( 七 ) 妹
沼田達が、ディスコから引き上げて帰宅したのは、もう朝方に近かった。
傾いたオリオン星座が、寒風の夜空に凍えて震えていた。
夜通し倦いた喧騒の中に居た歌舞伎町も、ようやく白々とした朝靄と、ともに眠りにつこうとしている。
朝の匂いを嗅ぎ付けた、カラスが数羽、ゴミ置き場の袋をあさっている。
天気が悪くなるのか、ドブの匂いが排水溝の蓋から立ち昇り、退廃の匂いをさらに撒き散らしていた。
そうした、澱んだ空気の中に居るのに、沼田の気持ちは、浮かれていた。
最後にディスコを出てから路上で別れる時、
ミシェルと週末の土曜日に二人で食事に行く約束を交わしたからである。
早めに落ち合って、買い物に付き合ってくれと、いうミシェルのリクエストは、
客とホステスという関係から一歩進んだ付き合いを望んでいると、少なくとも沼田は、そう思った。
職安通りまで出てタクシーを拾うと、目白の自宅まで、明け方で空いていたのですぐの距離だった。
くぐり戸を開けて、庭を抜けて自分の部屋に入り、明かりのスイッチを入れた。
すると、部屋の外から声がする。
みどりの部屋だ。
沼田と妹のみどりの部屋だけ別棟になっていて、
本宅とは、渡り廊下でつながっているが、少し距離をおいて建てられている。
大きな音で、隣のドアが開き、みどりの声が、轟いた。
「殺してよ」
朝の闇に響いた絶叫に危険な雰囲気を感じた沼田は、部屋を飛び出した。
廊下で男と、みどりが、もみ合っていた。
先週見かけた茶髪の背の高い男だった。
男は、みどりの手を掴んで、高く上に上げていたが、
そのみどりの手には、果物ナイフが握られていた。
殺してよと、叫んでいるみどりが、ナイフを持っている。
「みどり、信じてくれないかな。愛しているのは、君なんだよ」
エキサイトしているみどりとは、対照的に、冷静な口調で、みどりを見つめながら男が言った。
「みどり、どうしたんだ」
沼田が声をかけて近寄って初めて二人は、沼田に気がついた。
もみ合っていた二人は、その瞬間、お互いに手を引っ込め、
みどりは、ナイフを持っていた手を後ろに隠した。
「お兄ちゃん、どうして、こんな時間に」
「おまえこそどうして、こんな時間に騒いでいるんだ。殺せとか物騒なこと言って」
「.....」
急に黙り込んだみどりだったが、細い顔には、興奮と怒りの表情が残っており、
薄暗い廊下の明かりの中で、般若のような形相になっていた。
「お兄さんですか、こんなところで、すみません」
男が、自分から口をきいた。
「あなたは?」
「涼といいます。みどりさんの友達です」
「友達? その友達が、殺すとか殺せとか、何なの?」
「みどりさんの勘違いです。別にたいしたことじゃないんですが」
「何が勘違いよ。あなたが女と一緒に住んでいるのは、私見たじゃない」
「別に...あれは、何でもない娘だから」
「あたしが、おばさんだから、遊んでいるだけでしょう。あんな、若い娘と一緒に住んでいるなんて、
最初から仕事とお金の関係だけなんでしょ。あたしが、あなたにどれだけ協力したか。
あなたがNO.1になれたのもあたしが居たからでしょ。あんなのが居るなら車も還してよ」
「そこまで言うんだったら、もう難しいな...別に、みどりさんの力だけじゃないから、NO.1は。
車は、ありがとう。そいじゃ、俺、帰るよ。バイ」
涼と名乗った男は、それだけ言うと、芝居の役者のようにくるっと廻って何事もなかったかのように
カツッカツッと靴の音をさせて玄関を開け立ち去って行った。
みどりは、突然、立ち去ると、観念したように追いかけずその場に佇んでいた。
そして、男の車のエンジン音がして、屋敷から消え去って行く時になってようやく我に返り、
廊下に居る沼田を一瞥して自分の部屋に入っていった。
部屋に鍵を掛けなかったのは、部屋に入ってきて欲しいというサインだと思い、みどりの部屋に入っていった。
みどりの部屋に入るのは、小学生の時以来だった。
小学校、中学校と同じ学校に長兄を含めた兄弟3人が、通ったが、兄の芳也と妹のみどりは、
成績もトップで医大の教授という父親の威光もあり、友達や先生からも一目置かれた。
真ん中の芳樹だけがハンディキャップから来る動作が精神遅滞と間違われて、
腫れ物に触るような扱いで育った。
小さいときのみどりは、そうした芳樹のスローな動作を毛嫌いし、
学校や友達の中でもスターとしていつも中心に居る自分の汚点と考えていた。
歳の近い兄弟でありながら、親密な兄弟の愛情を育むことはなかったし、
必要なこと以外は、言葉さえ交わそうとしなかった。
ただ、沼田本人は、母親似で、きつい表情と、きつい性格ではあったが、
自分を嫌うのも自分に責任があることだからとの負い目からか、妹としての兄弟愛を持っていた。
みどりは、ソファーに座っていた、電気の入っていないテレビを見つめて呆然としている。
沼田は、近寄って行って、横のソファーに腰掛けた。
「あれは、ホストか」
「......」
「外科医のお前が、果物ナイフで殺せないことぐらい、分かっているはずだから、みっともないな」
「.....」
「車が、どうとかいってたけど、お前が買ったのか」
「.....」
「車なんか、安いもんだ。勉強代だと思えば。頭の良いお前らしくない勉強だけどな」
少しの沈黙の時間が流れた。
「うるさいわよ......」
語尾が震え、そして、微かな嗚咽がみどりの喉から漏れてきた。
「消えて行ってしまったようだから、後は、お前さえ元に戻れば、ジ・エンドだろう。
もう、朝だぞ。仕事は、あるんだろ。とりあえず1回寝ろよ」
沼田が、そう言うと、みどりは、堰を切ったように肩を震わせて泣き始めた。
「大学も病院もいつも私には、戦争よ。
ナースもドクター達も私のことをメッサーじゃなくて、カマキリと言っているのよ。
痩せているのも、狐顔もお母さんに似ているからしょうがないじゃない。
涼と飲んでいるときは、忘れられるのよ。
好きになったんだからしょうがないじゃない。
30過ぎた女と若いホストなんて、最初から、合わないのも解っている。
向こうは、プロだって、解っている。だけど、夢だったのよ」
一気にまくし立てて、喋りながら、肩を震わせて泣いている。
視線は、テレビを向いたままだったが、その目からは、涙がこぼれていた。
(かわいそうに、母親に似て、女性としては、まったく色気のない身体のことがコンプレックスなのだな。
だけど、みどり...今まで会っていた、フイリピンの娘達と比べたら、
それでも天国にいるくらい幸せなんだよ)
沼田は、そう声を掛けたかった。
沼田に話したことで、気をいくらか取りもどしたのか、みどりの嗚咽が幾分か小さくなった。
これ以上最悪の事態は、起こりそうもないなと判断した沼田は、
「俺も、ちょっと夜遊びをして、これから、少し寝るところだけど、
あっちには、黙っておくから気分を直して仕事に行くんだな」
と言い残して、みどりの部屋を出た。
自分の部屋のベッドに横たわると、妹の境遇とフィリピンの娘達の境遇の両方に思いを馳せていたが、
そのまま、寝付いてしまった。