白 江 庵 雑 記



蝶の雑記帳


   目次



 2013年

1. テレビジョン放送に

      見る世の退廃


2. 人物伝あれこれ


3. 邯鄲の夢


4. 世の行く末


5. 意味の深みへ


6. 四季、日に新たなれ


7. コーギヴィルも

       日本の村も


8. もう一人の偉大な師


9. 海辺の老夫

       小説を読む


10. 中国史書の記す

   六〇〇年代の倭国


付録. 果菜園荒地年報

           2013



 2014年

11. 教を読む愚者


12. 浦の今


13. 続六〇〇年代の倭国


14. 鯨回向


15. 海市巡礼


16. 続海市巡礼


17. 詩のように

      書かれた哲学


18. 世界遺産の閑却


19. 中国三昧、三題噺


20. ローカル列車に

       揺られて


19補遺. 魏志東夷伝

      の教えること


21. 永平寺山門に立つ


22. オセアニアとはどこ


付録. 果菜園荒地年報

           2014



 2015年

23. 『ヨーロッパ戦後史』


24. 今この国で


25. ハーバーマスの哲学

         をかじる


26. ピケティ旋風


27. 意識に乗せられて


28. 回想事始め


29. 或る僧の物語


30. 元気を引き出す

         心がけ


31. 他山の石


32 賢者を尋ねて


33 偉大な師への手紙


34 畳の上で死ぬ


35 幻滅とニヒリズムを

        見定める


29b 続或る僧の物語



付録. 果菜園荒地年報

           2015



 2016年

36 日本精神史を

         たどる


37 独り歩む精神を

         たどる


38 鵜飼と稲作の伝来


39 もう一度の

   コペルニクス的転回


40 風景を

   再構成するために


41 わたしは

      どういう者か


42 刀自の昔語り


43 目覚めた人の

      説いたこと


44 文化進化論を

        考える


45 失望の時代


46 陶淵明という人


46b 陶淵明の詩作

     と心境の推移


47 認識と言語の理論

         を学ぶ


48 老生、

     『老生』を読む


38b 稲作と鵜飼をもた

   らした人々のお歯黒



付録. 果菜園荒地年報

           2016



 2017年

49 認識と言語を巡って

         その一


50 認識と言語を巡って

         その二


51 変動する時代と

   人間を描いた文学

    ― 『夜明け前』


52 認識と言語を巡って

         その三


53 生命という

     活動する存在


54 認識と言語を巡って

         その四


55 認識と言語を巡って

         その五


55b認識と言語を巡って

       その五補遺


56 戦争期の日記

        を読む


57 認識と言語を巡って

         その六


58 認識と言語を巡って

         その七


59 測鉛で社会を探る


60 認識と言語を巡って

         その八


61 認識と言語を巡って

         その九


62 或る家の伝承


63 認識と言語を巡って

         その十


64 「太陽の道」の

        考古学


付録. ウィトゲンシュタイ

   『論理哲学論考』

      抜き書き



 2018年


65 認識と言語を巡って

        その十一


66 認識と言語を巡って

        その十二


67 「太陽の道」の

      歴史地理学


68 園丁と蝶の対話余禄


69 「太陽の道」から探る

   日本列島の古代


70 気概の人謝道蘊

     の生きた時代


71 V.パレートの論理的

  実験的科学の方法


72 対馬暖流の

       寄せる岬


73 中国史書が記述する

     500年までの倭国


74 中国史書が記述する

     600年代の倭国


75 終章

   新しい古代史像へ


76 海峡の北への旅


77 新しい

   地質学的時代に


 2019年


78 わたしが暮らす社会


79 teatime








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         蝶 の 雑 記 帳  



new 「太陽の道」シリーズ三篇(第64話、第67話、第69話)と

    第73話、第74話、第75話をまとて書物にして

    『倭国はここにあった 人文地理学的な論証』(白江庵書房)を出版。

    アマゾンに出品しました。2018年12月7日より発売。


   第75話 「終章 新しい古代史像へ」

    「太陽の道」シリーズ三篇(第64話、第67話、第69話)と

    歴代の中国史書が記述した倭国がどこにあったかを考察した

    二篇(第73話、第74話)をまとめて、結論を提示する終章です。


   第74話「中国史書が記述する600年代の倭国」は、

    「太陽の道」シリーズ三篇(第64話、第67話、第69話)の続編です。

    この第74話は、第73話に続けて、中国の史書『隋書』と『旧唐書』が

    記述する600年代の「倭国」がどこにあったかを議論します。


    第73話「中国史書が記述する500年までの倭国」

    「太陽の道」シリーズ三篇(第64話、第67話、第69話)の続編です。

    この第73話で、中国の史書が記述する「倭国」の所在地を、

    「太陽の道」の視点から検証します。


   第69話「『太陽の道』から探る日本列島の古代」は、第64話と第67話の続編です。

    シリーズ三篇のうちこの第69話で、「太陽の道」概念を展開して

    古代史に踏みこんだ議論を行ないます。


   第67話「『太陽の道』の歴史地理学」は、第64話を引き継いで、

    歴史時代に九州と大和に新たに設定された太陽の道の存在を論じます。

    九州の新たな太陽の道は、須玖岡本遺跡の冬至の太陽の道上にある

    大城山南麓(太宰府政庁跡のある場所)を新たな焦点として、油山夫婦岩

    −大根地山−宇佐神宮を結ぶ東西線です。それは、太宰府政庁跡を

    通る子午線に建てられた宗像大社を介して沖ノ島につながります。

    大和の太陽の道は、大宝律令を制定した文武天皇の陵と皇大神宮とを

    結ぶ東西線です。それは、文武陵の真北にある藤原京につながります。


   第64話「『太陽の道』の考古学」は、福岡都市圏で見つかった弥生遺跡、

    吉武高木遺跡・三雲南小路遺跡・須玖岡本遺跡が驚くほどの精度で

    同一緯度線上に並んでいるというおもしろい話です。三つの遺跡あるいは

    そのそばの神社は、春分・秋分、夏至、冬至に、標識となる“霊山”からの

    朝陽が交差するスポットにあるのです。世にパワー・スポットという言葉が

    はやっていますが、沖ノ島を除けば、これ以上歴史的に古くて由緒正しい

    場所はないでしょう。



     2019年  第78話 − 

     2018年  第65話 − 第77話

     2017年  第49話 − 第64話

     2016年  第36話 − 第48話

     2015年  第23話 − 第35話

     2014年  第11話 − 第22話

     2013年  第1話  − 第10話



 蝶は夢見る生き物である。古代中国の哲学書ともいえる古典『荘子』が、すでに見事

に論じている。「わたし荘周は夢で蝶になって(生を)楽しんだが、夢から出たわたしは

果して荘周なのかそれとも蝶の夢の中の人物なのか」、それを断定することはむつか

しいと。この典拠によって日本の俳人は、蝶を荘周と表現する。荘周=蝶という比喩は

定型化されすぎているけれども、この比喩は人生=夢という大きな隠喩を包みこんで

いるのである。人は「考えている自分がいる」と意識する。ところが、何かの機会に自分

の人生を離れたところから観る感覚が湧いてくるとき、その想起が自分の意識から遊離

しているように感じて、夢という言葉を連想する。それを最も巧みに語ったのが荘周の

説話だろう。同じように古今東西の賢人が、人生を語るのに夢という言葉を使っている。

たとえばヨーロッパではW・シェイクスピアが、「われわれは夢と同じもので出来ている。

そしてわれわれの短い一生は、眠りとともに終わる」と表現した。日本でも、賢人と言え

るかどうか分からないが、功成し遂げた人が辞世の句で「難波のことも夢のまた夢」と

詠んだ。物知りの人は、人生と夢を結びつける名言をいくらでも挙げることができる

だろう。



 蝶・荘周・夢という連鎖は、うかつな蝶に、神経回路を巡らすことをそそのかす。そし

て、ふらふらした蝶は実に支離滅裂な夢想を紡ぐことになる。蝶も、揚羽蝶や紋白蝶か

ら名もない小さな蝶まで、その質を異にしているが、荘周がいかなる蝶であったかを

わきまえない者の中に、自分を荘周に似せたい蝶が出るのは夢見る生き物の性で

あろうか。ここに、あの偉大な人を真似て、取りとめもない夢を書き散らそうとする者が

いる。『荘子』を荘周の雑記帳だと考えるのだ。いったんそんな思い違いをした蝶は、

モンテーニュ城の主が籠って書いたのも同じような雑記帳だと解釈を進める。なんという

ことだろう、東西世界にそびえる豊穣な思索の書にあこがれて、微小の蝶にも雑記帳が

書けると誇大妄想するのである。夢にその蝶となっているわたしは、断続的に浮かび

かつ消える想念を文にする作業をしている、ありふれた思いでも文章に表現することは

思索に近づく修練で、ひょっとしたら意味をむすぶかもしれないと期待して。夢の中で

うつつになることがあるとすれば、その空しさに恥じ入ることだろう……。



 この作業もいつか夢のまた夢になるだろうことを半ば意識しつつ。

 

                                 2013年初夏




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 79 teatime    PDF版


    去年は、論理の厳密さを求められる考察もして肩が凝った。実際に左腕から首までに痛みを感じ、

   お医者さんが、念のためにと核磁気共鳴の画像まで撮らせて頸椎を診察した。もっとも、自己診断では

   へたな体操のせいだったと思う。そういうわけで、今回は肩をほぐすためにお茶の時間にしよう。

   今年、二月四日が立春で続く五日が旧暦の元日というめでたい暦にめぐり会えた。そのとき床に

   掛けた軸のおかげで、とても楽しい時間を過ごすことができた。それは「雑詠日記」に書きつけているが、

   今年の巻が無事に完結するとしても年末になるので、ここに先日の楽しみを記しておく。

 

二月四日立春

 昨晩、細君が今日のために離れの床に「春入千林所々鶯」という掛け軸を

かけた。つられてわたしも、表座敷の床の間に「春水蘆根□鶴立」の軸を掛ける。

七つの淡い模様の上に隷書体で書かれた書で、五文字目の□は前から読めなくて

困っていた。今日は思い立ってインターネットで調べてみて、画像の集まりの中に

同じ文字の句を見つけた。やはり、「翰」の字形で「羽」の部分が「目」と書いてある。

だが、検索して出てくるのは中国語で書かれた記事ばかりで、まだ読めない。

目を移していくと、墨跡を紹介したらしい文に□を「朝」とするものがあった。

□は「朝」の字かもしれない。画像に出てきた書にはこの七言と対になる句

「夕陽楓葉見鴉飜」が並べてあった。じつは、わが家にはこちらの句の掛け軸も

あって、二つの掛け軸は瀋陽でもらったものである。「鴉飜」が「?飛」と書かれて

いるけれども、?は鴉(カラス)の異体字ということだから、文意は同じである。

立春に、「春水蘆根□鶴立」の方だけを掛けたのは、「夕陽楓葉見?飛」が秋の

印象を与えるように思ったからである。

 探索はおもしろい成果をもたらした。この対句はもともと敬愛する蘇軾の

次の詩にあったのだ。

  其二 不用長愁掛月村  檳榔生子竹生孫

     新巣語燕還窺硯  旧雨来人不到門

     春水蘆根看鶴立  夕陽楓葉見鴉翻

     此生念念随泡影  莫認家山作本元

    註:第四句、旧雨は昔なじみ。第八句、家山はふるさと。


 同じ四文字(孫門翻元)で押韻する連作の律詩のうちの第

二首だから、モチーフと形を決めた第一首も掲げておこう。

  其一 老去仍棲隔海村  夢中時見作詩孫

     天涯已慣逢人日  歸路猶欣過鬼門

     三策已應思賈讓  孤忠終未赦虞翻

     典衣剩買河源米  屈指新?作上元

     註:インターネットによると、第五句の賈讓は前漢の人、黄河の河道を変えることを献策、

     のちに左遷されたが復官。第六句の虞翻は孫権に仕え、蘇軾と同じように南方に流された。

     赦免しようとしたときにはすでに亡くなっていたので、子らがとりたてられたという。第七・八句は、

     衣を質入れして南方で有名な米に変え、酒の出来上がる小正月を指折り数えて待っている

     ようすを詠う。

 

 書の軸で元の詩の「看」を“朝”に変えたのは次の句の「夕」と

対照させたと見える。それだと、二句は朝と夕べの情景を歌うことになる。

ところで、この詩は、「春水蘆根□鶴立」の句をキィーワードにして中国語の

「維基文庫」で見つかったのだが、「夕陽楓葉見鴉翻」の句による探索はもう一つの

詩を挙げた。唐の陶?という人の詩「西塞山下迴舟作」で、第五・六句に

「鴉翻楓葉夕陽動、鷺立蘆花秋水明」とあった。蘇軾の詩は本歌取りをしている

のである。考えてみれば、漢詩も和歌と同じく昔の秀句を変奏することをしてきた。

宋代第一の詩人とされる蘇軾は教養が深く、自然に古句を詠み込むことが生じる。

二つの詩を比較すれば、元は秋の詩だったものを、蘇軾が春の詩に変えたことが

知られる。この詩がつくられたのは1100年太陰太陽暦の正月七日と分かっている。

場所は海南島。第二句の檳榔が教えるようにそこは亜熱帯にある。蘇軾が見た

のは鷺ではなくて鶴の一種で、「楓」も紅葉する種とは違うかもしれない。

むしろ、蘇軾はその場の実景を詠んだのではないか。「看」と「見」は二つの文字に

書き分けただけで、夕陽の句と対応させるために前の句に朝をもってくる必要は

なかったのだ。そう考えると、第六句は少し寂しいけれども、詩を、旧暦の正月

蘇軾が静かに見つめている情景としてよいことになる。

 このとき蘇軾は六十五歳。中国の最果て海南島にいたのはそこへ流されたから

である。近世のような宋代にも政争があり、そこへ流された人の中にはマラリアに

罹って果てた人もいた。一対の掛け軸は鶴と鴉のいる情景が好まれたことを教える

が、じつは、第三句に出る燕が鶴や鴉よりも蘇軾の心をとらえているのである。

寒い時期に北から南へ渡る燕は温かくなれば北へ帰って子育てをする。

第三・四句は、旧知のいない土地からの北帰行の願いを表現しているのだ。

蘇軾は、翌年1101年に赦免されたけれども、北へ帰る途上で亡くなった。

この詩に愁いが漂うのはやむをえないだろう。しかしわたしは、

明朗さを失わなかったあのしなやかな精神を見習いたいと思う。

 蛇足を付け加えれば、細君の掛け軸の句は、元は「春入千林所々花、

秋沈万水家々月」という禅の言葉だったのを、千宗旦が、上の句の月並みな

「花」を「鶯」に変えて揮毫したのだという。鶯がいるところ花がある、

という工夫だろう。その「春入千林所々鶯」の軸は、表千家の初釜の床に

かけられる慣例になり、流れ来て浦の苫屋に掛かっている。

 

 さて、雨を交えて内海に白波を立てた昨日の南風も去って、今日は

一陽来復の春であった。

 

五日己亥年元日

 昨日から詩句の林に入って遊んでいた蝶が、今日、蘇東坡の詩に和して

四聯八句の文字列を紡ぎ出した。

     老帰仍棲天涯村  海至世界白潟邨

     已慣課植平静日  朝陽出山入東門

     春海白浦青鷺立  松葉紅梅緑鳥翻

     布衣年々楽人生  苟日々新遊本元

      註:第二句(白潟邨は家山)。第三・四句(課植園に旧雨来ること少な く)。

        第六句(緑鳥は目白、花に鶯とは限らず)。第七・八句(質入れできる衣のない

        下戸の遊楽)。


 四声を知らない天涯の野人は、詩のまねごとをしても相変わらず平仄を無視し、

訓み下して歌うことしかできない。平静な生き方はモンテーニュの勧める徳目だが、

インターネットが言う、出山は仏教でゴータマ・ブッダが修行を終えて山を下りたこと、

西方浄土の入り口は東の門、と。わが庵が内海に面し東岸に岬の山並みを望む

ことを表現したら、思いがけず喜ばしい境地を詠う詩に近づいた。

 

   2019年雨水の候、super full moon hidden by clouds



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 78 わたしが暮らす社会



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 77 新しい地質学的時代に



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 76 海峡の北への旅



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 75 終章 新しい古代史像へ



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 74 中国史書が記述する600年代の倭国



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 73 中国史書が記述する500年までの倭国



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 72 対馬暖流の寄せる岬



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------- 横書きにするにあたって ------------


 麗しい日本文化の伝統を尊重し、これまで「蝶の雑記帳」を縦書きの文書にして

きたけれども、第70話から横書きにすることにした。習慣を改める表記は、日本語の

気分をいくぶん変えることになるのかもしれない。だが、物理量の単位を記したり

ヨーロッパの言葉を表わしたりする便を考慮してそうすることにする。幸い、漢字と

仮名文字は縦横いずれにも対応できる。保守的な政府でさえそうしているのだから、

一般の表記でも早くそうすべきだったのだ。竹簡・木簡を知らない老人が

電子文書に親しむ時代になった。新聞はもちろん、伝統を背負った文人先生方も、

世界の文明に伍するのに、縦のものを横にするぐらいのことはしなければいけない

だろう。それで文章の品格が落ちるなら大したことはないのだ。そんなことを

気にしなくてもすむ気楽な蝶は、左から巡っていく冊子の形式にとまどわない。

絵巻物だって、そうすれば右手で広げながら見ることができたはずなのだ。


 もっとも、「雑詠日記」の方はとりあえず今のままの形にしておく。わたしは、

B5の大きさの横書きノートを日記帳にしていて、思い浮かんだことを記し

雑詠も書き入れるが、分かち書きする語句は一行に収まる。ところが、それよりも

小さい冊子に清書する場合、日づけと「みそひと文字」を一行に収めることが

むずかしいからである。



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 71 V.パレートの論理的実験的科学の方法



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 70 気概の人謝道蘊の生きた時代



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 69 「太陽の道」から探る日本列島の古代



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 68 園丁と蝶の対話余禄



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 67 「太陽の道」の歴史地理学



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 66 園丁と蝶の対話 「認識と言語を巡って」その十二 終章



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 65 園丁と蝶の対話 「認識と言語を巡って」その十一



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 付録 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』 抜き書き



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 64        「太陽の道」の考古学

          沖ノ島をとりまく沿海域で発展した太陽崇拝の形式

 

   緒言

     「太陽の道」とは、古代、日本列島や琉球列島の海辺の地先

     で日の出や日の入りを拝むとき、沖合の島に太陽が宿るように見えることを貴重に思い、

      やがて、霊性を付加する岩や山などの自然物が聖別する特定の方角をとくに崇拝する

     ようになって、太陽の通る道と思念されたその「道」のことである。 同じ思念は、人々が耕作し

     生活する海辺から離れた平地でも共有された。太陽の宿る島や山と太陽の道は古代人の

     心性にとって神聖なものとなり、太陽崇拝の一定の形式をもつ“信仰”が形成

     された。政治体制が形成された後代になっても、それは祭政一致の理念として残り、太陽の

     宿る島と太陽の道の崇拝は宗教的な儀礼にまで発展した。琉球列島では神殿を建てることは

     なかったが、日本列島では社殿をもつ神社が建築された。古くから霊地とされた場所をしめ縄や

     幣(ぬさ)で標しづけることが行なわれたと想像されるが、小共同体の発展の中でそれらは祠や社に

     なったのだろう。そして、現代に続く神社制度から推測すると、律令国家による祭政一致の体制が

     神社の制度を整えたとき、各地の祠や社は太陽神を頂点とする宗教形式に統一されたのだ、

     と考えることができる。

     本稿は、このような宗教的儀礼の主軸となる「太陽の道」という観念の形成を考察して、最初期の

     太陽の道が沖ノ島に対して想定されたこと、そして、弥生時代の社会の最先進地域(現在の

     福岡市・糸島市・春日市周辺)で陸の太陽の道が存在したことを明らかにする。それはちょうど

     王権が発生し発展した時代で、福岡市・春日市・糸島市で発掘された四つの重要な遺跡

     (吉武高木遺跡・須玖岡本遺跡・三雲南小路遺跡・平原遺跡)が、王権のあり方に大きな

     影響を与えた「太陽の道」の存在を証明する。神社や神々や宗教的観念を合わせて議論する

     のだが、方法は学術的に厳格なものである。すなわち、遺跡という考古学的事実を根拠に、

     実在する自然物や神社を人文地理学的にとりあつかって、厳密な論理展開を心がけて議論

     する。思索はホームページ上のエッセイ集に書くことから始まったので、記述はまだそのなごりを

     とどめているけれども、方法の厳格さを損なってはいない。弥生時代に関していくらか新しい

     知見が得られた。


 

 7.結論

 考古学的事実を根拠に地理上の事実を援用する以上の議論から、次のことが明ら

かになった。すなわち、古代、沖ノ島をとりまく本州西岸・九州北岸・壱岐・対馬

の沿海部で、太陽を崇拝し、春分・秋分の日の出と日の入り、夏至・冬至の日の出

の方位を聖別し「太陽の通る道」として尊重したことである。具体的な要点を以下

に箇条書きしよう。

A.沖ノ島を太陽の宿る島と見なして、沖ノ島を通る緯度線が春分・秋分の「太陽

     の道」として聖別された。

  •  日の入りを遥拝する長門二見が浦の夫婦岩と背後の狗瑠孫山御嶽、


        および、日の出を遥拝する対馬根緒の神ノ島がその標識である。

  •  これは、琉球の首里城から太陽神の宿る島久高島を遥拝する形式に

       一致する。日の出を斎場御嶽で礼拝し、斎場御嶽下の渚には夫婦岩に当たる

        三つの岩があり、日の入りする島を神山島と呼ぶのも対応する。

B.日本の考古学で重要な吉武高木遺跡・三雲南小路遺跡・須玖岡本遺跡は同一

     緯度線(北緯33.54度)上にある。この聖別された緯度線を決定しているのは

     二つの霊山宝満山と飯盛山で、直列する三つの遺跡は、王宮と王墓が意図的に

     その東西線上に築かれたことを証言する。春分・秋分に、宝満山に昇る日の出と

     飯盛山に沈む日の入りを礼拝する「太陽の道」がここにあったのである。

C.上記のそれぞれの遺跡がある場所からは、夏至と冬至のころ太陽の昇る方角に

     標識となる山があって、春分・秋分の太陽の道に準ずる尊崇をうけた。

  •  三雲南小路には、春分・秋分、夏至、冬至に、三つの太陽の道を礼拝


       する細石神社が置かれた。そこから、夏至の日に高祖山に昇る朝日を拝むこと

       ができ、その線上に高祖神社がある。冬至の日には、東南東にある王丸山に

       昇る日の出を拝んだ。

    吉武高木では、夏至のころ太陽の昇る方角にあるのは若杉山で、

        冬至の日に太陽の昇る方角にあるのは油山である。

     須玖岡本では、夏至の日に太陽の昇る方角にあるのは砥石山の北の

         峰で、冬至の日に太陽の昇る方角にあるのは宮地岳である。

D.平原遺跡1号墓は、そこから三雲南小路遺跡そばの細石神社を望めば、その先に

     王丸山山頂を見通すことのできる場所に築かれた。細石神社を焦点とする

     夏至の太陽の道の標識である高祖山を1号墓から拝んだらしい痕跡がある。

E.三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡のそばにある細石神社と熊野神社は春分・秋分、

     夏至、冬至の三つの太陽の道の交差するスポットにあり、そこで季節の節目に

     太陽崇拝の祭祀が行なわれたことを示唆する。ここには、祭祀の形式や神社の

     発生を考察する糸口があるだろう。

F.宗像地域には、宮地嶽から沖合の相島に沈む夕日を拝む太陽の道があった。

     これは現在も嘆賞されている。この太陽の道は緯度線から少し傾いているが、

     この地域で尊崇を集めていたことは、宮地嶽神社の後部にある破格の横穴式

     石室をもつ古墳が証言している。古墳の石室の主軸はその太陽の道の方向を

     指している。そういう宗像地域に沖ノ島の祭事を行なう宗像大社があるのだ

     が、宗像大社から大島・沖ノ島へ伸ばす直線は緯度線と50度もの角度をなし、

     沖ノ島に太陽が沈むように見えることはない。なぜ宗像大社が沖ノ島の神事を

     つかさどるのかという問いが生じる。この問いは答えられなければならない。

 

 結論B・C・Dは、これら四つの遺跡の理解に関係し、古代日本列島での国の

成立とその進展を明らかにするのに重要な光を投じることになるだろう。

 

 上記遺跡の場所と春分・秋分・夏至・冬至に朝日の昇るもしくは夕日の沈む山

には神社があって、その祭神は『記・紀』神話でも最重要な神々である。すなわ

ち、吉武高木で夕日の沈む飯盛山には飯盛神社があり主神はイザナミ、そこから

夏至の日の出の方向にある若杉山には太祖神社があり主神はイザナギ、三雲

南小路遺跡に隣接する細石神社の祭神はニニギの命の妻である木の花の咲くや

姫と姉の磐長姫、そこから夏至の日の出の方角の高祖山の山麓にある高祖神社

の主神はニニギの命と木の花の咲くや姫の息子であるホホデミの命、須玖岡本

遺跡の王墓に隣接する熊野神社の祭神はイザナギ・イザナミである。須玖岡本

から冬至の日の出の方角にある宮地岳のふもとにある高木神社の祭神は高皇

産霊神である。太陽の道の標識となる山の中で最も高く山頂が立派な磐座で

ある宝満山の竈門神社の祭神は玉依姫である。これらの神々の配置と祭祀の

やり方を見ると、次のような理解に導かれる。

a.『記・紀』神話の原型となる説話は、沖ノ島をとりまく本州西岸・九州北岸・

     壱岐・対馬、および、日本古代史で重要な上記四つの遺跡のある博多湾・

     糸島水道の沿海域でつくられた可能性が高い。

b.『記・紀』神話で国を産み神を産んだとされるイザナギ尊・イザナミ尊は、

     三郡山地と高祖連峰で区切られる博多湾岸でつくられた可能性が高い。

c.太陽神天照大神は、太陽が沈むあるいは出てくると見立てた沖ノ島を通る

     「太陽の道」崇拝と結びついてつくられた、と考えられる。

d.ニニギ命の妻と息子が細石神社と高祖神社に祀られている。高天原から天

     下ったあとの説話が高祖連峰の西側で定着したことを表わすだろう。

e.時代が新しいと考えられる須玖岡本遺跡そばの熊野神社では、吉武高木遺跡

   の時代に別々に祀られていたイザナギ・イザナミがいっしょに祀られている。

   祖先神として祭祀を行なうように変化したことを示唆する。

 

 四つの遺跡にかかわりのある神社に太陽神は祀られていない。太陽神の居場所

は沖ノ島と定まっていたと考えられる。宝満山は陸の太陽の道の原点に位置して

山頂の磐座から太陽が姿を現わす霊山だが、沖ノ島を見晴らすこともできる。

そこは、琉球の斎場御嶽と同様に、太陽神に対する祭事を行なう御嶽だったと

考えられる。その御嶽には、神というよりも太陽神の憑依する巫女である玉依姫

がいたと考えるのが合理的だろう。このことは、宗像大社の問題を解明するのに

関係するだろう。




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 63 園丁と蝶の対話 「認識と言語を巡って」その十



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 62 小小説拾遺五 「或る家の伝承」 PDF版



    この文書は、最近ある居士の文箱から見つかったという。自家の子や孫のため

   に記した覚え書きと見受けられる。文章は少し硬くて艶に欠け、小説とするのは

   気がひけるが、伝承の部分に捨てがたいおもしろみがあるので、とりあえず

   「小小説拾遺」に収録しておく。



 八月六日の朝、集合時間七時の五分前に行ったら作業はもう始まっていた。

当番の班への招集文によれば、盂蘭盆会の近づいた今日、小山の上に数基残って

いる無縁仏≠フ掃除。九十二歳の老婦人も三輪自転車で駆けつけた。共同体が

かろうじて残存しているのである。隣のもう一つの小山には我が家の古い方の

墓があり、そのまわりにも無縁墓がいくつかある。石にはたいてい名が刻んで

ない。今日掃除をした墓の一つには名が彫ってあったが、今はもちろんその家名

の家はこの浦にない。

 我が家の墓はのり面が藪になった狭い棚田状のところにある。右手は親族の

墓地だが、今年老母を亡くした当主が墓を移した。張ってあるコンクリートの

下で斜面の土が流れるので、便利のよい霊園の一画を買ったのである。九段の

急な階段を登りそこから七十歩余り山路を上がるのを都会に出た兄姉が嫌った

という。墓屋も累代墓を移動するのを断ったそうだ。築く時にはできた力仕事を

今ではする人がいない。立派な石組は、我が家の土葬の上の十基の石の右手に

残り、「源太源太(そうだった、そうだった)、弟は弥助」と呼ばれた人の子孫は、

石に託して苗字をここに残すことになる。その苗字は、明治維新のおりに、北の

日本海に浮かぶ孤島見島に居住していた同族の家の人が、見島牛を一頭船に乗せ

てやってきて、同じ氏を名乗るようにと勧めたことに由来する。先方では以前

からその氏名を使っていたのだ。我が家の墓地の左手は先年すでに引き払われて、

雑草が十数基立つ土葬の墓石を覆い隠さんばかり。下側では、あと三軒の家の

合葬墓が守られている。この小山に墓参りに来る人が今しばらくはいるわけで

ある。我が家の伝承を孫がその子に伝えれば、見島牛が海を渡ってきた昔話は

残るだろう。

 

 北にある見島から見島牛を連れてやって来た人があると聞いた少年期、大きな

土産をもって来るぐらいだから、こちらを源流として来たものと思っていた。

ところが、先年、市内の別の集落の同姓の家では見島からやって来たという話が

伝わると聞いて、我が家の墓の状態と照らし合わせると、見島から来たという

のが本当なのかもしれない、と思うようになった。昔話に出る源太郎の墓の右に

次の代の與七の墓がある。與七の右側には名も彫られていないただの石が四個

置いてあるだけ。源太郎の左側は與七の代の者たちで明治の年号の墓だ。我が家

の言い伝えでは、見島の方の家は藩政時代大きな土地持ちだったが、明治維新後

しばらくして東京へ出たという。いつだったか、その苗字の家が見島にあった

と書いてある文章を見たこともある。だから、我が家の墓の状況は見島のその家

よりも新しいと告げているように見える。

 ふと、見島とその姓をキイワードにしてインターネットで検索してみようと

いうアイディアが浮かんだ。そして、一つだけ見島在住の人のブログが見つかっ

た。その記事に、八町八反の田んぼのことが書いてある。そこは干拓地で、工事

は、江戸時代後期こちらの郡から見島に渡った人のころ、あるいは、大火が

あったころに行なわれたと伝わる、と。その文は見島に渡来した人に最初から

大地主という言葉を使っているけれども、その干拓地を所有するようになって

地主になったのだろう。この伝承が本当だとすると、少年の考えたようにこちら

の家から見島に渡ったのだろう。土産の見島牛はやはりその証かもしれない。

すると、我が家の先祖の墓のようすからして、大地主になった人はずいぶん辛抱

して働いてそうなったと考えなければならない。しかし、こちらの家がより古く

からあったとすると、古い墓石の数の少ないことが疑問になる。源太郎の墓の

年号は天保だ。その親の名は源二郎と分かっているが、名を刻んだ墓石はない。

右側の名のない石がそうだろうか。こう考えていて、隣家はよそから移ってきた

という昔話を父がしていたことを想い出した。我が家の大正以後の墓は別の山の

これまた斜面にある。棚になった墓地の数は多い。そこには隣家の墓もあるが、

古い墓の年号は寛政だ。源二郎と世代が重なるだろう。もし我が家がそれよりも

何代か前からあって、源太郎の墓のあるところに埋葬していたのだとすれば、

昔は土葬して土に返ったところにまた新しい遺体を埋葬したものか。今となって

は、成人して関心がうすれ父に詳しい伝承を聴かなかったことが悔やまれる。

 けれども、こういう話に熱心になってもいけない。源太郎に跡継ぎがなくて、

家はとり子とり嫁が継ぎ、養子の與七の子孫がこの集落から出た同姓の一族で

ある。家の名を継いだ養子が血縁の人だったとしても、ヨーロッパの家名の使い

方からすると、プランタジネット家がノルマン家を継いだようなものだ。いや

いや、そんな名のある王家のことを譬えにしてはいけない。わたしは、名もない

地下(じげ)の者の血筋なのだ。いずれにせよ人は、元来、無位無官の赤肉団塊と

して生まれ、器水であることを終えたら墓に入り、土に返るのである。生きて

いるあいだは、あの同族の人のように努め励むことにしよう。

 



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 61 園丁と蝶の対話 「認識と言語を巡って」その九



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 60 園丁と蝶の対話 「認識と言語を巡って」その八



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 59 測鉛で社会を探る PDF版



 いつも同じ景色を眺めて暮らす老人は、そこの自然が見せる風景を味わうにも少しばか

り自分への励ましを必要とする。わたしの場合、その方策が拙い句を書きとめることであ

る。隠退して暮らしているので、他方の人間社会を観察するのは一般的なメディアに頼る

ことになる。そのメディアは宣伝の影響力が強まった現代では頼りになる情報を得るのに

向いてはいないが、日常生活でマス・メディアの影響を受けながら過ごすことは避けられ

ない。とりわけ映像と音声を送りつけてくるテレビ放送は、読む努力を必要としないので、

立ち止まって考えることに向いていない。こうして、現代ではどこでも、ある言語の放送

を視聴している国民は、明示的には明かされないけれども、報道の影響下にある。政党の

活動も、報道がもたらす最大公約数的思潮にのみこまれる。それは選挙の投票結果に如実

に現われる。だから現代では、政治勢力は、人的その他のつながり(影響力)をマス・メ

ディアに広げようとする。逆に、その動きにうまく便乗しようと精を出す人物たちも目立

つ。日本の現状を見れば、それは明らかである。

 日本で支配的な思潮から自由になるために、海外の報道に注目する方法がある。しかし

これも、日本のマス・メディアにとりあげられる海外ニュースがすでに選択を受けている

ので、あまり頼りにならない。新聞を見れば、海外情報がスポーツ欄よりも少ない紙面で

報じられていることが分かる。ほんとうは、日本での報道を海外の報道と比較する必要が

あるのだ。ヨーロッパでは、昔からヨーロッパ域内の情報の行き来が緊密だったから、自

国中心だとしても状況はちがっていて、少なくとも思潮の相互作用はかなり大きいにちが

いない。ヨーロッパ連合になってからは、なおさらだろう。BBC放送は中東=Eアフ

リカ・北米のことも頻繁に報道するようだ。それに比較して、日本の近隣諸国との関係は

大いに改善が必要で、客観的な情報をもっと取り入れる必要がある。ある面では敏感なく

せに、一般に、日本人に政治・経済・社会面で海外との比較の感覚が薄弱なのは事実だと

思う。このことに気づいている日本人は少ないのではないだろうか。アメリカ第一を唱え

て普通でない人物を大統領に選んだ合州国にも、移民が今でも流入しているのに、外国と

の比較の感覚は希薄なのだろう。

 そういうこともあって、自由に物事を観ることができるように、ごくわずかだけれど、

書物や雑誌やインターネット上にある自前の思考と思われるものに触れようとしている。

それをなんとか頭の中で整理するために文章にしたものがこの雑記帳に登場することに

なる。もちろん、現在の世の中のことが大きな関心事である。しかし、大きな人間の社会

はその構造をゆっくりとしか変えず、歴史の大河はゆったりと流れる。ところが、マス・

メディアが記事にする大小の渦が物見高い人間の関心を引きつけてやむことがなく、歴史

の河流をとらえることはずいぶんとむずかしい。新たな流動が起きようとしている今の社

会状況の中で、うかつな園丁は要点を見失いがちである。それで時たま、過去はどうだっ

ただろうかということに思索はおもむく。流れの底へ測鉛を下して探るような迂遠なやり

方だけれど、この社会の基底も探ってみようとするわけである。

     *

 英国のメイ首相は、ヨーロッパ連合(EU)離脱に反対していたが、二〇一六年六月の

国民投票で離脱が決まると保守党党首に選ばれたのだった。先ごろ二〇一七年六月、EU

離脱交渉を有利に運ぶためにも地歩を固めようと下院選挙に打って出たのに、保守党議席

数の過半数割れという痛手を負った。第一党なので引き続き首相を拝命し議会を招集する

にあたって、英国の国制を垣間見せるおもしろい出来事が起きた。英国議会の開会は国王

スピーチで始まる。ただし現代では、そのスピーチは首相の責任で書かれる施政方針演説

で、否決されれば首相の不信任決議となる。今回、その演説文を植物繊維の紙ではない羊

皮紙を用意してインクで書き、乾くのを待つという理由で、一週間も国会開会が延期され

たのである。英国らしく古いしきたりを尊重するのだが、その実、過半数割れとなった保

守党が北アイルランドの少数保守政党の協力もしくは連立を模索しての時間稼ぎだろう

と推察された。結局、連立にはならなかったが、協力の約束はできたのかもしれない。

 成文憲法をもたない英国では、制度の隙間をついてこんなこともできるのである。それ

にしても、他人が書いて自分が責任をとることのない文を自分の名で読み上げることに、

女王本人は違和感を抱かないのだろうか。長い歴史が、そういうことに感傷を抱かせない

ようにしたのだろう。一〇六六年にノルマンディー公ギョームがイングランド国王になっ

て以来、男系・女系の子孫が王位を継承してきたのだが、一二一五年に貴族と有力者が国

王に承諾させた大憲章から始まって、国民の権利が拡大して今日に至ったのである。その

長い歴史の影響が英国の政治に残っていると考えなければならない。

 

 イングランドはユーラシア大陸北西端と海峡を隔てた大ブリテン島の一部だが、今日日

本でイギリスと呼ぶ国は、大ブリテン島の三国と北アイルランドを合わせた連合王国であ

る。ユーラシア大陸の反対側東の海に日本がある。日本国が大宝律令を制定して国家の制

度を完成したのは七〇一年のことである。戦前の国威発揚の時代には、ウィリアム征服王

の王朝よりも年代が古いと誇った人もいたようだ。しかし、ローマ帝国支配以後を考えて

も、アングロ・サクソン七王国ができたころ、日本列島も大同小異だっただろう。大宝律

令発布時に、福島県以北は六十余国に入っていなかったのである。今の日本で、「日本」

が当時の中国の「唐」と同じく王朝が名乗った国号だったことを知っている人が何人いる

ことやら。日本で、現代も公的文書に年号を使うことには理由があるのである。古代から、

中国でもローマ帝国でも、王は時も統べていたことを時には思い出す必要がある。現代、

国名に王朝の名を明示するのはサウジアラビアぐらいのもの。

 日本ではドイツ連邦共和国の政府の長を首相≠ニ呼ぶのが慣例だが、ドイツの大統領

は政治権力をほとんどもたず、連邦政府長官は相談にあずかるべき上級者をもたない。フ

ランス共和国では、大統領に権力が集中していて、日本で首相≠ニ呼ぶ閣僚評議会

議長は大統領の配下にある。他方、日本政府の長の正式名称は内閣総理大臣である。

日本国憲法下でも、内閣総理大臣は皇居で天皇から任命書を手渡される。つまり王の首席

大臣で古代中国式に呼べば宰相なのだから、その担当者を首相と呼ぶことができる。

戦後の天皇制で内閣総理大臣になった吉田茂は、自分のことを「臣」と呼んだ。日本と

同じく古い王制を守る英国も事情は同じ。王のキャビネット(≈皇帝の内閣、戸棚よりも

威厳ある閣は中国人好み?)の長を最高位大臣と呼ぶ。形式的に英国王を国家元首と

するカナダが政府の長を最高位大臣と呼ぶのもおかしくない。ところが、宰相・大臣・内閣

などの言葉をつくった中国は人民共和国になったから、それらの言葉は無用になって、

国家主席とその下の国務院総理が国家の政治を執り行なう。これらの用語を正しく使い

分けることは、政治感覚を鍛えるために必要だと思う。

 

 今年二〇一七年、高齢の天皇が皇嗣に皇位を譲ることができるように法令を定めたこと

で、これらの歴史を想起させることになった。明帝国を建てた朱元璋が定め、明治新政府

に採用された一世一元の制は改変されるのである。この譲位を、マス・メディアの報道で

も法律でも退位と呼んでいる。わたしは、第一次世界大戦でのドイツとオーストリアの帝

国崩壊に対しても皇帝の退位と言うので、退位という言葉を使うことに疑問を感じた。皇

室の中にも退位という言葉に違和感をもった人がいたらしい。明治以前、天皇が生存中に

皇嗣に位を譲るのが習慣だったから、今度も譲位と呼ぶ方が自然だったと思う。日本の南

朝は、足利義満のとき、交代で位に就く協定を反故にされて消滅してしまったし、歴史上

禅譲という強制的譲位があったので、譲位と呼ぶことを嫌う人がいたのかしら。しかしそ

れは、退位させられたのである。

 さて、七〇一年以来の天皇制は、外戚による摂関政治や征夷大将軍の武家政権によって

変質しながら続いたが、明治維新の王政復古で、西欧の制度を参考にして近代的な

天皇制に改変されたのであった。かつてないほど整えられた集権的な天皇制だった。

米国に対する宣戦布告も天皇の名で出された。その天皇制が、敗戦によってもう一度

改められ、国民に主権があって、天皇は国の統合のための象徴的な地位ということになった。

明文をもって英国よりも現代的な制度に整えられたのである。戦後の天皇制は改革されて、

現在の天皇は日本国憲法を遵守することに熱心である。それに対して、内閣総理大臣の方

が守旧的で、戦前の天皇制にノスタルジアを抱くような始末である。原則的に君主制に

反対の共産党が、高齢の天皇の意向を汲んで法案に賛成するような状況なのだ。去年から

今年にかけて議論されたことをよく吟味して、将来の制度を調整していくべきだろう。

 

 のんきな口ぶりで無駄話をしているけれども、ほんとうは現在の日本国の状況をとても

心配している。ユーラシア大陸の東と西の果てにある二つの島国は、古い王制を改変しな

がら現在に至って、世界の経済・政治・社会が大きく流動しようとする時代にある。資本

も物資も人もグローバルに移動する世界にあって、無難に切り抜けることができるだろう

か。他方の英国は、いったん加入していたヨーロッパ連合を離脱しようとしていて、容易

な状況ではないが、その国の政治家たちは、東の国の政治家たちよりも真剣に問題に立ち

向かおうとしているように見える。一方、こちらの国では、問題を先送りして当座をしの

ぐことばかりに熱心で、困難な事態に立ち至ったときに国民は見放されるのではないか、

とわたしは危惧する。

 

     *

 最近、『世界の田園回帰』(農文協)という本を読んだ。日本政府は目新しい言葉で政策

を飾りたてることにやっきだが、最近、そういう言葉の一つに「地方創生」というのがあ

る。中央政府でもそれに従う市町村でも、それに関与する人々がこの言葉を使う。しかし、

住んでいる市の取り組みや集落のまちづくり協議会の活動を見ると、「創生」というほど

の活力が生み出されているとも思えない。「地方創生」のかけ声の中で、市町村が助成金

を出して移住者を募ることなどが行なわれ、「田園回帰」という言葉も聞く。わたしは、

この本が海外の田園回帰の状況を報告していることを知って、読むことにした。日本の社

会を知ることにつながるだろうと思ったからである。実際、現代日本の社会とヨーロッパ

社会との違いを知ることになった。

 とりわけ、「フランス編」が印象深かった。フランスの農村人口は、一九七〇年代に減

少局面を脱し始め、二〇世紀末には下げ止まったという。そのことはあとで考えるとして、

注目に値するのは社会の編成の仕方である。基礎自治体であるコミューンが、全国におよ

そ三万六千六百あるという。二〇一四年の統計に基づけば、人口二千人未満の

コミューンの数は約三万一千五百(およそ一千六百万人、総人口の二十四%)、

人口二千〜二万人のコミューンの数は約四千七百(およそ二千四百万人、総人口の

三十七%)、人口二万人以上のコミューン数は約四百五十(およそ二千五百万人、総人口の

三十八%)である。これに対して、日本の市町村と特別区の数は、一九九九年に三千二百

余りと十分の一以下だったが、合併が進んだ二〇一六年には約一千七百に減った。

その内わけは、人口二千人未満が九十弱(人口約十万人)、人口二千〜二万人が七百弱

(人口約六百五十万人)、人口二万人以上は約九百七十(人口約一億二千万人)で

ある。この比較で、日本の総人口がフランスのおよそ二倍あることは副次的な問題に過ぎ

ない。重要なのは、日仏の基礎行政単位の規模が大きく異なることである。

 コミューンという言葉は、共同を含意し、元来中世の自治都市を指していたが、『世界

の田園回帰』によれば、フランス革命の時期に行政単位を県とその下のコミューンに区画

して、地方自治体一般に使われるようになったものらしい。そして、農村地域では、百〜

三百人規模のコミューンが普通で、数十人程度のコミューンもめずらしくないという。こ

の数字は、田園地域のコミューンが自然発生的に形成された集落だったことを示唆する。

その本が言うように、いなかのコミューンは近代以前の教区に基づいて区画されたものと

考えてよい。多くは封建時代の集落にさかのぼれるだろう。わたしは、モンテーニュの城

館を見学したときのことを想い出した。詳しくは「蝶の雑記帳十六」に譲るとして、今回

の話題に関係あることを記そう。城館はところどころに森があって広大なブドウ畑の続く

丘陵にある。そこから四百メートルばかり南の辻にミシェル・モンテーニュを記念する碑

の立つ教会があり、辺りに三十軒足らずの家があった。今、グーグル・アースで確かめて

みると、教会のある集落を中心に半径1qを超える円を描いても、西と西南に二十軒ぐら

いの集落が二つと、あと数軒が散在するだけである。館は新しいが、コの字を描く石壁と

その一角にあってモンテーニュが書斎にした塔は彼の時代からあるものらしいから、村の

方もおおよそ五百年間大きくは変わらなかったと思われる。

 

 フランス革命で先頭を切って近代へ移行したフランスは、近代以前の単位共同体を社会

の要素として維持したまま近代的体制を編成したのだ。近代以前に商業やマニファクチュ

アーで発展した都市があったのだが、近代産業の進展による都市の肥大化にも、その行政

区画を基本的に変えることなく対応してきたのだ。人口二万人未満のコミューンが三万六

千もあり人口が四千万人あることが、そのことを証言している。フランス革命時のコミュ

ーン数約四万からそれほど減少してはいないのである。

 これに対して現代の日本の地方自治体数は圧倒的に少ない。しかし、江戸時代にはそう

ではなかった。ウィキペディアによれば、幕藩体制下で村は六万以上あったという

(明治期の一八八八年の新制度で市町村数は七万一千余りだった)。耕地面積の

少なさにもかかわらず日本の村の数が多い理由は、集約的水稲栽培にあっただろう。

これはまたあとで考える。人口は、十八世紀中ごろ、約三千万人あったと推計されている

から、都市人口を考慮しない単純平均で一村当たり五百人に満たない。現代フランスの

農村におけるコミューンの規模からかけ離れているわけではない。日本でもフランスでも、

農業を基幹産業とする田園地域で、自然集落の規模は大同小異だったと考えられる。

 幕藩体制下での日本の村は、大きな社会の要素となる単位共同体であった。藩と天領代

官の支配は根本において厳しく、村は領主の課す年貢に共同で責任を負った。しかし、行

政はむしろ粗放なものであった。広域に関係する負担などの場合を除いて、村内では田地

の多い者が村役人の任についてリーダーとなるが、重大なことは村民の集会(寄り合い)

で決定した。現在、「村」という言葉は、時代の古さとその不自由さを理由に否定的に語

られることが多いけれども、村落は、現代よりもはるかに自治共同体という名がふさわし

かっただろう。

 このことは、『世界の田園回帰』の語る現代フランスのコミューンのあり方からも、う

かがい知ることができる。現代は選挙制度の発達した時代だから、選挙で選出された任期

六年の議員で構成されるコミューン議会がコミューンを運営するが、コミューンを代表す

る長(メール)は議会内で互選されて事務を執行する。議員の定数は法律で定められてい

て、百〜五百人未満のコミューンの議員数は十一、五百〜千五百人未満のコミューンの議

員数は十六、二万人未満のコミューンの議員数は、人口に応じて多くなり、最大で三十三

という。ここまでは、たとえば五百人未満のコミューンで住民二十数人当たり一人の議員

がいるというように、議員数が比較的多いことが目立つ程度。

 ところが、フランスのコミューンは、自治共同体の伝統をよく保存していて、現代日本

の町村と大いに異なるのである。農村では、メールと助役だけが有給で、人口五百人未満

のコミューンに対して決まっている上限額が、メールで月額六百五十ユーロ、助役で二百

五十ユーロという(日本にくらべてずっと少ない)。歳費はコミューンの財政から支出さ

れるので、上限額の給料が出ることはめったにないらしい。その他の議員は無報酬である。

人口二百五十人の村の例を見てみよう。メール・助役と議員が、学校・上下水道・道路・

公共工事・入札・広報などの委員会を構成して審議する。祝祭式典・村内美化などの委員

会まであるらしい。議員自ら道路補修に重機を操ることもめずらしくないという。その村

の事務員が事務所に出勤するのは週七時間、その勤務時間だけ村役場が開いているのだそ

うだ。五百人を超えるコミューンでは、常勤の事務員や道路・施設を補修する作業員がい

て、役場が開くのは週二、三日に増えるそうだ。どこの村でもコミューンの多くの仕事は

メールや助役に集中することになるだろう。つまり、フランスの多くのコミューンは、基

本的に近代以前の自治共同体のように参加型で運営されるのである。日本の幕藩体制下の

村によく似ている。そういう村落共同体では、住民は協力して共同体を運営し、自主的に

大小の行事や必要な活動に参加していたはずなのだ。

 ここで感想を書けば、そのような村落共同体では、壊れた屋根や壁の補修を手伝い、

災害時には村中総出で復旧に当たっただろう。今の日本に、いなかでも、自分の家を

自分で補修する人はめっきり減った。そして、ボランティアという外国語が必要になった

(最近、ボランティア活動に参加する人が増えたことは喜ばしいけれども)。

むしろヨーロッパの旅行番組などで、自分で家の壁のペンキを塗る人などを見かけるが、

古い共同体の生活のなごりが強いからではないか。生活の質について考えさせられる。

 

 けれども、現代の田園地域は、収入を農業だけに頼る人は減って、住民構成が変化して

いる。メールには、まだ農業者が多いけれど、手工業者・商店主・経営者・管理職・知的

職業者と多様な人たちが就いているらしい。この点は、俸給を当てにする人が多いことを

言わなければ、日本の小自治体でも同じだろう。

 すなわち、近代の発展を経た現代社会は、さらに政治・経済のグローバル化が進んで、

その構造を変化させている。コミューンは、道路・上下水道・電気や学校施設などの現代

的な生活基盤を必要とし、ごみの収集・通学手段など多くのサービスを運営しなければな

らない。だから、零細なコミューンが現代に見合う行政に対応することはむずかしい。す

でに十九世紀末から、コミューンが連合して事務組合を結成し社会の変化に対応してきた。

その事務組合は充実されて、現代フランスの農村において、生活基盤の管理や住民サービ

スの多くは、事務組合を通じて供給されており、零細なコミューンは範囲の異なる複数の

組合に参加しているそうだ。一九九二年には、地方行政について法改正が行なわれ、農村

向けにコミューン共同体と都市向けに都市共同体の組織が制度化された。現代の状況に対

応するために権限を強めることも行なわれたらしい。『世界の田園回帰』に紹介されてい

るその運営の実情も興味深い。単位となるコミューンの運営方式を拡張したものである。

先ほどの個別コミューンのあり方を拡大して想像すればよい。変化してきた現代社会でも、

フランスの地方行政には、古くからの自治共同体の精神が貫かれているのだ。

 フランスの地方行政のあり方が日本と大きく異なることに、わたしはたいへん驚かされた。

日本の近代化は大切なものを一つ失ったのだ。明治維新の王政復古は日本の歴史上

最も中央集権的な体制へと進んだ。手本にしたドイツ帝国の憲法は、領邦国家の分立して

いたドイツを統合するための法制という特徴が強かった。それは、分権的だった幕藩体制を

統合するのに好都合だったのだろう。しかし、ドイツの諸領邦に残された自治的な権限に

目は向けられなかった。敗戦まで、府県知事は中央政府によって天皇の名で任命された。

一八八八年の新たな制度で七万一千余りあった市町村は、選挙で選ばれた議員が

市町村会を構成し、首長は議会が選んだ。首長も議員も無給である。ただし、選挙は普通

選挙ではなく、以前のように有力者が市町村の運営を主導したのだ。だが、翌年には、

合併によって、市町村の数は一万六千足らずに減らされた。能率を重んじる近代化≠ェ、

残っていただろう共同体の慣例を打ち壊していく。中央からの指令が徹底していくにつれて、

自治の伝統は地方行政から失われていったと考えられる。

 一九四五年からの占領期、占領軍は、日本の旧体制を変えるための施策の一つとして、

地方自治を勧告した。以前に似たものがあったのに、米欧から勧告を受けるほどに劣化し

ていたのだ。しかし、執行機関である日本政府は戦前のままであった。官僚は時代や国に

よらず権限を失うのを嫌う。地方自治は十分な実質を伴うほど成長(回復)しなかった。

日本人一般に能率主義は染みついていた。戦後も市町村合併は促進される。

一九五六年に九千九百近くあった市町村は、一九六一年に三千五百足らずに減らされた。

そして、最近の平成の合併で約一千七百になったのである。

 わたしは、うかつなことにこの問題をよく理解していなかった。今回、フランスのコミ

ューンの実情の一端を知って、日本の社会が重要な機能を失っていることに気づかされた。

われわれの社会が能率ばかりを重んじて、私的でない相互扶助の精神が希薄なのは、現代

の市場経済の苛烈さだけが原因ではないのだろう。

 

 比較のために、もう一つだけ、『世界の田園回帰』のドイツ編を一瞥しておこう。ドイ

ツの基礎自治体ゲマインデの数は一万一千余りだ(旧東ドイツで、経済的な苦境が原因で、

三分の一近くの二千七百弱に減った)という。基礎自治体の数は、五千万人当たりに換算

してみると、フランスの半分以下だが、日本の十倍あることになる。ドイツで最も多いの

は人口が二万〜五万のゲマインデで、総人口の六十八%が郡部に住むという。日本よりも

市町村の規模は小さいのである。ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行は、フラ

ンスよりも進んでいるが、日本ほどではないと考えられる。

 こうして、日本の社会構造は、現在の経済状況が危機に陥ったとき、ヨーロッパよりも

もろいのではないかと危惧される。もちろん、二十一世紀の工業先進国はよく似た状態に

なっていて、一国の政治に大きな力を及ぼすのは都市部に住む住民である。注目してきた

フランスの国全体の政治は中央集権的で、科挙制度に似て%、三の教育機関卒業生

が政治・経済を牛耳っている。新大統マクロンも例外ではない。それでも、コミューンの

精神がまだ生きているとすれば、フランスには社会の耐久力があるかもしれない。

 

     *

 さて、『世界の田園回帰』という本からたくさん引用しておいて、田園回帰に触れない

わけにもいくまい。この本を出版した農文協も執筆した研究者たちも、日本で田園回帰が

起きることを望んでいる。陶淵明の弟子を自任しUターンしてきたわたしもそれを願う。

しかし、現在のところ、統計は無情な数字しか示さない。少数の大都市を除いてほとんど

の市町村の人口は減り続けている。農林水産業に従事する人の多い地域でとくに人口減少

は著しい。わたしの住む市の人口も、二〇〇五年に合併したとき四万一千人を超えていた

のに、現在、三万五千人台に減っている。

 まず、農業や農村事情をかいつまんで知っておくことが必要だろう。注目したい諸国の

農業の自然条件を見てみよう。この「蝶の雑記帳」では異例なことだけれども、表を用い

て、農業経営体の数と農地・耕地の面積を比較しよう(インターネット上に、精度よく

比較できるまとまった統計はなかなか見つからなかった。日本とヨーロッパの農業センサスの

数値は比較的同質なのだろう)。現在、資本主義経済が世界を覆い尽くし、先進工業国

は、自由貿易に例外を認めない方向に進んでいる。その市場で、経営規模の大きく異なる

諸国の農業経営体は競争を強いられる。単位面積当たりの農産品の収穫量が諸国で

ひどく違わないとすれば、経営規模が市場での競争力を左右する。

  




表を見れば一目瞭然、日本の農業がきわめて不利な条件下にあることを確認できる。

もちろん、農業生産はほかのさまざまな条件から影響を受ける。市場での競争を放任すれ

ば、農業大国の米国でさえ苦境に立たされる農家が出る。だから、米国でも農業保護

政策による補助金が支給される。EUは、域内諸国で日本よりも行き届いた農業対策を

とっていると聞く。競争条件の不利な日本はとりわけ、農業保護政策についての議論を

公開して、国内で合意を形成する必要がある。

 日本は、韓国と同様に、一戸当たりの耕地面積が小さい(中国は、産業構造の変化がとて

も流動的だし統計も日本・韓国と同質でない可能性があるので省略したが、農業人口の

巨大さから、一戸当たりの耕地面積はさらに小さい)。東アジアでは、昔、集約的農業

(とくに水稲栽培)がヨーロッパ(の小麦)よりも単位面積当たりの生産高が大きかったので、

小さな耕地面積で大きな人口を養ってきた。その歴史が現代まで影響しているのである。

しかし、最近の単位面積当たりの米の収穫量を比べてみると、日本の収穫量は、中国や

米国にくらべてむしろ少ない。小麦のそれも、フランスや中国よりも少なく、同じ面積なら

米国の粗放な栽培に勝るがその広大な耕地面積に太刀打ちできないのである。

この面からも、日本の農業は外国に対抗できない。

 環太平洋連携協定(TPP)の交渉に入る前、日本政府は、加入することが得策かどう

かよく見極めると言っていたのが、今では、自由貿易が当然という顔をしている。問題の

一つだった農業問題はもはや無視されるようになったのだ。政府はまだ農業の経営規模を

拡大する政策を標榜しているが、その本気度は疑わしい。先の表の示す条件をよく知って

いる官僚たちは、本心では日本の農業の衰退を容認しているのだと思われる。日本は、工

業生産に命運を託す道を進んでいるのだ。

 

 現在の日本社会の状況を規定しているのは経済である。その中でも農業や個人事業の苦

境が、小都市や町村の社会構造を大きく変化させている要因である。その構造を修復する

可能性のあるさまざまな政策を実行してみるほかに、田園地域の人口問題を打開する道は

見つからないだろう。わたしにはその力量がないが、『世界の田園回帰』の論点を少しだ

け考えてみよう。

 この本では、主にヨーロッパ諸国の田園回帰の実情が報告されて、日本での田園回帰に

希望的な議論が添えられている。しかし、ヨーロッパでは田園地域の人口はおおよそ維持

されているのに対し、日本はそれと異なる状況にある。第一、ヨーロッパ諸国の総人口は

ドイツがわずかに減り気味なのを別にすれば、仏・英・伊でむしろ増加しているのに対して、

日本の総人口は毎年二百万人以上減り始めている。その状況の中で、日本の田園地域

の人口はより大きく減少しているのである。先ほどの表を見るとヨーロッパ諸国の農家の

減少率は日本よりも大きいのに、ヨーロッパの田園地域の人口はほぼ維持されているとい

うのだから、農業者でない移住者が相当数いることを意味するだろう。そういう田園回帰

がヨーロッパで起きているのだ。

 その原因として、前節で論じたように、ヨーロッパ社会には古くからの共同体がかなり

の程度維持されていることがあるのではないか、とわたしは考える。世界経済が頭打ちと

なった一九七〇年代以後、社会構造維持のための政策が日本よりも有効に実施されたのか

もしれない。日本の総人口および田園地域人口の減少は、近代日本がたどった歴史に一因

があるのだろう。農業の後継者が減っているだけではない。手に職をもつ自営業でも、親

の職業を継いでその土地に留まる子の世代が減少している。中都市でも、多業種の人たち

が営業していた街に、シャッターの下りた店が目に見えて増えた。日本は、要素的な共同

体が溶解するような状態で経済・社会が縮小するという、世界史上でも稀な重大な困難に

直面している、とわたしは思う。

 ヨーロッパで起きている田園回帰は、農業の振興によるのではなく、さまざまな職種の

人々が田園地帯に住むことを選んでいるからである。よく考えてみれば、日本でも、田園

地域には多様な職業の人々が住んでいたのである。かつて、百姓(ひゃくしょう)という

言葉は、たいてい農民を意味するものとして使われていた。しかし、土地からあがる農産

物が経済を支えていた封建時代にも、百姓(ひゃくせい)は人民一般を指し、田園地帯に

も田畑の耕作に加えて多様な職業に従事する人々が住んでいたのである。だから、農業

以外の産業が発展し、農業者以外の人口が圧倒的に多数になった現代、田園地域に

多くの住民が住めるような産業配置が必要なのである。現今の日本で行なわれているように、

道の駅を建てる、あるいは催し物をして人の往来を増やすというような一時的な施策は

それほど有効ではない。暮らしていける仕事を地方にも配分することこそが必要なのだ。

その中には、個人営業の仕事も含まれるようにすることが必要である。そのための補助

政策だって要るだろう。というようなことは誰にも分かっていることなのだ。たいへん困難でも、

何とかしてそれを実行することだけが日本に残された道である。

 

 偉そうなことを書いたが、現実のわたしは、自家用にわずかばかりの野菜と果樹を育て

て社会に何の役にも立たないことをしながら、市の広報が毎回住民数の減ったことを報じ

るのを、手をこまねいて眺めている。

 

 

                                二〇一七年、九月


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 58 園丁と蝶の対話 「認識と言語を巡って」その七



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 57 園丁と蝶の対話 「認識と言語を巡って」その六



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 56 戦争期の日記を読む



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 55b 園丁と蝶の対話 「認識と言語を巡って」その五補遺



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 55 園丁と蝶の対話 「認識と言語を巡って」その五



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 54 園丁と蝶の対話 「認識と言語を巡って」その四



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 53 生命という活動する存在



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 52 園丁と蝶の対話 「認識と言語を巡って」その三



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 51 変動する時代と人間を描いた文学 ― 『夜明け前』



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 50 園丁と蝶の対話 「認識と言語を巡って」その二



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 49 園丁と蝶の対話 「認識と言語を巡って」その一



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 付録 果菜園荒地年報2016



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 38補遺  稲作と鵜飼をもたらした人々のお歯黒 



 黒船来航から明治初期にかけての日本社会の変動を、島崎藤村の『夜明け前』は見事

に描いている。叙述は生活・文化にまで及んで、お歯黒の風習が「文明開化」のなかで

すたれたことまで漏らさない。その一文は、多面的な歴史に関心のあるわたしをインタ

ーネットで調べるように誘った。

 

 ウィキペディア「お歯黒」は、その風習が「日本や中国南東部・東南アジア」にあっ

たと述べ、また、日本の古墳に埋葬されていた人骨や埴輪に痕跡があり、『山海経』や

『三国志』魏志倭人伝に「黒歯国」が登場することを指摘する。さらに検索するうちに、

「お歯黒文化圏に関する試論 ―日本とベトナムを事例にして」という学術的文献を見

つけた。二〇一三年のシンポジウムで発表された日本語の論文で、著者はファン・ハイ

リンというヴェトナムの女性研究者である。この最近の論文は、これまでの関連する文

献に目を通したうえで議論していると思われる。詳細を論じるゆとりはないが、ここで

の議論に関係することだけを拾い読みしておこう。

 それによれば、お歯黒の風習は、アジアとアフリカの部族や中南米の氏族とにある。

アジアについては、二つの先行文献がお歯黒の行なわれた地域についてまとまった情報

を提供するという。一つは、『べトナムに関する知識』(一九五四年)中のP・ユアールと

M・デュランの報告で、「南はインドネシア、東はソロモン・マリアナ諸島、北は日本、

西は中国南部とインド南部である。インドシナではこの習慣は北緯二十五度付近を越え

ない」とされる。もう一つは、日本の原三正『お歯黒の研究』(一九八三年)で、「南方の

黄色人種の大部分が歯牙黒染の風を有していたとうかがい知られる。ただ、大陸民の漢

族・蒙古族・満州族・韓族・ギリヤーク族等にその風習がない」と記している。ほかの

文献も調べたファン・ハイリンは、「アジアにおけるお歯黒の範囲は、一部の少数民族

を除き、北は日本、南はインドネシア、西は中国の広東省、広西省の南部、インド東南

部、東はソロモン・マリアナ諸島である」と整理している。

 

 お歯黒は、アジア・アフリカ・中南米と遠く隔たった地域に分布している一方で、そ

れ以外の広い地域に痕跡が見つかっていないので、人類の移動拡散の時代からあったの

か、のちに独立に発生したのか定かではない。しかし、日本の古墳やヴェトナムの紀元

前第一ミレニアムの遺跡で黒く染められた歯牙が見つかっているという考古学的な証拠

は、この風習が古代からのものだということを教える。アフリカと中南米での部族や氏

族という言葉づかいも古い文明段階の風習であることを意味するのだろう。アジアで、

近世以後にもお歯黒の習俗のあったことは、この風習が古代から文明化された時代まで

続いたことを証言している。

 歯を黒く染めて口の中を暗く見せるのは、現代の審美感覚からずれているけれども、

後世まで存続したのはその慣習が文化に深くしみこんだせいだろう。日本でその風習を

改めるには、欧米人が異なる文明をもちこんだ幕末維新の変動の時代、自他の比較を迫

られるのを待たなければならなかった。新政府が皇族・貴族にお歯黒禁止を指令して民

間でもすたれることになったが、この変化は、古い社会ではたいてい上位層の衣服・化

粧などが広まったことを想い出させる。古墳で発掘された人骨のお歯黒の痕跡も、古代

日本列島のお歯黒が上層の人々の習俗だったことを示している。

 

 それでは、日本で明治初期まで存続した習俗お歯黒の起源はどこにあるのだろうか。

日本列島で独自にお歯黒が始まったのではなく、そのような人体にほどこす装飾がよそ

から来たとすれば、人が移動して来たのである。従来お歯黒が南方から来たという見方

が有力だったのは、アジアにおける近世以後のお歯黒分布地図に基づいてのことだろう。

その地図で日本列島に最も近いところは、中国広東省である。短絡して、古代、遠いそ

こから直接海を渡って来た集団があったとしても、日本列島にお歯黒を広めるほど多く

の人々が来たか疑問である。お歯黒の問題は、日本列島へ渡来した人々を広い観点から

とらえて解かなければならない。古代人は装いだけでなく生活手段を携えて移動したは

ずだから、お歯黒をした人々が何を生活の基盤としたか尋ねることが問題を検証可能に

するだろう。すると、蝶の雑記帳第三十八話「鵜飼と稲作の伝来」が「お歯黒の伝来」

を解明する光を照射していることに気づく。

 

 第三十八話本文に記したように、水稲の栽培は中国広西チワン族自治区の珠江中流(広

東省へ東流する)で始まったことが、栽培稲のゲノム解析で明らかになった。珠江流域

に広まった水稲は、北は長江流域へ、さらに東北の日本列島へ、西南のヴェトナム紅河

流域へ出た水稲は、西は中国雲南へ、南はインドシナ半島を経て、さらにインド東南部

(またインドネシア)へ伝播したのである。注目すべきことは、水稲伝播図が鵜飼をし

た地域の図と重なることである(鵜飼はインドネシアで確認できなかったけれども)。

このことは、水稲栽培を最も重要な産業とした人々が、水量の豊かな水田地帯で有用な

食料調達手段の一つであった鵜飼も営みながら移動したことを物語る。この水稲伝播地

図と鵜飼分布地図の二つを、さきほど引用したお歯黒分布地図と比較してみれば、それ

らに強い連関があることが知られる。ファン・ハイリン論文は述べないが、ウィキペデ

ィア「お歯黒」は、中国雲南にお歯黒をしている民族がいると記している。お歯黒分布

地図に雲南を含めれば、三つの分布地図はいっそう近似する。すなわち、水稲栽培と鵜

飼は、栽培稲発祥の地である珠江中流域を中心として周縁のたがいに隔たった三つの地

域、東北端の日本列島・西端の雲南・西南端のインド東南部に到達したのであるが、お

歯黒の風習もまさしくその三つの地域まで伝播したのである。以上のことは、水稲栽培

と鵜飼とお歯黒の三つがセットで伝播したという動態をよく表示している。こうして、

第三十八話本文「鵜飼と稲作の伝来」の議論はいっそう強固にされた。高い蓋然性をも

って、これら三地域まで水稲を運んだ人々が、鵜飼をし、また、お歯黒もしていたとい

う結論に導かれる。

 

 水稲伝播図と鵜飼分布図にあってお歯黒分布地図に欠けているのは、広西・広東省以

北から長江流域にかけての領域である。それはなぜか、もう一度、この領域の歴史をふ

り返って考えてみよう。古代、主要農産物が水稲だったのは長江流域以南であり、生産

に従事した農民は百越と呼ばれた人々だった。それらの人々は、血統と文化において、

稲作発祥の地の珠江流域の人々とつながっていたと考えられる。だが後世、珠江流域に

はお歯黒の習俗があったのに、北緯二十五度以北ではお歯黒が見られなかったのである。

ところで、珠江流域周辺には現代でも大きな人口を擁するチワン族などの民族が住んで

いるのに対し、北に行くほど住民は自分を漢族と考える。この状況は、かつて百越と呼

ばれた同系統の人々はお歯黒をしていたが、華北の強国が長江以南に領土を拡張してき

て、お歯黒をしない北方の人々が支配するようになり、「漢化」が進んだせいだと理解

できる。

 詳しく時代を追ってみよう。春秋時代の紀元前六〇〇年ころ、蘇州から紹興にかけて

の江東沿海部に呉と越が建国された。『史記』によれば、呉の王は周の王族につながる

とされているから、呉の支配者はお歯黒をしない北方の出ということになる。越には、

そのような伝承がなく百越の一つとされているから、支配層にもお歯黒の風習があった

と考えてよいだろう。紀元前六〇〇年ころ、呉ではお歯黒の風習が押され気味で、越で

はお歯黒が一般的だったと推定できる。呉・越の隆盛は紀元前四〇〇年代には終わり、

秦の始皇帝が越の会稽山に巡行して以来、華北人による長江以南の支配は体制化されて

漢・三国時代の呉・晋へと続き、東晋になると多数の華北人が江南に避難して「漢化」

はいっそう強化されたのである。先ほどお歯黒のような装いは支配層の風習になびくこ

とを示唆しておいたが、時代が下がって南宋以後お歯黒の風習はすたれ、北緯二十五度

以北では見られなくなったと考えることができる。

 

 それに対して、日本列島にお歯黒の風習があったのはどうしてだろうか。第三十八話

本文で論じたように、ミトコンドリアDNAで識別できる水稲種のうち日本で栽培され

ているのに朝鮮半島で栽培されていない品種があることは、その水稲種が、朝鮮半島経

由ではなく、江東沿海部から九州島へ直接渡海したことを示唆する。鵜飼が江東では行

なわれたが華北ではほとんど行なわれず朝鮮半島にはなかったことも、鵜飼をした人々

が江東沿海部から渡海したとする仮説を支持する(詳細な議論は第三十八話にゆずる)。

今考えているお歯黒の風習も、華北や朝鮮半島ではそれがなかったのに日本列島にはあ

ったのだから、華北や朝鮮半島を通って来たのではなく、江東沿海部から渡海して来た

ことを証言しているのである。すなわち、日本に多い水稲種・鵜飼・お歯黒は一致して、

江東沿海部から渡海して来たと告げている。

 では、日本列島にお歯黒の風習が定着したのはどうしてだろうか。放射性炭素による

測定は、九州北部で水稲耕作が始まったのが紀元前第一ミレニアム初期のころだとする。

したがって、江東沿海部から水稲と鵜を携えて来た人々は、呉や越が建国された時代よ

りも以前(稲作文明は十分に発展していた)に九州北部へ渡海したのである。そのころ、

江東の稲作民はお歯黒の習慣をもっていたと考えてよいから、九州北部で水稲耕作を始

めた諸集団にもお歯黒の風習があっただろう。先進の生産手段をもって移住してきた彼

らは、その地で有利な地位を占めて、彼らの文化・生活習慣を広め定着させたと考える

ことができる。そう考えれば、広域に社会の階層構造が確立した古墳時代、古墳に埋葬

された有力者にお歯黒の痕跡があることがすんなりと理解できる。

 第三十八話本文とこの補遺の議論は、日本列島の古代史や社会構造にも関わって、お

歯黒が後世まで続く風習になったことを説明することができる。九州北部で水稲耕作の

始まったのが紀元前九百年ころとする新しい知見は、後世お歯黒が江東沿海部ですたれ

たのに対し、日本列島では定着したことをうまく説明できる点でも有効なのだ。

 

 

 以上の考察から、紀元前第一ミレニアム初期に江東沿海部から九州北部へ移住して水

稲耕作をもたらした人々は、お歯黒の風習をもち、鵜飼をしていた、と推定できる。

 

                           二〇一六年、十二月



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 48  老生、『老生』を読む 



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 47  『認識と言語の理論』を学ぶ 



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 46  陶淵明という人 


 46b  陶淵明の詩作と心境の推移 



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 45  失望の時代 



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 44  文化進化論を考える 



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 43  目覚めた人の説いたこと 



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 42 小小説拾遺3  刀自の昔語り 



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 41 わたしはどういう者か 


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 40 風景を再構成するために 



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 39 もう一度のコペルニクス的転回 



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 38 縄を解かれた鵜の空想 ― 鵜飼と稲作の伝来 



    世に誇大広告文があふれている。だが、覗き見る人のいないホームページに

   そのような広告文は役に立たない。それでも、この38話はいくらか取り柄が

   ありそうなので、一人ぐらいは読んでくださる方を求めてみたい。そこで、摘

   要をつけることにする。客観的に書くけれども、不徳の者のすることだから、

   やはり誇大になるかもしれない。どうぞご容赦のほどを。

 

 

Abstract:

  この試論は、可児弘明著『鵜飼』(中公新書、1966年)を導きの糸として、水稲

 耕作と鵜飼が中国大陸から日本列島へもたらされたことを論じる。著書『鵜飼』が

 書かれて半世紀、自然科学的な手法によって、水稲栽培種の起源地・水稲の

 品種・中国大陸最古の水稲栽培遺跡の年代・九州北部での水田耕作開始時期

 が明らかになり、日本列島への水稲の伝来時期と経路を以前よりも信頼できる

 仕方で議論できるようになっている。しかし、学問的な研究はまだ定説といえる

 ほどの共通理解に達していない。このエセーは、現在一般的に知られている

 データに基づいてできるかぎり合理的な推論によって、日本列島への水稲の

 伝来ルートを知ろうとする試みである。上述の科学的知見と既知の歴史や海流・

 各地の気温データなどを矛盾なく構成して得られるきわめて蓋然性の高い結論

 は、中国大陸江東沿海部の稲作民がそこで栽培したモミをたずさえて東シナ海

 を渡って九州北部に来た、というものである。

  水稲栽培種の起源地が中国広西チワン族自治区の珠江中流域だという最新の

 知見は、水稲栽培とその文化の伝播に関連する多くのことがらを解明する光を

 発している。そのうち鵜飼がこのエセーのもう一つの主題である。珠江中流域は

 鵜飼の分布する地域の中心に位置し、その分布図が水稲の初期伝播図に重な

 ることは、鵜飼が水稲栽培に随伴して伝播したと考えれば理解しやすい。最初

 に鶏を家禽化した地域に属するここの水郷で、鶏を飼っていた稲作民が川鵜も

 家禽化して生活しているうちに鵜飼を発明した、というのがここでの仮説である。

 そこの人々の水稲と鵜をたずさえての拡散の一つが、古い水稲耕作遺物の

 発見された江東沿海部に及んだと想定するのである。(鵜飼がどこで発明された

 としても、後世鵜飼が行われた長江流域は鵜飼に最良の条件をもつから、江東

 沿海部で古くから鵜飼が行われていたと想定できる)。そこから九州北部に渡来

 した人たちは、モミといっしょに鵜もたずさえていただろう。日本列島にもた

 らされた鵜飼文化について考察し、海鵜を使い縄でつなぐようになった事情も

 考える。稲作と鵜飼の西と南への伝播を考察する補節が、広葉樹林文化論の

 見直しが必要なことを明らかにする。

 



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 37 独り歩む精神をたどる 



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 36 日本精神史をたどる 



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付録 果菜園荒地年報2015



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29-2 小小説拾遺一補遺  続或る僧の物語   PDF版



    あるとき次のような話を聞いた。これも街談巷語でたしかなところは不明だが、どうも、

   「二十九 小小説拾遺一」に出た僧のことのように思えるので、続編として収録する。

 

 或る僧が、その教団では毎年開山聖人の命日のころ「報恩講」という行事があるのだが、

或る年、或る寺で講師として法話をしたそうな。八十九歳だということだ。もっとも、数

え歳を使った時代のことだから、満で八十八なのだろう。七歳年上の妻女が亡くなってま

だひと月経っていないのに、かくしゃくとして説教する姿に活力がみなぎっていた。ただ

し、立って話すことが多かったのに、今日は黒板の前に立たないときはほぼ椅子にお座り

だ、と言う者がいた。入院していた妻女がいよいよ危篤だというとき、枕もとで、和尚が

「もうだめじゃ、どこへ行くかね」と訊ねると、さすがに寺の坊守だ、「お先にお浄土に

参ります」と答えたそうだ。和尚が言うには、この会話をそばにいた医師や看護婦たちに

聞かせたかったらしい。葬式にはその看護婦たちも参列したそうだ。異例なことだ。

 その日の講話は、報恩講なので、法義についてはまたの機会にゆずり、ご開山の生涯を

主とするものだった。そうでなくても聴衆を魅了することの巧みな和尚は、諧謔を交えな

がら、よく聴くと筋立てのすぐれた話をいよいよ磨きのかかった話法で語った。

 

 話題は承元(建永)の法難。当時、比叡山第一の智と称えられた僧源空が山を下り、専ら

仏を念じることを説いて都の貴賤の心をとらえたため、南都北嶺の教団がその禁止を訴え

出ていた。おりしも、後鳥羽上皇熊野参詣の留守中に、上皇寵愛の松虫と鈴虫が、かねて

その教えに心惹かれていたのか、説教を聞いて出離の思いを生じ、ついに源空の弟子の二

人の僧に剃髪してもらい、尼になった。帰京した上皇は、このことに大いに怒り、専修念

仏停止の命を下して、その二人の僧を斬首の刑に処し、もう二人も死罪にする。源空は位

の高い上殿の人たちにも支持者を得ていたけれども、怒りのおさまらない上皇は、専修念

仏の唱道者源空とその弟子善信房ほか七名を流罪とする。源空すなわち法然と善信のちの

親鸞は、僧籍を奪われ俗名を付与されて、四国と越後に配流された。その後尾ひれをつけ

て巷間で語られることになる事件である。親鸞が『教行信証』で「主上臣下法に背き義に

違い」と書いたことは触れられなかったが、後鳥羽が承久の変で北条政子に敗れて隠岐に

流されたことが語られた。ここでは、「人間がどのようなものか」と問いかけ、煩悩具足

の人間のありさまに注意をうながしたのである。

 

 多くの挿話がさしはさまれた。伝承の類の中には、真偽のたしかでないことも混じった。

たとえば、南北朝の争いのあと南朝が皇位をついでいたが、なんでも明治という名の天皇

は、北朝の後胤を探し出して就けたのだ、と。北と南が逆で、錯誤と混乱が含まれている

らしい。その天皇と続く三代の天皇についての語り方は率直で、父をほめたと思えば子に

は辛い評価を下し、またその逆という按配だった。

 権力に対してあまり言葉をつくろわない姿勢は、元気のよい和尚の生来のもので、苦し

かった体験にも由来する。「主上臣下法に背き義に違い」と書くことをためらわなかった

開山の法を継ぐ僧は、戦乱の世の十九歳のころ、天皇が赤子である民を戦場に送り出すの

はおかしいと公言したものらしい。当時いた特別高等な警察に捕縛され、拷問を受けたと

いう。膝に焼け火箸を押しつけられ、手を割り竹でねじられたそうだ。関節が傷ついて曲

がった左手の小指をかざしての話は疑いようもない。世に伝え聞くことはあっても、被害

者当人からの体験を初めて聞く者に印象を刻んだ。同じとき拷問を受けた一人は死んだ、

つまり殺されたそうだ。和尚は、死んだ人の出身地と姓名をあげ、遺体を引き取りに来て

その人を背負った父と遺体に手を添えた母の姿が忘れられないと語るのであった。そして、

人間はこういう場合でも、わしのように気力が強くなければいけないと述懐した。幸いに

も検非違使の少尉が寺の出身で、拷問は三日で終わり、殺されずにすんだという。

 

 ほかにも多大の辛苦を味わった八十八年の人生が、この独特の和尚をつくりあげたのだ

と知られる。去る年議事堂の議員を選挙する時期に、入れ札に「バカタレ」と書けと公言

したが、世が戦争にのめりこんだ時代に骨身を痛めつけられた和尚は、戦争をしてはいけ

ないと言い諭すことしきりだった。議事堂が戦争法案を可決したあとも、「こういう法令

ができたからには、この国はそのうち必ず戦争をするだろう、予言しておく。わしは生き

ておるまいが、子や孫が苦労するのだ」と語るのであった。語った場所はみな、当時の宰

相の本貫の郡のことだったそうな。

 その日、親鸞の法義を説いているとき、或る僧は念仏を唱えるのが上手だったが、信心

に少し危ういところがあると感じたので、その僧の家族に用心なさいと忠告していたら、

さきごろ首を吊って亡くなった、と和尚が話した。すると、その場の聴衆のなかに、その

縊死した僧についての噂をした人がいた。宰相に戦争法案反対の建白書を出し、議事堂で

反対意見を述べた学者を講師に集会を開催した人のことだ、と。その僧はまさしく宰相の

本貫の地の人で、集会もその地の大きな公会堂で催されたのであった。伝聞では真相が伝

わってこないけれども、世俗の事象として考えてみれば、亡くなった僧に対するその土地

の人々の非難はたいへん強く、檀家にも面と向かって非難した人があったのかもしれない。

好奇の世でありながら週刊誌に取り上げられないのは、ひょっとしたら緘口令が敷かれた

のかもしれない。この国は当時も自由の許されない風土だったのである。戦争は絶対いけ

ないとする反権力的な和尚は、思うところがあっただろうが、それについて詳しく話さな

かった。のちに聞いたところによれば、和尚はときどきその僧の寺へ出かけることがあり

親しかったという。何かを危惧したとほのめかす言葉に、言外の意味がこめられていたの

だ。それに、浄土への往生はつまり大いなるはからいによって生かされていくとする生き

方だから、自死をなげかわしく思っていたろう。どんな困難にも屈せず立ち向かう和尚に

はことさらそうだったろう。

 

 承元の法難の掉尾を飾るのは、法然と親鸞の惜別の場面である。時の権力によって弾圧

され、強制された俗名で藤井元彦と藤井善信の二人は、それぞれ別の場所に幽閉されてい

たが、教団の伝承では、配流の前日夕闇に紛れて、善信房が小松谷の草庵にいた源空に会

いに行ったとする。法然は七十五歳、親鸞は三十五歳、鎌倉仏教の傑出した二人の僧の生

涯の別れである。二人が詠んだという和歌が紹介された。情動に訴える語り口に参会者は

聞き耳を立てた。そして、冬の講話は終わった。

 



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 35 「幻滅」と「ニヒリズム」を見定める 



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 こうして、戦後七十年経った日本の社会に、「幻滅」感があり、「ニヒリズム」が伏在

しているのではないか、という問いが提起されていることを知る。日本で暮らすわたした

ちは、問題を見据えて、「幻滅」を希望へと変える道を探り、伏在する危険な「ニヒリズ

ム」を克服しなければならない。

 

 見識のある人たちが言っていることはみな一つの認識に収束する。すなわち、「敗戦か

ら七十年経って、日本社会は行きづまっている」と。それは日本だけのことではなく、世

界の戦後体制が行きづまる中で起きている、と。事態の打開は、そうはっきり認識するこ

とから始めなければならない。歴史を回顧すれば、その前の時代は、一八七〇年頃ドイツ

とイタリアとそして日本が近代的な体制を整えて、先進諸国の帝国主義の闘争として始ま

ったが、七十年余りして大きな災厄で破局に終わった。体制が腐食するのに七十年の歳月

で十分だったのだ。前の時代の閉塞の症状は一九三〇年代の全体主義として現われたが、

スターリンのそれは社会主義への幻滅など及びもつかないものだったし、ヒトラーのナチ

ズムはニヒリズムで、日本の軍国主義はといえば日清・日露戦争への破滅的なアナクロニ

ズムであった。現在の状況は、そこまで至っていないかのように見えるが、やはり時代の

行きづまりの露呈と考えるべきなのだ。わたしたちは体制と社会を建設しなおすべき時代

にいる。こう認識して初めて、幕藩体制の転換期や敗戦からの復興期のような活力を生み

出すことができるだろう。

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 独り言をつぶやく力しかない老夫は不相応な大問題に立ちすくみ、目を凝らして見つめ

ている。終わりが始まりである歴史はどのように展開するのだろうか。

 

 

                               2015128



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34 小小説拾遺二  畳の上で死ぬ   PDF版



    今回の話は、話者の語り口が前とは違い、話題も聞き耳を立てるほどめずらしくはない。

   しかし、人の死に方が昔とは様変わりして、死に対する人々の対応の仕方が変化したことは、

   人間という生き物の奇妙さを語っていると言えなくもないので、採録することにした。

 

 畳の上で死ぬという言葉はいつごろからあるのじゃろうか。耕作者のいる田地から武力

で地代をとって身過ぎする武士や騎士は、日本でも西洋でも、身を立てるのに死を恐れな

いことを誇りにした。侍の私闘は古くからあったに違いないが、歴史の年表をめくると、

最初の武家政権が倒されるころから戦国の世が終わるまで、戦いの記述は途絶えることが

ないな。武士の一族をさかのぼれば、たいていだれかが戦場に果てたという言い伝えが残

っていたはずじゃ。戦国時代に戦場に出るようになった者も、戦闘を職業に選んだのだか

ら、以前よりもぶっそうな生き方をすることになったのだ。それが、戦国時代が終わると、

二つの乱を除けば、年表に戦いが載らなくなる。学者が言うには世界史上でもめずらしい

平和な時代だそうな。軍人が職業替えをして行政官になったのじゃが、武士たちは、身分

を表わす大小の刀を腰にさすことをやめなかったね。マルクス主義者の言い方にならえば、

暴力による支配者であることをいつも表示していたのだ。武士道とやらいうものが唱道さ

れるようになったのは、そういう平和な時代になってからじゃ。西洋でも騎士道が賛美さ

れたのはあとの時代だが、西洋人のなかにはセルバンテスのように、それを笑いとばす人

が出たから偉いね。

 戦闘がなくてもいつも武装している者は、安穏な死に方をしないかもしれないと覚悟す

る必要がある。辺境の地を切り取っていった歴史をもつ大国で、治安の悪かったその開拓

時代の習慣から銃を所持することが許されていて、今の時代にもときどき撃たれて殺され

る人が出ることを聞いたことがあるじゃろう。その国では、いざというとき銃で身を守る

権利があるとされている。そちらの国に銃で落命する確率が高いという考慮があるのか知

らないが、こちらの国の武士道には、死の覚悟についての一項が書きこまれていたよ。武

士道をたてまえとして刀を帯びていると、実際に、刀が武士の命を奪う出来事がときどき

起きたが、本心では、行政官として無難に職を務めて畳の上で死にたい。それで、畳の上

での往生が、庶民に限らず普通のことになったのだな。

 

 もちろんお前さんにも分かるとおり、「畳の上」は比喩というやつだ。西洋ならさしず

めベッドの上だね。洋の東西を問わず、貧乏でわらの上だとしても、家族に看取られて息

を引きとるのは畳の上での往生だ。問題はその往生の中身だがね。骨が折れるからそのむ

つかしいところは敬遠して、人々がどう対応したかを考えてみよう。葬送のやり方が、昔

と今では大きく変わったことが知られる。

 じつは、葬送は人が死ぬ前から始まる。ゴリオじいさんがもうだめだとなったら、神父

が呼ばれただろう。西洋の時代物の映画で、神父が油を塗ったり水を散らしたりするのを

観たことはないかね。死に水は西洋にも東洋にも共通するのだ。すると、ずいぶん昔、人

が東の列島へ陸伝いに渡ってきたよりも前、リンゴを初めて食った太古からの風習かもし

れん。お前さんは、死に水は死者に対するものだと思っているじゃろう。ところが、神父

や牧師は、死にゆく人がまだ息のあるうちに来た方がよい。僧が臨終の人に信仰を確認さ

せてその人が往生しつつあることを自覚できるように、まだ意識が残っていればもっとよ

い。これはキリスト教だけのことを言っているのではないよ。昔はこの国の仏教でも同じ

ことをしていた。逝く人が往生するつまり極楽へ行く儀式なのだ。だから、畳の上で死ぬ

のは、たいへん意味があることだったのだ。

 したがって信仰の上からは、死後の葬送は儀式に過ぎないことになるな。ところが、臨

終に僧を呼ぶ風習がしだいにすたれ、死んでもいないのに僧が来るなんて縁起でもないと

言う人ばかりになった。そう言う人は、僧を呼ぶのが正式だったことを知らず、縁起とは

因縁生起という仏教の世界観を意味する言葉で、この世で起きることは縁起によるのだと

いう真理に無知なことを公言しているのだなあ。まことに末世になったものだ。

 というしだいで、死んだ人を棺に入れて形骸化した儀式をするようになった。葬儀にお

金のかかることは、昔もそうだったので文句を言う筋合いはない。すっからかんのゴリオ

じいさんを弔うにも、お坊さんや墓堀人に払うお金が要ったからね。この国の昔の棺は人

がかつぐ桶で、鳥辺山に運んで荼毘に付すのは手間がかかるからたいてい土に埋めたのだ

が、膝を抱いて座るよりも横たわった方が楽だろうというので大ぶりの寝棺に変わり、合

理化つまり形骸化は衛生面からも進んで、死んだ人を焼いて骸骨だけにするのが決まりに

なった。お金はよけいかかるね。自分の葬式代を準備する人まで出る始末じゃ。

 

 ここに不思議なのは、この間に医療は高度に発達したのに、わしが歳をとったころには

自分の家の畳の上で死ぬ人がまれになったことだ。どこで死ぬかって?病院というとこ

ろだ。枕元には僧の代わりに医者がいるね。医者は、往生を説くことはないが、死亡診断

書を書いて引導を渡す。人の死に方がまた大きく変わったのだ。いつのころからか、テレ

ビで事故を報じるときに心肺停止という言葉を使うようになった。うかつなわしは、最初、

医者が早く駆けつければ助かるのだと勘違いしていたよ。ところがそうじゃなかった。人

が死んだかどうかは、医者が判定するのを待つんだ。昔なら道に村人の知らない人が斃れ

ていて、息をせず脈もなかったら土に埋めたじゃろうが、そんなことを無断でしてはいけ

ないことになったのだ。幸運に畳の上で亡くなった人がいても、お坊さんを呼ぶ前にお医

者さんに来てもらって、死亡診断書を書いてもらわなければ葬式を出せないのだ。これで

は、もう先がないとなったら、あらかじめ病院へ連れて行った方がよいと考える人が出て

も不思議じゃない。

 

 (ここで話者は少し居ずまいを正して話し始めた) いや、もっとまじめに考えよう。世界

を観るレンズの研磨師だった賢者は「自由の人は死について思惟すること少なく、彼の知

恵は生についての考察である」と説いたけれども、わしも高齢になったのでときどきその

ことを考えるのだ。

 家族のなかに病人が出れば、少しでもよくなってほしいと思うのは人情だ。だれでも治

療のいきとどく病院へお願いするのはあたりまえだな。そして病状が進んだら進んだで、

一日でも長生きしてほしいと心配することになる。だから、病院が整備された時代になる

と、人がたいてい病院で亡くなるのは必然の事態だ。考えてみれば、人はそうあっさりと

死ぬわけではない。孤独に生きる道を選んだ良寛禅師も亡くなる前に下痢の症状が出て、

身のまわりを世話する人が必要になった。人間が死に臨むとき、医療の世話も介護も必要

だというのは宿命なのだ。ところが、ほとんどの人が病院で死を迎えるようになって、臨

終の人に対する家族の負担は大きく減った。すると、病気になった人は家族のためにも進

んで入院することになる。こうして、人が死んだら、どこの病院で?と問うのが普通の会

話になった。

 人の死に方はずいぶん変化した。僧が来て自分が死につつあることを知った時代と違っ

てきた。いっしょに住んで日常的に身のまわりにあった死を見つめる機会が減り、また、

死が病院でとても管理されるようになったので、多くの人が死を上滑りに観るようになっ

た。ことに子供たちは、死を目の当たりに見て、知らず知らずに、死すべき定めにある人

間がどのように死ぬのかを学習することがなくなった。死に対する感じ方は変わってしま

った。それで、死を恐れる人が昔よりも多くなったように思う。

 いつしかさまざまな延命治療も極度に発達した。老人人口の多いいなかの病院などで、

十数人も入る病室でほとんどの患者が点滴の管をつけて横たわっているのを観たことが

ないかね。昔の死に方を知っているわしは、その光景に言葉をのむ。さすがにそれを疑問

に思う人も出て来た。ホスピスなどと外国語で言っているが、避けられぬ死を見ないよう

にするのではなく、静かにそれを受け入れる態度を養おうという趣旨だ。つまり、昔の人

を見習おうというのである。それが本筋というものだろう。ふたたび、畳の上で往生する

ことがとても貴重なことになった。

 

 さてわしも、天運よろしきを得て、それでも幾日か看取る人に負担をかけるのは心苦し

いけれども、自分の家で死ねるものならそうしたい。死ぬのに快適さを求めるのをお許し

願って、気候のよい春か秋なら窓を開いて、冷暖房の要る夏か冬なら雪見障子を上げて、

(視覚が働いているなら)いつも見ていた小さな庭を眺めながら、最後の息を引き取りた

いものだ。

 だが、最期に何を思いどんな言葉を発するか、あらかじめ決めることもかなわないこと

で、未だに見極めがつかない。

 

 

           話者は茶飲み話のように話したが、採録者が自分の身に引きつけて考え

           てみると、話者のように淡々とした境地になれそうにない。



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 33 偉大な師への手紙 



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 32 賢者を尋ねて   PDF版



 以前の読書ノートをめくって回想つまり再考を始めた話はすでにした。一九九〇年にメ

モの分量の多かった一つが柄谷行人著『終焉をめぐって』である。たぶん書評に促されて

読んだのだろう。書棚に同じ人の当時の著作があるところをみると、『終焉をめぐって』

の議論に教えられるところが多くて、そのあと、ほかの書物にも手を伸ばして取り組んだ

のだと思われる。読書ノートのすぐあとに『探究T』と『探究U』があり、次の年には『批

評とポストモダン』を読んだことが記されている。書棚には最近までの著作のいくつかも

並んでいる。

 この人は、最初に注目された作品が夏目漱石論(論点の一つは意識)だったというから、

文芸批評家として出発したわけだ。実際、『終焉をめぐって』も、文学関係の雑誌などに

寄稿された評論を集成したものである。そのときのメモを読んでみると、当時のわたしに

なじみの薄かったことがらが多くて書き写したのだと推察できる。その筆法には独特の趣

があって、そちらにも刺激を受けたのだと思う。しだいに慣れると、中立的な意味で富永

仲基のいう「くせ」に当たると了解したように記憶する。

 さて、『終焉をめぐって』を取り出して開いたら、切り抜いた紙片がはらりと出て来た。

案の定それは書評だった。書評子は言っている。――この評論集には、ショック療法にで

もたとえられそうな意見が、何度も提出される…。それをすこし子細にたどってゆくと、

いまわれわれが生きているのがどういう時代であるか、ある明確な考えに出会うことにな

る…。(書名になった)エッセーには、「一九八九年の世界的事態」のなかで、時代を考

える視角が示される。歴史が終わったのではなく、「世界資本主義」が新しい転換の時代

に入ったという意見は、示唆的である…云々。――

 四半世紀経ってみて、柄谷行人がまさに一九八九年に進行中の歴史を的確にとらえてい

た、と判明する。日本でこれほど明瞭に事態を把握していた人は少ないだろう。彼の人の

知性は全開中だったと形容したいほどだ。あの時点でそういう書物に出会えたことは、わ

たしにとって幸運だった。多くのメモをとり、考えて、その後の状況の展開を観察する眼

を養う助けになったと思う。

 

 文芸批評や評論は、とりあげたいくつかの書物やことがらを対象に考察を進める。著者

の関心が広ければ、考察はさまざまなことに及ぶ。評論集『終焉をめぐって』はまさしく

そのような書物である。それぞれの評論は基本的に文学作品と作家を論じたものだが、人

間と社会にかかわることをもっと深いところから考えようとする。そして、それを時代の

状況のなかでとらえようとする。そこには、それまでの柄谷行人の思索がたどりついた思

想が織りこまれている。過去の哲学者や思想家や作家の思考に踏みこんで、その重要な概

念を用いて議論を展開する。しかも、概念をありふた平板な理解ではなく、もっと深い意

味を取り出して先鋭に用いる。先の書評子はそれをショック療法という言葉で表現したの

である。ここにはたいへん貴重な思索がある、と思う。

 先ほど挙げた四冊の本を手に取って書かれた時期を勘案してみると、柄谷行人の思想が

一九八〇年代に一つの構成体になっていったことが分かる。時代の状況と向き合おうとす

る思索家は、ちょうど思考力が強まったかのように、意識的に重要な問題に取り組んでい

ったと見える。世界の思潮あるいはポストモダンの思想と格闘すれば、思考は広がらざる

をえない。『探究T・U』の考察は哲学に向かう。もともとマルクスの影響は深いようだ。

しかし、一般的なマルクス主義者の考え方に組せず、一九七〇年代以来の世界の思潮の問

題意識から、マルクス自身の思想を掘り起こそうとする。その姿勢が一九八〇年代の社会

をとらえるのに働いている。そして、最後の『批評とポストモダン』は、文芸批評を軸と

しながらも、探究の成果を駆使して広く思想の問題を縦横に論じているのだ。

 といったようなことが、わたしの表面的な見立てである。読書ノートのメモを頼りに、

その著作の内容について、ここでもっと考えるべきだが、論題は多岐にわたり、その議論

もそのように広くて深いとすれば、知識も思惟の力も及ばないわたしがそれを適切に語る

ことはむずかしい。書物を読みなおす機会があるまで、ひとまずそれを宿題として措いて

おこう。

 

 柄谷行人にはその舌法に必ずしもそぐわないまじめで学習的な態度がある。二冊の『探

究』という書物の名にそれが表われている。哲学的な考察は、デカルト・スピノザ・カン

トといった時代を画した古典にまで及び、そこから現代的な意味を汲み取って、現代の思

想に組み入れてそれを豊かにしようとする。

 わたしは、柄谷行人の学びの姿勢に大きな影響を受けて、それまで歯が立たないと思っ

ていた哲学書を探究する気になったようだ。読書ノートの少しあとにカントの『実践理性

批判』が登場する。そしてスピノザの『エチカ』が。いずれもたくさんの書き抜きをして

いた。それらを読みながら、わたしは薄れた記憶を呼び戻そうとした。もちろん、個々の

文章の記憶がよみがえるはずはない。ただ、とくに印象深い文になにかしら懐かしさを感

じるだけである。それでも、わたしがカントとスピノザに引かれるわけは、二人の偉大な

哲人がとても善良で真摯だということにある、と確認した。今では過去の偉大な先人達の

著作を少しは読んだと言えるけれども、そのなかでもスピノザやカントほどの善知識は少

ないのだと分かる。現代では、この二つの書物が与えてくれるものを知識と呼ぶのはむず

かしくなった。それでもわたしは、それを自分の血肉にしたいと願うような種族の人間の

ようだ。再読することを思い立った。

 時代順を考え、また『実践理性批判』は『純粋理性批判』と合わせての方がよいだろう

と思い、『エチカ』から読むことにした。するとその前に、スピノザがその方法を考えた

序章とも言うべき『知性改善論』から始めなければならない。わたしは、大事だと思う文

章にうねってしまう棒線(日本語訳だからアンダーラインではない)を鉛筆で引く。本を

大切に扱う人にしかられるだろう。やって行くと、関心はあまり変化していなくて、以前

に線を引いていたところが今度も重要に感じられ、新たに線を入れるところは少ない。今

では書き抜きは習慣になって、雑録である日記帳に日々の感慨などと並べて書く。線でマ

ークしたところをぜんぶ書き抜くのは手間がかかるから、とくにえらんだ文章だけである。

こうして、以前の読書ノートと重なりの多い抜き書きができた。書き写したからといって、

それらを覚えられるわけではない。以前はまた読みなおすことがあるだろうと思ってした

のだが、こんどは読みなおす機会は来ないだろう。それでも書き抜きながら復唱すれば、

心にかすかにでも留まるものがあるだろうと期待してのことである。賢い人はこんなこと

はしないだろう。

 

 倫理を数学の体系のように語るという企ては。スピノザだからこそできたのだと思う。

キリスト教社会から異端視されている上に、ユダヤ人社会からも破門された人は、人間の

普遍的な価値を追求することによって、その境遇を選ぶことになった。それでも、善良な

人は、みずから考究してたどりついた「真理」を、すべての人々が受け入れることができ

るように、必然的な論理の体系に組み立てる必要を感じたのだと推察される。だれも真似

ることのできない高貴な心性の持ち主だったと思う。

 形而上学の限界を知って以後、批判の方法を発展させて以後の人間は、第一原理として

神をおいて考察を始めることを放棄した。ところがスピノザは、時代が移行する前の、ほ

とんどだれも神を否定しない社会に生きていた。賢明で敬虔な人は徹底的に考えたのだろ

う。神という言葉を棄てないで、その限りない作用は自然そのものにあるとして、究極ま

で進んだ。スピノザにはエチカすなわち倫理を破棄することができなかったから、神は、

自然の無限で必然的な作用として倫理を貫徹するとしたのだ。そうして、その体系の第一

部は「神について」となった。

 第二部の精神の本性、第三部の感情の本性については、数学的な形式がよそよそしい印

象を与えるが、この人がどれほど人間について思索を巡らしたかが現われ、その徳がにじ

み出ている。事実において徳の体現者だったことは、その書簡集(こちらも再読せよとい

う声が聞こえる)で確認できる。もちろん、スピノザは人間が感情に支配される生き物だ

ということをよく知っていた。その克服しがたい感情をどのように克服するかが、第四部

の課題である。人並み優れた知性にも、神に頼らずに克服する道は、理性によって妥当な

認識に至ることにしか見出すことはできない。みずからのために、そしてほかの人々のた

めに、スピノザの全力をあげての奮闘が文章と行間ににじんでいる。第五部は、人間の知

性を高らかに掲げて、人間を自由に至らしめる道を指し示す。神という言葉がふたたび現

われるが、それは人間の希求する「永遠」の言い換えだと思われる。

 

 再読したわたしは次のように考える。現代に生きるわたしは、『エチカ』をそのまま受

け入れることはできない。それでもなお、現代でもそうすることがよく生きることだと思

うから、ほとんどすべてのスピノザの希求を承認したい。しかし、いくつかの考えには共

感できない。スピノザは神の人格性を抽象化して自然の必然性の中に移しこんだけれども、

なお人格性の残存を感じる。そして、たとえば、動物を意のままに利用することを容認し、

人間以外に自然に存するものを保存するようなことは必要ないとする言明に違和感を覚

える。これらは、ゴータマ・シッダールタの世界観と対立的である。つまり、スピノザの

思惟は、彼の置かれた社会の世界観から自由でなかったことを物語る。

 今日の人間は、世界を分節し構成する仕方と概念が人間社会のあり方と無関係ではない

こと、人間とその精神のとらえ方もそれに依存することを知った。世界は複雑にからまっ

た多層的なもので、人間が整然とした体系に整理して認識することさえ困難なのだ。そし

て、科学的自然観は、スピノザが棄てきれなかった精神の永遠性にかかわることもあきら

めるように勧告する。わたしは途方にくれる。しかし、スピノザのように人間の理性を頼

りにする道をすすむほかはない、そうすべきだと思う。

 

 わたしが師とすべきスピノザは、人々の信じる神をないがしろにする者だとされ、少数

の親しい人たちだけが彼の考えに理解を示すだけであった。だが、うわさを聞いたライプ

ニッツが、遠くドイツから、世界を観るレンズの研磨師に会うため下宿屋を訪れたという。

人間の知は前進しつつあったのである。『エチカ』は、生前日の目を見ず、死後に出版さ

れたものの禁書になった。著者の名は記されなかったという。それは、当局の追求を逃れ

るためだけでなく、真理を人の目に触れるようにした人物の名をそれに結びつける必要は

ないという考えに沿うものだったそうだ。まことに見習うべき徳の人である。

 善や徳を説く言葉をまたたくさん抜き書きしたが、その一つだけここに記してみよう。

「理性に支配される人間、言いかえれば理性の導きに従って自己の利益を求める人間は、

他の人々ためにも欲しないようないかなることも自分のために欲求することがなく、した

がって彼らは公平で誠実で端正な人間であることになる」。前後にも同じ趣旨の文章があ

るが、この言い方はとくに、よく知られたカントの言葉に近い。理性のなしうることをつ

き詰めて考え、理想を遠くに見つめる二人の言葉は無縁ではないだろう。ヨーロッパで、

カントの表現がある程度なじみのある言葉だったとも聞く。それを単なる高尚な言葉とし

て聞くのではなく、本当にそのように生きた哲人がスピノザとカントだった。

 「正しく行ない、自ら楽しめ」、四十四歳で死んだ賢者が七十の老人に呼びかける。

 

 

                             二〇一五年実りの秋

 



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 31 他山の石   PDF版



 猛暑に負けずお元気にお過ごしのことと存じます。小生は、イチジクなど水をほしがる

果樹や野菜の世話に汗を流しています。さて、先だって興味深い体験をしました。それは

こちらにはねかえってくる問題を含むことがらです。小生の考えがどのくらい妥当か聞い

ていただくために、考えを巡らせながら語ってみます。いつものようにとりとめがなくな

ることを恐れますが、がまんづよい貴兄なら聞いてくださるでしょう。

 

 三十代の中国の友人をわが家に招待して、山口県を案内しました。関門橋のたもとから

海峡を見下ろして、そこであった二つの戦争、壇の浦の戦いと四国連合艦隊との戦いを説

明し、ここで戦闘はなかったけれどもう一つの戦争にかかわる対岸の春帆楼を指さしまし

た。それから山口で、コロンブスのカリブ海への航海以前に建てられた瑠璃光寺五重の塔

と、中国へ渡航して絵画を勉強した雪舟のプランになる常栄寺の庭を見物しました。翌日

は萩へ。城址や幕末の事跡を訪れて、歴史に関心のある彼に、昨日の話に補足するように、

日本の近代化の苦闘をかなり解説しました。彼は、近代になってどうして中国と日本の進

展に差が生じたのか考えるふうでした。小生は、日本の封建制の中央集権的な中華帝国と

の違いを説明し、動きが生じやすい分権体制とそこで主導的な機会をとらえた人々の行動

のしやすさなどが一つの要因だったと思うと話しました。この体制の違いを、日本でもよ

く理解している人は少ないのですが、彼は知っていなかったようです。

 次の日は本州西端の海を見ながら下関へ。唐戸市場ですしを買って、海峡を眺めながら

昼食。行き交う船のなかに中国船もあるのに気づいたようです。物流で今の中国の勢いを

知ることができます。十九世紀後半の関門海峡では欧米船が目立ったことでしょう。最後

の見学場所が春帆楼。日清戦争の講和条約が結ばれたところです。全権大使の総理大臣

伊藤博文と清の全権大使李鴻章の写真や書などが展示してあります。交渉のテーブルが再

現され、条約文の重要な条項が大きく示されています。最初からこうだったのか知りません

が、比較的客観的な展示の仕方だと思いました。もっとも、日本人には気づきにくいけれ

ど、どの国でもあるように、戦勝者の側の語り口が潜んでいるかもしれません。

 小生は、上海からの客人に、上海交通大学の東大門を入ったところにあるモニュメント

の話をしました。下関=馬関条約の翌年、清の高官たちが光緒帝に提出した上奏文の全文

を、身の丈を越える石版を並べて刻んだものです。その上奏文は、日本の諸藩が西洋列強

によって馬関や鹿児島で苦杯をなめたあと青年を西洋に派遣したことに触れ、清でも人材

育成の必要を説いて大学の設立を求めています。そこに登場する馬関の名は、前年の苦い

敗北を想起させ強い効果をもったことでしょう。上奏文によって設立された大学の後身が

建てたモニュメントの前で、小生の身がぞくっとしたのは、百年以上も前に蒔かれた種が

今花開いたと思ったからです。中国は、購買力平価で評価する経済力で、まもなくアメリ

カ合州国を追いぬくそうです。国家百年の計とはこういうことを言うのでしょう。

 

 その馬関にある春帆楼のわきから、李鴻章道と名づけられた小道が山の斜面に続きます。

困難な交渉をしていた李鴻章は、日本人に銃で撃たれてけがをし、その出来事のあとは、

春帆楼わきの小道を通って宿舎の寺から往復したのだそうです。外に出た友人は、予習し

ていたのでしょう、李鴻章道を奥の方まで独りでたどりました。相手の全権大使は狙撃さ

れてけがですみましたが、こちらの全権大使は、のちに中国東北地方で狙撃されて命を落

としました。日清戦争で支配権を争われた朝鮮は、清の冊封体制から脱して大韓帝国にな

ったもののついには日本の統治権に服するようになり、初代統監に就いた人が民族主義者

に撃たれたのでした。二人の全権大使の狙撃は、帝国主義に染められていった東アジアの

歴史の一こまですが、それはまだ十分に過去の出来事になりきっていません。

 日本に滞在中の友人は、感慨深げに見物し、世話になっている日本の人たちと歴史を話

題にすることはないが、あなたとなら率直に話せると自分の考えを語りました。自分の習

ったところでは、中国は日清講和条約によって日本の沖縄領有を承認したはずで、条約の

条項にあるはずだが、展示されている条文にそれがないのがおかしいと。それまで日本は

沖縄をコントロールしていなかったというのが彼の理解でした。小生は、琉球王国についての

出来事、すなわち、一六〇〇年代初頭以来の鹿児島藩の実質的な支配と、一八七〇年

代に明治新政府が琉球王国を廃して日本国に編入したこととの二つを挙げ、実態的なコン

トロールが古いことを話しました。

 その晩、関門トンネルを歩いて渡った友人が無事に帰り着いたか尋ねるメールで、日清

講和条約中の澎湖諸島の地理について小生が混乱していたことを追伸に添えました。する

とお礼のメールが来て、中国の歴史書は甲午の戦争で琉球を失ったとは書いていないと修

正し、しかし、日本政府が全琉球を支配したのが戦争のあとだというのは事実だと書いて

いました。小生は、factという不用意な言葉を見過ごしできず、改めて鹿児島藩の侵攻と

明治政府の琉球併合の正確な年を告げ(琉球人に同情するけれどもというコメントを付け

たのですが)、学ぶ者は、中日両政府の手になる文書ではなく客観的に書かれた歴史書を

読み、現実に起きた出来事を知った上で自分の意見を述べるべきだと書きました。友人は、

英文のWikipediaを読んだらしく、歴史上の出来事についてのわたしの説明に同意する、

という返信を送ってきました。小さな論争は終息したものの、すぐに、小生の意見はこち

ら側にも跳ね返ってくると気づきました。

 

 鹿児島藩は「税」を取り中国との交易も牛耳って琉球を実質的に支配し、幕府もそれを

承認しながら、琉球王国は存続しているという形式がとられました。ここには、明・清と

軍事的な事をかまえたくないという幕府側の恐れがうかがわれます。琉球は李氏朝鮮と同

じく中華帝国の冊封体制下にあって使節を中国に送っていましたが、琉球の使節が、朝鮮

の通信使のように、江戸にも来るというやり方がとられました。ところが日米和親条約の

年に、アメリカ合州国のペリー提督は琉球とも修好条約を結び、国際的に琉球王国が存続

しているという外交事例となりました。明治政府は、それを解消するために段階をふんで

併合へと進んだのです。琉球編入は諸外国に通知されたようですから、結局、欧米列強は

日本の実態的な支配を追認したことになります。しかし清王朝としては、承認を公言した

くなかったでしょう。その心理が、琉球への宗主権を失ったのは日清戦争のあとだという

中国人の認識を生じさせた、と思われます。

 歴史をたどってみると、沖縄(そして尖閣諸島)が日本「固有」の領土だと主張する日本

政府の言い方が、それほど賢明ではないことが分かります。国の領土は、歴史上、どこで

もいつでも多かれ少なかれ変動しました。日本自体、東北で国境は変化しました。『旧唐

書』が、八世紀の日本王朝について「東界北界は大山ありて限りをなし」と書いています。

実際、奈良朝初期の国制で東北地方は単に陸の奥とされ、「柵」と呼ばれる軍事前線基地

が北上中でした。その歴史は、十九世紀後半まで残った征夷大将軍という称号に刻まれて

います。戦国時代から日本国住民が移住し始めた蝦夷(北海道)は、南端の松前藩を別に

して、幕藩体制の下でほかの正規の国とは違う例外的な地域でした。こういうことを言っ

ても小生は、東北地方と北海道が現在の日本の欠くことのできない構成部分だと考えます。

異論をさしはさむことができるのはアイヌの人々しかいないでしょう。

 ほかの国々でも似たような歴史があると思います。中国を例にとってみましょう。東で

は、海に隔てられた列島と距離的に遠い朝鮮半島やヴェトナムに対し、安定的な冊封関係

に落ち着きました。南と西では「積極的政策」つまり拡張策をおし進めました。今日では

南部は中国の一部と言えるまでになっていますが、いまだに自他ともに少数民族と考える

人々が住んでいます。西方は、シルクロードの回廊を中心に自分を漢族と考える人々がい

るでしょうが、甘粛省を除き、絶対的多数ではありません。交流の深かった北では、北方

の住民が中心部に流入しまた征服王朝が支配して逆に同化することが続きました。清朝の

出身領土である東北部は、今では中国の一部という見方が一般的でしょう。しかし、清朝

になってからの西部領土と内モンゴルは、歴史的な日が浅く、文化的にも宗教的にも差異

が明らかで、民族問題がくすぶっているのは周知のことです。中国の国制は一体的な共和

国で、解体した旧ソヴィエトのような連邦国家ではありません。中華帝国伝来の朱子学の

大義名分論も幅をきかせます。これらが、領土問題について中国の姿勢を縛り、台湾に対

してだけでなく、東方政策に影響しているように見えます。

 

 しかし、見方によっては、中国は、漢の高祖や宋王朝以来、北方の強敵に現実的な対応

をしたと考えることもできます。そういう地政学的な理解に収まる事件が最近起きました。

二〇〇八年、かつて中国・ソヴィエト間で戦闘までした国境のウスリー島を、折半すると

いう妥協が成立しました。これを見て、愚鈍な小生は思います。無人の島々について、日

中両国が穏便に事をおさめることはできるはずだ、と。他方のロシアについても、一部と

はいえ返還に言及したことがあるのだから、北方の島々について妥協の道があるだろう、

と。

 ヨーロッパの国境問題を知れば、東アジアの大義名分論に固執しすぎて緊張を高めるこ

との愚かさが分かります。ヨーロッパは近世以後もパワー・ポリティクスの場でした。フ

ランスとドイツがアルザス・ロレーヌ地方を何度も奪いあったことは誰もが知っています。

第一次と第二次の世界大戦で区切って、前後三つの時期のヨーロッパの国境線を比べれば、

その大きな変化に驚かざるをえません。とくに、ドイツより東で国々の国境が大きく西に

移動しているのに眼を奪われます。二十世紀になってからも、戦争の勝敗が国境線を引き

直させたのです。そのヨーロッパ人が、記憶に新しい国境の変更を認め合って、連合をつ

くる道に進んでいるのはとても教訓的です(連合議会はアルザス・ロレーヌに在ります)。

ずいぶんタフですね。戦争は、彼らの考え方を変えるほど悲惨だったのです。同じく戦争

の悲惨を味わった日本人は、ヨーロッパ人のような強靭さを学んだでしょうか。

 最も重要なのは、宿命的な仇敵だったフランスとドイツが互いに二度と干戈を交えない

と決意したことです。この決断がヨーロッパを連合の方向に導きました。第二次世界大戦

で敗北したドイツは、ドイツ騎士団領以来の東の古い領土(カントの生まれた都市まで)

を失い、千五百万人以上の追放者を受け入れました。そのドイツがこの「堪えがたき」新

しい国境を変更する意図のないことを示して、ヨーロッパ連合は東方まで拡大したのです。

そして現在、ヨーロッパ連合の中心的な国はドイツです。大義を打ち立てるなんという知

恵でしょう。愚直な者をうならせずにはおきません。

 

 ひるがえって日本のことを考えてみます。日本は、ドイツと同じく敗戦国です。国際連

合と訳されている組織は、枢軸国のドイツと日本に対する連合でした。五つの常任理事国

は日本に対する戦勝国です(中国に対しても敗れたことを忘れてはいけません)。日本の

戦争は国民にとっても無惨でしたが、住民のいた北方の島々を例外として、ドイツのよう

には領土を失わずに済みました。ヨーロッパの例を見れば、ロシアがアジアでは妥協の姿

勢を残していることは幸運なのかもしれません。現在二国と論争になっている無人の島々

について、共通の文化圏の人間がヨーロッパ人に遅れをとってよいでしょうか。少なくと

も、子供たちに鋭い対立心を煽らないような配慮をする必要があると思います。

 沖縄のことに戻りましょう。沖縄すなわち琉球は、奈良朝以来の日本の固有の領土ではな

かった、日本に組みこまれたのが実質的には十七世紀初頭、国際法上正式には十九世紀

後半のことだという認識が不可欠です。十八世紀初頭に連合王国に統一されたスコットラ

ンドが最近独立を問うたことを考えれば、日本でも沖縄の問題をおざなりにしてはいけま

せん。国内で唯一戦場になって十二万人を超える住民が犠牲になり、二十五年以上もアメ

リカ軍に占領されたことを思い起こせばなおさらです。米軍は奄美諸島も占領しました。

そこは、鹿児島藩が侵攻したとき直轄領にし、鹿児島県に属するようになったところです。

琉球王国と修好条約を結んだことのある米国は、その歴史を知った上で占領したのです。

状況次第では占有し続ける意図があったのかもしれません。歴史的な経緯は、敗戦時の日

本側にも沖縄の不幸に痛みを感じなかった人たちがいた疑いを抱かせます。世界の政治情

勢から日本に返還されたことは不幸中の幸いでした。沖縄の人々の多数が日本復帰を望ん

だことも肝に銘ずべきです。中国が異を唱える尖閣諸島の問題を、米国との軍事同盟に従

属することによって安心することはできないでしょう。第二次世界大戦後、米国側が中国

国民政府に琉球への領土的な意向を打診したという話を聞きます。沖縄の歴史を知ってい

る米国は、尖閣諸島の帰属問題について局外中立を公言しました。この問題で中国と事を

かまえてまで日本の味方をするとは考えられません。幻想を抱いてはいけません。われわれ

は、前回の選挙で選ばれた沖縄県知事が、慎重な言葉づかいで米軍基地の問題の解決を

求め、日本の中で義を追求しているのに敬意を払うべきだと考えます。

 

 中国の友人との対話がきっかけで、政治に疎い者が領土問題のようなむずかしい問題を

考えてしまいました。貴兄はあきれておられることでしょう。ともあれ、他山の石とは言

うけれど、難問を解きほぐすのによい石を他山に探すことをためらう必要はないと思いま

す。やっかいな挟まり物を玉にする貝にも習わなければなりません。

 

 

  追伸

   六月にNHKの番組「沖縄戦全記録」を観ました。この戦争の無惨にただ息をのむばかりで

  した。それについてなまじの言葉は用無しです……。番組の主題はここで考えたことと直接関

  係するわけではありません。しかしその無惨はほかならぬ沖縄で起きたのです。映像の背後に

  琉球=沖縄の歴史がわだかまっているのがわたしには見えました。もうすぐ国会で戦争放棄の

  憲法を葬る法律が成立しようとしています。二〇一二年の総選挙がこの道への岐路だったので

  すが、わたしたちの社会が一歩一歩病んでいく状況に歯ぎしりしています。この国は、憲法に

  違反する法律でさえつくる道理のない国になりさがったのです。人間の歴史が目的をもたず裁

  く者がいないとしても、人と同じように国も倫理を問われます。諸外国から一定の顧慮を受け

  ていたはずの基本姿勢を転換したら、世界のせめぎあいの中で相応の報いを受けることになる

  でしょう。世界の歴史はそれを教えていると思います。

 

 

                        二〇一五年、敗戦七十年目の八月

 



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 30 元気を引き出す心がけ ―― 孫たちへ 




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 29 小小説拾遺一  或る僧の物語   PDF版



    これはある人の語るよもやま話である。当人は、まだ年号が使われていた昔、地平らかに

   天成る時代に聞いたと言っている。そのころ蝶だったとほのめかすその人物の素生は、わた

   しにもよくわからない。話の出どころも確かでない。けれども、ときたま聞く話のなかには

   内容に味わいがあり、文字にするのがおもしろいものもあるので、短い小説つまり街談巷語

   道聴塗説の掌篇という意味をこめて、仮に「小小説拾遺」と名づけて収録する。

 

 そのころ、説法がじょうずだと評判をとった僧がいた。住持を務める寺のある国だけで

なく、近隣の数国の中でも最年長の説教僧であった。人の言うところでは、歳は九十に近

かった。和尚の説教を聴いたという人々の話をつづり合わせると、真偽は分からないが、

なかなか数奇な因縁の人生が浮かび上がる。寺に生まれて十二人の子のなかの末弟であっ

たらしい。

 これを聞いても、その国の現代人なら不思議には思わないかもしれないが、イスパニア

の人なら眉に唾しただろう。しかし、高麗や越でも、僧が妻をもつことはゆるされなかっ

た。僧が結婚するというのはそれほど大それたことだった。北欧に結婚する僧が現われる

については、宗教戦争という血みどろの戦いを経なければならなかった。その国の僧が、

結婚し一家をなして寺を営むようになったのは、つい百五十年前のことである。その先例

になったのは革命的な宗教家であった。宗教家と言ったのは、結婚したその人物は僧では

なかったからである。以前は都の東北の大寺の僧であったが、その寺の知恵第一と言われ

た上人が巷に出て徹底して単純な教えを説き始めると、その人に従った。旧仏教の僧たち

が、朝廷にその集団を弾圧させる。師や弟子たちは僧籍を?奪され、各地に流刑に処され

た。僧ではないとされた人は配所の生活で妻をもったが、剃髪したまま非僧非俗の愚禿と

称し、師の教えをさらにつきつめて革命的な宗教家になった。流刑を解かれると、愚禿は

教えを説いて回る。時を経て、血脈がその信仰を唱道し、いつのまにか押しも押されもせ

ぬ教団になると、その宗派の僧が妻帯することをとがめる者は無くなった。そして百五十

年前の政変で、他の宗派の僧もそれを真似できるようになったのである。

 話が脇道にそれたけれども、和尚が嘆くには、そのころ、そんなことまで解説しなけれ

ばならない世になっていた。それにしても十二人の子というのは多い。十六人の子を産ん

だマリア・テレジアのような女性はめったにいないから、じつはその子たちは二人の妻か

ら生まれたそうだ。和尚の父は小さな寺の僧だったが、大した人物だったらしい。ところ

の郡守のまつりごとを助けて街道を整備するのに奔走し、またほかの公事にも尽くした。

寺には二人の妻があった。言うまでもないことだが、その国はイスラム国ではなかったか

ら、一人が国法上の妻でもう一人は妻ではなかった。いくら妻をめとることのできる宗派

の僧だとしても、寺に二人の女性を入れることにはまわりの人々が眉をひそめる。門徒が

しだいに減り、数えてみればついには二十数家というありさま。

 寺は貧窮したが、父はなんとか、男の子たちを都の戒壇院に送り出し、僧にした。格式

あるように戒壇院と言ったが、僧籍を?奪された人の始めた教団は、大学とよばれる教育

機関をつくって僧を養成したのである。それは特別のことではなく、ほかの大きな教団も

みな大学を擁していた。当時は末世だからそもそも戒壇院などは存在しなくて、僧になり

たいものはだれでも簡単になれたのである。のちに、いなかに職を得られなくてたくさん

の人々が大きな町に出たが、墓土地を求めるようになると、悪知恵のはたらく者が、名も

知られない寺で数日過ごしただけで印可を得たと称して僧になり、新しく寺を開いて墓地

を売り出すことも起きるしまつであった。じつにおそれいった世ではあった。

 

 和尚は、説教のあいまには身のうえ話をした。それによれば、妻は七歳年上だという。

どうも、その人は寺を継いだ兄の妻だった人らしい。兄がいくさかなにかで亡くなって、

和尚が寺と兄嫁を継承することになったのである。これを聞くとまた、若い人たちのなか

には嫌悪の念をいだく人がいるかもしれない。だが、モンゴルの高原から海を渡った片州

まで、東方の国々ではありふれたことであった。そのころ、巷間の箱芝居で評判をとった

ドラマに、立派な教育者の妹を題材にして、姉が亡くなるとその夫のところへ嫁いだとい

う物語があった。その妹も再婚だった。けれども、和尚の人生が、十一歳も年上の一度離

婚した女性を妻にしたライオン、プランタジネット家のヘンリー二世とくらべて、波乱が

少なかったとはだれにも言えないだろう。

 実際、和尚がおもしろおかしく自分のことを語るなかに、多くの苦労を高齢になるまで

によく消化して、人生を深く受けとめているようすが表われていた。年上の妻を大切にし

ていることもうかがわれた。将来を嘱望された壮年の息子を失ったことも淡々と語るので

あった。しぶいがよく通る大きな声で、闊達な口調である。そのころにはすでに聞かれな

くなっていたが、節をつけて説教する説教節を語ることもできた。息子やほかの僧に説教

節を伝授しようとしたが、受け継げる者は結局出なかったという。地元の法座では、そこ

の方言で親しみやすく語った。身をおとしめて聴衆に近づけるために、パチンコにも行く

し、町の中心部の居酒屋にも行って、そこに居合わせた人や別の寺の住職と大いに飲む、

などなど。殺生を禁じられた僧の身でありながら魚釣りにも行き、人々からうしろ指をさ

されると白状もする。法座の椅子から立って、聴く人に近づき、その前の畳に腰をおろし

て語ったり、何かをけなしたりするときには、足で蹴るようなしぐさをして、墨染めの衣

のすそから脛が見えることもあった。

 

 しかし、聴衆を引きつける話題をまじえた話法をよく聴けば、革命的な宗教家の説いた

「信」を的確に語って、信仰心を掘り起こしていることがわかった。聴者のなかからしだ

いにこの和尚を慕う人の数が増え、説教を聴くのが楽しみなファンまで生まれた。父の代

に衰退した寺は復興した。活動的な和尚の評判は遠国にまで知られるようになり、講師を

依頼されることが多くなる。ついには他国に寺を建立し、その門徒の数は元来の寺の何倍

にも達したということだ。

 自身も同様の生活を送り庶民の暮らしを理解している和尚は、高齢になると口をはばか

ることが少なくなって、考えを直言するようになった。西洋から入ってきた民主主義とか

いうものを真似て、科挙の代わりに入れ札で政府の高官を選ぶようになっていたその国で、

和尚の寺は時の宰相の本貫の近くにあった。もろこしに倣って、先祖が離れた土地を本貫

とする策が有利だったからである。その入れ札が行なわれる前日に、たまたま郡内の寺で

説教した和尚は、入れ札には「バカタレ」と書いて、ついでに法官の評定にバツ印を書け

と勧めた。もちろんそれは、政治的な扇動ではなく、世を憂える人の愚痴もしくは絶望で

あった。そのころのいなかの民草が生活に苦しむありさまを見て、高齢の僧は、たまらな

くなげかわしく思ったのである。

 和尚はまた、法座で次のような話もした。近隣の村で、娘の精神に変調のさまを見て母

親がある宗派の僧に加持祈?を頼んだが、改善せず、結局病院に入院することがあった。

それを憐れんだ和尚は、他人のいる前でその僧を、「いまの世の中で、いくら困った母親

に頼まれたからといって、加持祈?をするとはなにごとか」と批判したそうだ。すると、

一年もしないうちにその僧が亡くなったという。別の病因があったとしても、無念と失意

をもたらした非難が遠因だったかもしれない。自責の念があったはずなのに、和尚は、そ

れを法座で人に語った。ほんとうの信仰のあり方を聴衆に語ることが任務だという信念が

あったのだろう……。

 


           以上が採録者の伝聞した或る僧の物語である。話者はこれ以上の逸話を

           知らなかったようだ。文字におこした年がいつだったかは失念した。





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 28 回想事始め ―― 課植園「荒地」園丁の課業    PDF版



 書棚の片隅に『一生の読書計画』という書物がある。裏表紙の裏に一九六三年五月四日

という日付が書いてある。どうも、大学に入学してまもなく買ったようだ。いなか出のま

だ少年がまわりを見て自分の視野の狭さに気づいたせいだろう。あるいはそれだけ意気込

んでいたということか。著者の名はクリフトン・ファディマン。インターネットで調べて

みたら、英語のWikipediaに経歴が出ていた。アメリカのジャーナリスティックな著作家

で、二十世紀の高度経済成長期の人々に読書案内として書いたようだ。紹介されている作

品の著者は八十八人。こういう話をするといかにも読書人に聞こえるけれども、十八歳の

とき自覚したように、本来的に多読ではない。五十年以上も経った今、推薦書のなかで

わずかにかじった書物を含めても七割に達しない。人が一生のうちにぜひ読むべきだと

された書物のうち、まだ手にしていない本がたくさんあるのである。残り少なくなった年数

で読めるかしら?。その上、ほかの人はまた別の多くの書物を勧めるのである。

 けれどもそれほど関心のない書物を読む気にはならないから、最近、読書案内書で推薦

された書物から興味を引くものを選び出しにくくなってきた。書評に載る書物も、夏目漱

石の言う世の推移のせいで、つまり現今の著作者との意識のギャップが広がってきたせい

で、関心を呼び起こすものが少なくなってきた。もっともそれは、たんに老齢による衰弱

が原因なのかもしれない。いなかに帰ってきた頃から、これから読める書物の数は限られ

ているのだから、なにか工夫しなければならないと考えるようになっていた。先日、猫な

らぬPETが、脳で養っている髄膜腫のほかに、もう一か所で緑色の警戒信号を発した。

さいわいそれはなんでもなかったが、余命について考えさせてくれ、新しく書物を読み進

むことにあきらめがついた。他方で、少数なのに読んできた書物の内容はすみやかに記憶

から去って、こちらもなんとかしろと警告を受け続けている。うまいぐあいに、読んだ書

物の名を記録していたのが、四十歳を過ぎるころからしだいにメモの量が増えて、いくら

かたまっている。それを読めば、少しは記憶を呼び戻すことができるだろう。

 

 こうして、課植園の園丁の課業はわずかに変化して、回想の時間が加わった。今後、そ

のことで印象を新たにすることがあったら、この雑記帳に記しておこうと思う。その手始

めがこの文章である。作務を始めてみたら、断片的な書き抜きはなかなか意味をつかみに

くい。文脈はなおさらである。たとえば、F・テンニエスの『ゲマインシャフトとゲゼル

シャフト』はわりあい多くノートしてあったが、要約のように書いていて、とても難解だ

った。しかも、著者の記述は説得の姿勢が少なく一方的で、社会を二つに分類する基本の

構想はうなずけても、抽象的なことがらの切り分けは強引すぎると感じた。十九世紀末に

はこんなにむずかしく論を展開する人がいたのだと、感心するばかり。だがそれを読んだ

当時、帰省のおりに感じた付き合いのわずらわしさを、ゲマインシャフトとゲゼルシャフ

トの違いとして理解できたのは、この書物のおかげだった。職を辞していなかに帰ってき

て、感じるストレスが弱くなったのは年の功だろうか。それともこれも衰えだろうか、考

えてみる必要がある。読書ノートの初めの方にあった『エセー』は、わたしに功徳を与え

てくれそうなので、書物を読み返すことにしよう。

 懐かしく感じたのは『日本文化のかくれた形』(岩波書店)で、このテーマで行なわれた

連続講演を書物にしたものである。語り手は、日本の敗戦後に活躍した人たちのうち、加

藤周一、木下順二、丸山真男の三人。本を引っぱり出してみると、講演会は一九八一年に

開かれたそうだ。日本の経済がターニング・ポイントを過ぎて、社会があり方を変え始め

た時代である。その時点で、戦後思想に大きな影響を与えた人たちが、それまでの思索を

まとめるようにして、日本文化に支配的な「形」について語ったことになる。それを読ん

だころから三十年近く経った今、メモを読みなおすことは、時間的な距離を置くことから

来る利点があるだろう。

 

 昔のわたしは次のような感想を記していた。――三人三様に、向かうところ、アプロー

チの仕方、提示の仕方に特徴がある。加藤氏は、広い視野で理詰めにがっちりと整理して

見せる、日本の伝統に少ない人。木下氏は劇作家らしく、人間というものに、人間と世界

のドラマに分析的でなく核心に切り込もうとする。丸山氏は、一つの学問領域の中で高み

に到達しようとする。結局、人間の価値を日本文化の伝統のなかでうち建てること、新し

い伝統として築くこと、それが問題だ。「価値」の価値を認め、内在化された価値を追求

することが求められている――。この感想から今のわたしは大して進んではいない。

 思えば、この三人や戦後思想をリードした本物の知識人たちの著作をいくらか心がけて

読んで、その知識を内面化しようと努めたから、それになずんだのだろう、この書物につ

いてのメモは断片的でもよく理解できる(とくに加藤周一の著作はかなり読んだので)。

メモを読み返してみて、日本文化と日本人の特徴についてのその指摘は今でも有効だと思

う。文化やその影響下で育つ人間は、四十年ぐらいで基底部にある形を変えないと考える

べきだろう。この国に暮らすわれわれは、暗黙裡に強制する文化的な習慣から少しでも自

由になって行動するには、その形をよく認識する必要があると思う。しかし、時代が移っ

て社会がいやおうなく変化したから、加藤説を批判的に発展させて現在でも力を発揮する

議論が必要になっているのだと思う。思想家としての丸山真男の議論も同じように考える

ことができよう。政治思潮は一九七〇年頃からすでに変化し始め、丸山も批判されるよう

になっていた。だが、理論家の議論は一般的な真理を含んでいるので、政治状況が変わっ

ても有効性をもつものがあると思う。次のような普遍的な言明もメモしていた。――世界

像=自分を支えてくれる精神的支柱(人間は、自分の周囲に、世界に、たえず意味を与え

ながら生きていく動物)、個別的意味づけを相互に関連づけたもの。世界像の中で自我は

自分の位置づけが出来、安定性をもつ――。忘れっぽい人間には、こういう有益な規定を

抜き書きするのが意味あることだった。今度も復唱した。

 

 このようにわたしは、一世代前の知識人たちから学んでいくらか吸収してきたのである。

すると、漱石による集団意識の波動的な推移論を援用すれば、去って行きつつあるかつて

の波頭にすがっているにすぎない。先ほども言ったように、波長の長い文化や人間の習慣

はゆっくり変化しても、社会状況は推移してとくに集団意識はすでに変化した。高度経済

成長期までの戦後の思潮は過去のものになったとすべきだろう。わたしよりも一世代あと

の人々の集団意識の新しい波頭がすでに来ているのを認識できないだけなのだ。漱石先生

が言うように、先の波動をリードした大家でさえ次の波が来ているのに気づかないのだと

したら、しがない園丁には仕方のないことか。

 しかし、時代遅れの老人だとしても、しばらくでも意味あることをしようと思うなら、

回想だけしていてはいけないだろう。たとえ波の位相が合わないとしても、ときどきは、

現在の重要な著作も読まなければならないのだ。いずれにせよ、前後二つの波頭の谷間で

才もなく華もなく記す雑記帳は波間に消える運命にある。だが、師と仰ぐモンテーニュが、

(この師事もわたしが世の流行に疎いことを示しているのだが)、「われわれの努めは、自

分の品性を創ることで、書物を作ることではない」と説いている。園丁の手と頭のなぐさ

みは無形の成果をもたらすと信じ、日をつくって行こう。

 

                          二〇一五年みかんの花の咲く頃

 

  後記

 書き終わったあとで、講談社の冊子『本』五月号で、著書『加藤周一を記憶する』を出

版した成田龍一という人の小文に出会った。敗戦から現在までの思想を、「戦後思想」の

時期、一九八〇年前後を中心とする時期、そして現在と三つの段階に分けている。第二の

思潮は「戦後思想」が「制度の知」となり桎梏になったとして出てきたが、現在は、第二

のもののある局面のみを極限化して、(反知性主義という)啓蒙主義の放棄のような動きに

なっている、と特徴づけている。筆者は、「人間やこころが空虚なものとされている」今、

「知の目録を点検し再生すること、解釈しなおしあらたな意味を付す営み」が重要だと考

えて、二十一世紀まで「たえず自らの知を点検し、組み換え、状況に向き合っていた思想

家としての加藤周一」をテーマに書物を著わしたという。加藤周一が「未来の他者」を意

識していたとする人は、「啓蒙主義の放棄ではなく、啓蒙主義の蜂起へと至る」道を希望

している。

 その文章は、思潮の推移を語る点で、また加藤周一を取りあげているということでも、

今回わたしの考えたことと共通するものを含んでいる。今後の集団意識が啓蒙主義の蜂起

へと向かうかどうか定かではないが、わたしは、戦後思想の啓蒙主義を越えて、近世から

近代への思想の結節点だったカントの啓蒙精神にまで戻るのがよいと思う。それは、根本

的にものごとを考えようとするとき今でもベースキャンプだから、新しい波動となる思想

は、現在の蒙を啓くカント的な普遍的価値を追求する動きとして生まれるだろうと思う。

そのような波頭がやって来ることを待ち望む。




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 27 意識に乗せられて



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 26 ピケティ旋風



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 25 ハーバーマスの哲学をかじる


 

 

補遺二

 ヨーロッパ人のなかにも例外的な人がいるようだ。文化人類学者レヴィ=ストロースは、

『悲しき南回帰線』の最終節で、キリスト教と距離を置いた思索を記している。――仏教

には彼方の世界がない。すべて根本的な批判に帰着するが、人類は批判が永久に可能であ

ることを示すはずがないので、批判の究極において、仏陀は物と存在の意味の拒否として

悟るのである。それは宇宙をないものとする教理であり、宗教として教理そのものもなく

なるのである。……わたしは他の人から、教えを聞いた先生たちから、書物で読んだ哲学

者から、西洋が誇りとしているあの科学からさえ、賢者(仏陀)の樹下の瞑想を接ぎ合わせ

て編集した教訓の断片のほかのなにを教えられただろうか。――もちろんこれは信仰を勧

めているのではない。そして、レヴィ=ストロースは「懐疑主義者」でもないのだと思う。

ここには科学という言葉も出てくるが、この人は、現存する宗教的世界観と自然科学的な

知見の限界を識って、なお思索しようとしている。

 




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 24 今この国で ――或るまちづくり協議会設立総会



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 23 『ヨーロッパ戦後史』― 日本戦後史の合わせ鏡



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 付録 果菜園荒地年報2014



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 22 オセアニアとはどこか


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 21 永平寺山門に立つ



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  19補遺  『三国志魏書』「烏丸鮮卑東夷伝」の教えること  PDF版



 部分的にだが『三国志』を読んだおりに、「烏丸鮮卑東夷伝」にも目を通した。誰もが

知っている女王卑弥呼がどこにいたかを、『三国志』全体の記述方針に沿って虚心に読み

解いてみようと思ったのである。そのかいがあって、いくつかのことについて認識を新た

にし、「東夷伝」は卑弥呼のいた国の場所を告げていると確認できた。

 以下はPDFファイルをご覧ください。




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20 ローカル列車に揺られて        



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19 中国三昧、三題噺                 PDF版



 BS放送で中国のドラマ「項羽と劉邦」を放映している。八十回連続という長編である。

中国の人々が最も親しんでいる歴史物語は、この物語と『三国志演義』だろう。以前に放

映された「三国志」は時々しか観なかったが、今回は昼間やっているのを録画して、夕食

後の腹ごなしに観ている。司馬遷の『史記』を読んだけれども記憶がうすれているし、現

代の中国人が歴史ドラマをどう描くかにも興味がある。そういう中、義兄が上野の博物館

で「台北故宮博物院特別展」を見学したおりに、その図録を買って送ってくれた。展覧会

の図録をあらかじめ入手するのは初めてのことである。ページをめくると、見ごたえのあ

る美術品が並んでいる。太宰府に巡回して来るその展覧会を楽しむために、ていねいに予

習することにした。ところで、前からゆとりがあれば『三国志』を読んでみたいと思って

いたのだが、ちょうどそういう気分になった。ただし、ファンの多い『演義』ではなく、

種本である陳寿の書いた正史の方である。歴史好きの者には歴史書を読む方がおもしろい。

こうして夏の一時期、テレビドラマと皇帝の収集品の図録と『正史三国志』との三つで、

中国三昧の日々を送ることになった。それを三題噺にして書きとめてみる。


    少し長いので、以下はPDF版をご覧ください。



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18 世界遺産の閑却



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17 詩のように書かれた哲学


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16 続海市巡礼  



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15 海市巡礼  



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14 鯨回向



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13 『聖徳太子の真実』が明かすこと -- 続六〇〇年代の倭国

     


     PDF版だけを載せます。


                            2014年春分の頃



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12 浦の今



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11 経を読む愚者



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付録 果菜園荒地年報二〇一三  



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10 試論「中国史書の記す六〇〇年代の倭国」   改訂版PDF版



 中国の歴史書は、日本列島の古代史を外部からの眼で証言して、いくつか重大な問

題を提起している。ある事情(*)からわたしは、その問題を考察して自分なりの判断を

下す必要に迫られた。考察の一つがこのノートで、『隋書』(1)と『旧唐書』(2)が外交

関係をむすんだ日本列島の国家をどのように観ていたか、という問題を主題とする。

誰もが六〇〇年代の歴史解釈は揺るがないと思っていたので、古田武彦が「九州王朝

説」(3)を提出するまで、この二書の記述を問題視することはなかった。ところが、先

入観なしにテクストを読んでみると、たしかに両書は通説に対して無視できない疑問

をつきつけている。考察は既に何度も人の思考回路を巡った論点を追うことになるが、

再論を避けず、論点を可能なかぎり厳密な論理に整理することにこのノートの主眼を

置く。つまり、目的は検討と判断のために論題を明確にすることにある。

 

第一節 『隋書』と『旧唐書』がつきつける問題

 

[一] 『隋書』にとり上げられている国の名は「タイ(人偏に妥)国」である。『後漢書』に

出てくる倭奴国がタイ奴国と表現されているから、タイ倭だということになる。タイが

倭の異体字として使われた可能性、あるいは、この文字が使われた何らかの理由が

あったのだろう。『隋書』が王の名を国書の署名からとったらしいことを考えれば、王の

名に添えられた国名にこの文字が使われていた可能性も否定できない。けれども、

この問題をさらに論じる材料はテクストに見つからない。ともかく、『三国志』と『後漢書』

の記事をおさらいし、南朝の斉や梁の名を出して、この国が昔の倭国を継ぐ国だとし

ている。中国史書の編者は前史を引き写しにせず、自分なりの表現をしようとするも

のだ、ということが知られる。

 隋代の記事は二つである。第一は、六〇〇年タイ王の使者が長安へ来たこと。いきな

り、王の名が「姓は阿毎、字は多利思北孤」と出る。それは、使者の持参した書状に

書かれていた可能性が高い。隋の初代皇帝楊堅は所司に命じて、使者に風俗を問わせ

ている。それに続いて、王の号、王の妻の号、同じく太子の名が「利歌弥多弗利」な

どと具体的に書きとめられ、タイ国の位階制度、風俗、気候などの記事がある。楊堅が

風俗を尋ねたことに対応するように配置したのだろう。これらの記述は、第二の記事

六〇七年の遣隋使の前に置かれているが、書きぶりは実際に見聞したかのようだから、

六〇八年の返礼使節がタイ国に行ったときの記録を前にもってきたと考えるのが妥当

だろう。いずれにせよ、王の名は、六〇七年の国書に書かれていて、再確認されたは

ずだ。

 

[二] 『隋書』は、隋使の斐清がタイ王と会見し言葉を交わした、と書く。『日本書紀』(4)も、

返礼使節の斐世清が会見場で再拝して使いの旨を言上し、皇帝の書は取り次が

れて大門(みかど)の前の机に置かれた、と証言している。すなわち、王は隋使と会見

し、隋の国書を受けとったのである。『日本書紀』は、会見場に皇子・諸王・諸臣が

列席したとも書いている。太子が同席したと考えてよかろう。また当然、使節は進物

を携えていた。その中には王の近しい家族への贈り物が含まれているだろう。外交使

節の応接という儀礼の中で、王の号と王妃の号や太子の名を聞きとることも起きる。

隋書はそれを記事にしたのだろう。こうして、会見についての記述は、『隋書』と『日

本書紀』のあいだに矛盾がない。

 それなのに、この会見の記事を歴史の文脈の中に置いて見ると、著しい不一致が生

じる。『日本書紀』は、大和の王朝の歴史として遣(隋)使と返礼使節のことを書い

ている。大和で五九三年から六二九年まで、王は「とよみけかしき姫」、後世贈られ

た名が推古天皇で、女性である。人に会って相手が男性であったか女性であったかと

いう最も単純な事実について一致しない。重大な問題である。

 この問題を従来の歴史解釈はどのように解決してきたか。答えは、日本史の教科書

に書かれている。聖徳太子が遣隋使を派遣したとするのだ。『日本書紀』には、皇太

子「うまやどのとよみみ」が摂政としてよろずの政務をとりしきった、と書かれてい

る。この記述を根拠に、摂政の皇太子が隋との外交を行なったと考えるのである。こ

の解決法は本当に合理的だろうか。

 もし仮にそうだとすると、摂政の皇太子は、外交というような国家の大事で王を僭

称して文書を発行し、相手国の使節との会見場で王を演じたことになる。ありえない

ことである。『隋書』も『日本書紀』も、当該の記事に接して、隋が国交をむすぶ朝

鮮半島の百済や新羅とタイ=倭国との頻繁な通交に言及しているから、この虚偽が露見

しないようにするには、百済や新羅に対しても摂政の皇太子は王を演じなければなら

ない。しかも六〇〇年から六〇八年まで、この擬制を続けたとしなければならないだ

ろう。こう考えれば、「摂政の皇太子が隋との外交を行なった」とすることの不合理

は明らかだ。

 さらに仮定を重ねてこの無理を受け入れたとしても、国内でそれは容認されただろ

うか。そもそも、女王「とよみけかしき姫」が即位した前後の時代、王位をめぐって

どろどろした権力争いが渦巻いていた。女王の兄弟の一人は王位をねらって殺され、

もう一人は三十二代の王位に就いたが殺されている。女王の兄弟から次世代への王位

継承がうまくいかなかったからこそ、大和の王朝で初めて女性である「とよみけかし

き姫」が三十三代の王位に就いたのだ。そのとき、三十一代の王の子である王子「う

まやどのとよみみ」は、有力な王位継承者の一人だったが、王になれなかったのであ

る。そのような政治状況の中で、女王の甥ではあるがその摂政が、宮廷の主だった人々

の出席する外国使節の接見場で王を演じることが許容されたであろうか。やはり考え

られないことである。

 ひるがえって、女王では隋と国交をむすぶのに不都合だったろうか。不都合なのに

女王を立てておいて、中華帝国と国交をむすぶという発想が生まれた、と考えるのも

奇妙なことだ。魏のときの卑弥呼の前例があるのだから、そういう考え方はまったく

成立しない。大和の女王も、女性を名乗って堂々と外交の場に臨むことができたはず

だ。どう考えても、「聖徳太子が遣隋使を派遣した」という説は、歴史学の方法を超

えた無理だということになる。しかも、「聖徳太子」は実在しなかったとする歴史家

がいるぐらいだ。「聖徳太子」という言葉は『日本書紀』に表われないのに、後世大

きな人物像になって、遣隋使の派遣まで担わされたのである。この時代の歴史に多く

の不確定な問題があるとしなければならない。

 

[三] なぜこのような無理が通ったのだろうか。それは、多くの不明な点を措いて、

日本列島の古代史の大筋を『日本書紀』に沿って解釈することが、通念となっていた

からである。科学論で提出されたパラダイムという概念は安易すぎるほど使われてい

るが、歴史学の分野で使うとすれば今の問題ほど適切な事例はないだろう。古代史を

解釈する従来のパラダイムによれば、隋と外交関係をもったのは当然大和の王朝だと

いうことになる。その立場から、摂政の皇太子がその外交を推進したとすれば、隋使

に会ったのも男性となり、『隋書』の記述との不整合を消せると考えたのである。

 この窮余の解決策は、『隋書』の記述を動かせないという判断から出ている。その

解釈を客観的に表現すれば、六〇〇年代初頭の日本列島で隋と国交をむすんで隋使に

会ったのは、当時の大和の女王ではなく別の男性だった、とすることだ。同じ判断は、

従来のパラダイムから自由になれば、「日本列島で外交権をもって隋と国交をむすん

だタイ国は大和の王朝とは違う」という仮説を可能にする。それは今の問題を合理的に

解決することができるが、日本列島を支配していたのはずっと大和の王朝だったとい

う古代史の通念を揺るがす。われわれは、問題がそれほど深刻だと考えるべきだ。

 

[四]  それでは、次代の『旧唐書』は、国交をむすんだ日本列島の国をどのように観

ただろうか。『旧唐書』は、段落を分けて、「倭国」と「日本国」との二つの国を記

述する。日本の歴史家がそれを混乱とするのは、通用している静的な歴史パラダイム

から観るせいだ。むしろ、編者は倭国から日本国への移行を単純な継続と考えなかっ

たのである。

 日本国の書き出しのところに有名な次の文がある。「日本国は倭国の別種なり。そ

の国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となすと。あるいはいう、倭国自らその名

の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地

を併せたりと」。この文は、倭国から日本国への移行に複雑な事情があったことを示

唆している。これだけのことを書くのには、何か依拠する材料があったと考えるべき

だろう。

 倭国は中国前史に登場する倭奴国につながる国とし、その境界を「四面に小島」と

表現するのに対して、日本国については、国の移行を語る先の文のあとに、「その人、

入朝する者、多く矜大、実をもって対えず…」とあり、「西界南界はみな大海に至り、

東界北界は大山ありて限りをなし…」と国の境界を提示する。前半は新たな外交のと

まどいを表現し、後半は新しく外交関係に入った国の概要を説明するのにふさわしい。

日本の歴史家の感想とは逆に、簡潔な記述の中にはっきりと両国の違いを表現しえて

いる。

 この文脈をそのまま受け入れれば、『旧唐書』は日本列島での王朝の並立的な状況

からの変化を証言している。移行の年代も、『旧唐書』は限定する。倭国についての

記述は、六三一年の(第一次)遣唐使とそれに対する返礼使のこと、および六四八年の

新羅の使節を通しての上表とで終わる。他方の日本国の唐との外交は、七〇三年の遣

唐使の記事から始まっている。つまり、倭国から日本国への移行が六〇〇年代後半に

起きたことを告げているのだ。

 

[五] 以上の考察によれば、『隋書』と『旧唐書』とはそれぞれ、六〇〇年代に中国

と国交をむすんだタイ国=倭国が大和の王朝と異なることを証言し、『旧唐書』は、

六〇〇年代後半に外交権がその倭国から日本国という国に移ったと証言していること

になる。

 考えてみれば、この見方は、世界史の一般的な事象としてありふれている。日本で

も、承久の乱以後の鎌倉幕府は京都の朝廷を圧倒して統治していたが、外交権は京都

にあり、結局出されなかったけれども、元の国書への返答は京都で議論された。室町

幕府の地位はそれより進み、足利義満は中国の王朝から「日本国王」の称号をもらっ

た。外交権はこちらにあったのだ。タイ国の外交権が大和の外にあったとするのは、従

来の通念を相当に変更し、歴史解釈の多くの見直しを要求するけれども、大和の王権

の実力がずいぶん大きかったと考えることに抵触しない。世界史には、強大なセルジ

ューク朝の下で残存を許されたアッバス朝の例まである。

 現に、大和でも王権をめぐる闘争が存在し、女王「とよみけかしき姫」はいわゆる

継体から始まる王朝に属している。イギリスの王朝を表現するやり方に倣えば、これ

は新王朝といえるのだ。また、朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国が、数百年

もの長いあいだ闘争し、統一されたのは唐が介入したあとであった。だから、日本列

島全体で並立する王朝の力関係を想定することは、むしろ自然である。

 

 こうして、従来の古代史のパラダイムをかっこに入れ、「日本列島に異なる王朝が

並立し、覇権が移行した」という「新しい」仮説を検討する価値がある、と結論でき

る。今のパラダイムに対して新しいと呼ぶけれど、既に提起されている仮説(3)である。


 

  長くなるので、二節、三節はPDF版でお読みください。


 

 

(*)このノートは、『孫に語る歴史』という書き物をしたとき、古代倭国についての記

述の正確を図るために論拠を検討したものである。論じ方にいくらか価値があるだろう。

 

 

参考文献

(1)『隋書』(岩波文庫、『中国正史日本伝(1)』)

(2)『旧唐書』(岩波文庫、『中国正史日本伝(2)』)

(3) 古田武彦『失われた九州王朝』(朝日新聞社)

(4)『日本書紀』(岩波書店、『日本古典文学大系』)

    ここでは、誰にでも検討・考察できるように、手にしやすい書物を挙げた。議論の中

   に出た事項のうちこれらの書物に含まれないものは、インターネット上のWikipediaで

   容易に確かめることができる。





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9 海辺の老夫、小説を読む



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8 もう一人の偉大な師



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7 コーギヴィルも、日本の村も



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6 四季、日に新たなれ



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5 意味の深みへ



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4 世の行く末



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3 邯鄲の夢



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2 人物伝あれこれ



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1 テレビジョン放送に見る世の退廃