自然に心のままに書き綴る
このページでは私の気が向いた時、自由気ままにエッセイを書いてみたいと思います。エッセイの感想とかありましたら当BBSに書き込みいただくか私宛にメールをください!
★ ジャンゴの後継者と呼ばれるビレリ.ラグレーン 2000.10.4
私の知人が経営している今年できたばかりのLIVE
SPOTお台場のトリビュートトゥラブジェネレーションに招待していただき私のギター教室の生徒さんの小澤誠志氏といっしょに見に行った.私もジャズギターを追及する1人として以前からビレリは気になる1人だったので楽しみにしていた.なんと前座のバンドがあってプリスムという(和
田アキラのプリズムではない)ピアノトリオでピアニストは故ドン.グロルリニックを彷彿とさせるプレーぶりであった.この店はフランスの小劇場の様(ステージ全体が1回
転する大掛かりな仕掛けがある)ゴージャスな造り,肉汁たっぷりの分厚いステーキを味わいよく冷えたうまいビールを喉に流し込みビレリの登場を待った.いきなりアップテンポなブルース,CDでしか聞いたことがなかったがかなりボリューム,ト
ーン,ペグを忙しくいじる人である.ノリは抜群.おもわずひきこまれてしまうバップブルースだった.2曲目は朝日のごとくさわやかにアップテンポでさらに繋げる.弾
きまくりのビレリ,あまりに弾きまくって疲れたのでエンディングは俺が終わりたくなったら終わるというかなりいい加減なものだったがやっている音楽が本物だからカッコ良い.以後グリーンドルフィン,ソロギターでナイトアンドデイ,なんとボサノバでステラバイスターライトとスタ
ンダードの王道まっしぐら.豪快にスイングしソロギターでは切々と唄いあげる.まさにギタートリオのお手本、フィナーレにはフライミートゥーザムーンを自らボーカルを取り軽やかなタップダンスつきで魅せる.周りの影響で子供のころから人を楽しませる芸人を目指していたのだろう.超
絶技巧のギターに加えエンターティメント性も兼ね備えた素晴らしいステージングであった.あのアルディメオラをしてあいつは怪物だと言わしめたビレリ,ジャンゴの後継者といわれて久しいがジャンゴを消化し自分のスタイルを確立したようだ.世界は広いアメリカではなくフランスの片田舎の遊牧民族からの出にこんな凄い奴がいる.新
しい発見をさせてくれた一夜であった.
★ ジェフベックに対する憧憬 2000.12.5
1999年のジェフベックの来日公演の素晴らしさを友人ミュージシャン多数から聞かされもう引退して悠悠自適な生活を彼は送っているのだろうと思っていた私はティーンエイジャーの頃、死ぬほど好きだったジェフに再び興味を抱き、私のギター教室の生徒さんの木村清一氏と一緒に東京国際フォーラムを訪れた。場内が暗くなり重厚なリズムセクションが唸る中ステージ左袖から白い
ストラトを手にジェフベック現る.しばらくは座って見れると思っていたが、いきなり場内スタンディング!最新作から2曲ノリノリ!短めな曲なので聞きやすい。THE BUMPの8ビートにのり延々と展開される物語のようなソロからBRUSH WITH BLUESにつなぐ。これが絶品!!!感情の趣くまま、心の感じるままにギターが泣き叫ぶ。
私は現在ジャズ系のギター教室を主宰しており巷のジャズギタリストの演奏は大体耳にしてきたと自負しているのだがジェフこそジャンルを越えた真のインプロバイズドギタリストではないのかとこの瞬間思った.これだけ人の心を打つギターを弾ける人はそうはいない。ジェニファーのサポートも素晴らしかった。女性でこんな素晴らしいギタリストを見るのはアメリカで見た故エミリーレムラー以来だ。ボーカリストとしても魅せジェフのサウンドを根本から支えていた。彼女の存在はこのバンドには大きい。エンジェルでのジェフのトーンの出し方も本日の白眉であった。天に突き刺さるようなジェフのトーン。これは彼にしかできない独自のものであまりにも
凄すぎて総立ちの観衆の中私は座り込んでしまった.ティーンエイジャーの頃学校に行く前に必ずブローバイブローを聞き一日のエネルギーとしていた. 20年以上もあれから月日が流れたが本日のステージを見てジェフベックに対する憧憬があらためて強く芽生えたと同時に自分が10代の時に聞いて感動した音楽はやはり本物だったと再認識できてうれしかった。フィナーレはブルーウインド,ジェフはアクションを交え客に反応を求めながら余裕のステージングであった. フェンダーのジェフベックモデルのストラトはこの公演の影響で必ず売れると予言しておこう. (私も欲しい)思うに彼はレコードを出さなかった10年の間いろいろ言われていた. あくまで私の想像だがファンを驚かせようと滅茶苦茶練習していたのではないだろうか?; かなり練習していないとああいう風には絶対弾けないと私は思う。御年56歳で名声を得た後、更に上手くなっているギター弾きを私は彼以外に知らない。
★ 世紀末に現れた名馬テイエムオペラオー 2000.12.24
私は某ホースクラブのメンバーで現在6頭の馬を仲間たちと共有している,クラブ馬主になって痛感したのがまずデビューするまでが大変ということと1勝することが凄い事だと教えられたことである。某調査によると大体毎年1万頭のサラブレッドが生まれそのうち買い手がつくのが7000頭(残りの3000等は飼育後ほとんど食肉になるようだ・・・)選ばれた7000頭はその後、育成調教し2年後に入厩出来るのがその中の6割、4200頭前後さらにデビューできるのがその中の7割約3000頭。そして1勝できる馬はこの中の1割の300頭!!!しかいないという話である。いくら経済動物とはいえその競争率たるやすさまじく3歳までに勝てなければ建前では乗馬と言う名の食肉になってしまうので日本特有の受験戦争など子供のままごと遊びに思えてしまう。
この厳しい世界で世紀末に不世出の名馬が現れた.
2000年の中長距離G1総なめ,今年一回も負けなかったテイエムオペラオーだ.この馬の凄いところはぶっちぎりで勝つというレースはせず最後に必ず抜け出しこのあといくら走っても後続馬は抜けないだろうとクロウト筋に思わせるところとメチャクチャ丈夫なことである。僕は後々のレースのことを考えてゴールでちょっとだけ君たちより前に出て勝つからね。と他の馬をあざ笑っているかのようでもある。
市場取引馬で当時は人気がなく,たった1000万円で売られたテイエムオペラオー もう20億円を稼ぎ出したようだ. 馬刺しにしたら1切れ100万円位になるのか???オーナーの竹園さんは世界一幸福な一人であろう。超一流のものに触れるのはどんなジャンルでも心がときめき自分の芸の肥やしになる。
オペラオーよ私たちに2001年も熱いレースを見せてくれ!!!
★ バトルロワイアルを見て 2000.12.27
ひさしぶりに凄い映画であった.。深作監督御年70歳くらいであろうか?恐るべしである。彼の作品の仁義なき戦いも当時問題作であったが本作品はふだんろくなことをしない国会議員たちが上映中止すべきだと騒ぎだしたため大問題になり逆に大宣伝効果になり久々の邦画の大ヒット!という結果になった。怖いもの見たさの大衆心理をまのあたりにした出来事である。もともとバートバカラックが好きで映画音楽に魅せられギターを手にした私は映画を観る時、常に出演者を自分にダブらせる。
42人中1人しか生きられない…もしその立場になったとしたら???映画の通り気の弱い人は自殺するだろうし,ある者は仲の良い人間とつるみ行動する。いくら仲の良い友人と一緒でも72時間後には1人しか生きられないのだが・・・・・灯台で5,6人でつるんでいた女の子たちは間違って青酸カリ入りのパスタを1人が食べ中毒死したことをきっかけに壮絶な撃ち合いになり結局全員死んでしまう、ただでさえ女の友情ははかないというが実際、極限の状況ではこうなってしまうのであろうか?
結局最後には2人生き残るのだが…いろいろ考えさせられた…前から思っていたのだが一部の自分のやりたいことをやっている人を除き今の若い人たちは可哀想である。最近17歳の犯罪というのが問題になっている。私が10代の頃はシラケ世代ともいわれていたが今の若い人たちと比べてはるかに夢と希望があったしエネルギッシュであった。大学を出てもサラリーマンにしかなれないのかよ・・・と私たちの世代は嘆いていたが今はこの平成不況で大学を出ても4割近くが就職できないそうである。大学を出てもサラリーマンにもなれないのかよ・・・という時代になってしまった。
そんな世の中で前記の17歳のいわゆる落ちこぼれの人たちも今が良けりゃいいんだよとツッパてはいるが1人になると先が全然見えないうえに周りの大人たちも疲れきっている.日本全体がダメになってしまった。。。。。.
働きざかりの私たちの世代が今の若い人たちの手本になっていかないといけないのだが…こういう時代に音楽のはたす役割は大きい.
リンゴの歌のメロディに戦後の日本人みんなが励まされたように・・・不況で本物の音楽がやりにくくなっている状況ではある、微力ではあるが私は少しでも本物の音楽の啓蒙、追及に尽力したい。私も頑張るので同世代の働き盛りの方々、疲弊し元気のなくなった日本を少しでも良くしBR法などというものが制定されないよう前向きに頑張っていきましょう。
★ 楽しかったライブパーティーの仕事 2001.4.7
私の居住する川崎市宮前区のVIPな方々が集まる花見をかねたパーティーに出演してくれないか? と依頼がありベーシストの竹下康志氏と会場である白百合幼稚園の講堂に向かった。今年は例年に比べ暖かく桜もそろそろ終わりだが散り行く桜を送る演奏というのも風流なものだ。PM4時頃講堂に入ると主催者の方から手厚く迎えられる。どうぞどうぞと舞台横の楽屋に案内され、まあ飲みましょう!といきなりよく冷えたビールがでてきた(笑い)滅多にない大好物のビールを飲みながらのセッティングである。
本日の機材,ギターは愛器紹介にでてくるフルアコのオリジナルジプシー手塚モデルと40年物のガットギター,PA機器がしっかりしているので演奏するのが楽しみになってきた。アンプはフェンダーTWIN65AMP。最近購入した新しいツインリバーブ。古くからのフェンダーアンプユーザーの私には広い会場でこのアンプを鳴らすのは至福の瞬間だ。セッティングが終わるとまたどうぞどうぞと今度は客席に案内される。お客様が続々と入ってくる。席に座ると豪華な食事の洪水とこれまた極上の日本酒が用意されている、一人暮らしのベーシスト竹ちゃん大喜び!!!
幼稚園の若い可愛らしい先生が代わる代わるお酌に来てくれるジプシーも竹ちゃんも大喜び!!!とほろ酔いで夢のような時を過ごした後,客席が満員になり再び楽屋へお客様200人以上は楽勝にいる.大勢の人達の前で演奏できるのはジャズメン冥利に尽きるでPM7時に開演1部は私と竹下氏のデュオ,お客様の年齢層が高いので渋めの演奏を心がける.。1曲目はお約束のアップテンポのブルース、竹ちゃんとは最近よく一緒にやっているのでやりやすい。2曲目はオヤジうけを狙ってエリントンナンバーから1曲。3曲目は私の大好きなバラードでI’VE GROWN ACCOSTOMED TO HER FACEから4曲目ボディアンドソウルにつなぐ。大人のお客様ばかりなので反応が良い。嬉しい!最後にオールザシングスユーアーを演奏したくさんの拍手を戴く。我ながら良い演奏ができた。
2部は私のいとこで日本でも指折りの津軽三味線の名手。手塚文雄さんの率いる雅楽ユニット。いつ見ても文雄さんのプレイは素晴らしい,小唄の人も和太鼓の人もいい味を出していた.
3部は私たちJAZZ UNITと文雄さんの雅楽UNITとのジャムセッション,これが盛り上がった!.津軽じょんがら節は私たちが入るとロックンロールに変貌し幼稚園の先生たちが踊りだし,あいや節をやる頃には日頃VIPなおじさま達もハメをはずして大騒ぎまさに飲めや歌えや大ドンチャン騒ぎに発展してしまった,.気がついたらPM11時。仕事で来たんだけどこんなに楽しんじゃって良いんでしょうか?すごい待遇だし食事も酒も最高だしこの仕事だけは人には回せませんな。主催者の方からありがとう来年もぜひ来てくださいといっていただき後日過分なギャランティーを戴いた(感謝です。)
とても楽しかったライブパーティーの仕事でした。
★ 私がゴルフを愛する訳 2001.5.5
私は御殿場の某ゴルフコースのメンバーでオフィシャルハンデを所持している。早いものでゴルフを始めてから今年で14年目になる物事を始めるには何事にもきっかけがある.私がギターを始めたきっかけは映画音楽に流れてくるギターの音に魅せられた事であるがゴルフは生涯ずっと続けられるスポーツをやりたいというのがきっかけだった.。初ラウンドの時、今でも鮮烈に憶えているのは体を動かしたあとの昼飯の美味さであった。(ゴルフはハーフで約5KM歩く.ましてこの日は初ラウンドなので走りっぱなしだった)まず生ビールを一気にのどに流し込む!!!
当時のビールのCMでどこかのオヤジがノーベル賞をあげたいねーと叫んでいたが私はあまりのうまさにクラブハウス全体に響き渡る声でアントニオ猪木ばりにダーーーッと嬌声をあげてしまった!.そのあとでてきた今想えば何の変哲もないカレーライスだったのだがこれがバカウマでこんなうまい昼飯をいまだに私は食べたことがない.最大の料理の調味料は空腹だというがそれと初体験のゴルフ効果が重なったからこそなんの変哲もない生ビールとカレーライスがメチャクチャ美味かったのであろう.ジャズはゴルフに類似点があり結構勉強になる同じプレーというのは2度とないしとっさの判断(アドリブに通じる),考える局面が常にくる(ハーモニー感覚か?) 瞬発力(リズム)等.共通している.私は社会人にとってのマナーもゴルフに学んだ挨拶の仕方,初対面の方に対する接しかた年上の方に対する謙譲心,ラウンド数はかなり減ったが素晴らしいゴルフというスポーツをゴルフ仲間達と一生楽しんでいきたい.
★ 21世紀のはじめに寺内タケシさんを見て 2001.7.21
私の居住する川崎市宮前区の区民ホールにあの寺内タケシさんが出演するというので私のギター教室の生徒さんの斉藤直樹氏と一緒に見に行った.
会場は満員,チケットは完売だそうである.寺内さんを見るのは私が高校1年の時の夏休みに中学時代のクラス会を向が丘遊園地(惜しくも来年3月末で閉園するそうです)でやった時,たまたま寺内さんのショーがあり見るチャンスがあった..当時流行っていたイーグルスのホテルカリフォルニアなどを完全コピーでギター5.6人くらいで演奏していたのを聴いた記憶がある.20数年後再会した寺内さんは息子さん(VOCAL,PERCUSSION)と一緒にやっていた.編成はTWIN
GUITARS,TWIN KEYBOARDS,BASS,DRUMS,VO(PER)の7人編成、ステージングは寺内さんの語りつきで進行する,さすが半世紀以上のキャリアを持つエレキの神様だ.,私ごとき若輩者が語るのも僭越であるがピッキングがしっかりしているし何よりも心で弾いている.エフェクターの使い方も上手い!
ノンエフェクトのイメージがあったので意外.アンプはピーターソンをステレオで鳴らしていてた.最後のベートーベンの曲と津軽じょんがら節は圧巻であった.最前列の若者をお前は俺の息子と一緒だと舞台に上げる演出など私たちを楽しませてくれた.寺内タケシさんいつまでもお元気で私たち後輩ギタリストのお手本となっていてください
★ ニューヨークの惨劇 2001.9.11
いままで40年近く生きてきてこんな酷い衝撃的な事件を現実に目にすることになるとは思わなかった…崩壊するNWで1番高いビル2棟,逃げ惑う血まみれの人たち,この事件については様々なメディアでとりあげられ色々な意見があるが私が思うに根は深く相当に深刻だ.西洋民族とアラブ民族の4000年前からの対立という学者もいるがやはり決定的な対立はどさくさで第二次大戦後アメリカ主導でユダヤ人の国家イスラエルを当時住んでいたパレスチナ人を追い出し中東に建国したことだろう。アラブ民族とユダヤ人が仲良くなるなんてイスラエルがなくならないかぎり絶対にありえない。まして石油という莫大な利権がからみ世界中の国家間の利害関係損得勘定が生じるから余計厄介だ.第二次大戦中ナチスドイツに迫害され大量虐殺されたユダヤ人が現在中東でアラブ人相手に同じことをやっている.そんなイスラエルの味方をするアメリカにアラブ人が憎しみを抱くのも当然であろう.人間とはつくづく罪が深い.マンハッタンの夜景を海側から初めて見たとき自然が創った素晴らしいもの(ポピュラーで言えば
富士山,ナイアガラの滝,グラウンドキャニオン等であろうか)はいくつも見てきたが私は人間が造ったものでこんなに美しいものは見たことがないと思った.その象徴的なビルが一瞬のうちに永遠に失われてしまった.
2002.2.4
2002.10.11
今年の春に愛する妻、薫と結婚して以来、私には珍しく善行を始めて幸いにも現時点まで続いていることがある。まる一日酒を抜く。俗に言う”休肝日”を週に一回金曜日に実行している事だ。世の中には全く酒を飲まない人達も現実にいるし、なんだそんな事か!とおっしゃられる方がいるのも百も承知であるが一年365日酒を飲まないと一日が終わらない生活を約20年続けてきた私にとっては革命的なことだ。ちなみに私はタバコは18歳の時にやめて現在はまったく口にしない。振り返って見ると今までで一番酒が飲めたのが20代後半の頃26,7歳位の時であろうか?夏場に川崎国際ゴルフ場(うちから車で15分位でいける、初めて言った人は川崎市にまだこんな広大な土地があったの?とびっくりするだろう)で当日ゴルフ場貸切の大掛かりなコンペがありその後のパーティーの演奏の仕事も頼まれていたのだがスタート前から売店、昼飯と一緒に回る組の人たちと飲みまくりビール大瓶7本位飲みまくってしまった。しかし全然崩れずその後パーティーでギターを弾きまくり演奏の仕事が終わってからまた本格的にウイスキーの水割りダブルに移行し腹が減ったなとラーメン屋に行きラーメンを食い(すげえ ーな)あげくのはてに帰宅後またビールを飲み最後にはテーブルの上に寝てしまった(やっとつぶれたね)いやー我ながら無頼の日々であった。今ではこんな無茶な飲み方はしなくなったが過去にこんな無頼な日を送った自分が自ら休肝日を設定宣言し半年以上続行しているとは私しか感じていないだろうけど凄いことだ。体調も良くなった。そんな決意をさせる結婚とは偉大なことである!全国の酒飲みの方々へ。週に一回休肝日を設ける事は良いことですよ!(おっとなにげに今日は私の休肝日の金曜だった)>お嫁さんへ。この善行ずっと続けるからね!(週に2回になったりして?)
2003.1.21
今年初めてのエッセイである。私事で読者の方には恐縮ではあるが私達夫婦に長男が誕生した。関係者の方はすでにご存じであろうが滅多にない、めでたいことなのでこの件について駄文を書かせていただく。鉄腕アトムが生まれたといわれる2003年、私が子供の時には宇宙旅行だの人間ロボットだの遠い未来と思っていた21世紀3年目が現実になり、その1月21日私達夫婦の長男 恭大朗(きょうたろう)が誕生した。半年前に設定した予定日ぴったりに生まれる。ジャズギタリストの私に似てリズムの良い奴だ。陣痛が一昼夜続き夫婦でほぼ2日間徹夜の難産ではあったが元気な男の子が生まれてほっとした。。。。。わが愛妻 薫は小柄な体でよく頑張ってくれた。これほど女が偉いと思った事は私の人生で初めての経験である。実感として子供が生まれるということは他のどんなことより素晴らしいことだと私は思う。。。20代でも子供が出来ない夫婦がたくさんいると聞く、私にとって40になっての初めての子なので心底、可愛い。。。つくづく思うのだが出産に立ち会って良かった。立ち会わないと子供が生まれる大変さ、自分と愛する妻の遺伝子を持った新しい命との邂逅という貴重な体験を知らな いでこれからの人生を送っていかなければいかないからだ。この感動を私は生涯忘れないようにしたい。齢40にして人生観が変わる出来事である。。。。。これから子供が生まれる新しいパパはそれぞれ事情があるだろうが出来うれば是非出産に立ち会うことをお薦めする。妊婦は不安なものだ、私が陣痛室に一緒にいたからがんばれたと妻に言われた。昨年の春に妻、薫と結婚した時、毎日が幸せで自分の時間が半分になったと感じた、恭大朗が生まれた今、自分の時間は1/3になった感覚だ。でも喜びは3倍だ!若い頃から無頼の日々を送り好きなことをやってきた私はさんざん色々な遊びをやってきたが最近巷の遊びに全然興味が無くなってきた。自分の子供が一番!今は恭大朗の寝顔を見ている時が一番幸せだ(親バカだね)
恭大朗へ 恭ましく大きく朗らかに名前の通り健康にすくすくと育ってください。(君の名前には恭賀新年にやってきた大きな朗報という意味もあるんだよ)パパは恭大朗とママのためにこれまで以上に頑張ります!稼ぎます!(新米パパの独り言)
恭大朗が生まれて早いもので2ヶ月が経過した。前作に続き親バカと言われるだろうが今回のエッセイも我が子と子育てについて、妻。薫の日記も引用しつつ書かせていただく。出生から10日後の1/31に恭大朗が退院し我が家で親子3人の新しい生活が始まった(以下” ”の部分は妻。薫の日記原文より抜粋)
”1/31 10時少し前に恭ちゃんを迎えにいったらすぐ帰れますよと言われてパパもママもすごくうれしかった。ばぁばもお家に会いに来てくれたよ、抱っこしたりミルクあげたりパパが初めての沐浴をしてくれたし夜中泣き続けていた恭ちゃんをママはずっと抱っこしていたよ”
最初の1ヶ月間の育児はホントに大変だった、昼夜問わず3時間ごとに授乳しなければいけないしその間ずっと泣きっぱなしのこともあるし沐浴の時も首がまだグラグラだったから危ないしで夫婦ともどもかなりハードな睡眠不足に陥った。イメージ的に育児は甘い夢のような生活みたいに思っている人もいるかもしれないが子育ての現場は大げさに言えば戦場であると思う、ただ恭大朗の可愛い寝顔を見るとそんな思いもどこかにすっとんでしまう。この子が自分達の人生をもう一回やり直してくれているんだなどと漠然と思ったのもこの時だった。
”2/4 今日は生後2週間検診、1日25gずつ体重が増えているとの事、とてもうれしいね、ミルクの量も50ccから80ccへアップしていいですってこれで恭ちゃんお腹一杯になって泣かなくてすむね、知ってるかな?今日はパパの41歳のお誕生日だったんだよ、パパおめでとう!”
小さく産まれてきた恭大朗だが酒を飲むのが上手い私に似たのか(笑)生まれたときからミルクを飲むのはとても上手かった、病院の新生児の中で一番小さかったのにミルクを飲むのが一番早く腹が減ったと泣くのも一番だった。でも決められた量以上飲むのはまだ内臓が対応していないためダメらしく80cc飲んでもいいと言われた時はうれしかった。ちょうどこの時、私の誕生日であった。恭大朗はギリギリで私と同じ水瓶座で私たちの家族は3人とも血液型はO型だ。
”2/19 明け方から恭ちゃんはすやすやとお休みしていたよ、久しぶりに夜泣きから開放されママもゆっくりお休みできました、でもお風呂に入ってからまたグズグズなのでパパがウクレレを弾いてあやしてくれたの”
この頃から夜少しずつ多めに寝てくれるようになった。胎教のことは常々考えていてお嫁さんを私のライブに呼んだりCDをかけたりお腹にいた頃から音楽はよく聞かせていた。ウクレレの音色は好きなようだ。
”3/3 ママと一緒の昼間の生活にも随分慣れてきたね、恭ちゃんの寝顔が可愛くてパパとママとしばらく見つめていたよ、すごく可愛いね!
” 薫も専業主婦の生活にだいぶ慣れたようだ。この頃から暖かくなりだし助かった、あやすとニコっと笑う。
”3/19 病院へ行く以外に外出したことがなかったけど初めてパパママ恭ちゃんと3人でお買い物に出かけたよ、お外は本当に眩しくてお目目つぶってばかりいたらパパが手で眩しくないようにしてくれたの、ちょっと疲れちゃったかなーでもまた出かけようね!”
昔”初めてのおつかい”というテレビ番組が会ったが初めての外出はまだ出生2ヶ月の身ではやたら眩しいらしい。いずれにしろまだ育児は始まったばかりだが苦労はあっても赤ちゃんと一緒の生活はとても楽しいものだ、恭大朗はミルクをいっぱい飲むので出生時の体重の2倍くらいに成長してきた、これから笑ったり泣いたり様々なことがあると思うが家族3人仲良く元気に恭 ましく大きく朗らかに頑張っていきたい。
NEW
盟友ロックギタリストへの鎮魂歌(レクイエム) 2004.5.11
もうあれから10年近く経つであろうか。。。某知り合いの床屋のギター弾きから愛知から出てきた面白いロックギタリストがいるから、会ってみないかと言われ、私が居住している宮前区野川の某場末のスナックで初めて木村清一さんに会った。ハンチング帽をかぶり、さらにその内のバンダナ。生前の彼のファッションを知っている人にはおなじみのスタイルなのだが当時から変わらず同じだった。第一印象はその風貌から私よりかなり年上の人なのかなと思っていたが生まれた年は同じ1962年、ただ私は2月生まれなので学年では一学年上になる。彼も私のこの風貌から(笑い)私の方がかなり年上だと思っていたらしいが(笑い)。。。10年という長いのか短いのか微妙な年数だったが彼との思い出は語り尽くせない。プレイスタイル、芸風は全然違うがお互いにギタリストとして認め合った数少ない一人である。彼は私のギタースタイルの一番の良き理解者であったので残念でならない。野川の焼き鳥屋で音楽の話をしてて某床屋のギタリストと某オカマのギタリストと私がケンカになって大暴れする私を体を張って止めてくれたのは彼だった。余談だがその時、竹ちゃんは向かいの席の女の子のパンチラを見ていた(笑い)、復活したジェフベックを2人で東京国際フォーラムに見に行きその本物のプレイにお互い、気絶しそうなほどショックを受けた。その帰り新橋の飲み屋で熱くギターの話をしながら飲んだビールの美味かった事。。。私が結婚した時、長男。恭大朗が生まれた時、心の底から一番喜んでくれたのが木村さんだった。。。うちのお嫁さんが言っていたが、せめて、あと10年生きていてくれればねと。。。10年どころか私はずっと木村さんと共に音楽に携わりたかったのに今でも信じられない。。。あの人懐こい笑顔で”手塚さんまたやっちまいましたよ!”とかある日突然彼がドアを開け現れるような気がしてならない。
告別式で彼と長年バンド活動を共にしてきたベーシストの中禮雄一郎さんが弔電で”木村。逝っちまったな、俺はまだまだ嫁と娘がいるから行けないけどいつかはベース持ってお前のところに行くぞ”と書いていたが
>天国の木村さん。私もお嫁さんと恭大朗がいるし、貴方の所には当分、行けません。ただ、ずっと先の話になると思うけどジプシー手塚が逝く時はギターと木村さんの大好物だったバーボンをおみやげに持っていくからね、その時、また一緒に飲みながらブルースを弾こう。その時まで、天国からご家族と私たち友人を見つめ続けていてください。。。。。
木村清一という素晴らしいロックギタリストがいた事を私は生涯、忘れないからね。。。。。
