えていった結果として得られるものなのでしょう。その意味では、自然農法は福岡先生だけにしか体系化できなかったのかもしれません。

(11)自然農法によるソラマメ栽培(2004.5.9修正)
 ソラマメも自然農法で完全に可能になったので、忘れないうちにポイントをまとめておきます。
 大切なことは3点ほどあり、これを守ればうまくいきます。第1点は支柱のことです。そら豆は茎が弱い割には長くなるので支柱のうまい下手がポイントです。また、茎が混んでいるので1本づつに支柱をつけるのは難しく、できても風通しが悪くなります。本葉4枚くらいの高さに合わせて周囲を囲う支柱が便利。さらに、この支柱に外側の茎を固定すれば、全体的には風にたいへん強くなります。第2点は花が咲いた頃に、先端を切ることです。指導書等には、丈が高くなるなら先端を切った方が良いなどと書いてはありますが、自然農法ではこれは絶対に必要です。本葉7段以上は実が成らないので先端を切ります。これがアブラムシを防ぐ最も優れた方法です。アブラムシも最初の緑色の頃は口先が弱く、先端の柔らかい部分からしか植物の汁を吸えません。この頃に全ての先端を切ってしまえばアブラムシは生きていけません。しかしこの頃を逃すと、アブラムシは黒くなって口先も堅くなり先端以外からも汁を吸えるようになります。それからでは全く防ぐことは不可能です。第3点は摘果です。1本の茎には4つくらいのサヤを残してすべて摘果します。実が小さいうちにやった方が効果的です。これをやらないと小さい実しか成らず、実際上、食べられるものはたいへん少なくなります。以上の3点を守ることにより、殺虫剤等を全く使わずに多くの収穫を得ることができるようになりました。

(10)有機農法と自然農法(2003.4.5)
有機農法も自然農法も目指すものは全く同じで、落葉樹の森の土です。しかし、その過程はかなり違います。
 有機農法はかなり分かりやすく、そのため多くの農家や家庭菜園をやっている人も多くいます。その基本的な立場は、収穫物とその残さ(芋がらやトマトの残さ)に必要な肥料分を種々の有機肥料を施すことにより行うことです。最も理想的な農法は落葉樹の森の土(堆肥)を畑に持ち込むことなのでしょう。しかし、実際に行うとたいへん難しいことがすぐわかります。それは、堆肥の場合、速効性の肥料の部分は少なくそのため、収穫物とその残さと同じ量の堆肥を持ち込むには年間でかなりの量が必要となります。これはかなりの体力や人手を必要とします。したがって現実には難しく、堆肥と鶏糞や牛糞や化学肥料を併用している場合が多いのです。
 自然農法は有機農法の反省から出発しています。師としている福岡正信先生も、始めは有機農法を目指し、挫折しています。その中で福岡先生が発見したのが自然農法です。その基本は”畑には何も持ち込まない、何も持ち出さない”ということです。落葉樹の森の土は、誰が耕したわけでも肥料を施したわけでもありません。結局、人間が何も手を加えない方が、土は豊かになるのだと言う福岡先生の発見であり確信です。もちろん畑や田圃では収穫物を取り出すわけですから、そのままと言うわけにはいきませんが、基本的な考え方を守ることは可能です。落葉樹の森の土が豊かなのは、枯葉と雑草というか下草の枯れたものが蓄積して長い間に腐葉土となったものだからです。化学的に分析すれば、長い間の太陽エネルギーがリグニンやセルロース、ヘミセルロース等に貯えられ少しずつ分解してゆくような土に変わったということでしょう。全く同じことを畑で実現しようというのが自然農法です。したがって、収穫物以外の芋がらやトマトの残さなどは燃やすことなく刻んで畑に戻します。刻むのは腐葉化を早めたり、後の種まき等を楽にするためです。また、雑草等もできるだけ除草することなく、地上部を定期的に刈って畑に戻します。それだけでなく収穫が終わって次の苗が育つまでや冬の間などに畑を更地にすることなく積極的に雑草類を育てます。できればレンゲやヘアリーベッチなどの豆科の雑草が窒素の固定化という意味では良いのですが、太陽エネルギーを貯えるという点から考えれば何でも良いわけです。大切なことは、畑のできるだけ全面を緑にして太陽のエネルギーを受けることです。これらのことから、無肥料、無除草、無耕起、無消毒という4大指針が生まれるのです。無消毒や無殺虫というのはやはり難しいことですが、菌類にしても害虫にしてもそれに対抗する菌類や虫が同時に存在するためにあまり特定の種だけが繁殖しないという原則に立っています。それだけでは実際には難しく、確かに育てにくい作物もありますが、いろいろ工夫をして避けていくことを基本にします。また、無肥料の原則も、収穫物を持ち出す分だけは有機肥料を施肥してよいことになります。具体的には、収穫物の重さの約20%(80%は水分)くらいを乾燥有機肥料で補ってよいわけです。収穫物の乾燥部分は有機肥料と同じものと考えて良いでしょうから。このくらいの量であれば有機物で肥料を与えるのには労力的にはそれほど大変ではありません。このようにして普通に農業を続けていれば自然に畑は豊かになっていくわけです。有機農法に比べて少々分かりにくいですが、その原則は優れており、実際上もたいへん簡単で省エネでできます。ただし、害虫や益虫に関する深い知識や雑草に関する深い知識を必要とします。

(9)畑の中の熱力学(2003.4.1)
畑の中で行われることについて、熱力学的な検討をしておくことはたいへん重要です。熱力学には重要な法則が2つあります。
 第一法則は、系全体のエネルギーは一定ということで、広い意味でのエネルギー保存則です。ただし、ここでいうエネルギーには熱エネルギーも光エネルギーも化学的なエネルギーや電気的エネルギーも含まれます。畑では肥料と太陽光エネルギーが入ってくるエネルギーで収穫物(化学的エネルギー)と流れ出る肥料や熱エネルギーが出ていくエネルギーです。この差し引いたものが畑に残るエネルギーということになります。
 熱力学のもう一つ重要な原則は、もう少しわかりにくく、上記のエネルギーのうちで熱エネルギーは特殊で、すべてのエネルギーは最終的にはすべて熱エネルギーに変化して、使い物にならない熱エネルギーに変わってしまうという原則です。熱力学第一法則では熱エネルギーも機械的なエネルギーもすべてのエネルギーはそれぞれの換算比率で同じものであるという考え方ですが、熱力学第二法則は熱以外のエネルギーから熱エネルギーへは100%変換できますが、熱エネルギーからそれ以外のエネルギーには100%では変換できない、結果としてすべてのエネルギーは熱になってしまうという原則です。特に第二法則は、省エネなどのエネルギー効率を考える時には大切になります。
 いま畑を中心に考えると、入ってくるエネルギーと出ていくエネルギーの差し引き、つまり畑に残るエネルギーが最も多くなるように行動するのが良い畑にする近道です。入力エネルギーのなかで、太陽の光については畑の場所によって決まってしまうので一定と考えて良いでしょう。肥料は化学エネルギーで、できるだけたくさん持ち込んだほうが良いことになります。ただし、化学肥料として持ち込むと不必要な硫酸イオンや塩化物イオン等も同じ量だけ持ち込むことになるので、実際には良い畑にはなりません。また、有機肥料といわれている牛糞や鶏糞等は無機系のイオンを多く含んでいるのであまりたくさん入れるのは同じように畑には良くないでしょう。良いと考えられるのは枯れ葉や枯れ草で作った堆肥で、たくさん持ち込んでも全く問題はないでしょう。出ていく方のエネルギーのうちで、収穫物を持ち出すのはしかたないこととして、それ以外のもの、芋がらやトマトやナス等の収穫が終わった後の残さを持ち出すのは、多くのエネルギーを持ち出すということになることに注意して下さい。また、稲藁やもみがら等を田圃で焼くのも同じように、多くの化学エネルギーを熱エネルギーにかえてしまう行為で、田圃には最悪のことになります。また、流失する肥料についても出ていくエネルギーとしては大きく、特に水溶性の無機イオンを中心とした肥料は流失量が激しくなります。ここでも有機肥料は徐々に分解して水溶性になるので有利と考えてよいでしょう。このようなことを総合的に考えると、福岡正信先生の”畑には何も持ち込まない、何も持ち出さない”と言うのはたいへん合理的な考え方だとは思いませんか?特に芋がらやトマトやナス等の収穫が終わった後の残さは、大部分がリグニン、セルロース、ヘミセルロースなどで、これらはエネルギー的にはガソリン並に高い物質です。もちろんこれらは直接は肥料にはなりませんが、少し分解すれば良い有機肥料に変わります。植物の本体を作り上げるのには、これら残さが分解したものがエネルギー的に最も有利なのは後述の通りです。省エネルギーの基本原則は、エネルギー的に高い物質はその持っているエネルギーをなるべく熱という形で放出させないようにすることです。燃やさずに少し分解してそのまま植物に吸収されれば、大部分の化学エネルギーはそのまま植物に引き継がれることになります。また、多くの小動物の食料として段階的に使用されていくのも有効利用と言えるでしょう。

(8)植物はなぜ有機肥料を好むのか?(2003.3.25)
これについてはごく最近その理由がわかったのでここにまとめたいと思います。植物は根からどの程度の大きさの物を吸収できるのでしょうか?もちろん無機系物質のアンモニウムイオン(NH4+)や硝酸イオン(NO3-)やカリウムイオン(K+)等の金属イオンは根の細胞膜から吸収されます。化学肥料が有効なのはこのためです。では有機系物質は根から吸収されるのでしょうか?アミノ酸等の小さい有機系物質は根から細胞膜を通して吸収されますが、もっと大きなタンパク質は根から吸収されるのでしょうか?答えはyesです。ただし、吸収のされ方は細胞膜を通してというかたちではありません。タンパク質の1種であるヘモグロビンの吸収について詳しく調べられています。それによるとヘモグロビンの吸着した細胞膜は内側にくびれて、そのくびれが小胞として切り離され細胞内に取り込まれます(岩田進午著”土は生命の源”創森社p.106-107)。また、無機系窒素肥料(硝酸イオンやアンモニウムイオン)と有機系窒素肥料(ヘモグロビン)を同時に施すと根は有機肥料に伸びることも確認されています。では、植物の立場からなぜ有機系肥料のほうが有利なのでしょうか。これは、植物の中の熱力学を考えればあたりまえのことですが、詳しくは別項目で説明するとして、簡単には次の通りです。植物の体を作るには硝酸イオンやアンモニウムイオンと水と二酸化炭素と太陽光があればできるのですが、タンパク質と水と二酸化炭素と太陽光でもできるわけです。この場合どちらが有利かと考えると、タンパク質は完成品にたいへん近く、少しの太陽光で植物の体ができます。すなわち有機系肥料のほうが植物にとって省エネになるわけです。これが植物が有機肥料を好む理由です。

(7)自然農法によるトマト栽培(2002.11.21修正)
化学肥料をやり殺虫剤や消毒剤が使えれば、多くの本に書いてあるように確かに、わき芽をを摘んで1本仕立てにするのが最も安定した収量を期待できます。しかし、自然農法のように地中に多くの肥料がない状態で1本仕立てにすると、トマトの元気がなくなり成長が遅くなり、害虫にやられやすくなり多くの収量が期待できません。
このたび、やっと自然農法でトマトの栽培がうまくいったので誰でもできるようにその方法をまとめます。
1)種まき
種は2/25にまき、温室にて発芽は3/12。温室に加温装置はないので簡単なビニールの温室と同じ。
発芽して双葉から本葉になった頃には温室から出して日によく当てて育てます。ピーマンやナスやトマトは熱帯のものなので日本ではどうしても温室で苗を育てなければ収穫期間が短くてつまらない。栽培はとろ箱が良くポットで育てると大きくなりません。培養土としては腐葉土がもっとも良く安いです。
2)移植
4月の末から5月の連休時がベスト。種から育てていれば苗はたくさんできるので多めに植えます。畑でだんだん間引きをしていきます。購入苗の時はもったいないですが多めに購入し、少し密植します。木の成長とともに間引いていき最終的には通常の本数にします。はじめに密植にするのがキーポイントです。
3)わき芽について
わき芽はいっさい摘みません。脇芽にも添え木を立てていきます。ナスの3本仕立てと同じように多本仕立てにしていきます。これにより成長のスピードはたいへん早くなります。添え木は真直ぐに立て、あまり高くない方(1m程度)が無理がありません。その後は、ぶどう棚のように棚式にして横に這わせるのが良いようです。
4)害虫対策
ここでの主なトマトの害虫は芯食い虫と1cm位のカメ虫です。芯食い虫は防ぎようがありませんが密植していれば防げます。芯食い虫にやられた苗はしおれますからすぐに分かります。それを根から抜いて1cm位に刻んでいきますと虫がみつかります。万一見つからなくても殺せることになります。今年は第1農園にて4匹殺しました。カメ虫は夏になって出てきますからそれまでに木を大きくしておけば問題はありません。いつまでもたくさんついていますが、木の大きさに比べれば少ないので問題ありません。また、わき芽を摘まないので枝間は込み合っており、その間に多くの小さいクモが巣をつくっており、カメ虫もそのえじきになっていてあまり増えません。いままでクモがなぜ働かないのか不思議に思っていましたが、小さいクモには小さい足場が必要なわけです。
5)成果
最終結果は第1、2農園を含めて合計で、トマト119個、ミニトマト1350個(2001)、トマト269個、ミニトマト1374個(2002)でしたが、これは実際に収穫できたものだけで虫にやられたものは含みません。
6)わき芽はなぜ出るのか
植物はけっこうぎりぎりのところで実を結ぶわけで、全く必要としないわき芽をなぜ出すのか?これはトマトを栽培し始めた頃からずーっと不思議に思っていたことですが、良い解答が見つかりませんでした。昨年ぐらいにその解答を見つけたような気がします。脇芽はトマトの害虫対策であるということです。どこかの枝に虫がついていなければ実をつけることできるからです。これが、わき芽も伸ばそうとした理由です。

6) 近代農法はほんとうに合理的で効率の良い農法なのだろうか(2000.4.6)  
本当の生産とはいったい何なのだろうか。生産とは基本的には太陽のエネルギーを地上に貯えることである。一定の農地に最も多くの太陽エネルギーを貯える方法が最も合理的で効率が良い農法であることは誰でも賛成していただけると思う。これは太陽電池で考えれば全面に敷き詰めるのが最もおおくの電力を生産できることから自明である。ところが、近代農法は初期の苗のうちはとても農地全面を被っているとは言えないし、生産が終わった後の次の収穫までは更地にされることが多い。生産のすべての時間を合計するとして、半分か1/3位しか農地が生産に寄与していない。  これに対して自然農法ではほとんどすべての農地に植物が生えており、通年で農地の全面で太陽のエネルギーを貯えていることになる。もちろん目的作物以外の植物、例えばクローバ類が生えているのだから目的作物の収穫は初期の数年は少し劣るのは当然だろう。しかし、自然農法では外部から肥料を加えるわけではないのでそうめくじらをたてることはあるまい。むしろ、この脇でせっせと太陽エネルギーを貯えるクローバ類こそが数年後には有機肥料に変わっていくのである。近代農法による生産が農地の半分か1/3ですむのだから、クローバ類から変化した有機肥料が十分畑にあふれるようになれば脇にクローバが育っていても目的の生産物の収量はやがて落ちなくなるだろう。このことは、福岡先生の著書のダイコンやしゃくし菜の収穫の写真などを見ると雄弁に語っている。また、ある程度の年間降雨量のある日本のような土地では、草原にはやがてかん木が生え最終的には大きな木の繁る森という最終的な極相に変化していく。これは、明らかに太陽のエネルギーが貯えられて、その土地の有機肥料が増大していく過程を示している。以上のことを総合して考えると、私には自然農法こそが最も合理的で効率の良い農法のように思える。近代農法はそれにひきかえ随分と荒っぽい農法としか思えないのである。


(5)太陽エネルギ-の有効利用は太陽電池だけか(98.12.31)
太陽エネルギーの有効利用として巷で言われるのは太陽電池だけだが、片方で雑草や落ち葉を平気で燃やしているのは随分おかしな世界だと思う。太陽電池はそれ自体ずいぶん高価だし、得られる電気を貯えておくにはさらに高価なシステムが必要だ。一方、雑草や落ち葉や緑肥や樹木など植物はたとえ枯れてもセルロースやリグニンなどエネルギー的には高い物質である。これらを燃やさずにゆっくり分解してゆけば2-4年位の時間はかかるがその高いエネルギーを利用することができる。もちろん、太陽電池と違って先行投資はゼロである。

4)なぜライ麦を植えるのか(98.12.31)
もちろん緑肥として植えているわけです。緑肥はマメ科のクローバやアルファルファが良いのですが問題もあります。福岡先生の言うラジノクローバは入手できないので、サカタから白や赤クローバをずいぶん試しましたが、発芽は春先であること、雑草に負けてしまうことが多かった。昨年から晩秋や冬に白菜、キャベツ、さつま芋のあとにライ麦を播き冬中育て3月か4月に刈り取り緑肥としました。ここ三浦半島の南部はたいへん暖かい所ではありますが、それでも12月から3月ぐらいまでは畑は遊んでいます。4ヶ月は1年の3分の1にもあたります。冬は比較的晴れることが多いし、雑草さえ生えないので更地になることが多く、太陽エネルギーの有効利用としてライ麦はたいへん重要です。

3)自然農法を始めるなら
自然農法といえども農業が基本ですので、まず通常の農業を学ぶ必要があります。なすやトマトやキャベツや白菜などと米がすべてそれぞれ普通の方法で作れることが必要だと思います。あまり言われていないことですが、農業はたいへんな技術の集積であり、基本をマスターしていなければ何をやってもその後はうまくいきません。

その後、やはり自然農法に興味があれば、自然に土をどのように良く作るかを考えるようになると思います。我々が植物にしてあげて良い収穫をあげるには、結局のところ良い土をつくることしかありません。良い土の理想とするべきは落葉樹の森にある土です。もちろん畑地で森の土をつくるのは無理がありますが、それを目指すのが自然農法だと思います。

一見簡単そうですが、そこまで道のりにはたいへんなことがあります。それは、技術的なことではなくて経済的な問題です。現在、農業は現金収入を得るには最もむずかしい職業です。商品経済にのるように農業生産をするには多肥料、多消毒、単一生産で効率を上げなければなりません。日本ではまわりが豊かですから、やはり現金が欲しくなるし、子供の教育等を考えるとしかたないかもしれません。しかし、このような生き方は自然農法とは全く逆です。従って、日本で自然農業の考え方が生まれ、福岡さんもいろいろな人に教えたのに誰も成功していないようです。MOAの岡田さんや有機農業の大平さんとか山岸会の山岸さん等は全部、福岡さんに教わっています。でも、誰も福岡さんの哲学を受け継ぎませんでした。外国では自然農園を成功させている人は多いのに残念です。外国では日本ほどまわりが豊かでないことが逆に幸いしていることもありましょうが。

ほんとうに自然農法をやりたければ、農業以外にも現金収入の道をつくることが大切です。巷がどんなに自然食品が良いと言っても、商売が成立するとは限りません。くれぐれもマスコミの無責任な誘いに乗ってはいけません。


(2)アマゾンの森林農業について
ブラジルのアマゾン流域でも環境破壊は著しいそうで、特に大農法によるプランテーション経営がうまくいかなくなった後の環境破壊は甚だしいらしい。大学の先生や人々は森林の一部に7層の樹木や作物(1層カボチャや米や豆、2層背の高い野菜、3層バナナ、4層カカオやアセロラ、5層レモンやオレンジ、6層ヤシ類、7層マンゴーなどの高木樹)を作る立体的な森林農法の良さに気がつき始めたという。この農法は実はこの地域で原住民の人々が昔から行っていた農法らしい。朝日新聞(平成10年6月11日社説)より。

1)定年帰農について
最近、定年帰農といって、定年になったら田舎にこもり、農業を行う人々が増えているという。このような場合でも、それぞれの形の農業があるのだろう。こういう人々の大部分は年金もあり、農業で多くの収入を期待しなくてもよい人が多いだろうから、ぜひ森林農法を行って欲しい。持続可能な農業こそが真の農業であり、それ以外は農業とは言えないのではあるまいか。

© 横森 慶信 2016