カセット音声を聞いて




昭和45年1月 最後の録音の筆記 1
氏原正信先生講話の一部


(原版カセットテープの最初)
それでは人間の生命から見たところと現象意識から見たところと変わってしまうのです。
見方が変わってまいりますと?。
我々はどのような生活をせないかんかというと
目と鼻と?、意識に虐げられて?、
とてもどうすることも出来ない様な時に
ぱっと花を開かせて、その時に?
どんなうるさい事があっても、どんな事があっても、現象には取り合わずに、生命の真ん中からにっこり笑って?
素晴らしい人間になる事ができるのです。
見ておるけど、わたしは天地の
どう書いておるかと言うと?
晴れの日に我が天国浄土という楽譜を書いて?
私は負けてはいかんという信念で?
その詩を入れておきます。
-------------------------------------
参考<庭上の一寒梅 笑うて風雪を冒して開く 争わず また努めず 自ずからしむ百花のさきがけ>

庭上の一寒梅〜〜〜 笑って風雪を〜〜〜冒して〜〜〜開く
争わず〜〜〜 また努めず〜〜〜
自ずから百花の〜〜〜 かいをおしむ〜〜〜
自ずから〜〜〜百花の〜〜〜 かいをおしむ〜〜〜
------------------------------
このだいしゃの如く 全部草木のあの
虐げられて花が咲くようなものは、梅の花の他はないのです。
ああ梅の花は実に全ての物の先駆け
本当に植物の長である。人間は?、ような生活をしたらダメです。
まずもって自分たちは命の世界で、頭の五感の世界で考えてやりよったら、どうして本当の世界が出来ますか。
人間は肉体を超えて、心を超えて、われは宇宙に偏満しておる神の生命そのもの、生命そのものである、生命そのものは神でありますから
汝もその他吾も無い、いっつも、神が生きておる、生命が生きておる、ありがとうございますありがとうございますと
今日より吾は生命を吾と観ずるがゆえに、地上に現れて、悪くなる事はないのです。
自分は神なるがゆえに、生命は神なるがゆえに 吾は神が生きておるき、今日よりあらゆる点で自分の生活は良くなる、ありがとうございますありがとうございますと
いっつも信念に言うて聞かせる事が大切であります。
だから肉体というものは、あれは法則の世界で出来ておるのですから。
三次元世界、縦横厚みの世界で、神様が見えるようにしてくれておる影でありますから
肉体も心も人間ではない、人間とは生命そのものが真の人間であるという信念を養うことが一番大切であります。
この信念に返って?私はみんなと同じように目を開き?、できる。
36ケ年の間神想観をしてからに?、肉体は人間じゃない、心も人間じゃない、神様の生命そのもの、今私も?、出しておるこの声は、私から出ゆ声じゃない。大宇宙から出て折おる声、
神様の生命から出ておる声を、コトバと言っておる。
コトバとは生命の波と言って、生命は人間の肉体から出ておるようなものでない、人間が肉体を失ったら、生命の波が起こってこない、死んだ人がものを言うたためしはない。
だから生きておる人間だけが ものを言う?力は単なる??肉体から出ておるのでない宇宙から出ておる生命の波であります。
これを早くかんずるようになる事が必要であります。昔から何千年も日本が培ってきて、素晴らしく残っておるものは、その人の命の波が残っておるだけです。
名が残るというのは、生命の波が残る。頼山陽がうたった楠公の如きは、もう死んで足利尊氏に湊川で討ち死にして負けてしまったが、あれの言ったことはなお今日まで人の教育として残っておる。
その詩を一つ入れておきましょう。

-----------------------------------
<参考>
大楠公<徳川齊昭>
豹は死して皮を留む 豈偶然ならんや
湊川の遺跡 水天に連なる
人生限り有り 名は盡くる無し
楠氏の精忠 萬古に傅う

-----------------------------------
豹は死して皮をとどむ
人は死して名を〜〜〜とどむ、あに人間ならんや〜〜〜
湊川の遺跡ゆ 天に連なる
人生限り有り〜〜〜 名はあつくるなし
楠氏の精忠は〜〜〜 万古につどう
-----------------------------------

皮の如く、楠公なんか700年の昔に死んで?
肉体は知らんが
楠公の名は今なお生きておるのです。
ああ忠臣楠氏の墓というて、あの湊川で尊ばれておるのです。
さればその人が言うた事やった事は、生きておるのです。
だから我々も後の世の人でも、私の言うたことは絶対消えないような事を、言うていくのが人間の勤めだと思っておるのです。
谷口先生も人間は肉体も心も人間ではない、生命そのものが吾だ。われというものは神の命そのもの、地上生活をする早消えていくようなはかないところの肉体や心がわしだという信念を除けて、永劫に不死なる生命だと信じて行けと私は盛んに説いておるのです。
だからいつも毎日毎日移り変わって、?るような波にとらわれて、心を戦々恐々とさせて、何の豊かな生活ができることがありましょう。
吾は神の生命である。大大なるかな
私はいつも病気よ来い、不幸よ来い、災難よ来い、何でも来てみよ
俺の中には宇宙を創ったところの神の生命が生きておるぞ、俺の中に入ったならば何ちゃ消えんものはない。
病気も不幸も災難も全て消えてしまうぞ。迷いというのは闇でありますから、闇に光を持って行ったら、消えてしまうから
私のうちの子供が、病気じゃ何じゃいってからに騒いでおるけれども
私が立ち向ったらたちまち消えてしまい、そのようなもの、なくなってしまう。
甘露の法雨にどう書いてある。
闇に向かっては光をもって相対せよ、仮想に向かっては実相をもって相対せよとこうありますろう。
病人があろうが、不幸があろうが、ひとつも?。
自分が神経を微動だにさせずに、にっこり笑って、笑顔で立ち向かっておると?、家の者は、「おじいちゃんもう和子はいかんぜよ。」「死んだか」
「生きちゅう。」「生きちゅううちに、やつはどこにありゃ。おまえらのやることには。」「和子お母とおばあのくせが悪いきその心が・・・・」、?たちまち消えてからに、私が帰ったいうたら、お医者がどうしたちいかんいうにパッと治って、今だに?おる
いかに現象にとらわれんように生きる事が大切か、私はさかんに(カセットテープに)吹き込んでおるのです。
?神の生命が私じゃ、人間の五感で考えて困ったことが出来た、そんな事、あれは人間じゃない。
私は五台山の高校生練成の時に、食て妙に心地悪うて、(講演の終いにあげそうに)あげたら気の毒やとおもうて、ばったり倒れたら
先生が倒れたいうて、バタバタバタバタしよるき、僕は「しばらく休んだら治るき」いうて、先生どうですかいうき
氏原は悪うないぜよ。氏原の影が悪うて、氏原がどうってことあるか。
自動車で戻って、すぐ明くる日は、ケロリッとしておるもんじゃき、先生悪かった
業が患いゆうが、わしが患いゆ思うがはおまんらあの間違いよ。
昨日も宿毛の講師会をして後藤という講師が、「先生どうですか」いうて、「どうですかいうて氏原の肉体がばったり倒れたいうて、氏原が倒れた思うな。・・消えても?氏原は消えておらん。宇宙に偏満しておる生命そのもの」
先生に見舞い言うてずかれた言うておりましたがね。
現象肉体がどのような事があろうとも、人間は生命であるから?
?書いてありますろう。
この世はこのまま神の国である、人間は神の子なりと申すに候、観ずれば現れ、観ぜざれば現れず
-----------------------------------
生命の実相と申候事は
此の世界がこのまま神の国であり人間はそのまま神の子なりと申すに候
観ずれバそれが現るるものに候
観ぜざれバ現れる事無し
さればこそ心を静めて実相を見よと申すに御座候
現象に如何なる悪顕れ申候とも いずれも神の作り給へる実在にはこれなく候間 気にかけずに唯実相円満なる相のみを観ずれば 結局ハ円満なる実相現るるものに之有り候
-----------------------------------
肉体が自分とおもうておる、心の眼を開く、心眼を開いて見た世界が本当の世界で、出てくるから、心眼を開かないと、そのまま表れる。
ひたすら実相を見よ、こう書いている。五感の眼や耳じゃ?
これでは本当の世界が見えないから谷口先生はそれを書いておる。
吾は神想観をして、心眼を開いて、吾とは宇宙に遍満したまう神のいのちであるから肉体も私じゃない、心も私じゃない。現象じゃ。映ってくる物はみな影じゃ。
この影の世界、五感の世界が実在じゃとおもって、長い間の習慣性の意識がやりゆうもんじゃき、なかなか神の世界は出ないのです。
私の処に佐々木というががほとんど一朝も欠かさず神想観に来ゆ。どうやらそれがね、先生病気はないもんじゃよ、不幸はないもんじゃよ、じっと解りだした候。神想観しよらん人間にそれが解ったら不思議よ。
ほんで今5人ほど一生懸命来ておりますが。何をおいてもその世界へ出なけりゃ本当の神の世界というものは解りませんぜよ。
観というのは心の目を開く、心眼を開くことであって、現象の意識が開ける事ではないのです。現象の五感では絶対に分からない世界です。
甘露の法雨には五感六感を超越して、人間の感覚に触れてくることが無いと書かれている。これが一番大切な?行事、
だから私たちは色んな家が建ち並んでおるけども、あれは人間に宿っておる神様の生命から引き出した構想であって、?。?この世は法則でありますから、法則に順応すれば?、一生懸命にはたらかないかんはたらかないうて金金ってやったち?、
法則の世界でありますから徳が生まれてくると自ずから物が寄ってくる事に。金を追うておわえるよりも、神様の徳をしとうて、神様の徳を我が物とする事が一番大事。
これほど偉大な偉大な、神様の御徳を自分のものとせいでたまるか。五感の世界にまどわされてたまるか。
いつも、目を閉じたら自分自身はありません。自分自身があるのは、あれは現象世界であります。?心一元の世界、それで、じーーと見わたしてみると、自分の肉体だって、五感の智恵はひとっつも、目ができることも、髪が出来ることも、鼻が、口が、出来ることも人間の五感で考える力でない、神様のお作りになった世界そのもの、
(次へ続く)


コピー元のカセットテープの雑音が多く、何とかデジタル化できラッキーであった。
Poland EDIROL UA-1EXを使う。
カセットデッキは5000円以下の新品を使う。

●甘露の法雨は間違わず読むべしらしい。
●交通事故を起こし、そのまま道路で神想観の姿勢をして、朝通行人に発見されたらしい。
●龍馬は剣道で自信を付けて、寝小便たれの幼少期とはうって変わった。
●戦地へ赴く船上で日本を離れる時、左手で左の帯刀を居合いで抜いた。戦ができると認められたらしい。
●何日も最前線の塹壕に入ると、塹壕は雨で水で、足がふやけ大変だったらしい。
●最前線で最先頭で敵に突入すると、先頭は敵の弾丸が当たらなかったらしい。
●戦地から帰還する兵隊で飛び出た内蔵の腸を自ら押し込んで押さえ、絶対に内地へ帰ると帰った兵隊もいたという。
●若い頃相撲が極めて強かったらしい。
●孫の電気工事のアイディア発明のひらめきがすごいと言っていた。お孫さんは昭和42年結婚。
●同期生の橋本健先生の話が。
●ハイと言って崖から飛び降りたら木にひっかかって助かった寓話(仏典か?)
●ハワイ講演では火山の噴火を予言し、火山を噴火させる先生と言われたらしい。
このハワイへの講演旅行1ヶ月少々?は、平成23年3月吉岡雄二からわりと詳しく聞く。
●清超先生と一緒に講演旅行へ行った写真が多くあったらしい。
●仏典の話で、素直に「はい」と断崖から飛び降りると、崖の木に引っかかって命を落とさなかった話を聞いた。
●板東先生は維摩経を講義して維摩経の本を輪読していた。
●面と向かった相手が考えている事が読めたらしい。
わが家での誌友会の後、一人の強引に勧誘して参加させた人を、何かあったんだと言っていた。
●スターデーリーに会うと、彼はこんな風に祈ると、型を見せてくれる。
●雅春先生の講話を、前でポカンと口を開けて、全身で全て受け入れて聞いていて、聴き方をほめられたと言っていたらしい。聴き方を、とけ込んでくると賞めてもらったらしい。
●雅春先生は食事の後など家族団らんの時皆をワーッと笑わせたらしい。
●家族に好かれる人に。
●講演旅行で、電車に乗ると、雅春先生は人の間をぬうようにして、さっさと空いている座席に進んで座った。もたもたしていない意味か?その時その時を大事に生きている証拠?。遅い他の講師を待ってやりもせず、時間がないと放って行くらしい。次の大勢の聴衆・予定者が先生の目の前には浮かんでいるのでは?他の置いて行かれた講師に冷たい人と言われても。
●家庭には生長の家を持ち込まないのがコツ。家庭では教えの実践だけ。
●清まってくると小さな濁りも見えるように、大きな揺り戻しの結果が・・らしいことを言っていた。うろ覚え。
●芋粥がおいしかった。
●神想観の気合いの直後プッとわざと言って、笑わせた。
●心もない物質はない・・・の蓮華日宝王地観を実習した気がする
●神想観の先導で、没入してしまい時間を忘れて長くやった事もあったらしい。
●他宗教を生長の家に引き入れるのに完璧な自信を持っていたらしい。
●いざなぎいざなみの陰陽の原理、男と女、プラスとマイナスを説明するのに、紙一枚で凹凸を書き、小学生か幼子のように紙を裂いて、示した。片手が不自由だし・・・
●板東先生曰く、悟りは物事になりきること。トイレをする時はなりきり・・・かなあ
●良きライバルの久武先生のこきおろす話がよくあった気がする。
●深田と話し、西村さんの孫かよと非常に驚いた様子だった。
●昭和44年の卒業の後3月4月5月頃早朝神想観に行った。昭和45年2月昇天
●日本教文社の辻村社長も氏原先生を知って好感というか知っていた。
●日本教文社の辻先輩も幼い自分を氏原先生にだっこして貰った。
辻さんの父君の体験談が「繁栄と健康」にあり。
●僕の父が会いに行った時父が真理を知らないともらしたらしい。祈りの文を書いて下さる。
●学生運動激しいおり、意地悪い質問をすると、覚悟はみんなできており、運動をしているのだと。
●いわゆる動物の第六感が人間よりすぐれ、動物自身の命を救う話。おろかしい人間は第六感が働かない。洪水で木に登って難を逃れた人が、頭上で先客の蛇たちを見た。また遭難する船からねずみが消えていた。そんな話をしてくれる。
ウサギは山火事で死なない。智恵のある人間が死ぬ。
●不幸災難はやって来るのではなく、引きつける。1秒の何分の一違えば助かったのを、わざわざそこへ丁度行くのは、引きつけるからだと。
一秒の何分の一違ったら、上から落下する金槌を避けられたのに、当たるのは、避けるより難しい。不幸を引きつけている。
●足に新聞が巻き付いて、それに書かれていた記事でラッキーな事が起きる
●病人を前にして病気は分かるが次の瞬間、病気とは見ない。
●赤ん坊に詰まった物を母親が口で吸い助けた。愛もそれ位深くなれば本物だと言う。
●目は目の本分を尽くし、鼻は鼻の本分を尽くし、一個の顔、人間が完成する。
●学歴高度学問は不要。特に大学が紛争していた頃だし・・・・偉大な人は中退などが多いとかも
●精神の集中でみこ神天膳の太刀が、敵の後ろにあった大岩を刀がまっぷたつにしてしまっていた。
●昭和44年2月6,7日は県民ホールで清超先生の話。雅春先生と初めて会ったのは東京の5月
●何人おってもどんなことがあっても微動だにするな!そうなれと。
●心の世界で先に実現している、心で決めてしまっている、心が先に行っている、こうなれば後は実現しかない。
●板東先生の幼い子供が一人で、丘の上の氏原先生の庵・家に上がってきた。
●自身(心や肉体)を観ているもう一人の高次元の自分が存在する。
●当時昭和44年4月、浜幸専務の寺尾さん(女)
●昭和44年4月24日朝、最近の大栃へ講演の奇蹟を話す。風邪やカリエスが2時間ほど話しているうちに無くなる。我ながら不思議でうれしいと報告。物質肉体は信用できない。心は信用できる。
●この世界は法則で出来ている。ガラスと見ても、実は法則で石をガラスにしている。肉体も草・肉・ごはんと色々食べて、法則で人間にしている。全て法則でできている。肉体も法則で生きている。少しでも法則が打ち破れたら生きてはいけない。
●その人の心の中で永遠に生き続ける。人は死なない。
●神想観をしてから聖典を読むのが本当の方法。(ストレートに潜在意識へ入る意味かな)
●坂本龍馬は剣道で自信を付けて、幼さを脱して生長した。
●この世は初めから信仰の世界で、信じて生活している。食堂で誰かが毒を入れたかも疑ったら生活できない。信じているから生活できる。夫も、妻からこの人は主人でないと言われたら、どうしようもない。あらがえない。
●ハワイは招待で、教団組織の仕事ではなくて自ら行った。1ヶ月かそこら居た。本山出身のハワイ在?の方からバスをもらう。当時の運転手が吉岡さん(現在77才)。何年か後、そのバスは飛田給へ寄付した。
●宇治の道場で、キリストの言った如く、山が動いて、道場が建設された。(大勢の献労で何年もかけて)
●バカでも何でも、天皇は天皇という思想が日本の思想。易姓革命を否定する意味?天皇家に生まれたら否が応でも天皇。
●内蔵のいちいちを気にしだした時は病。健康体は内蔵のことは気にしてない。
●「こころの旅路」238pに昭和24年氏原先生の氏名だけ載っている。
●受験で試験の当日は、勉強してはダメである。やっていない箇所とか、焦って常軌を逸するとあがって覚えているのも出てこなくなる。
●講師の試験で、回答に、無い物は無いと短く書き合格したという。
●神様と会い常に喜びをたやさず神との一体を観じるために神想観をする。悟るためとか、何かのために祈るのではない。ただ座る。
●自動車とぶつかるのは、他人をさばく心が神の法則にかなわないから。
●祖父母も皆別々にあるのではない。全て自分である。自分の内にあると夢で教えられた。父母を批判しているのはつまり自分を批判している。
神を呪っている事で即刻中止せよ。
頭の智恵を使わなかったら何でも成就せぬものはないのだが、頭でぐざぐさ考えるからダメになる。
父母の欠点と見えるものが自分にある。
●親に感謝のあまり3日間号泣し、その後神の叡智が出始めた。
●氏原正信先生の友人に高知大学長の久保里美先生がいた。
●本当の母親の愛で、赤ん坊の詰まった便を口で吸う。谷口先生もそれだけ愛が深まれば本物ですと。愛はいくら深くてもいいそうだ。

●孫が氏原先生の言う事をその通り実行して足に新聞紙が巻き付き、その新聞にあった問題をすると、丁度試験にそれが出題され、合格。青年の書で救われたと本をいつまでも大事に持っているとのこと。
土佐中受験で山奥の学校のビリの子が合格し、幡多の上位の成績の5人は不合格だった。
それは試験の直前には勉強せず、神想観をすると合格した。
●人間が神の心境になったら、病人も病人と見えなくなる。世界の人も平和そのものに見える。
●会えば病人と認識をするが、神と一体となっている人は、次の瞬間観方が違う。
現象は刻々と変化している。次の瞬間病人と観ない。刻々と治癒している。無いと観ずる。
●目は目の本分を尽くし、口は口の本分を尽くし、はじめて顔という一個の完成品ができる。
「人生を支配する先祖供養」126ページの
氏原先生の娘糸川昭代さんの父と娘の体験
結婚したら先ず祖先に報告しなさい
氏原正信さんが糸川家の祖先の墓石の前で生きた人にもの言うように祈られた言葉
「真に不束な娘を、貴方のお家へ嫁につかわせて頂きます。
今まで忘れておった訳ではございませんけれども、こやらいに追われ、貧乏に追われ、本当に申し訳なかった。これは全部私の責任でございます。糸川家のご先祖様お許し下さいませ。」
祖先霊の不満又は立腹が逆念となって昭代さん夫婦の運命が開けるのに障碍を作っていた。

(谷口清超先生著『美しい人生のために』 182〜183頁) 
「娘さんが帰る時に深切にも氏原氏のモーター・バイクの荷物台に乗せて行ってあげたのでした。田舎の凸凹道を、時速四、五十キロでふっとばしながら氏原さん が、ふと後ろをふり返ってみると、そこの荷物台に腰掛けて居る筈の娘さんの姿が見えなくなっているのです。おどろいた氏原さんが、一体どこで彼女を紛失し たのだろう、と思って急停車してみると、はるか後ろの方で、ゴソゴソ這っている人影が、どうやら彼女らしい。氏原さんは又々時速五十キロで引きかえし、 「どうして君はしっかりつかまえていなかったんだ」と問いますと、「しっかりつかまえていました」と答えるのであります。だって、つかまえていたら落ちる 筈がないじゃないかと、色々きいてみますと、はじめて、つかまえていたのに落ちた理由がわかりました。というのは、彼女のつかまえていたのは、実はモー ター・バイクにつんだ荷物であって氏原氏自身の身体ではなかったのでした。そこで氏原さんは、こんなことを附け加えました。「それが嫁入りの心構えだ。荷 物につかまったら駄目で、人間につかまらなくちゃいけない。人間にさえしっかり抱きついていたら、決して落ちることはないんだけれども、人はときどき品物 (財産)にだきついてしまう。そうするとふりおとされて、大怪我をすることがあるのだ」……と。』
(谷口清超先生著『美しい人生のために』 182〜183頁) 

新女性読本218ページ
氏原先生は
「人間は幸福になれば笑える。嬉しくなれば笑える。などと考えているけどもこれは逆だ。笑う門には福来たるだ。笑うから幸福になるのだ。笑うから嬉しくなるのだ。だから毎日四五回は鏡を見て笑う練習をして、その自分の笑い顔を見て、私はこんなに幸福だ、こんなに嬉しいんだ。という気持ちを起こして、その幸福感を自分の潜在意識に印象するようにすると、潜在意識というものは、宇宙意識という宇宙全体の心とつながっていて、その人の幸福を作り上げるにとって必要なものを、宇宙のどこからか持ってきてくれるものである。
だから先ず朝起きたときと、寝しななどに寝床に入っていいるままでよいから自分の耳にだけ聞こえるほどの小声でよいから、私は神の子だ、嬉しい嬉しい良いことが来る。良いことが来る、と唱えることだ。
朝目覚めた直後と、夜、眠りに入る直前とは、潜在意識が表面に出ていて、最も暗示を受けやすい時なんだから、この時に私は幸福だ、嬉しい、良いことが来るという観念を潜在意識につぎこむんだ。そうすると潜在意識の創化作用で、その通りの幸福が出てくるのだ。これは講義を聴いているだけではだめだ。お話を聞いて帰ったならば、その通り実行しなければならない。実行するんですよ。それから人間が幸福になるにはその根本は夫婦が調和する事だ。どんな事があっても夫婦は何処までも仲良くしてゆかねばならない。
絶対恨んではならない。自分の思いが夫に映る。良人を妻が拝めば、良人も妻を拝むようになる。良人を悪い冷酷だと思っていると、その思いの通りに、良人が冷酷に表れる。これが精神感応というものだ。」
とある。
●仏を殺し神を殺し、それでも否定できない後に残る物が本物?とか禅の悟入のような話が多々あった
●山本ヒロ先生がわが家へ来ていた。
●この世で父親が自分の本当の父親と信じるのは、信じる世界(信仰)
●溝渕忠広「くそばえ40年」の著書147ページに昭和20年初め「生命の実相」を暇さえあればむさぼるように読んだ、とある。
164ページには大いに感銘を与えた人、氏原副隊長「生長の家」とある。終戦の年氏原先生は47才ぐらい
農兵副隊長の時終戦と溝渕の書にある。墓石の銘文と一致した。