只只日日20190205
風雲が急を告げたような気がするが空耳だろうな。


灰ホトラの今後の方針を、激方向転換したい旨、役者に相談したところ、あっさりと合意を得た。正直意外だ。それぞれの中の演劇する動機そのものに、もろに関係するとんでもない変更だったんだけど。


でも役者は、それで良い、面白そうだと言ってくれた。



変更後のプロセスとしてはこうなる。

10分程度の小作品を作っていく。役者がどのような表現方法を取るのか、稽古場で検証し、フォーマット作りを行う。灰ホトラが今までやってきた通りで、ここが最大の肝だ。僕が最も好きな時間で、ここ数年はこの時間の為に演劇をやってきた可能性すらある。プロセス全体のうち半分が、フォーマット作りの為に使われるだろう。


フォーマット作りが一定進んだら、次に、「稽古と本番」が同時に行われていく。このニュアンスを伝えづらいのだが、様々な場所、屋内や屋外で、テイク番号の付いた「公開通し稽古」のようなものを何度も行い、これを撮影していく、ということをする。この行為は事前に告知され、撮影に合意してもらえれば、誰でも立ち会うことができるが、訪れる人々は観客であるしまた、参加者と呼ぶこともできるかも知れない。


ただ観ていてもいい。エキストラのような立場になっている時もあるかな。芝居仲間なら軽く打ち合わせして、パフォーマーとして参加してもらうパターンもあると思う。


「公開通し稽古」という呼称は正確ではないし、これは映画の撮影でも、演劇上演の記録でもない。映像は集積の後に編集、トラックとミックスされ、10分程度の動画作品として最終出力されるが、編集行為が表現の主体となるわけでもない。



ではこれはなんなのだろう。各テイクは本番なのに違いないが、稽古場の拡張でもある。そうだ僕は、稽古場が好きでしょうがないのだ。同じことを狂おしい程に何度も何度も繰り返しながら、どうしたらいいか考えること。それがそのまま透過して見える作品を、作りたいのだ。



稽古場本分の創作プロセス、僕の小作品志向、音楽性との相性、みるみられるの再検証、機動性など、灰ホトラの狙う様々な諸要素が合致するこの地点は、これまでの延長戦上にあって、活動や関わった人達の、掌の跡がある。僕はこれは、演劇だと思っているし、ブレている気すらしない。




灰ホトラ結成以来最もクリアに、方向性が見えたと感じている。楽しんでいこう。おそらくこんな風に、何か主張すれば、逆張りされ、冷笑されるだろう。正直しんどいが、それ以上に、楽しんでいく、作っていくしかない。



20190205・少女には戻れない。





自分達にふさわしい出力方法をずっと探している。



アマチュア演劇に集う人々の大半は、社会不適合者だと普通に思うが、僕はその中でもやばいほうなんではないだろうか。かっこつけたいわけじゃない。本物のだめ人間なのだ。


僕もきっと、演劇に救われた。特に、20代を生き延びたのは演劇のお陰だったろうし、でなければ自死してたんじゃないかと思う。昔も今もろくなもんじゃないものの、目的地と違う場所に進んでいても、目的地の方角を見失ったことのないのは、ずっと方位磁針を持っていたからだ。記憶もおぼろげだがその方位磁針は、演劇の現場で見つけたんじゃなかっただろうか。



という前置きだ。書きたいことは別にある。


そうして僕は、僕に演劇の洗脳のあまりに深いのだ、ということを言いたい。既に獲得したスキルや経験をなかなか疑えないのは、まるでなにかを、裏切るような気がしてしまうからだ。僕は多分、身近な演劇人の中で最も演劇に懐疑的な人間だ。それでも全然、演劇から自由になれない。


美術をはじめ他ジャンルの表現者の様子を見ながら、自らの不自由さに身悶えする。僕自身はおそらく、死ぬまで不器用なままだろう。だけど、自分の表現は、もう少し自由にしてあげたい。その為に何ができるだろうか、灰ホトラでの活動を続けながら、自分達にふさわしい出力方法をずっと探している。



そうしてふと、アイデアがふる。アイデアの景色は良い。だが足元は崖際だ。楽しめるかな、僕や仲間は。誰もいなくなるかも知れない。その時はいよいよ、決別の時かも知れないな。



20190203・黒い羊。





どうも、進路を考えていない。


どうなりたいのか、どこに向かいたいのか、ということだ。気付けば、非常に場当たり的な動きをしている。しかし、展望を描きそこに真っ直ぐ向かうといったことが、そもそも苦手なんだけど。


好きに生きてるなと思うし、いろんなことは自己責任だ。しかしどうだろう。反省に昇華する前に後悔の積み上がるのを感じる。競走馬が目隠しするように、視界の左右を殺して、世界が前だけになるように、してしまいたいが、僕は臆病だ。


本当は問題は、ごくシンプルなことだろう。灰ホトラが「ものになる」か。おそらく今の僕には、そのことだけが問題だ。僕はイラストも書くし音楽も作る。お話を詩を動画を作ったりする。自分の感覚では、全てひとつの同じものだが、いやそこに欺瞞が潜んでいる。


例えばこんなことがあった。


灰ホトラの活動の中で、イラストとテキストをフォトショ上で組みあわせフライヤーを作るということを繰り返し行ってきた。それらのスキルが不意に、身近な場で喜ばれるという機会も何度か持っている。具体的には、職場のたよりを、知人のイベントの告知を、フリーペーパー作りを、公的な刊行物の表紙やデザインを、依頼され作成している。


それらの中で小さな自己実現を積み重ねながら、出力の質のある程度上がったことを頼りに、最近、あるチラシづくりを請け負った。これまでに関わった紙面作りの中では、配布の規模や注目度も高いといっていいが、自分の腕前でなんとかなると思って取り組んだ。


だが全然うまく立ち回れず、ほとんど恩人の顔に泥を塗る格好で敗走する羽目になってしまった。思い知ったのは「校正」というもののシビアさだ。「校正」への不慣れはそのまま、自らの「アマチュア」ぶりを露呈する。


それにチラシ作りは、「デザインする」ということは即ち、複雑な状況を整理して調整するという行為だ。音楽づくりの時もほぼ同じことを思うが、予め人間関係に根回し互いへの理解を深めておかなければ、まず上手くいかない。特に、ディレクションの不明瞭な現場でデザインだの作曲だの担うと地獄を見る羽目になる。何度も経験しているが、その集団内での下僕ぶりは毎回想像を絶する。


トラブルを避ける方策が存在する。段取りする。それらも含めてデザインする、劇伴を作る、ということなのだと思う。第一、演劇の演出家の仕事のほとんどは、段取りすることだ。だけど、僕はあんまり上手じゃねーな。




今眼前にある、「それなりのもの」。得手を駆使してある程度のところまで来た。要素を探ると全てに印されているのは、「頭打ち」の判子だ。進路も退路も、判然としないが、それでもまあ、進むしかないよ。




20190126・残酷な観客達。





地元の芝居を観に行った。


会場となる境赤レンガ倉庫は、伊勢崎市の運営する多目的ホールで、僕は今回初めて訪れた場所だ。同じくレンガ蔵を再利用して作られた前橋れんが蔵と比べると随分と体裁が良いことに驚く。


一緒に芝居をしたことのある役者達が舞台上に健闘する様子があった。寺山修二の脚本はかっこよくて、一時代を築いた天才の仕事を感じる時間は豊かなものであったのに違いない。


帰り、会場でたまたま居合わせた知人と4人でスマークへ向かう。クリスマス前だからだろう、想像以上の賑わいだ。観た芝居についてひとしきり話をしながら、そういえば、と思い至る。芝居を観るってことは多分こうして、出掛け、考え、喫茶店で話をすること、つまり劇場で観劇するということ以外の様々なことを、含んだものなんだよな。そのことは、寺山のテキストでも扱われていたように思うが。




さて、随分迷ったが、ちょっと頑張って、上演の率直な感想を、少しだけ書いておきたい。僕が書くのは僕が関わったことのある役者についてのみだ。


僕はこの戯曲は基本、異常だと思う。戯曲に潜む様々なコードは、ある時代の肌感覚にはおいては、掴み得たものだったかも知れない。でも現代においては相当難しいよ。少なくとも、「わからない」「できない」がスタート地点じゃなければ絶対におかしいと僕は思う。


「わからない」「できない」は、振り付けや台詞回しで乗り越えられるだろうか。可能かもしれないが、相応の時間の中で、的を得た検証を繰り返す必要があるだろう。死ぬほど大変だろうと想像する。


或いは思い切った読み替えはどうだろうか。「アングラ演劇」のイメージを参照せずとも、彼女達には全方位「現代」という味方がいる。読み込みの先にアイデアがあれば、もっと台詞に生きた発語や態度が与えられたかも知れない。


いずれにせよ、役者は非常に難しい課題の前にあっただろう。回答を持ち舞台に立ったことは素晴らしいことだ。良い統括のあることを望んでいる。


20181225・エキセントリック。





どりゃあ。


などと気合いを入れないと日記が書けない。近況を報告したいと思う。


言葉を構成する「意味」と「響き」。「響き」側にバイアスをかけることで、作品を音楽的に扱っていく、ということを続けている灰ホトラだ。右往左往の稽古場の先に、ぼちぼち光が見えつつある。


役者の動作を、「跳躍」を基本に作っていく。加えて、発語や関係値は「童歌」の様相を手掛かりとする。これによって、短い詩劇を作っていく、ということを今、やっている。


稽古場で、足を筋肉痛にしながら、ぴょんぴょん飛び跳ねる役者は大変だろうが、やったことのない、みたことのないことをするのは楽しい。あんまり無自覚だと「童歌を遊ぶいい歳した大人のとんちきな状態」を現すばかりで、そうした遊戯性のあるものは嫌いじゃないけど、別にそれをやりたいわけじゃないだろうな。


ともあれ、とにかく、脱したいんだ。人の真似をしなければ舞台に立てない、立たせられない、そういう演劇を、もうやりたくない。悪あがきだろうが、苦し紛れだろうが、勘だろうが、変わる為にはチャレンジしないとどうにもならない。




最近、東京に岸井大輔さんの話を聞きに行ったり、横浜に山縣太一さんの公演を観に行ったりした。現代演劇の先端にいる人に並ぶことが、灰ホトラの目標だ。錆びたなまくらな蟷螂の斧を握りしめている。ほんの少しでいい。絶望より早く歩くんだ。


20181220・語るなら未来を。





言葉と音階のことを考える稽古場が続く。


3文字から5文字の言葉に、音階を与えて発語する、という稽古をしている。音階は相対的なものであって、厳密でない。上昇、下降、棒読み、語尾のみ音階化する等、色々と試しながら、それぞれについて感想を述べあい、気づいたことを収穫していく、という時間だ。


例えば灰ホトラでは今までも、しばしば「語尾を伸ばす」という方法でセリフを読むことがあった。


気持ちと言葉の関係を曖昧にしておく効果があって、僕が好んで使う手だ。アクセントの位置などによっても、気持ちと言葉の関係は複雑に変わっていく。僕らはきっと普段から、言葉を音声として扱いながら、様々な表情付けをしているのだろう。そうしたことを意識的に捉え、意味と響きのより良い結びつき方を求めていく。


発語の音楽性を抽出して、舞台上に組み直して出現させたい。無意識に行なっているコミュニケーションの中の音楽性を、可視化可聴化し、わたしの表現をそこにあらわしたいのだ。と言っても誰も、それがどういうものか、まだわからない。相変わらず灰ホトラの役者は、苦労が続くことになるだろうけど。


現在灰ホトラの稽古場には二人の役者がいる。音楽的な作品を作っていうわけだけど、彼女達の音楽的な素養を問う気は全然ない。今目の前にいる役者と何ができるか、僕のやりたいことをその中に見出していかねばしょうがない。なんとしても、やりたいことだけをやり、実現させたい。その為だけに演劇に関わっている。



20181113・僕たちの戦争。





灰ホトラは10月27日、28日、前橋中央通り「MaebashiWorks」屋上公演を終了した。





この公演は、小出和彦主宰「光景旅団」が長い間温めてきた企画に、灰ホトラが参加させてもらって、実現したものだ。小出さんが「MaebashiWorks」を管理運営するアーティストと築いてきた信頼関係や、アーティストが地域の人達と築いてきた信頼関係に基づいて成立している。貴重な機会を与えてもらい、本当に感謝してます。


「Works」屋上は奇妙な異界感を持った魅力的な場所で、現場に入ってからの高揚感もまた独特であって、芝居の上演が出来事化する、そう予感する程だった。観客数も想定を上回っており、暑い寒いといった鑑賞条件の上にも、真摯な眼差しの並んだ、良好な状況があったように感じられ、来場者にも感謝がやまない。




灰ホトラの作品はいつも、「つかみどころ」が弱点だ。今回はどうだっただろう。「つかみどころ」など、観客がそれぞれに見出して、自由に解釈したらいいのかも知れない。一方で、観客と作品を共有するためには、必要な手続きがあるだろうとも思う。僕の理屈は常に、衝動を上回らないが、なるべくシンプルでコンパクトな作品にしながら、観客の触覚との、距離感を探している。


さして分かりやすくもない作品に、わかりやすいリアクションを求めるのも矛盾している。活動を繰り返しながら、コミュニケーションを知っていく、それしかないのだろう。今回の経験は貴重で、とても面白い、そして豊かなものだった。仲間達も皆よかった。引き続き頑張りたい。



20181029・夕日1/3。





次回の本公演をゆっくり準備している。


明日9月29日は、レンガ蔵で開催されるオープンマイクに参加する予定で、公演の為に準備していた小品をそこで、上演したいと思っている。7分のテキストに、約100箇所の音響キッカケがあるという、今まで試みたことのないものになっている。


来月27日28日には、街中は「MaebashiWorks」の屋上で、10分程度の作品を上演する。こちらもテキストは上がっているし、稽古もはじまってはいるが、まだ音楽ができていない。チラシも早く作んないと。



どちらも、長く近くでに活動してきた演劇人小出さんのサポートに依っているんだけど、どう依っているかと言えば、まあ、僕といろんな 人とを、繋げておいてくれるということであって、感謝しないといけないな。



ひどい躁鬱人間なんだけど、数年前までは、躁鬱のじゅんぐりに一定のリズムがあったような気もするが、最近などはすっかり、鬱側へ振り切ったままだ。抜けるしかない。死んじまうよ、活動しないと。




20180929・ I'm out.





打ち上げ後だし、日記モチベがあがってる内に書き走っておく。


前橋文学館の「リーディングシアター」への参加が続いている。作曲と音響を担当しており、この本番が終わった。今回は再演であって作曲は済んでいるから、オペレーションのみの参加かと思いきや、新たな音源の用意や再調整の要請があって、結局本番ぎりぎりまで作業が続いた。




効果音作りに膨大な時間を要したりするのだが、戯曲上の「物音がする」とかが意外に厄介で、それが仮に「部屋の影に隠れて様子を伺っていた人がうっかり鳴らした何らかの物音」である場合には、その家屋が木造なのか鉄筋なのか、壁の音なのか床の音なのか素材は何か、状況に対する整合性を考えた上に、鳴った瞬間に記号的でしかし嘘くさくないような「物音感」が成立する必要があるだろうし、


「行進曲が聞こえてくる」とある時には、設定当時ないし以前の音源から戯曲内容、演出意図に沿ったものを探し出してくる必要があるが、本来相応の時代考証や音楽的な知見を要するところを、突貫の付け焼き刃ネット検索で補って、なんとかあてがっていくなど、



無論そうした音源準備に要する作業時間は経験によって短縮されていくのだろうし、現状ままならないのは僕の能力不足なのに違いない。「使い物になる奴」が求められるのが当然で、応えていかなきゃならない。本番で手痛いオペーレンションミスをやらかしたのがなんとも、悔いが残るんだけど。




劇伴に評価があったり、甲斐を感じた場面もあった。なにより学んだことがある。集団力をもたらすものが何であるか、ということについてだ。みんなで何かひとつのことをする時には大抵、理不尽がついてまわる。理不尽が失われることは、多分ないのだろう。演劇は本当に苦痛だ。だが理不尽が失われないなら、何によってそれを乗り越えただろうか。「人」、萩原館長やスタッフの方々に感謝したい。





20180805・アンビバレント。





「日記する」つーグルーブが失われてしまっている。


書きたいことはあるが、うまく落とし込めないまま、後回しになっていく。いやそうしたことは最近、日記を書くことに限らない。


去年の「頭痛肩こり」の音楽制作の頃から、自身の集中力や持続性の弱さに、まいっていて、ひどいポンコツぶりを自覚せざるを得ない。だがまあしかし、頑張るしかないよなあ。




横浜で「モメラス/青い鳥」、北千住で「スワン666」を観たことについて、簡単にでも書いておきたい。

現代演劇の領域でしのぎを削る人々の様子に感服する。「モメラス」の感想、というか、感想とも違うんだけど、才能ある若手をバックアップする状況のあることを感じて、ものすごく羨ましく感じた。いやもちろん、それはこの集団が勝ち取ってきたものに違いないだろうけど。


「スワン666」にはすっかりやられてしまった。観客の様子からしてまずなんというか、普通じゃないんだ。うまく言えないが。にわかが迷い込んで失禁しそう的になって、本番前に逃げるように駆け込んだ喫煙所で飴屋さんにがっつり遭遇したりするし。山縣太一さん素晴らしかった。比喩や誇張ではなく、本当に命懸けのパフォーマンスをやっていて、だってあれ、落ちたら死ぬんじゃないか。


前衛が失われれば、シーンはたちまち残骸にまみれてしまうだろう。先を行く人々にはいつも傷を感じる。後に続くには勇気が必要だ。ただ消費し搾取するだけのアマチュアでいたくない。



今灰ホトラで、自分の欲求を相当素直に出力できそうなアイデアに手をつけ始めている。それは最早、演劇と呼べるものなのか怪しい種類のものだ。だけど内心、ほっとしている。良い影響を受けながら、自分にだけできることをするのが理想だ。先に進みたい。先に進むこと以外のことを何もしたくない。



20180710・ガラスを割れ。





miを開くとアップロードしてない4月3日の日記がある。消して今思うことを書くことにする。


メンタルがほぼ崩壊してあらゆることから逃避を続ける暮らしが続いている。40を超えてのこの大不適合期は、リカバリー不可能な可能性すら普通にあるが、救いがあった。



或公共施設からお声かけをいただき、朗読劇の作曲を担当したのだ。負荷はやすやすと許容を超えたが、なんとかやり遂げている。施設長をはじめスタッフの方々の期待に添えたなら嬉しい。



僕を知る人はわかるだろうが、基本人と関わるということがうまいこといかない人間である。際限なく失われていく縁や人脈に辛うじて希望が残ったか、残ってないのかもしれないが、救いにはなってんじゃないだろうか。



それに、参加の途中で次公演のアイデアも降ってきた。今まで想像もつかなかったものだ。これからそこに向かいたい。

アイデアは参加した作品の内容や参加者となんら関係がないが、しかし明らかにそれらのお陰でもある。脳って不思議だ。このアイデアを灰ホトラで出力する時、僕にとっての「人と関わる」ということの現れがあるとも言えるだろう。と書いてみるとあらためて、ひどい屈折だよな。



さて最後に勇気を振り絞って書いておきたいことがある。


劇中音楽を作曲するのは、無尽蔵に広がった空間の中に針の穴ほどの場所を見つけ出す行為に等しいと僕は思っている。僕があと10倍器用で要領が良ければいいんだけど、頑張っても10倍にはとどかないだろうし、今後は楽曲の提供を引き受けるか、相当慎重に考えたい。



思うことは沢山あるが、まあいい。なにもかも、前に進むことできっとなんとかなっていく。



20180624・大嫌いな演劇を続ける。





日記書いてないなー。


いいかげん書こうと思った矢先に色々と書くべきことが押し寄せて収集つかないがもう無理矢理にでも書こうかな。




まずは「マエバシユーレー3号」のことだ。「公演デビューの記録」の号になる。

あのイベントの状況を、主に写真やレイアウトで現していくことになったが、大変だった。僕はきっと、ものすごく体裁を気にしている。それなりのものを作ろうと必死だ。

だが、それなりのものを作ろうとした時ほど、それなり以下のものができあがるのであって、まあだから、思い切ってやったほうがよい。




次に「次回公演の準備」だ。じわじわ考える時間が続いている。

前回の日本国憲法を扱った「列と野鳥」で、「そこにいる全員に関係がある問題」の強さを思い知った。次回はここを踏まえての展開になる。「発熱する氏名」と題して、今日に実在する名前をそのまま扱う作品を有力な候補とした。


しかし、いたずらに個人名や固有名詞を扱うことは単なる搾取に過ぎず、現状では考察が足りない。稽古場で検証を続けたい。




「演劇人会議」のこととか。最近超ちょっとずつだが、U30との縁が増えつつあるのは嬉しい。

地域の文化状況の様子を伺えば、正念場が近い可能性もある。変わることが必要だ。出る杭があるような気がしているが、応援したい。





最後に「ときかたち」のことかな。

尾花さんをはじめ、「ときかたち」の参加メンバーはみな最高だった。祥子ちゃんの参加を非常に嬉しく思っている。小出さんの戯曲の再評価もあり、音楽担当としても嬉しい限りだ。第一線で活躍する表現者から影響を貰える幸福には掛け値ないものがある。他者の素晴らしい表現が、自分でも驚くくらい、「次の自分の表現」に前向きなイメージを後押しするのはなぜなんだろう。


きっと、出会いに恥じないように生きたいと思うのだろう。僕も誰かの、そういう存在になりたいと思う。



20180318・打ち上げの後に。





「身体拡張2018・公園デビュー」が終了している。


灰ホトラは2回の本公演をはじめ、稽古場として利用するなど、期間中様々なかたちでこのイベントに関わった。自由で楽しい、そして予感ある空気が、アーツの地下に満たされているのを感じながら、充実した時間を過ごしたように思う。



いやもう一歩率直に、正直なところを書いてみたい。


公園デビューで過ごした時間は概ね、「他のパフォーマーと自分との違いを考える」為のものだった。そこに存在したのは、自分の演劇経験ではなかなか対応できない状況だった。しかしその「どうしていいかわからないから、どうしたらいいか考え続けるしかない」という時間は極めて貴重な、そして豊かなものだった。


平田オリザ以降の現代演劇の領域がどうして拡張しえたのか、どうしてアップグレード出来るのか、あのような場にいると良く分かった。隔たった場所へ向かおうとしなければ、発想できないことがあるのだと思う。



場違いで、厄介で、面倒で、どうも自由じゃない、僕の方法。飛んだんだか掘ったんだかよく分からない今回のチャレンジで、はっきり認識できるのは、どうあれ住所が変わった感覚だ。窓の外に景色が違う。さがってる洗濯物は同じだけど。表現力のある人は皆孤独だったな。だから豊かな繋がりを産み出すことができるんだろう。進もう。足は言うことを聞くようだ。




20180220・第12回公演号砲。





灰ホトラは2月10日をもって、「プロベラブランコ」アーツ前橋公演を終了した。




本番日後も会場に顔を出したり、軽く稽古的なことをしたりと、イベントとの関わりは継続している。「公園デビュー」というこの催しにおいて、個別の表現の成功を強調するのは相応しくないかも知れない。行為が周囲とどういう関係を築きえたか、どういう可能性を提示できたのかを、問う必要があるだろう。



しかしどうにも、灰ホトラの公演にご来場頂いた人々に、丁寧な感想をいただいたことに、ドネーションに協力してもらえたことに、運営スタッフのバックアップに助けられたことに、感謝を、声を大にせずにはいられない。ありがとうございました本当に。来場者数は想定を遙かに超えている。




今回うまれて初めてアフタートークに挑戦したが、ぐだぐだだったなと反省しきりだ。しかしお客さんはよく付き合ってくれたし、素晴らし反応や意見をいただけて嬉しかった。皆対話的で、温かった。


また、作品に思い切った政治性を持ち込んでいるが、これに対するポジティブなリアクションにも驚いている。挑戦した甲斐があった。いつも思うが、観客の想像力は僕の思惑などやすやすと越えていく。僕はもっと、作品の懐を深くする為に、考え続けなきゃならない。





イベントのこと、公演のこと、今言葉に残しておきたいことは沢山で、何回かに分けて日記を書くことになると思う。



そうして僕はでも今、役者のことに触れておきたい。役者達は抽象的で難度の高いミッションによく取り組んだ。普通に演劇を趣味にするだけなら、負わなくてもいいリスクを負わせたかも知れない。

だけど例えば昨日今日の、れんが蔵の高校生達を見ても明らかなように、「表現方法の現状維持」など有り得ないのも確かだろう。表現は疑われ、検証され、更新され続けていく。現在を呼吸する者が主役でなければだめに決まってる。考え続けるしかない。頭ででも身体ででも。




そうして灰ホトラのチャレンジは今後も続いていくが、しかし今回程、役者が作品を引き受けたと感じた作品はない。大変だったと思う。ありがとう。




20180213・高校生に負けない。





「身体拡張2018・公園デビュー」イベント全体のことについて書いておきたい。



アーツ前橋の地下に入場してまず目を引くのは、壁一面に貼られた地元劇団のチラシ達だ。



90年代から現在までジャンルを問わず揃っており、地域演劇史の展示として余すところがない。演劇関係者なら知らない人のない清水さんの、圧巻のコレクションである。




広間のような大きな展示室に出ると見えてくる村田さんの作品、無機質可愛げカラフルパイロントーテムポールは、公園の自由や豊かさを守護しているかのようだ(個人の感想です)。




4日の灰ホトラ本番に向けて、土日は一日中アーツにいたが、入れ替わり立ち代わり様々な人が訪れてくる様子は面白い。音楽の、詩の、ダンスの、演劇の、単体のイベントでは作り得ない状況がそこにあっただろう。




イベントの趣旨に沿うかは良くわからないが、僕はその「色んな人がそこに同居して時間を過ごすことが成り立っている」状況が良いと思うのだ。



アドリブでセッションするとか、想定外のコラボが実現するとか、みんなで手を繋いで分かりあうとか、まあ出来たらいいなと思うけど、多分出来なくてもいいのだ。そこにいる人達のアンテナの、伸びていることを僕は感じる。他人同士であることも尊いことだし、即日出る成果を求めてばかりなのも変だろう。公園だもの。




灰ホトラの表現は大いに屈折していて、複雑で、面倒くさい。演劇の外の人には尚そう見えるだろう。だけど僕は知人を誘う時は必ず「適当に観ると面白いよ」と伝えている。灰ホトラの作品は「適当に、好き勝手に、思うように」観るときっといい。そしてそれは「公園デビュー」のコンセプトにも繋がっているかも知れない。




4日の本番に或程度の達成を感じている。10日の本番はよりよいものにしたい。



20180207・4日公園公演終了。





間もなく公演です。

kouen

アーティストが一同に介し、ジャンルを横断して表現の可能性を模索する、て感じなんじゃないかと僕は思ってるイベント、「身体拡張2018・公園デビュー」が、前橋市街地にある美術館「アーツ前橋」で、2月2日からはじまる。


リンク/アーツ前橋公式サイト


最終2月18日までの期間中は、委員会の熟慮したであろうところの、様々な表現者による魅力的なプログラムが組まれているのだが、灰ホトラもこの一部に参加し、二日間で2回、60分の本公演を設定することと相成った。



これは誠に光栄なことであるし、お世話になっている関係者、諸先輩方のお陰様であるという他ない。アマチュア劇団灰ホトラは現状、著しく認知度も評価も低いが、しかし捨てたもんじゃないのかもしれなく、力を振り絞って稽古している。



また僕は「前橋ユーレー」としてもエントリーがある。「談話室荒井」での先生の話は楽しみだし、小出さんの仕掛ける「nobody,からだのない」に、僕が過去に作曲した音楽が関係してくるかも知れない。



さて、灰ホトラの公演は、4つの小作品のオムニバスとなっている。



躁鬱する働く男の心象世界に、歪な幼児性の、うたとおどりにまみれていく様子。表題作 「はたらくひきこもりのうた」


日本国憲法原文を戯曲として扱う。なんだか茶番。「列と野鳥」


変な女の踏み台昇降。「欲望少女ウツロ」


支払うことと祈ること。「賽銭むすめ」


といった4本である。今適当に前書きを付けてみたものの、「変な女の踏み台昇降」は適当すぎないか。実際昇降するけど。祥子が昇降するけども。



「はたらく」「ウツロ」の原型を作ったのは15年以上前になるのだが、右傾化する現代の社会状況と怖いくらいリンクしている。またそれらは「野鳥」の中の茶番劇と繋がってもいる。「賽銭」は個の内省を音楽的に拡張していく灰ホトラらしい作品であるが、システムに対する若干の問い立てもある。当初は無自覚だったが、総じて一本の物語の様相となった。




すごく少ないものの、来場希望の声も届きはじめた。今回とてまず叶わないだろうが、沢山の人に観て欲しいという望みを捨てていない。

理解者や支援者は存在するのだし、それは本当にありがたいし嬉しい。だが、「灰ホトラは俎上にあげない」のが界隈の基本的なスタンスになってしまっているような気がしないでもない。勿論問題は僕にある。なんとかならんもんだか、この機会を活かしたい。



20180124・指折り数えれる日数。





役者紹介キャンペーン、最後に所属役者の二人に触れていく。

優。



優とは一年半くらいの付き合いになる。灰ホトラは今回で3作品目だ。出会った時から今に至るまで僕は、優の持つ魅力について、かなりはっきりしたひとつのイメージを持ち続けている。


僕は優がそこに立っている時、彼女が本来存在するべきそこと、実際立っているそこが、なんだか3センチぐらいずれているような、気がしてならない。


居心地が悪いかのようで、相応しく立っているような、その稀有な存在感を、彼女自身は良くわからないだろうし別にそれでいいが、そうした存在感が君の鼻先に、せっせとのびしろを与え続けている、ということは知っておいたほういいと思うんだよ。優と縁が続くことを期待してる。



和枝さん。



「はこいる」や「レゴリス」の1人芝居など、彼女に担う部分の大きい去年の灰ホトラであった。

小器用でないぶん、丁寧で、重しや粘りに感じるところのある人だ。行方を失わない、良い声を持っていると思う。


僕と和枝さんの経験や趣向には大きな隔たりがある。僕の要求することは概ね彼女の苦手なことだったりもする。しかし僕は彼女を演出し続け、また彼女も自分を変容させていく。この継続性の中に、表現が、方法が、うまれていった。最早灰ホトラと不可分な存在であると言えるだろう。






さて、これらの5人と僕は4ヶ月近く一緒に過ごしてきた。今回、摺り合わせや模索の為の序盤の稽古に相当な時間を割いたように思う。みんな聞く耳とのびやかな身体を持って、作品に関わってくれた。


僕にとっては挑戦となる公演だ。もちろんそんなことは観客には関係ないし、下手したらメンバーにも関係がない。


そう、公演が、面白い時間になったらいいのだ。結局その為にやっている。死ぬほど稽古しているが、本番のその時に、見つけに行くのは自由で楽しい経験だろう。僕の作品が本当にそれを媒介できるだろうか。できるんじゃないかなきっと。



20180117・かずえゆう。





役者の紹介を続けたい。



ひかりだな。



彼女は、僕が音楽制作で参加した或集団の、役者で、僕はえらく上手く自分を運ぶその「足がいいな」とまず、思ったような気がする。ことばのコントロールも良かった。


彼女は灰ホトラ所属の優と同級生、南高校演劇部OBだ。自分自身と演劇、表現するということの、見当のとてもいい二人である。観念的に捉えたり、先入観や思い込みで行為するということがなく、これは高校時代に相当良い経験があったからだろうと、僕は想像している。


彼女の経験値は土台から正しく積んであるから、様々な現場で応用が効くだろう。灰ホトラですらど真ん中に感じる程だと言えば、懐の深さが知れるだろうか。



2月の公演では、僕が16年前に書いた詩の表現を任せている。僕はこの後に及んで彼女のような存在と出会い、自分の表現を更新する機会を得た巡りに眩む。互いの充実はここにあるか。僕はその為に頑張らないといけない。



20180114・ひかり。





少し役者の紹介をしていこうと思う。




2月公演の情宣効果や集団内のモチベーション維持を狙ってそうするのだが、本音は単に彼女達を愛おしいと思う為だろう。なるたけこざっぱり書き進めていく。




馬場ちゃんは、灰ホトラの役者募集のツイッターを見て稽古場に顔を出した。希少なことだ。なぜ彼女のアンテナが灰ホトラを受信したのだろう、たまたまであったのだとしても、僕には幸運な出会いとなっている。


高校演劇の経験があり、テキストの扱いに熟れていたり、ハードワークのフォローが行き届いていたりと、集団内で高いパフォーマンスを発揮している。演技には怯えがないが軽率でもない、真面目で誠実な芯の通った様子が感じられる。


僕は今回相当に、馬場ちゃんの身体性を利用して作品を作っている。またそれが想像以上に作用もした。自らの身体性をより自覚的に扱えるようになれれば、きっと素晴らしい役者さんになっていくことだろう。元々要領もいいしな。




祥子ちゃんは馬場ちゃんの演劇部の先輩にあたる。



劇団らんに所属する彼女のことを僕は知っていた。太一さんのワークショップにもいたし。丈や手足や声や、その身体性には際立ったものがある。一緒に芝居をするとなった時は少し興奮した。


役者がつこうとする嘘を、役者の身体が許してくれない、ことってある。祥子ちゃんの周囲にうずうずと漂うのは、まだ誰にも見出されていない、彼女にこそ相応しい嘘だ。僕ははじめから、それを一緒に見つけ出していくことを目標に接してきた。


彼女にこそ相応しいもの。そういうものはなにか無根拠で、自意識と関係ない場所にあったりする。一方で根拠と自意識が並んでいるのを見れば、よく知るなにかに似ているようで、まあそれはだから「演技」だろうな。なんとも怖い矛盾が演劇には存在するが、看破するが僕の仕事だ。




二人共努力家で積極性があり、随分助けられている。僕は基本、好き放題やるつもりでやっているものの、彼女達のような存在を思うと責任の二文字に重みも増すが、甲斐があるというものだ。本番まで間もないが、大切にしたい時間が続いている。







20180109・ふみかしょうこ。





灰ホトラ次回公演は2月4日と10日になります。どちらも17時から。




イベント全体のチラシも配布が始まり、正式な日時として確定した。灰ホトラの作品作りは、進行状況に難はあれど、安定していると言える。役者のモチベーションに助けられているし、それになにせ、稽古の出席率がいいんだな。ハードワークにも協力的であるし、感謝している。




いや感謝している、という物言いは変であって、みんなで頑張るのが劇団てもんだろう。しかし一方で、僕はとにかく「劇団然とした集団性」を遠ざけたいんだ。これまで、その集団性が作品を不自由にすると感じてきた。自分1人でコントロールできるサイズの少人数、小サイズの公演を繰り返しているのはこの「劇団然としたもの」と距離を置きたいからだと言える。



だが僕もだんだんポンコツになっていくし、今回のようにちょっと規模が大きくなると、もうままならない。それに僕は恐らく誤解している。参加者各々の演劇経験が、灰ホトラの表現を脅かしたりしただろうか。


戯曲内容、演技体、表現の捉え方、それらがハードワークまで地続きに繋がっているような、「灰ホトラの考え方」を共有するのには、たしかに時間が掛かったのかも知れない。しかし素直で前向きな役者達は次第に吸収し、2月の公演に希望は膨らんでいるように思う。任せれば良いのだ、大丈夫。



ただ、何度でも言い聞かせたほうがいい。僕等は劇場で演劇の観客の前に立つのではない。なにもかもが報われないかも知れない場所に立つんだ。それが他人に会いに行くということだ。






20171228・年末雑記。





カンフル剤も必要かな。


愚かなことだと自覚はあるが、僕はしばしば日記に後ろ向きなことばしか並ばない。今は少し元気が溜まってるので放出したい。



次回公演は2月上旬になりそうだ。市内で、身体表現に関わる多様なジャンルの表現者が集まって行われる大きなイベントの一部に、上演の機会を得た。これは日頃お世話になっている諸先輩方の力添えをして実現したものだ。評価を求めて断崖を進む灰ホトラには光明以外のなにものでもない。感謝も意気も湧いて止まない。



灰ホトラの作品は全て、僕の作演出による。悲しいことにこのことを「オリジナルのおはなしを作れる人がいる集団」だと捉える人がいるが、あんまりだと思う。戯曲内容もその記述の方法も、身体表現も発語のあり方も、行為と鑑賞の関係モデルの捉え方も、あらゆることを俎上に挙げて一から演劇作りを考えてやっている。



その暗中模索ぶりは胃のスペアが幾つあっても足りない程だが、今回集まった役者達は皆前向きだし、やる気もあるし真面目だし、簡単に言って勢いがある。



どいつも、基礎的な能力が足りないし、作品を解釈しこえやからだを発想させていく自己演出力に乏しい。彼女達の「色々やってみたい」という考えに支えられて灰ホトラの公演は実現するのだろうが、ここを、ただ通り過ぎるだけで済ませるわけがないよ僕が。自分の作ったものを腰掛けにすることを許す表現者など、いる筈がないだろう。



僕はこれから稽古の過程で、様々なことを諦めていくことになる。灰ホトラの表現が実を結ぶのは、三人以上の所属役者が継続的に活動し、役者由来の身体表現手法を見出した後、役者がこれを自立的に扱うことが可能になってからだと思われる。僕はその期限を残り一年余りとした。



所属役者の新井さんも優も、善良で良心的で能力のある演劇人だ。周辺の演劇コミュニティーにいくらでも需要があるだろう。しかし多分灰ホトラでは、孤独に耐え表現者になることが必要だ。表現するって一旦は、ひどく寂しいし怖いことだよ。みんなで演劇する、ということとなんら関係がない程に。




と色々書いてみたが、今も自分達の稽古場を持つことが出来ている、その喜びは大きい。僕は恐らく幸福だろう。機会が活かせるか、責任は僕にある。成熟がまだなら、余力は残らない筈だ。怠けてはいないか。



20171202・用法用量未読。





憲法を戯曲として扱う、「列と野鳥」という小作品を作っている。



灰ホトラは、ひとつの個人のモノローグを複数人数の会話として扱う、という表現を繰り返している。この方法で憲法をテキストとして扱うことも可能であると考えた。スマホに表示された日本国憲法原文を見、口語的に読んでいこうとする役者は、しかし今、とても苦労している。


画面に目を近づけ、必死に字を追いながら、演出の指定に応えようとする、その中の「憲法をうまく扱えない様」或いは「無責任に扱える様」は、人の社会性を現すイメージとして、僕には相当にリアルな景色に映る。


テキスト量としては多いし難読な単語も多い。見世物にするには構成が難しく、現状課題が山積している。それでもこれは、それなりに灰ホトラの到達であるかもしれない。この作品はこれまでの延長線上にごく自然に出現している。僕の発想や構想に特に、背伸びも無理もない。




この「野鳥」にしろ、「はたらくひきこもりのうた」に於けるうたとおどりの表現にしろ、通常の役作りのプロセスは、一切無効だろう。こないだの稽古で「場当たり的で無責任な振る舞いが大事だ」と僕は言った。当然、演出することばとしては、乱暴で正確でないものの、経験を疑いアイデアに向かう為には、必要な言い草であったかも知れない。






僕は稽古場で、役者に不自由を与え続けている。群馬でこんなアマチュア劇団を維持し続けることは、まず不可能なことだ。よくここまで続いていると思うが。しかしこれ以上の孤独にはもう耐えられないし、もっと率直に、自己の才覚に対する見極めを終える必要がある。


今やっていることは、挑戦であると同時に、引き継ぎでもある。それすら叶わないかも知れないが、まあ仕方がないだろう。僕は好きにする。それが少しでも長く続いたらいい。




20171130・本番日時が決まった日。





ここは日記というより、セーブポイントであるかも知れない。




役者の優やひかりを連れ回して、マエバシユーレーの表紙の為に撮影に出掛け、飯を食い、灰ホトラの話をしながら、嫌でも思い出す。灰ホトラを立ち上げた頃、彼女等と同じ年頃の自分のことだ。


本当に存在するのかすら分からない琴線の糸を渡ろうと、怯えながらいきがっているような僕は、あの頃と少しも変わらない。僕の青春は帰らないのだし、きっともう、なにもかも手遅れなんだろうな。なんの所為だかよくわからないが、ただまだ少し背中を押す力があって、続いているという、だけのことなんじゃねーかな。



希望は砕けて既に風に消えている。僕のしていることは多分負け戦だ。それでもいいよ。だからって何もできないということでもないだろう。




しかし僕が認知症ででもなければ、記憶も経験も円環せず、螺旋状に積み上がっている筈だ。例えばただ思うことを記す、日記をセーブポイントにしながら。ドラクエならばここはほこらか教会か、ひと気無いのも丁度いいかも知れない。





ほぼ後ろ向きなことばしか並んでないが、そんなにひどい精神状態でもないのであって、今日の撮影はうまくいったし楽しかったし、稽古場だって悪くない。山縣太一さんからメッセージを貰って、すごく鼓舞されたりしているのだし、仲間だって以前より多く濃いものになっていると思う。



それに最近になってようやく、自分がなにをやっているのか分かってきたような気もする。それはあろうことか、とんでもなく下らない冗談みたいなばかみたいなことだ。だがおそらく正解なので書いておく。僕は多分、「うまれてこなければよかった」という思いを、表現に変えている。


信じられない。幼児かよと自分でも思うが。どうもそんなもんらしい。



20171119・石に胸、川に髪。





三連休のお陰か風邪も治りつつある。


稽古の進行は停滞気味だが、気晴らしにもなるし動画の撮影に行った。「はれのひのつかいみち」をスタジオで録音し、動画と合わせてアップしたいと思っていて、なんとなく桐生方面に。土手っぱたで小一時間撮影し、満足して帰った。





この撮影も、それに稽古だってそうだが、「なにやってんだかなんだかよくわかんない」ものに、あっさり付き合う役者に本当に感服する。むしろびびってるのは僕のほうだろう。女ってすげーな。彼女らは対峙したものに対応する、反応する能力が高い。単なる若さの問題ではない、撮影したひかりは特にそうかも知れない。


これは多分「なにもしない」ということが、理解できているからだろう。演劇しない役者に助けられる時間が続く。



さて稽古場だ。いつまでも準備運動を続けてしまわないように、決める、結ぶ、答えを置く、ようにしていかなきゃならない。それは場合によっては、捨てていく、諦めていく、ということでもある。必要なことだ。僕等はごく限られたことしか叶えられない。



まあ、なにか出来るだろう。とにかく彼女達の未来に報いたい。




20171105・塹壕を伸ばすな。





風邪ひいたし。


ちょっと体調崩すと色々とダメージがでかいが、付き合ってやっていくしかない。稽古場のことを書きたいと思いつつ、しばらく手が付いていなかったので頑張って書く。



上演予定の小作品の一つに詩の朗読があり、これを「灰ホトラのうたとおどり」にすると目標を立ててやっている。


発語に依存した作品作りを卒業し、身体表現を模索したい。ここでそれを獲得できれば他の会話劇にも応用できるだろう。とにかく「感情と説明の為に動作する」ことから離れたいのだが、とんでもない暗中模索ぶりが続いている。



いや、稽古場は楽しいし役者は皆前向きにやっていると思う。それにどのからだも魅力に溢れている。できなさやうまくいかなさも含めて稽古場に蓄積させていけばいいと考えているが、仕上がりはほぼ見えていない。ひどい現場である。こんな集団ないだろう。



僕に出来ることは、ひとかけらのアイデアの提示と、とにかく目を皿にして役者を観察することだけだ。「こうすればとりあえず作品になる」というラインは初めから見えている。だけどそれをやったら終わりだ。挑戦しないなら行為する意味がない。


巨大な涅槃仏ばりに横たわっている絶望を見ないふりしながら、なんとかなると信じて進む。だけど、人間が動いている様子ってのは、そもそもすごく面白いし興味深いものだ。演技の動き以外のものならば。演技的な動きといったほうがいいかな。とにかくそれが今は、どういう役にも立たないということだけははっきりしている。



20171101・喉イガってく日々。





次回公演のあらましが見えつつある。


ものの、悩ましい。人数が増えて、タスクが増えると目が回っちゃう。今後、集団を大きくしたいなら、どうにも制作担当が必要だ。


よくよく考えてみると、灰ホトラの表現を体感する、理解するのには、役者をやるのと同じくらい、役者を外から眺めることが大事なのであって、参加者に制作をやらせてみようか、悩んでいる。


もっと言うと、演出をやらせてもいいとすら思っている。作品に対する共通認識が進めばそれが可能だが、流石に楽観しすぎだろうか。いやだがこれ、避けて通れないんではないのか。


「ちょっと変わっててそれなりに体裁がいいオリジナル作品に軽く参加しました」的なエンドロールが見え隠れするのは、現状役者それぞれが、自分がどういうパフォーマンスをすればいいのか、見えないからだろう。あああいやだいやだ、本当に。何度これと同じ轍を踏んだだろう。なんとかせねばならない。



それぞれの演劇経験を持ち寄って、台詞と段取りを憶えれば公演を迎えることが出来る、そういう集団じゃない。灰ホトラは曖昧なものしか扱わない。そういう世界を表現しようとする時、曖昧で微妙なものから世界を捉えなおそうとする時は、なんていうかまあ、大変で面倒だ。でもそれが、悪いことなわけでも、ないだろう。



と、ここまで書いてみて、気付くことがある。日記はやはり、書いてみるものだ。僕は書いたり描いたり奏でたりするが、示したり導いたりすることが、全然だめである。轍の脇に見えるような気がする、分岐点はここだろう。僕が変わらないと、何も変わらない。




20171021・信頼する。





「プロペラブランコろくゆれめ」の稽古に入っている。


SNSでの募集や、他現場で知り合った役者への声掛けなどによって、勢い稽古場に顔を出す役者が増えている。稽古場にこえやからだが沢山ある。すごいことだよ。




これまで通り小品を作っていくことになるわけだが、過去作と新作を半々ぐらいにしようかと思って、10年以上前に書いた戯曲を書き直すなどしながら、驚いている。かつて無自覚に書いたものが、この現代にある問題と怖いくらいリンクしているのだ。


またそれらが、稽古場にいる役者達に、妙に、はまりがいい。「ろくゆれめ」は多分可也、コンセプトの明瞭な、手法の鋭角な、こえやからだの自由に振る舞う、公演になるだろう。予感がある。これはおそらくうまくいく。




問題はたったひとつだけである。役者が頑張るか、本当にただ、それだけだ。

頑張るという言い方にはやや問題があるか知らんが、要は演出意図を理解し、考え、主体的に積極的に演技を作っていくという、書いていくとひどく普通のことだが、それが出来るかどうか、ということであろう。


灰ホトラはしばしば、「僕のすることを手伝う」が如くの集団になる。そうなってしまうのはもちろん、僕の所為でもあっただろう。実は僕は今回、ある程度責任を放棄しようと思っている。なんていうか、僕はいつも、作品を作りすぎてしまうのだ。


だから、それをやめてみたい。作品を作るのは役者だ。それはだから多分、僕が思うより、そうなのだ。10分以下の小作品で、僕と役者がコンエプトや手法、演技体を共有することが不可能なら、もうなにやってもだめだろう。役者に全て開示し、預けよう。表現者は君達だ。




20171015・ろくゆれめへ。





灰ホトラは10月9日、「プロペラブランコごゆれめ」の「はこいるむすめ」ya-gins前公演を終了した。





観に来てくれた人達に感謝します。今回こそ本当に誰も来ないんじゃないかと思ってたけど、来てくれる人がいる。それが1人でもいれば最高だが、2人以上もいたのであって最早、何も言うことはない。ありがたいことです。


というのは全然大袈裟な話じゃなくて、これから灰ホトラは「誰も身内がいない場所」へ向かうんだけど、「1人も観客がいない演劇公演」なんてのも、普通に味わうことになるだろうと思う。それは本当に寂しいし怖いことだ。ぞっとする。だが外に向かい、一つ一つの出会いを経験に変えて、鍛えて、育つしか、この集団が先に進む術はない。


いやでもそんなことは、地元のコミュニティーを出て自らの表現を試験する、なんてことは、アーティストやパフォーマー、ダンサー、表現者の人達は皆、普通にやっていることだ。身内でもなんでも、客席を埋めれば状況が成立し、行為者に満足がゆきわたってしまう、演劇は恐ろしい。


幸い、ここにきて急に仲間が増え稽古場が賑わっていたり、或いはマエバシユーレーのメンバーから骨の太い話を聞かせてもらえたり、もちろん八木さんをはじめ手助けを貰える人のあることも含めて、灰ホトラに追い風があるのを感じている。



とはいえ問題はやはりただただ、僕の作品に力があるかどうかだ。それから良い稽古場が作れるかどうか、演劇ではそこが肝になる。参加する役者の理解度やスキルも課題になっていく。灰ホトラは自分達だけが作れる作品を、方法を求めて進む。他のことはいい。




20171009・ごゆれめふたはこめ終了。





日記に書きたいことが溜まっていく。


ので小出しにしたい。次回の公演が決まっている。アーティストの八木さんの協力を得て、弁天通りのya-ginsの前で、「はこいるむすめ」を再演できることになった。10月9日の14時ですのでどうぞ宜しく。





八木さんのとこに挨拶に行った時に、伊藤存さんにお会いして、少しだけ話をさせてもらえた。素敵な人であった。人と仲良くなるということが理解できてないいつもの僕の有様を晒しつつも、しかし流石に思う。


僕はもうこれ以上、自分を掘り下げても多分、何も出ないのだ。ここから先は、誰かとの繋がりの中に見いだしていくしかないんではないのか。これは役者との関係においても言えることだ。僕は僕を、僕以外のものから見つけ出していく、必要がある。


さて、「はこいる」は灰ホトラの今後の展開にとって重要な作品になりそうだ。表層、テキスト、機動性。制作的な面においても戦略的な利用が可能である、とかあんまりおおっぴらに言うことじゃないだろうか。でも僕はとにかく、これから、色んなとこに行きたいんだよ。




前橋ユーレーの次号を作らなければならない。荒井先生や小出さんから素晴らしいテキストを貰っている。僕の担当となるデザインや構成、自分自身の掲載テキストも決まっていないが、ユーレーのデザインはあまり凝らないで、フィーリングでやると僕は決めている。適当てことだな。本気の適当だけども。




最後に、灰ホトラの稽古場だ。20代の女役者数名が、今後の作品に参加する可能性がある。稽古場に顔を出してくれたのだが、僕が人生初のぎっくり腰をやらかして車椅子で対応するという、不思議な状態になってしまった。それはともかくとして、もし今後も縁があるなら、大事にせねばらない。正直、相当に愛おしいものがある。


下の世代の為に何かできるかも知れないのは嬉しい。いやきっと、僕のほうが彼女達から力をもらうことになるのだろう。灰ホトラは変われるだろうか。同じところにいつづけるくらいなら、やめたほうがましだ。




20171003・座薬をふたつ。





灰ホトラは9月23日、「プロペラブランコよんゆれめ・小作品4「レゴリスむすめ」」MaebashiWorks公演を終了した。


ご来場頂いた方々に感謝したい。稽古を繰り返していると、本番前に作品が実体化しているような錯覚を持つが、出会いを果たしていない作品は存在していないのと同じである。「芝居の本番」という状況を可能にする他者の存在は、作品そのものより遥かに大切だ。

などと強調すると、サービスを売りにしている劇団のようだが、申し訳ないことに全然違うんだけども。



他者は必ずわたしの想像を超えている。他者の人生を超える作品など作れるわけがないのだし当然だ。芝居の本番は終われば消滅し、関係の中に、溶解していくだろう。僕のいない場所、僕の想像できない場所へ。






とはいえ一方で、検証の為には、作品の内容について自己言及しておくことも、ある程度、必要かと思うのでやってみる。


今回の公演は「人前に立つ人を表現する」作品にしたかった。もっと具体的に言えば、「僕の思う、演劇の役者を表現する」である。

自ら準備した虚構を、低姿勢で押し付けるその人の言葉のほとんどが、たわごとだ。彼女がそこに立った理由は「寂しい」からである。彼女にとっては、観客は自分の寂しさを癒やす為の存在に過ぎないだろう。


自ら会場の飾り付けをし、観客と糸電話で話をしたり、オチの台詞を言わせたりと、優しいが情けない、配慮はあるが抜け目がない、振る舞いがある。




抜け目なさは、自分の言いたいことを「紙コップの向こう、自分以外の誰かが言っている」体で話す冒頭部分にも現れる。やがて彼女はコップを潰し、それが自分自身の言いたいことなのだと居直るが、それにつけても結局終始、どうでもいいことしか言っていない。

だがどうだろう。「わたし霊感があるんだ」的なたわごとはしかし、公演の最後には、不思議な説得力を持っているかも知れない。彼女が「寂しいから」という理由で、50分間そこで放ち続けたことばが、他者に忍び込む力を備えていたとしたら、それは一体、なぜなのだろう。




といったわけで、作品を「変な人の話を楽しむ」内側の層と、「変な人のことを眺める」外側の層と、それぞれに表現として成立させたいと僕は思っていた。だがコンセプト立てが甘く、後者においては後付けの感も強い。「はこいる」と違い、景色としての強度も足りなかった。より豊かで懐の深い構造を持たせ、様々な観客の鑑賞に耐える奥行きが必要だったろう。



際限なく長くなるし特に要領を得てもいないのでいい加減にしておくが、要はアレだ、頑張っていきたい。


20170927・よんゆれめ終了。





灰ホトラの公演は今週土曜日ですよろしく。詳しくはサイト内「第11回公演」にあります。空席たっぷり。





秋口には公演が重なりがちではあろうものの、周辺のアマチュア演劇の状況がなんだか活発なのであって、先日も「まーやの家の小さな演劇祭」における幾つかの作品達の中の、役者達の精力的なさまを目の当たりにしたりしている。


人のこと気にしてる場合じゃない本番前なのだが、書いておく。



少し前に「マエバシユーレー」の打ち合わせの中でうまれた或至言が忘れられなくて、それは「褒めるしかない演劇」という言葉だったんだけど、それがどういうものに対して使われるのかはひとまず置いといて、気になるのは、「褒めるしかない演劇」という言葉の中の「演劇」の部分は、「表現」と置き換えられないだろうということだ。「褒めるしかない表現」、果たしてそれは表現と呼べるものだろうか。



灰ホトラに参加したその時に、僕の表現と不可分な存在であった彼女達が「まーやの」に参加していた以上、僕は、そこで行為されていたものを「褒めるしかない演劇」などというものに、貶めたくはない。だからつまり、やはり、批評が必要だということなんだろうな。






当事者による統括は、そもそも難しいものだ。僕は内情を一切しらない上、全公演の半分も観ていないので、これはほとんど勘で言うことなんだが、当事者による統括が可能だとしたら、おそらくやまねこ座の高橋さんに依る所が大きいんじゃないだろうか。


僕が一番いいなと思ったのは、観た作品の内容というよりも、やまねこ座の人達の公演に対する、態度のようなものだ。

僕はこれまで付き合いがないし、印象や感覚に近い物言いになるが、「声と言葉の置き所」が素晴らしいと思う。優れている。もし、「お客様が喜ぶ作品作り」的なことを掲げてやりたいのなら、あれはひとつの解答と言っていいほどのものだ。


鑑賞することは、観客の自発的な行為だと僕は思うが、役者の「声と言葉の置き所」に問題がある時、会場に声や言葉があるべき場所を見つけられないような時には、観客の居場所が、なくなってしまう。

僕等にはそもそもいつだって、隔たりがある。宗教じゃあるまいし、まさか隔たっていない人だけで客席を埋めたいなんてことはないだろうから、どうして声や言葉が、隔たった僕等の間に置き所を見つけることができるのか、それは僕だって、考えていかなきゃならない問題だ。



戯曲の出来不出来や演技の技術の問題などとは別に、以前に、世界や他者に対するイメージのこと。想像力は豊かか。自問を続けたい。




20170920・一昨日、明々後日。





灰ホトラは9月23日土曜日、前橋市街地は中央通り商店街内「Maebashi Works」で第11回公演「プロペラブランコ」よんゆれめ、小作品4一人芝居「レゴリスむすめ」の公演を行います。時間は14時と20時の二回公演になります。どうぞ宜しく。




しばらく、他集団のプロジェクトに幾つか並行して関りながらの、灰ホトラの作品作りであった。先月のプレ公演を経て、戯曲を書き足すなどし、最終的には50分の1人芝居になっている。


僕は演劇の公演でそこに、虚構を出現させようとする。無いはずのものをあるかのようにする、即ち嘘を付く、という行為の正体はなんだろう、そのことを見直していくようにして、「レゴリスむすめ」は作られていった。


観客という存在が良く分からない。と、以前の日記にも書いたが、本当にそうで、だから周辺の演劇人がしばしば口にする「お客様の為」「お客様にとって」という言葉を、僕は扱うことができないわけだが、しかし今回は相当、表現者と観客の関係モデルについて考えたことを、戯曲内に落とし込むように努めた。


そうしてみると、思いもしなかった言葉が戯曲に現れるようになるもんで、自分の世界が更新されていく感覚を随分と味わうことになった。1人芝居という方法も大いにそれを助けている。1人芝居を作ることになったのは、そうしたかったというよりも、そうせざるをえなかったという、集団の状況によるものが大きいのだが、不思議なもんである。ものすごく得るものが多い時間が続いている。




僕は、沢山の人を集めて、壮大なものを描いたり、大きな共感を作ったり、できない。今出力可能なものは、この50分の一人芝居に大体込められてしまうぐらいのものである。それでいいと思っている。僕はやりたいと思うことをかたちに出来ている。



公演は、アーツ前橋などで活躍するアーティストの協力を得て、前橋市街地で行えることになった。「Maebashi Works」での公演は二度目であるし、気付けばこれまで街中のアーティスト達に相当お世話になっている。市街地に拠点を作り維持し交流し、そうした活動全体を表現として捉えるアーティストの眼差しから、学ぶべきことがある。



さあそして稽古が続く。「レゴリスむすめ」はまだ完成していない。次回以降の人集めもしなきゃだし、「マエバシユーレー」だって作らなきゃ。進もう。



20170911・レゴリス本公演決定。





音楽制作で参加した作品の公演が終了した。



夜中の2時、僕は今、打ち上げから帰ってすぐこの日記を書いている。自覚はあまりないが、少し興奮しているのかも知れない、内的な言葉が少し過剰気味で、吐き出しておきたいのだろう。多分長くなる。




まずは率直に、参加した集団の印象を述べておきたい。


主宰の市村さんをはじめスタッフは一同余すことなく、高いスキルや実行力を持った上、思いやりや人間力に溢れた、極めて魅力的な人々であった。別に月並みな言葉を並べておきたいのではく、本当にそう思っている。僕にもう少しコミュニケーション能力があれば、もっと豊かな関係を築けたかもしれないことはいかにも勿体なく、残念でしかない。


役者の人々は明確な目標意識を持ち、そしてそれを一定の質で達成していたのではないだろうか。要求されていたことの難度は高かっただろうが、がっぷり正面から取り組んできちんと解答を導き出した。その姿勢や思いを僕はリスペクトする。



次に戯曲についてに書きたいのだが、この話ははじめたら多分容易に終わらないし、今はやめておく。




となれば次に書いておきたいことはやはり、音楽制作のことだ。


この作品にはこまつ座が作った劇中歌があるのだが、今回僕は、劇中歌以外の、主に幕間に流れる音楽の作曲を担当している。今までで最も進行の芳しくない音楽制作となってしまった。とにかく捗らなかった。出来上がらないんだよ音楽が。本番前日に仕上げた曲すらある。


自分の能力の低さに閉口するが、これが現実だ。最低限のことはした、という自負が、次の瞬間、最低限のことしかできなかったという現実に反転する。もう無理かも知れない。他劇団に楽曲の提供を行うのはこれで人生最後にしてもいいんじゃないだろうか。




しかし、いやそもそも最高に問題なのは、創作する時に、「これ以上は頑張らない」という線を、自分で引いたことにある。そう、僕は劇中歌の作曲をしなかった。演出をはじめ集団の全員に「その必要がない」と言われても、少なくとも一度は全てを敵に回しても、劇中歌を書き下ろし、自分の音楽表現によってこの既成作品を新しく解釈し、より力あるものにするのだという、そういう思いや能力がないなら、音楽作りなんか辞めたほうがいいんだ。



でなければ、演劇の音楽はたちまち「暗転中をもたせる」為だけの、クリエイティブから最も遠い、冗談みたいな立場に、いとも簡単に落とし込まれる。知っている。そこは地獄と変わらない。




今回その地獄を体験したとは思っていない。僕は例え最低限の素材であったとしても、せめぎ合って配置し、作用させたし、またそうさせてももらえた。総じて、市村さんが僕をうまく使ったということだと思う。




考えるべきことは沢山ある。沢山だ。しかし今、それらを全てをまとめてくるんだ暖かいものには「感謝しています」と書いてある。僕はそこにいた人々に感謝している。




20170828・頭痛肩こりの日々終わる。





灰ホトラは8月11日、プロペラブランコさんゆれめ「レゴリスむすめ」境総合文化センターでの公演を終了した。




告知が急であったにも関わらず、足を運んでくれた観客の皆さんに感謝したい。公演の体裁を成すかどうかすら相当怪しかった。蓋を明けてみれば、非常に対話的で眼差しの豊かな状況が実現していて、本当にありがたく思います。もったいことです。


3年前、渋川の「カフェドエコー」の井上さんのところで公演を行った時にもあったけど、終劇後に、客席に座ったままの皆さんと一緒に、感想を聞くような時間を作れて、それはとても贅沢なものだった。僕は観客のことが全然分からないのだ。



「面白かったけど、なんて言ったらいいのかわからない」と、言ってくれた人がいる。そうした言葉は今までも、時々聞いてきた。そうして「その言葉を、疑わなくていいんだよ」と、言ってくれた人もいる。今回、僕はそれらの感想が、とても腑に落ちている。僕はこれからもずっと、観客、他者なる者のことが分からないだろう。しかし、それがどこにいるのかを、次第に理解していく。


「はこいる」が終わった時にも書いたことだが、同じことを思う。チャレンジすれば、リスクを負えば、それに見合うものを手にすることが出来る。灰ホトラはとても良い経験を持つことが出来た。




最後に身内のことを書く。


衣裳のOUKIは今回初めて一緒に作業した仲間だ。彼女は行動的で度胸があった。僕は20歳前後の頃の初めて芝居に関わった時のこと、音楽を作った時のことを思い出した。僕は彼女とは比較にならないくらい無茶苦茶で集団作業が苦手でどうしようもない小僧だったが、結果を出した。この時の持った手応えが連綿と、今に続いている。

彼女は新しい場所に飛び込んで、アイデアし、調整し、決断して、かたちにした。僕は彼女に力を貰ったと思うし、灰ホトラにはなかなか選択できないフレッシュな感覚は、痛快ですらあった。良い出会いである。




役者の新井さんは、作品世界を引き受けた。大変な思いもしただろう、彼女は器用とは言い難い。だが、この作品を他の役者に作れたと思っていない。このプレ公演にまさしく成果は現れた。先に進もう。




20170811・プレゴリス終わる。





よっこいしょ。


と、日記を書くことのよっこいしょ感がすごい。日記を書くってこんなによっこいしょだったっけな。




さて、境総合文化センター演劇フェスティバルに参加する楽市灯座が、8月26日、27日、井上ひさしの「頭痛肩こり樋口一葉」の公演を行うのだが、僕はこれに参加する。2年前、桐生で活動する演劇人の作品に、楽曲の提供を行った時にできた縁で、また楽曲制作の依頼を受けたのだ。



制作スピードが芳しくなく迷惑を掛けていて、申し訳なく思う。だが現状見通しがたっており、もうひと頑張りだ。僕は灰ホトラでは好きなことを好きなように表現する、ということをする。一方でこうして他の劇団と関わり、自身の「対応する力」が如何程のものか晒すということが必要だ。


楽市の現場には、僕のスキルを評価する超希少な存在があるのだし、つべこべ言わずに期待に応えねばならないだろう。ひとつ心配があるとすれば、「失敗しない」「間違わない」ことを僕は目標にしていなかったか。いや最低限、その一歩先ぐらいには進めているんではないかと信じる。




次。共愛で長く演劇部顧問を務められた荒井先生と、また20年前から付き合いのある小出さんと、そして僕の3人で、フリーペーパーを作り不定期に発行していくことになった。フリーペーパーの名前は「マエバシユーレー」である。僕は内容の一部及びイラスト制作とデザインをやっている。街中等に配布する予定であり、見かけた人は手に取ってもらえると嬉しい。希望する人に直接渡すこともできるだろうから、いたら連絡下さい。


「マエバシユーレー」に関することはまたいずれきちんと書きたい。この企画にかける思いは強い。




さあ、そして灰ホトラだ。今週金曜にプレ公演の本番を設定した。急に決めたよごめんなさい。この作品をお披露目することを、稽古途中で何度諦めかけたか分からないが、驚くべきことにかたちになった。前回の「はこいるむすめ」にしろ今回の「レゴリスむすめ」にしろ、僕はこれら「これっぽっち」の作品達に、ものすごく、自身の到達なるものを感じている。




20170808・よっこいしょ。





日記を書かないといけない。


実を言うとここのところずっと、「書いておいたほうがいい」ことを「うまく書き残せない」状態が続いていた。何時間そうした時間に費やしたか知れない。が、そうも言っていられないように思う。


いや、別にここに何が書いてあろうがなかろうが誰の問題にもならないに決まってるが、まあだから、自分の為にだよ。それ以外の為のもんじゃない。




まずは「レゴリス」の稽古場だ。あまり良くない。問題は僕と役者の関係性というか、稽古場というものの捉え方にある。おそらくこのままだと、永遠に作品は仕上がらないだろう。それはそれで演劇する趣味の時間としてあり得るかも知れないし、下手したら悪くない。だが、今それを望んではいない。


舞台や衣裳、制作に新しいメンバーの力を借りたいと思っている。近々アクセスがある。期待したい。



「頭痛肩こり樋口一葉」の音楽制作の進行が悪いなんてもんじゃない。幸いメインテーマが完成しているが、アレンジ曲を後5,6曲作る必要がある。仲間の期待を裏切れば、恐らく僕はかのコミュニティーとの縁が絶たれるだろう。パフォーマンスの不足した助っ人は邪魔なだけである。頑張るしかない。



それから、新しいプロジェクトに参加することになっている。


演劇活動を広く捉え、稽古や公演以外の出力を模索するプロジェクトだ。僕には経験のない活動になるし、参加メンバーがなんとも強力だ。そのうちお披露目されるだろうけど、僕はよくよく自分のこれまでとこれからを見つめ直さねばならない。僕はもう、いきがってなんとかなる年齢じゃない。見極めて、かたちにしていくことが大切だ。



上記全部を要約したい。面白くなりそうである。




一月ぶりの更新だし長くなるが、付け足して書いておきたい。久々になんとなくアニメのMADを観てみたら、とんでもないことになっていて、ひと昔前のレベルが5世代前かってくらいレベルが上がっている。いやすごいよ。恐らく編集ソフトの進化によるものだろうが、アニメの世界は安泰だなと、思わず思う。


サンプリングとエフェクトで、もう一度作品を創作する。同人が産み出すものの質や量が、オリジナルと拮抗しているとさえ感じた。ツールの進化に伴って、この傾向は益々進むだろう。オリジナルと二次創作に囲まれて、アニメ好きの没入はより深く、その体験はより大きな多幸感をもたらすに違いない。



サンプリングもエフェクトも、切り刻まれた編集も乱舞するテキストも速度も精度も、演劇では実現しない。身体性はそれらとほとんど真逆の場所にある。かといって僕はそれらを無視できない。もしかして演劇は退屈なのだろうか。そんな疑問も沸くものの、沸かないよりはきっといい。



20170702・超雑多。





池から顔を出して思い出すのは、僕は肺呼吸する生き物だということだ。



団子状に絡まったうまくいかないの数珠をほどこうほどこうで、ふと見渡せばそこは水中、水面は頭上のどじょうの、その向こうである。


灰ホトラの稽古場に見通しがたち、依頼されている音楽制作の叩き台ができ、参加した野外公演での役目を終え、ようやく吐いたか吸ったかした息で知るのは、しばらく息が止まってた自分の有様だ。



あまり強調するのも良くないと分かっているが、とにかく、年をとった。無理をするのは正解だろうか。とはいえ、間に敷島での野外公演が挟まってたのは逆にタイミングが良かったとも感じていて、それはなにせ作品が、「表現する人の生活と行為」を作品それ自体に組み込んでいるものだったからだ。


誤解を恐れずに言えば、何かを作っていく、準備していく、頑張りにいく、それらがほぼ無効な現場であった。気付けば「稽古と本番」で演劇は出来ている、と頑なに信じているが、それは本当のことか。稽古がないのに本番が来るなら、何を信じてそこに立てばいいだろう。




本番を終えても答えがないが、思ったことはある。自我が後退して単に関係に資するように、音が鳴る時がある。それはとてもいいものだ。だけど普通に考えて、それは綺麗事に違いない。僕の自我なくして、音源は用意されないし、笛は僕が鳴らそうと思う時以外鳴らないのだから。


しかしきっと、折り合うのだと思う。開いた感覚が曇天の、松の影に、あやめの間に、石の橋の欄干に、居場所を見つけていく、そういう時があったかも知れない。




いつか日記が書いた気がする。単純素朴に自己肯定できる人は幸せだ。そういう人は幸福な一生を過ごすのだろう。厄介で手に負えない歪な自我を抱えて流浪が終わらない。だが敷島の公演がそうであったように、甲斐を感じる地点がある。例えば水面でようやく吐いた息が、誰かの耳のひだをくるりと回ったとする。「くすぐったい」くらいは言うだろうか。



20170530・Predawnの曲をききながら。





一人芝居の稽古場である。


普通の芝居づくりと明らかに違うのは、役者が作品の部分ではなく全部を担っているということであろう。役者が自己演出する能力が求められるが、灰ホトラの役者新井さんはそれが苦手だ。


苦手。しかし自戒を込めて言うことだが、得意なことだけで世界を作ろうとすると、虚弱で了見の狭いものになってしまう。不得意なことを観察し理解することが、自らの文脈を拡大することに繋がっていくと、信じて今、やっている。




僕はこれまで、感情を根拠に発語したり、説明を目的に動作したりすることを遠ざけてきた。灰ホトラの稽古場で、役者は寄る辺ない状況に立たされ、演出の顔色を伺っている。役を内面化しそれを観客に開示しながら演技を獲得していく、という流れがないのだから、仕方がないことであったかも知れない。


感情で喋らない。説明的に振る舞わない。かといって何もしていないわけでもない。そうした人の複雑さを描く為には、視座を明確に定め特定の手法を切り口にして具象化を進めていくべきで、だが残念ながらそうしたプロセスが集団化されるに至らなかった。そうして残るのは「演出の好みに逆らわない気分」だけである。情けない話だ。





今は観客との関係モデルを単純化し、非常に基本的で素直な演技体を育てようとしている。人前に立って何かする、その素朴でまっすぐな感覚をスタート地点とした。嘘はどのように出現するだろう。演技ってどうやってそこに現れるだろう。基本に立ち帰るということにも増して、今こそ興味のある事柄に対していると感じる。


実はこの一月くらい、灰ホトラという存在にとって非常にシビアな状況、有り体に言って継続か解体か、危うい時間が続いていたんだが、どうやらようやくひとやま越えたようだ。演劇する時間は続いていく。





20170516・ガラスに半透明の自分を映す。





稽古場メモなど。


なんだかまっとうな演劇の稽古場をやっている。何をやっているのかと言えば、演出と役者が喧嘩をしている。


仕方がないことだ。僕ももう後がないしなー。今使える時間をフルに使って、出来ることの中で最大限のことをやっていかないといけない。


役者はしんどいだろうな。だが進むしかないよ。進むか辞めるかするしかないよ。それは僕も同じだ。大変だが、その選択の前に立つことが必要だ。覚悟を持った人達のいる場所へ向かおうとしている。


とはいえ、人は急に変身したりしない。合理的な積み重ねがなければ理想は影すら現さないだろう。妄想や思い込みは演劇に力を与えない。役者に何を伝え、稽古をどう導いていくか。僕の正念場でもある。



灰ホトラとは別に、井上ひさしの「頭痛肩こり樋口一葉」の為の音楽制作をはじめている。トラック数も楽曲全体の尺もちょっと尻込みするレベルのもののようだ。劇伴を作ることは戯曲を書くこと及び演出することと同等のクリエイティビティと労力を要するものだ。と主張しても理解者が皆無なので不毛であろうが、大変なんだよ。引き受けたのは僕だ。作って納得させなきゃいけない。恐怖だ。今回こそはだめかも知れない。しかしその恐怖を越えた先に結実するものを、知ってはいる。



20170414・シルエットを探せ。





新作の戯曲の一稿がようやくあがる。


「レゴリスむすめ」というタイトルの、30分の一人芝居になる。「はこいるむすめ」に続き、灰ホトラの役者新井和枝さんが演じる予定だが、6700文字のテキストを覚えるのは大変かも知れない。


これまでの抽象的な作品傾向とは真逆の、見せ方だの伝え方だの、随分基本に立ち返った稽古をしており、灰ホトラにとっては良い経験である。真逆の、いやしかし作品に底流するものは、僕の作品に一貫しており、これだって例外ではないだろう。


にしても、「はこいるむすめ」もそうだけど、観客と直接コミュニケーションをとる設定の作品を作るとは、半年前には想像だにしなかったことだ。信じられない。こんなに変わるもんかと思う。地は一貫していても、表層の冒険は著しい。冒険は大袈裟だろうか。いやでも冒険だな。割と危険なことをやっていると思う。


「愉快な」「楽しい」「笑える」。そうした要素を、きちんと考えてこなかった。でもテキストがそこに泳いでいこうとする。ディティールが膨らみを増して、作品に力を与えるのを感じる。だから、それを、挑戦しないといけない。


まあ、僕は好きなことを何やってもいい人間である。作りたいと思うものを好きに作るのだ。でなければどうしてやっているのか意味が分からない。アマチュアなんだぜ。失敗したって別にいいし、それが続くなら辞めればいい。そう、続くかどうか。第11回公演が今まだ、続いていく。



20170403・レゴリスむすめ。





アーツの主催する身体表現のワークショップ、二日目のことも書いておきたい。


ジャワ舞踊家佐久間新さんの纏う空気を形容してみたいが、上手く言える気はしない。達人は柔和な人だった。佐久間さんの持つような、人を引き付ける力って一体なんだろうか。注目を浴びようとする人ほど、得ることができないものであるかも知れない。


二日間のワークショップを終えると、ものすごく疲労していた。それだけ何をか得ようと、集中していたということだろう。ちょっと飽和している感じがする。自身に浸透するには時間が必要だ。




であるにしろ、今ここに言葉をポイントしておく、フックを掛けておくことに意味はある。


ジャワ舞踊における基本的な歩行の体験の時間があった。それが次第に参加者同士干渉しあったり、声を発しポーズを作ったりする流れに変わっていく、佐久間さんの誘導はとても自然で無理がない。ところで僕には不思議でならないことがある。これは恐らく、僕等が日頃使っている身体の動き、日常性の動きでやっても、さして楽しくはないだろうということだ。


日常性の動きには、無数のノイズが張り付いている。それは複雑で、無自覚にやっていることだから再現も難しく、意外に共有できない。身体でコミュニケーションしましょうって時に、日常性の動きじゃないほうが、咄嗟に行為しやすいというのは、なんだか不思議なことだ。


動作を制限し様式を与える。それが自身の、また相手との関係の、表現を豊かにする。でもまあそれは普通の話だろう。テニスラケットを持ってバッターボックスに立つ奴は邪魔である。ルールを共有し方法を限定するから、コニュニケーションが深化し微細なものをやり取りできるようになる。言語を越えて。


僕は自らのこれまでの「踊らなさ」を思わずにはいられない。ダンスやったことがないとか、そういう問題じゃない。僕はやはりどこか、自分のことを思念だと思っている。僕は内面で出来ているのだと、信じている。そういう人間は踊れない。




そうして気付くのは、だから多分、僕は女の役者と作品を作っているんだろうな。男だと、自分の思念との距離が近いようで、作品が身体化しない、現実のものにならないと感じているのだろう。女の身体なら、僕の言葉が踊るんじゃないかという、希望のようなものを、多分、抱いているんだろうな。



他にも感じたこと、学んだことは多く、またワークショップの内容に勝るとも劣らず、参加者との新しい出会いも素晴らしいものだった。僕のこころもからだも人脈も、「拡張ラボ」という名前の通り、拡張したかも知れない。灰ホトラは公演の途中だ。「これっぽっちの」「ままならなさの」「自己実現の」場所へ僕は帰っていく。僕はまだただ足掻いているだけの者にすぎない。




20170328・アーツ前橋身体拡張ラボの2。





アーツの主催する身体表現のワークショップに参加している。


こういうことは、自分の中で咀嚼し推敲してから言葉にしたほうが良いのに決まっている。安易に感覚や印象を述べることは、折角の出会い、その中で受信したことを、安くしてしまうかも知れない。それでも書いておきたいと、なんか思うので、書くことにする。



山崎阿弥さんは素敵な人だった。車座になってディスカッションをしている時、椅子に座った山崎さんの身体を長い時間見ていた。他者と関係するということを知っている身体だった。今までも、ダンサーの人の身体にそれを感じたことがあったように思う。


でも、関係するということを理解している身体ってなんだろうか。脱力できているとか真ん中があるとか、言葉にできることは幾つかあるが、良くわからない。


山崎さんに抱いた「素敵な人」というイメージは、身体の他にも声や態度や知性などの総体である。ワークショップが「何の役に立ったか」は今の時点で、どうでもいい。素敵な人との出会いがあることは幸福だ。これに参加していなければ無かった出会いだったかと思うと恐ろしい。




さて、ワークショップのリアクションとして、書いておいてもいいかなと思うことがひとつだけある。


脳内の声や音は何で聞いているのか、という話題があった。僕も長い間このことを考えてきた。というのも、僕は昔から、すぐそこにいるのかと思う程、相当に鮮明に知人の声が脳内で聞こえ、それが自動的に会話する、ということが起こる。自分の中で、人が勝手に喋っている。誰でも夢の中でなら、そうだろう。それが目覚めている時にでもある。


自己のコントロールを離れた内的な他人の声などは、状態が悪い時なら、頭がおかしくなりかねない。幸いにして最近はあまりないし、こんな話は特別なことでもなければ、だからなんだってものに過ぎないだろう。



だが、僕にとってこの話は、もう一つの問題を連れてくる。僕は、自分の頭の中に無数の「他人の声」をアーカイブし、関係し、人生の一部としている。だけど一方で、僕の声が他人の頭の中で、その人の人生の一部になっているのだと、イメージすることができない。


とにかくそれが分からない。理解できない。そんなことは起きていないんじゃないかと、素朴に信じられる。他者と関係したがらない、言葉や声など存在しない。発語するものの気持ちなどとは無関係に、言葉や声は他者に向かって進むだろう。なのに、僕には分からないんだ。


山崎さんが、他人が聞く自分の声と同じ声を、自分で聞く事ができるようになったのだと言った。僕等は皆違う人格で、いたずらに分かり合おうとすることは傲慢だ。その上で関係を模索する為には、超えるべき恐れがある。他人の聞く自分の声を掴めたら、出来るだろうか。それが出来たら、いいだろうな。声は触れようとする手よりも速く進む。




20170325・アーツ前橋身体拡張ラボ。





いけねえのんびりしてる。


気になってたアニメをまとめて観て、大泣きしたりしている。何が面白かったかな。特に良かったのは「花咲くいろは」かなあ。「リゼロ」も「コードギアス」も「新世界より」も「傷物語」も、全部面白かったけど。湯浅政明の新作はどうだろうなあ。観に行こうかなあ。デビルマンやるとか衝撃的だなあ。


たまにしかアニメ観ないおっさんのズレた物言いになるのを承知で少し書きたい。「リゼロ」のキャラクラーデザインがすごく良くて、目尻が上がってる目の書き方あれいいなあ。良くあんなつり目っぽい書き方で可愛いヒロインのバランスにできるもんだなと思う。エミリアレムラムの前髪の書き方も面白かった。アニメであんな風に前髪の処理できるんだな。


いや、芝居のことを書こうと思って、パソコンを開いたんだった。


知人に音楽制作を頼まれている。2時間半の芝居は、僕が関わった芝居の中では一番長い。今はもったいぶらずにどんどん出力する時期だと思っていて、引き受けることにしたものの、どうなることやら。


「はこいる」の再演を準備している。コンテンツは一旦でも完成したわけで、連続公演のラインナップに繰り返し挙がっていい作品だろう。予定を立て、実現したい。


30分の新作の戯曲を半分程書いた。今月中には完成するだろう。「はこいる」のラインを推し進めたもので、どう説明したもんだか「ひとりコントを仮装した演劇」のようなものだろうか。「今こういうのを書いてみたい」というひどく率直な思いに任せてただただ書いている。お披露目できる日が来るような気がする。



来週はアーツが主催する身体表現のワークショップに参加する。応募した演劇コンテストのことも気にはなる。灰ホトラは第11回公演の途中である。進もう。



20170321・ねこぢるの水の象が好き。





灰ホトラは3月12日、「プロペラブランコふたゆれめ/はこいるむすめ」群馬の森公演を終了した。





想像していたよりも来場者があり、ありがたく思う。天候にも恵まれ、トラブルもない、上々の屋外公演だった。


公園に置かれたダンボールに入っている人の語り。出し物は極めてシンプルでコンセプチュアルな、「ただそれだけ」といった感じのものだ。テキストは直線的で、特別な展開もない、奇妙な人が滑稽な話を連ねる、それが時々、世界や人やメディアの問題をかすめていく、ような気がしないでもない、そんな内容である。


群馬の森は木々が多く複雑な景色があり、程よいひと気で、上演ポイントとして選んだ場所も良かった。役者も人物を良く造形し、投げたり流したり落としたりと、言葉に様々な役割を与えて扱った。





「はこいる」は当初路上パフォーマンスのような上演モデルをイメージしていたんだけど、箱に入ったまま姿を現さない役者と観客のコミュニケーションは、当然双方向性を持っておらず、そうしてこれはやはり演劇である。通常の演劇公演と同じように、箱が不可侵な舞台上となっている。


それがいいことなのかわるいことなのか知らない。ただ「はこいる」における演劇とパフォーマンス、表現とサービスのバランスは妙にさじ加減が上手くいっている。僕が戯曲を創造する時に抱く、他者へのイメージが少し新しくなるような、非常に貴重な体験を今回持った。



やはり、チャレンジすれば、リスクを負えば、それに見合うものを手にすることが出来ると感じる。いやそれはしばしば普通に簡単に失敗して終わる。だからこの公演は、割と灰ホトラの手柄なんじゃないだろうか。


20170313・ふたゆれめ終了。





さて、もうすぐ本番である。




詳細はトップページ「第11回公演」を御覧いただきたい。今の感じだと、身内が2,3人来るかも知れない、ぐらいの、壮絶な反応の薄さであるが、頑張っていきたい。


先日岸田戯曲賞候補となった山縣太一さんからメッセージをもらったりして嬉しい。そうなんだ。現代演劇の先頭にいるような人に、会いにいくことが出来るようになるのが、今の目標である。


だから、どんな小さいサイズのものでも、手を抜かずにやらねばならない。ある種の軽妙さを狙った今回の作品であるが、適当を履き違れば、お客さんは二度と訪れてくれないのだし、まあだから、僕は作品をちゃんと「演出」しなきゃだめである。まだ時間がある。



ダンボールに入った女が、何か喋り始める。そういう人がそこにいる世界。僕等は隔たって、共に生きている。その矛盾が、長く僕の作品の芯を貫いてきた。今回も同じだった。ダンボールに入った女、「はこいるむすめ」のような「興味深い他人」こそが、自分自身の中の共生のイメージを、生き辛さの中の愛おしさを、映し出すように思う。



ふらっと観に来て、何か変なばかみたいなことを言う女の話を笑って、楽しんで、その後ぐんまの森をのんびり歩いて、そういう時間が作れたらいいな。お待ちしております。



20170310・はこいるむすめ。





劇団灰ホトラは第11回公演「プロペラブランコ」のふたゆれめ、小作品3「はこいるむすめ」を3月12日ぐんまの森で14時から上演します。


屋外に置かれた大きめのダンボールに入った役者の、何か喋っているのを聞く、という30分強の公演になる。当然こんなことはしたことがなく、どうなるかわからないものの、稽古場でははっきりとした手応えがある。


後になって気付いたんだけど、この作品には、1月の公演でお世話になったアーティスト八木さんの作品や、村田峰紀さんのパフォーマンスからの直接的な影響がある。僕の浅い感性が感覚するのは表面的な部分に過ぎないのだし、影響を受けたとかおこがましい話だと思うが。


自分のやりたいことを小さいサイズで実現していく。性に合っている。こういうことを続けていきたい。特に「はこいる」は上手く行けば「どこにでも運べる」作品として、灰ホトラの武器になるだろう。いや、上手くいけばだけど。


でも灰ホトラは地元以外で公演できるようにならないとだめである。挑戦しないといけない。幸い付き合ってくれる役者がいる。いる限りは。




詳細は近日中にここやフェイスブックにあげます。「はこいるむすめ」は明るい、というか楽しい作品だと思う。気軽に見に来て欲しいな。お待ちしてます。



20170228・屋外用PAが決まらない。





プロペラブランコで屋外での公演をふたつ企画している。


ひとつめは「シュプレヒコール暇」である。ここんとこ、井上陽水の「傘がない」が頭の中でループする。名曲だなあ。屋外で政治集会のフェイク、パロディをやるということが、単なる皮肉や自虐にならない為の、方策をずっと考えていた。


が、シュプレヒコールを「やまびこ」に置き換えて考えた瞬間に、全部解決した。


やまびこする人々は、散らばって立つだろう。やまびこする言葉は、短く断片的だろう。やまびこする時間は、ゆっくりした自由さの中にあるだろう。そしてそれはきっと楽しい。


断片的な言葉を場に散らして状況を描く手法は、灰ホトラで繰り返し用いてきた。言葉の圧が減ってベクトルが増え、自由で自他に批判的でない、参加性のあるもの姿が見えてくる。集会よりワークショップ的なものに寄った感じはあるが、いやその中にも「灰ホトラのわがまま」を僕は通そう。


ほぼ稽古のいらない作品なんだけど、後二人くらい役者が欲しい。予定は3月上旬かな。誰かお願いします。




もうひとつは、屋外でダンボール箱に入った役者により語り「はこいるむすめ」である。



役者の身体はそこにないっていうか箱の中である。屋外で箱に入って過ごすことが静かなブームになっているという設定の、プチフィクショナルな世界の話だ。テキストは8割方仕上がっており、稽古場で手応えも得つつある。これも恐らく3月中に上演するだろう。



去年の年末に、「僕は好きにする」と書いた気がするが、その通りになっているようだ。挙げたふたつの作品に、やりたいことが正直に入り込んだのを感じている。進むぞ。



20170216・やまびこと箱。





考えをまとめたいので日記を書く。


「プロペラブランコひとゆれめ」の動画を作らなきゃならないが、手が付いてない。定点で撮った動画をそのままあげるのって、あんま意味がないなと思っている。なにか編集を加えてアップしたい。



「ふたゆれめ」のアイデアが出た。なにせ、行き当たりばったりでやっている。どう考えても、灰ホトラには強力な制作が必要で、なにせ僕が全然、ズボラで計画性がないのだ。なんとか進んでいる。


出たアイデアは信用している。「さんゆれめ」以降になるかも知れないが、次回以降のアイデアの1つについて、ここで少し検討したい。





「シュプレヒコール暇アイン」というタイトルである。ドイツ語で「1」を意味する「アイン」であるが、何回か同じ内容のもの「ツヴァイ」「ドライ」と、繰り返したいと考えている。


どんな内容か。「演劇の公演」と呼ぶのが相当怪しい内容になるが、屋外に人を集めて、政治集会みたいなことをやろうと考えている。

まあ、ろくに集まんないだろうけど。僕には3・11以降、表現したいと決めていることがあって、それはこれまでの作品で何度か扱ってきた。簡単に言うと、「どうしていいか分からない人は、どうしているのか」ということについてだ。



震災でも憲法でも高齢化でも不況でもジェンダーでもワープアでもトランプでも、なんでもいい。自分の置かれた状況や環境を評価し判断する、諾否を明らかにする、選択する、投票する、健全に、合理的に、理論的に、考え行使する。僕は、そうしない、出来ない人のことを描きたい。


賛成と反対の間の、中庸でも折衷でもない、別の言葉を探したい。灰ホトラの扱う、日常性、女性性、曖昧さ、音楽性、それらは全部「賛成と反対の間」の中から見つけてきた。


無知でぼんやりした衆愚、教育するか洗脳するか排除するか、したほうがいい輩。僕はその輩だし、そこで生きている。



集会に参加しない人達の集会、デモに並ばない人達のデモ、その中の思いや言葉を、「うまく言えない」をシュプレヒコールに変えて、作品にする。それが、灰ホトラの次回(以降の)公演になる。




20170205・空に猫と叫べ。





灰ホトラは第11回公演「プロペラブランコひとゆれめ」map公演を終了した。




ご来場いただいた皆様ありがとうございました。公演の機会を与えてくれたmap関係者に感謝いたします。さあ、次に進もう。


の前に、今回の実際を書き残したほうがいい。以下に頑張って簡潔にレポートする。「わかれるのいす」と「炊事洗濯魔法陣」というタイトルの、それぞれ15分程度の作品による、30分の公演だった。



会場である前橋市街地「maebashiartpractice・map」は、アーツ前橋などで活躍するアーティスト八木さんとの縁で出会った場所で、真っ白な10畳程のギャラリーである。照明が吊れない、演技エリアも客席も狭い、外からノイズが入る、演劇に適した場所ではないのだろうが、それらは全て僕には好都合である。実際公演してみて、とても魅力的な場所だなと感じた。





ガラス越しに通りが見える側を背景にし、舞台には畳んだ洗濯物の山を複数配置した。衣裳はそれらを纏う以前の状態、肌着をイメージしたものだ。身体表現に向かうことを目標にしていて、露出も望んだ。この舞台、衣裳は今後も使っていくかもしれない。






「わかれるのいす」の戯曲はテキストの記述ではなく、言葉と世界の感触を現したイラストのようなものだ。共に生きた者同士が別れに至る時、直進しない複雑な感情を、上半身、主に腕の動きで身体表現化した。

役者は柔軟に、かっこつけず、理解して、良くやっていたと思う。今回初めて、用意した音源をミックスしながら、15分近く音楽を流し続ける、ということをした。


室内の明かりは全て消し、mapの対面にある外灯を光源にした。「わかれる」では、洗濯物が2人の生活や日常、記憶の集積を記号する存在となる。







「炊事洗濯魔法陣」では、思春期の少女が家族に対して抱くモノローグを、簡単な動きやポーズを伴って朗読した。

内容は、ばかなかんじの下らない無意味なものである。一定の「言葉の調子」を維持しながら、でたらめなイメージ世界を描き起こすのは「スーハー」でやったことと同じだ。演技は、観念的で演劇風な「インスタント虚構台詞読み」である。「魔法陣」は、僕の得手の確認であった。このレベルのものなら量産できるし、今後も小作品の何割かは、こうしたものを作ろうと考えている。


「魔法陣」は洗濯物がでてくる話なので、舞台の洗濯物はそのまま内容の反映であるし、また小道具として使用もした。




ふたつともやりたいことをストレートに現した作品で、ある程度満足している。但し「わかれる」はもっと訓練すればもっと微妙なものを強度を伴って表現できたと思うし、「魔法陣」は台詞を憶えれば朗読の必要がないわけで、それらのことは継続課題となる。


さあ、そんなわけで、次に進もう。2月中になんとかなるかな。わかんないけど。




20170131・ひとゆれめ終了。