島村衛吉重険(しげたか)について
祖母の実家の親戚(父の母方の従兄弟)の島村雅夫さん(大正13年生まれ86才)より事あるごとに先祖に関して聞く。
島村家は出雲から来て、長宗我部の家臣となり、
1518年死去の島村修理亮貴基(備前三ツ名城町口合戦で武功)は下島に。
1586年 島村次郎兵衛則貴 戸次川で戦死(長浜雪渓寺)
天保5年1834年 島村衛吉生まれる
慶応元年1865年3月29日 島村衛吉獄死32才
明治44年頃(1911)島村(祖母)は浜口雄幸邸へ手伝い行儀見習い。水口と島村が親戚だったから東京へ行けた。浜口は後藤新平の逓信次官を固辞。5女富士誕生。
明治45年(1912)4月14日 島村(祖母)と岩原(祖父)が結婚
青島チンタオから故郷した時、雅夫さんは父に案内され、現飛行場滑走路にあった庄屋屋敷を訪問。
昭和16年 金子橋の家(第六小学校の西隣接)を買っており、そこへ大部分の島村家が青島チンタオから帰国。金子橋は田口保雄氏も近くに住まいしていた。
終戦後 野村 茂久馬(高知県交通)も島村を訪ねて来る。親戚?雅夫さんが彼の家に行く。
昭和43年12月 明治百年の南国市下島-浜の島村衛吉の碑移転 冊子も後で完成。
平成11年秋 土佐山内家資料館に行き土佐藩の庄屋の事を知るにはどんな資料を見たらいいかと聞くと県立図書館の高橋史朗さんの名前を教えてくれました。
平成12年6月 高橋史朗氏の電話でのアドバイスで道番庄屋根居の古文書のコピーを撮る。
平成12年8月 高橋史朗さんに会う。執筆中の「島村衛吉関係史料集」掲載の系図が、わが家でずっと持っていた島村の系図と一致。一家の業績が詳しく分かる。
島村恕(じょ?)三郎の先祖書差出から島村家の系図を作成中だった。
◎衛吉の曾祖父 団六重遠 寛政8年18か村の困窮者介補
◎衛吉の祖父 源吾 文化3年藤並宮造営寸志銀調達
◎衛吉の叔父 惣四郎 山内石見殿預り郷士 物部側筋散乱ご材木改役
◎衛吉の従兄弟 団六 山内昇之助殿預り郷士 御的場で弓術ご覧 平馬術御見聞 藤並神社旅所造営の費用20疋
南島村は旗付郷士34年間 一定年限務めれば上士である御留守居組へ進める郷士で、御旗奉行の支配を受ける格の高い郷士。
島村冨の弟(鶏五郎笑児)は従兄弟同士の結婚。子がない所へ養子を同族でとるのが多くある。
平成13年3月 モネの庭入り口に島村策吾雅景顕彰碑建立(中岡慎太郎の師)式典に島村昌三さんの奥さん出席。
平成13年5月 「島村衛吉関係史料集」1000円が南国市教育委員会より出る。
平成13年8月 島村辰彦さんと面会(南国市の役場主催の衛吉の資料寄贈とか行事に出席)
平成13年8月 東京で島村六郎さんと面会。92才で高知へ行きたいが行けないと。
平成14年5月 武市瑞山墓前祭へ出席。武市家の東京の親戚に挨拶。その時の資料は島村源次郎他宛江戸出立前の手紙。瑞山神社に絵あり。
平成16年6月 自分のホームページを見て電話。市民図書館に島村玄学さんの文庫があることが分かる。高知女子大留学の浜田さんの研究。島村衛吉の「思いのまにまに」という和歌を見て。そのお箸の先のかく筆?の研究らしい。もう完成しているはず。
平成18年3月 午前11:00〜宝生寺(南国市前浜)で。島村明房さん(祖母茂の兄)の50回忌。各県から大勢集合。二丁目植田皮膚科の直則ドクターも来ており、島村衛吉の親戚であるとのこと。直則ドクターの母方の兄(島津忠直)の妻登美さんが衛吉の刀を青山文庫に寄贈したと分かる。(高新の記事にも)田村が曾祖母で外内真潮の娘
平成18年12月 岡豊の歴民館を見学。偶然、衛吉の持っていた本物の手紙(巻物)が展示されているのを見る。
平成21年5月 島村衛吉の佩刀を見る。(高新の記事)
平成22年3月 島村芳男さんと出会う。(同じ菩提寺であり、同じように何軒かで先祖祭をしている。島村六郎さんと以前会っている。)
平成22年4月 歴史散歩の会で衛吉の碑へ。
安岡家の安岡美佐さん(81才)の祖母?も島村から嫁いで来ていると分かる。
「家を支えた先人たち」ある土佐藩郷士の家譜 s63年
澤田幸子さん 南国市市会議員も旧姓は島村らしい。
島村義一さん(片山在で油絵の大家)
電話帳では島村姓は高知市に約80世帯、南国市約45世帯、山田・野市約20世帯いる。
衛吉獄中歌 「思いのまにまに」島村浪穂(衛吉) 島村衛吉関係資料集から転写
43首あり
●夜ひるとなくたもとおそ しほりける おやの思ひを おもひやりつつ
他42首は略
衛吉獄中歌
幕末土佐勤皇党の惣領 武市半平太の義理の従兄弟 島村衛吉の読んだ本
●本居宣長(1730〜1801)「古事記伝」(国学を大成。全44巻完成まで34年間。)
●本居宣長の門人の判信友(1773〜1846年ばんのぶとも)の「残桜記」
●平田篤胤(復古神道を唱える1776〜1843)の「出定笑語」●「楠氏を読」
これらを読んだ感想を獄中で和歌にした。
日記には楠木正成の墓参をするとある。碑文を写したりも。
幕末土佐勤皇党の惣領 武市半平太の九州歴訪の時携えた本1冊だけ
●平田篤胤の「霊の真柱」(たまのみはしら)
「玉襷」(たまたすき)も志士間で愛読された。
平田学派への傾斜、それは尊皇攘夷への最短距離の道程であった。(松岡司氏の「武市半平太伝」より)
国学の四大人(うし)
◎荷田春満(かだのあずままろ) ◎賀茂真淵(かものまぶち) ◎本居宣長 ◎平田篤胤
谷家の学は神儒一致を説く山崎闇斉の学統を継ぐ。土佐官学の主流。水戸学も山崎闇斉の学の影響を受けた。半平太の叔父鹿持雅澄は独学で国学の一つ万葉学を大成。代表作「は覧委細」(はらいせ)(松岡司氏の「武市半平太伝」より)
谷時中(土佐南学派の祖1598〜1649)の弟子に野中兼山と山崎闇斉。山崎闇斉の弟子?下に谷秦山がいる。(昭和12年の「南学読本」に、前田秀徳著作より)高校生の日本史の教科書・資料にある。山崎闇斉(1618〜1682)は谷時中に朱子学を学ぶ。のち神道。神儒一致をとなえ垂加神道を創始。
谷垣守に神道を学ぶ坂本直益
坂本龍馬の先祖、大濱家は直益の時に姓を大濱から坂本に変えている。直益は坂本龍馬の曾祖父の父である。この坂本直益(1705〜1779)は谷垣守(谷秦山の子)に師事して神道を大いに学ぶ。たびたび伊勢神宮を参拝。谷真潮など文化人と交遊。長男兼助の郷士株を譲り受けた(買った)喜びから先祖の墓を建て直し坂本と刻む。それまでは大濱姓であった。
坂本龍馬の文久3年6月16日の池内蔵太の母への手紙
「・・・・・・・孝明天皇様をいずくの地へ置くやらさらに合点がゆかず、実にはずべきことなり。このかずならぬ我々なりと、何とぞして孝明天皇様の御心をやすめたてまつらんとの事、ご案内の通り、朝廷というものは国よりも父母よりも大事にせんならんというはきまりものなり。・・・・・・・」高知城懐徳館に掲示していた。