( 八 ) 敬子という女

 

           沼田は、気もそぞろで、1週間を過ごした。

           仕事が一段落していたこともあって、晴海で行われていた、ショーの見学や、

           これから始まる新しいプロジェクトの下調べをインターネットでやる程度の暇な1週間であったので、

           仕事中にも時々、ミシェルのことを思い出したりした。

           週中の木曜日には、海老原にも内緒で、一人マカティに行こうかな

           と、思ったが、土曜日まで我慢することにした。

           妹のみどりは、その後何もなかったかのように、仕事に行っているようだった。

           母屋の食卓で1回顔を会わしたが、気まずいのか、みどりの方がそそくさと、席を外した。

           顔から、元気のなさは見て取れたが、目には幾分か柔らかい光が表情に出ていたので、

           敢えて、その後を聞くまでもないだろうと思った。

 

           明日が、ミシェルとの約束の土曜日という金曜日の夜、いつもより早く帰宅した沼田に電話があった。

           小学校、中学校と同じ学校の幼馴染の敬子からだった。

           幼馴染であり、沼田の初めての女性経験相手が敬子である。

           電話は、携帯の方ではなく、部屋への電話だった。

           部屋の電話は、最初から変えてなかったが、部屋に居ることは、めったになかったから、問題はなかった。

           携帯の方は、6年ほど前に敬子と別れてから、番号を変えていたので、

           敬子からの電話は、来なかったのである。

           部屋にかかってくる、電話は、たいてい間違い電話などのろくでもない電話だったから、

           注意して出るのだが、ミシェルのことで、浮かれていたのか、呼び出し音が鳴った電話に

           「はい、沼田です」

           と、応えて出てしまった。

           「ねえ、元気〜」

           語尾を引っ張った媚のある第一声だった。

           その声で、思い出したくは、なかったが、すぐ敬子と判った。

           (この声を出すときの敬子は、必ず下心が、ある証拠だ。

           相変わらず、性格は、変わっていない。そして、相変わらず、駄目な女だろう)

           「なんだよ」

           本当は、返答せずに電話を切りたかったが、何の気なしに取った電話で、そのまま切ってしまうと、

           いくらなんでも失礼かなと、躊躇する気持ちがあった。

           「うーん、特別用事じゃないんだけど、もうすぐバレンタィンでしょう。

           チョコレート送ってもいいかなと思って....」

           「別に、いらないよ。今、彼女居るから」

           沼田は、精一杯ぶっきらぼうな言葉で、そう言い切った。

           (これぐらいきつい言い方をしなければ、この女は、かならず隙を突いて入り込んでくる)

           「ふーん、幸せなんだ。どんな人?」

           「.....」

           「別にどんな人でも私には、関係ないわね。チョコ送っておくからね。じゃあ、また」

           電話は、敬子のほうから切れた。

           おそらく、金に困って、バレンタィンを口実にもう一度よりを戻そうと電話をしてきたんだろうと、推測した。

           しかし、沼田にとって、敬子は、もう二度と、心がときめかない、完全に終わった過去だった。

           今は、心の中に大きくミシェルが広がり始めている。

           ひさしぶりにときめく心を邪魔されたくなかった。

 

           沼田と敬子は、10年前、半同棲を4年ほど続けていた。

           きっかけは、25歳になって、開催された、中学校の同窓会だった。

           20歳の成人式の日に5年後同窓会をやろうと、有志が呼びかけて実現したもので、

           20歳の成人式には、出席しなかった沼田も熱心な幹事役の敬子の呼びかけに、しぶしぶ応じて出席した。

           幹事役として連絡してきた敬子に対して、小学校、中学校の時の印象がほとんどなかったが、

           敬子の方は、しきりに沼田に会いたいと誘ってきた。

           公立とはいえ、目白にある学校は、クラスメートにも裕福な家庭の子供が多く、

           すべてにおいて悠長で、すべてにおいて満たされている子が、ほとんどだった。

           いじめなどもなく、誰もがそのまま有名な大学へと進学するほどのハイソサエティが小さいころから形作られていた。

           だから、特別非行とかの問題を起こさない限り、特別目立つ子供も居なかった。

           そうした、校風で育ったのに、珍しく、同窓会と、騒ぎ立てて張り切ったのが、敬子だった。

              最初は、熱心な幹事と考えていたが、敬子の目的は、別のところにあった。

              敬子は、当時離婚したばかりで、5歳になる小さな子供が居た。

              一人で、子供を育てていくには、誰かの庇護の下に入るしかなく、

              そこで、裕福な子女ばかりの集まりである、同窓会を利用したのである。

              成人式の時の、言い出しである、クラス委員長に自分から幹事役の手伝いを願い出て、

              熱心に案内から、会場の手配から、奮闘した。

 

              同窓会の当日、会場の受付に座っている、敬子の豊満な胸が大胆に露出した服装に男子達は、一応に驚いた。

              会は、立食式だったが、出席者全員の間を泳ぎまわる敬子の胸の谷間は、一番の話題となっていた。

              小さいときは、美人とか可愛いとかという部類ではなく、ころころ太っていたので、

              それほどヒロイン的な注目のまとではなかったが、妙にコケティッシュなところがあり、

              男の子達の子供心にもひきつけるところがあった。 

              それが、大人になり、女としての色香を放つようになって20歳で結婚して、

              そして、子供を持つと、さらにフェロモンを放つようになった。

              しかし、最初の旦那とは、すぐに別れて、子供と暮らしているという噂は、皆の知るところだったし、

              そんなにクラスメートと音信を交わさない沼田の耳にも届いていた。

              会場で、隅の壁にへばりついて、皆を眺めていた沼田を敬子は、中央に引っ張ってきて、

              自分と親しい女友達の中に入れて、話題に入れようとした。

              小さい時から、もてた経験のない、沼田は、敬子が幹事としての責任からそうした行動を取っていると思っていた。

              会は、5年後の30歳の時の幹事役を決めて、散会となった。

              学校時代から仲の良かったいくつかのグループが2次会に、三々五々消えて行った。

              沼田も所属していた比較的仲の良い中学の時の科学クラブのメンバーの二次会につきあって、

              会場のホテルのバーに行くことにした。

              すると、敬子は、科学クラブのメンバーではないのに、わざわざ沼田たちに付いて来た。

              その二次会で、沼田の横に座り、科学クラブのメンバー達が、二人は、昔から付き合っていたのではと思ったほど、

              べたべたと、沼田にまとわりついて、かまっていた。

              上品な校風で育ったメンバー達は、二次会も早々と切り上げて、全員タクシーでホテルを後にしたが、

              遅れてタクシーに乗り込もうとした沼田の袖を引っ張って、敬子は、

              「酔っているから家まで送ってちょうだい」

              と、沼田が乗ろうとしたタクシーに乗り込んできた。

 

           敬子の住まいは、音羽の大手出版社の裏手にあった。

           マンションまで送ってくると、敬子は、「コーヒー飲んでいかない?相談したいこともあるし...」

           と、降ろして、自宅に帰ろうとした沼田を引き止めた。

           その時は、まだ、沼田は、(相談って、なんだ?)くらいにしか考えていなかったから、

           特別下心があるわけでもなく、タクシーを精算すると、敬子に付いてマンションまで、歩き始めた

           敬子は、2階にある部屋まで階段を上がると、酔っているという素振りもなく、部屋に入り、

           パーティの衣装も脱がず、ダイニング、リビング兼用の部屋で、お茶を沸かし始めた。

              コーヒーの準備ができるまで、手持ち無沙汰だった沼田は自分から口を開いた。

              「子供が居ると聞いてたけど」

              と、訊ねた。

              「奥の部屋で寝てるわよ。近くのお母さんが寝かしつけてくれたから」

              「ふーん....」

              「私が、離婚したことは、誰かから聞いたでしょう。だから、遠慮しなくていいから」

              (何を遠慮するんだ?)

              そう思いながら、沼田は、おぼろげに敬子の意図が推理されてきた。

              「はい、コーヒー。ひいた豆をいれたから、インスタントじゃないわよ」

           「相談って?」

           「5年後の幹事役も私、できるかな?今日の私の幹事役どうだった?」

           「そんなことか....別に似合ってたし、できるとかできないとかじゃないじゃん」

           「嬉しい、そう言ってもらえるなんて思ってもみなかった」

           そういいながら、敬子は、ソファーに座っている沼田の横にコーヒーを片手に持ちながら

           身体を投げ出してきた。

           そして、コーヒーカップをテーブルに置くと、

           「ねえ、私のこと、どう思う?」と下から見上げて、誘惑の視線を投げてきた。

           この時点で、さすがの沼田も敬子の目的が自分を誘っていることだと理解できた。

           敬子は、自分から沼田の顔に顔を寄せて、強引なキスをしてきた。

           25歳の今になるまで、女性経験のない沼田は、どうしていいか分からず、

           むしゃぶりついてくる敬子のするがままにさせていた。

           敬子に押し倒されてソファーに横になった沼田の顔の前に、敬子の顔があり、大きくはだけた胸があった。

           しかし、その状況になっても、沼田は、自分から行動に出なかった。

           興奮はしていたが、この後、どうしたらよいかを考えていた。

           「初めて?」

           敬子が、唇を離して、聞いた。

           「....」

           「いいわ、大丈夫。そのままにして」

           そういうと、敬子は、沼田の服を脱がし始め、沼田の上に乗ったまま、自分も服を脱ぎ捨てた。

           胸だけではなく、身体全体に豊満な肉がついた、成熟しきった大人の女があった。

           そして、敬子は、自分の手で沼田の物を自分に導き入れると、腰を振りながら、軽いあえぎ声をあげた。

           そうして、沼田は、初体験を敬子の部屋のソファーで終えた。

           妙に初めて女を知った喜びという感慨はなかった。

           何かが、心の奥に違和感として、ひっかかったが、未知なる経験としての驚きの方が強く、

           その違和感を意識することはなかった。

           それを契機に、敬子のほうから、積極的に沼田を誘い出し、

           最後は、敬子のマンションに寝泊りして半同棲のような生活が4年も続いた。

 

              しかし、最後の2年ほどは、敬子の地が現れて、お互いに反発し合う様になり、

              溝が大きくなっていくばかりだった。

              沼田には、関係を結んだ女性を責任のある形で、幸せにしたいという古風な気持ちがあったが、

              家事から、子育てから、無頓着で、掃除もろくにしないという自堕落で、無責任な性格には耐えられなかった。

              前の亭主の連帯保証人の債務を返済しなければならないという理由からたびたび、

              沼田に借金を申し出ていたが、沼田はそれを父親が生前贈与で分けてくれていた、株を売って、渡していた。

              しかし、沼田に内緒で、沼田の父親から子供の養育費という名目で多額の借金をしていたことが解って、

              破局は、決定的になった。

              最後は、慰謝料という名目で1000万円の金を渡して、敬子と別れた。

           初めての女が、女としての業を社会経験のない沼田に強烈なスタンプとして残して去った。

           その女からの電話が、どんな媚びる電話であっても、沼田に残り火は残っていなかったし、

           清廉な新しい恋の火が着きはじめていた沼田の心には、なにもダメージにならなかった。