( 三 ) 海老原の世界
次の週の初め、月曜日の朝、沼田は、いつもより10分ほど早く出勤した。
浜松町の駅から、多くの人間が本社ビルに群れとなって吸い込まれて行く。
いつもなら、日常の中に埋没していく自分を押し殺すやりきれない作業をしないと、
この流れに乗れない沼田であったが、今日は、流れを観察する余裕さえあった。
ひょっとしたら、海老原さえ都合がよければ、今日の夜もマカティに行ってみようと思っていたからである。
心に、なにか小さな楽しみの予定のある月曜日は、就職してから初めてのものだった。
課のある、フロアーに来ると、自分の机に着こうとする沼田のところに
早く出ていた女子社員の川崎が、駆け寄ってきた。
「おはよう」
「えっ」
話しかけようとしたその時、沼田のほうから挨拶されたので、川崎は、思わず小さな声を発した。
普段、そうしたことは、なかったから、川崎は、驚いた。
「あっ、そうだ、海老原さんから5分ほど前に電話があって。沼田さんにどうしても電話が欲しいんだって。
なんか、深刻そうな口ぶりだったわよ。はい、これが電話番号」
「えっ?海老原君から? 深刻? なんだろう」
沼田は、自分のデスクの電話を取って、川崎が渡したメモの電話番号に掛けてみた。
「トーカイコウギョ」
いきなり、低音の男の声が電話に響いた。
(トーカイコウギョウ?) 会社の名前にしては、電話に出た男の声は、乱暴で、まともな受け応えではない。
不吉な胸騒ぎがした。
「あのー、そちらに海老原さんという人が居ませんか?」
「海老原あ〜?なんじゃい、お前は」
「沼田といいますが、この電話番号に電話するように海老原さんから伝言があったもんですから....」
「沼田んちゅうやつから、海老原ってのに電話がきとりますが」
電話の向こうで、誰かと会話しているその声の後、電話が手でふさがれたのか、もごもごという雑音が続いた。
「あー、もしもし、沼田さんかね?」
別の男に電話が変わった。同じように低音のどすの利いた声だった。
「はい、そうですが..」
「新宿のトーカイコウギョウだがね、海老原さんを事務所で預かっているんだ。
本人と替わるから、話を聞いて新宿まで来てくれんかね」
そういうと、男は、電話をウイエトに切り替えた。
5分ほどの時間をそのウエイト音を聞きながら、沼田は、海老原が電話に出るのを待った。
(危ないところにいるんだな...)
沼田には、海老原がどのような状況にあるのか少しイメージがつかめた。
「もしもし、先輩..」
「海老原君か! どうした!」
「麻雀で、ちょっとはまってしまって..先輩お金貸してください。そうしないと帰れないんで..」
「いくら? いくらあれば帰れるの?」
「300..」
「300あれば、そこから帰れるんだね。場所は?どこ?」
「歌舞伎町の真ん中です。先輩、本当に大丈夫ですか」
「それぐらいの金だったら、何とかなるよ、すぐ持っていくから、どこに行けばいいか、教えて」
「先輩..もうしわけないです..必ず返します」
「いいから、どこ!」
「ああー、もしもし、すぐ来れるかね」
電話は、低い声の男に替わった。
「すぐ行きます。場所を教えてください」
「歌舞伎町のコマの前まで来たら、もう一度この電話にかけな、うちの者が案内する」
「解りました。これから銀行に行ってからですから、1時間くらいかかります。その間海老原君は、大丈夫ですか」
「ふっ 何の得にもならん」
電話は、それで切れた。
電話のただならない雰囲気を察していた川崎が、心配そうな顔で沼田の顔を見た。
「川崎さん、悪いけど、病気による欠勤と報告しておいて、俺、これから行ってくるから」
「海老原さん、大丈夫みたいですか?」
「とにかく、行ってくる」
沼田は、脱いだコートを着ると、急いで、部屋を飛び出した
本社ビルの中に入っている1階の銀行のATMで、カード限度額いっぱいの300万円を下ろすと、浜松町駅まで走った。
(あの声の感じは、やくざだろう。最近のやくざは、金さえ払えば、酷いことは、しないらしいから
大丈夫だろうけど...)
電車の中で、いろいろと考えをめぐらせながら、気が気でなかった。
約束のコマ劇場の前まで来ると、メモの番号に電話を掛けた。
最初に「トーカイコーギョウ」と、いう例の男が、例の調子で、出た。
「沼田と申しますが、海老原の.」と、言いかけたときにすぐもう一人の例の男に替わった。
「あー 着いたん?」
「はい、今、コマの前の公園みたいなところに居ます。黒いコートと黒いカバンです」
「今、うちのもんが行くから、待っとれ」
「はい」
5分もしないうちに小柄な丸坊主の男が、小走りに走ってきた。
はでな太網みのセーターを着ているので、人目でそれらしい人物とわかった。
向こうもすぐに判ったようで、近づくと、無言のまま、あごで付いて来る様に促して、歩き始めた。
男の後に付いていって、たどり着いたのは、小さな雑居ビルの入り口だった。
東海興業という大きな墨字の看板がビルの入り口の横にかけてある。
(トーカイコウギョウというのは、こういうことだったのか..)
沼田は、まだ、いくらか周りを観察する余裕を持っていた。
ビルの入り口にも、案内した男と同じような風体の皮ジャンパーを着た男が門番をしていた。
「おすっ」と、言葉じゃないような声を出して挨拶をし、頭を下げた。
1階からエレベータに乗って、3階の部屋に入った。
正面に大きな机があり、大きな書が掛けてある。四方の鴨居には、小さな赤い提灯がぶら下がっている。
海老原は、応接のソファーに座っていた。隣には、一人の男が座っていた。
正面の大きな机に座っていた痩躯、長身の男が、立ち上がって、応接のソファーの方に出てきた。
沼田を案内した男は、「おすっ」と挨拶した。
「まあ、座って」
痩躯の男は、沼田に応接のソファーに座るように右手を前に差し出した。
目の前に座って、良く見ると、海老原は、憔悴しきっていて、顔が黒ずんでいる。
「海老原君!」
「先輩..すみません」
「どうしたんだ」
「....」海老原は、すぐには、応えなかった。
「ちょっと、いたずらが過ぎたな。坊や」
痩躯の男が替わりに応えた。
「まあ、負けを払ってもらえれば、いいんで、金は持って来たんだろ?」
「はい、ここに言われた300あります」
沼田は、背広の内ポケットから銀行の封筒に入れていた300万円を差し出した。
沼田を案内した小柄な男が、封筒を奪い取ると、中身を数えだした。
「いい先輩を持っていて、よかったな。歌舞伎町で遊ぶときは、行儀良くしないと、
うちの組みたいに優しいとこだけじゃないからな。」
「.....」海老原は、黙って、きりっと唇を噛み締めた。
「補佐 確かに300あります」
金を数えていた男が言うと、
「ああ、 先輩、つれて帰っていいぞ」
その声を聞いた沼田は、まだ何か言いたそうな海老原を掴んで、
「すみませんでした」と、言いながら、急いで部屋を出た。
ビルの外に出てからも、後ろも見ずに、海老原を掴んだまま急ぎ足で、路地を廻った。
しばらく、歩いて何も起こらないのを確認すると、二人は、立ち止まった。
「どうしたんだ?」
「あれから、これがやってる雀荘に行ったんです」
海老原は、人差し指を頬に当てた。誰もが知っているやくざのしるしだ。
「さっきの連中だろ?」
「負けが込んでて、途中で、組んでいることが判ったんで、こっちもやり返してやれと、
ちょっと牌をすり替えたんです。それが、あいつらの狙いだった。
結局、負けには関係なしに300払えと、いうことになって...」
「そうか...まあ、君に何もなくてよかったよ」
その時、海老原は、服をたくし上げて、腹を見せた。
腹には、あざがあり、薄黒い出血したあとがあった。
「ははっ やっぱり、あいつらは、プロですよ。結構、堪えました」
海老原は、顔を歪めて、自虐的な笑いをした。
「そうか、まあ、いいよ、無事だったんだから」
「先輩、金、すみません。返しますから」
「ああ、気にしないでいいよ。落ち着いてから考えよう」
「すみません」
「もういいよ。そんなに謝らなくても.. これからどうする」
「ほとんど寝てないので、大久保に帰って寝ます」
「家は、大久保なんだ。その方がいいな。明日、元気に会社に出て来れば」
沼田は、それ以上詳しい話を聞くこともなく、歌舞伎町の真ん中で海老原と別れた。
ところが、新宿駅まで歩いていると、後ろから海老原が走ってきて、「先輩!」と、呼び止めた。
「どうした?」
「先輩、今晩、マカティに行きましょう」
「ええっ?」
「今日は、何か、酒飲みたいですよ。先輩にも迷惑掛けたし、飲み代ぐらいなら払えますから、いいでしょう」
「別にいいけど...」
「それじゃ、夕方、電話します。おやすみなさい」
海老原は、何事もなかったかのように、くるっと後ろを向くと、歩いて行った。
(朝に、おやすみなさいか...)
そう、つぶやきながら、今夜のことを考え始めている沼田が居た。
沼田もそのまま、会社には出ずに、目白の自分の部屋に戻って夕方まで寝た。