第2回シンポジウムで広野 淳さん(元朝霞市教育委員会市史編纂室長)がハケノヤマの歴史的なことを説明して下さいました。
- ハケの山の名称について
『地名辞典』−吉田東伍によると、桶狭間の地形(開折谷状)にあって急に水はけが良くなる所の意。つまり浜崎を指す。須田家が水はけの良い浜崎に在ったので村名主を務めていたので、その有力者を表する屋号がいつの頃からか「ハケの家」と呼称され、所有する田畑や林などにも「ハケの山」「ハケの田」などと呼ばれるようになったものと考えられる。−−−新編武蔵風土記稿によれば「峡田領」とある。地元の人々は通称「飛地の田島」と呼ばれてきた。
- 浜崎村の初見
中世期の終わりの頃で文明18年(1486)に京都の聖護院の門跡(天台宗修験道派の本山)であった道興准后が『廻国雑記』の中で次のような歌を詠んでいる。=むさし野を分けつつ行けば濱崎の里とは聞けど立つ波もなし= これは今から515年前に当地を訪れて膝折宿、棟岡(宗岡)などの歌が残っている。また、これより5年後の延徳3年(1491)の奉納で氷川神社のものとみられる鰐口が毛呂山に遺っている。これには「福徳二辛亥年九月吉日願主大夫三郎太郎 敬白 奉懸 氷川大明神 御宝前之鰐口 武州新座郡 広澤之郷濱崎之官」と刻銘、関東公方足利氏の時代。(私年号)=武将が勝手に用いたもの。
- 田島村新田(ハケの山一帯)
濱崎村新田ノ西浦ニアリ同村ニ包マレタル如ク十二町(36、000坪)程ノ地ナリ東南ハ濱崎村新田ニヨリ北ハ宮戸村新田ニ境ヒ西ハ野火止ノ東分ニ接ス新田ナレハ神社佛寺等モナク民戸僅ニ二軒水田ハナク畑ハカリナリ古繪圖及ヒ元禄繪圖ニモイマタコノ新田ナシ享保十九年筧播磨守ノアリタレハ此以前開墾セシト見ユ今ハ御代官川崎平右衛門支配セリ。」と記す。つまり中世期以前の絵図および江戸時代初期の絵図にも民家がなく、享保19(1734)年の検地によって、ようやく2軒の民家が確認されたというのである。
- ハケの山の伝承について
今から650年ほど前に起きた「観応の擾乱」ではこの辺りも戦場地となり、多くの武士が命の亡くしている。その証しとして市内には沢山の墓石や供養塔が遺跡って保存されている。その頃までは、このハケの山の中程に五重塔や古井戸、墓地があったと言われ、この戦いで五重塔が敵方の烽火にあって焼失してしまったのだと、地元の古老の談として聞いている。また民家もあったと言われているが、新河岸川の船運がはじまってからは、次々に現在の田島地区へ移って行ったのだと言う。
- ハケの山の環境変化
大正3(1914)年5月1日に開通した東上線の敷設工事で樹木が伐採されてことにより、生息していた狐や狸、野兎、鼬などが消滅していったという。その後は何の開発もなく多くの野鳥はきのこなどの動植物もしばらくは見られたが、昭和30年代中頃からの住宅ブームによって山林は宅地化されて、自然林は半減し、野鳥も少なくなり、きのこやシダ類もみられなくなっていった。
- [雑木林の種類]
- ○ 高 木 樹
- コナラ・クヌギ・スギ・松・アカシデ・エゴノキ・
- ヤマザクラ・ウワミズザクラ など
- ○ 低 木 樹
- イヌツゲ・ガマズミ・ヒサカキ・ヤマツツジ・カシ・
- エノキ・ヌルデ など
- ○ 草 本 類
- キンラン・アザミ・ヒメカンスゲ・クズ・ヘクソカズラ・
- エビズル・クサギ・シュロソウ・ヤブラン・ササ・
- ミズヒキ・ヤブコウジ・オナモミ・アオキ など。
- 自然破壊とわたくしたちの生活と健康
わたくしたちの祖先は何万年もの間、自然界の中で極く々々あたりまえに生命の営みを続け繰り返させてきた。しかし、中世期の中頃になると人類は科学の探求に余念がなくなり、さまざまな物を発明して生活の利便性を高めることに成功する。同時に化学にも着目し、自然界の物質を混合成したり或いは抽出したりして新しい物質をつくり出すことに成功し、今日に至っている。それは乗りもの、兵器、医療、生活必需品、工業用品、農薬など、全ての分野にわたっている。その反面、これらの副産物として当然のごとくさまざまの公害も産む結果となってしまった。その例としてオゾン層の破壊、地球の温暖化、放射能汚染、ダイオキシン汚染、ゴミ公害、(土壌汚染、河川汚染、海洋汚染地下水汚染)等々多くの公害をも生じている。その結果、自然の動植物はもちろんのこと人間にまで悪い影響をもたらし、難病はガン、奇形児、心臓異常児、男子の性交不能者および性器の退化現象、アトピー皮膚炎などの弊害をまねいている。このように地球上に存在しえなかった物質を化学の力によって創出したことが、複合的に公害や病気を招く結果となってしまった。このままの現状を放置するようなことになれば、地球上の生物は消滅を余儀なくされてしまうことだろう。そのためには現代の英知を未来に向けて、自然の再生をできることから始めると共に現在も僅かに残る自然林(特に里山といわれている。)を保護、保全することが至極ではないだろうか。
- 雑木林の役割と住人との共生

江戸時代の中頃は尾張殿(旗本御家人)の御鷹場に指定され、役人の見廻りが厳しく勝手に山に入ることは許されなかった。村人が粗朶木、木の子、つくしなどを採取する時は特別に許されたが、それ以外の小鳥、伐木などは一切禁じられていた。このように江戸幕府は城から5里以内、10里以内に区分し雑木林の保護に努めていた。
- 里山の重要性と保護保全について
自然の雑木林はわたくしたちの生活環境のひとつとして欠かすことのできない条件である。それは汚れた空気をきれいにしたり、河川や沼などに清らかな水を送り出し、魚や水鳥などの棲息を助長している。このほか防風、防砂の役割を果たし、また強風から家を護り、人々が心を癒してくれます。それだけに都市部にあっては貴重な財産でもある。一度失ったら二度と再現することはないだけに執拗に護っていることこそが住み良い街であり、文化的な都市といえよう。
日本列島の至る所が高層ビルが建てられたり、ゴルフ場ができたりして、日本の風景は虫食い状態となってしまった。その中にあった神奈川県では全国に魁て自然環境保全課を設置しセンターを創設して、民間の雑木林保全会をサポートしたのが平成元(1989)年といわれている。以来、全国に民間団体が500団体余りにのぼっているが、行政自ら里山の保護保全に乗り出しているのは数県にすぎないという。
そこで、このハケの山のケースも市民と行政が一体となった保護保全策を構ずることが、肝要であろう。そうすることが住み良い街の条件といえるのではないだろうか。

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