( 九 ) はじめてのデート 1
ミシェルと買い物に行くと、約束した土曜日が来た。
35歳の沼田が、初めてまともに約束したデートで、相手は19歳のかわいい女性である。
寒い日が続いている真冬の季節だったが、そろそろ、厳しい寒さも峠を越えて、
春に向かおうとする風の匂いがしていた。
沼田の自宅の庭には、紅梅の花が春を待ちわびるようにほころんでいた。
買い物に付き合ってというミシェルの頼みだったが、どこに何を買いに行くのか分からなかったので、
自分の車で出かけることにした。
妹のみどりとは違い、休みの日の早朝に時々高名高速を運転して、
好きな伊豆地方を一人でドライブするだけの車だから、堅実な国産の4ドアセダンを持っていた。
待ち合わせの時間は、4時だったから、出かける前の3時に念のためにミシェルに電話して約束を確認した。
何度呼び出し音がなってもミシェルは、電話に出なかった。
沼田は、約束を忘れたかと、不安になったが、何か事情があるのかもと、数分毎に電話を掛けた。
20分ほど掛け続けて、ようやくミシェルが電話に出た。
「もしもし、ミシェル? 沼田です」
「はーい、ミシェルです」
明るい声が返ってきた。
そして、かすかなあくびのような息の音が聞こえた。
「えーっつ、寝てたの」
「ごめんなさい。寝たの、朝7時だったです」
「朝7時..どうして...また、ディスコに行ったの?」
「ううん、ラウンドリが空かないから、順番待ってから」
「ラウンドリ?」
「せん..たく..く?..き?」
「ああ、洗濯機ね、寮の洗濯機のこと?」
「うん、ラブリーもジェニファもお店帰ってから、洗濯する。ラウンドリ1台。順番」
「そうか、電話出なかったから、約束忘れたかと思って心配したよ」
「忘れない。今日、買い物楽しみよ」
「迎えに行くから、寮はどこ?」
「大久保通り。ハイジアのところ、大きなビルディング、ハイジア」
「大久保通りのハイジアね、じゃあ、4時にそこの前に着いたらまた電話するから」
「はい、お願いします」
沼田は、特別な問題があったわけじゃないことにほっとして、電話を切った。
ガレージから、自分の車を出すときに、珍しく、父の芳正の車が止まっているのに気がついた。
父は、十数年前から、自宅ではなく、千葉の別宅から大学病院に通勤しており、
めったに自宅に寄ることは、なかったが、何か母親に用事でもあったのだろう。
父も母も、この前のみどりの修羅場は、知らないはずだから、これ以上、家に騒動が起きなければいいが
と、思いながら、自宅を後にした。
目印のハイジアというビルディングは、区の建物で、すぐに分かった。
大久保通りと明治通りの交差点から、少し大久保よりに入ったところだった。
4時5分前に、ちょっと早いかなと、思いながら、さっきのようなことがあるといけないからと、電話を掛けた。
「はーい、ミシェルです」
今度は、1回目のコールですぐ電話に出た。
「今、ハイジアの前についたよ、青い車に乗っているから」
「はーい。そこで、待ってください。I’ll soon come」
「OK!寒いから車の中に居るね」
「はーい」
沼田は、寒い中を寮から歩いてくるミシェルのために、ヒーターを上げて、車の中で待っていた。
しかし、4時を廻ってもミシェルはなかなか現れなかった。
5分、10分と待たされた。
(すぐ、行きますと言ったのになあ...)
4時15分になって、ようやく横の路地から走ってくるミシェルが見えた。
沼田は、ミシェルに判るように、車の中から手を振った。
助手席のドアを開けて、ミシェルが乗り込んできた。
「遅かったね」
「うん。弁当作ったから」
「弁当?」
沼田は、予期しない返事に上ずった声をあげた。
「どうして、弁当なんか...」
「買い物遅くなると、お店、遅刻。遅刻、罰金でしょう。弁当、車で食べる。いいでしょう」
ニコニコしながら、ミシェルは、持ってきた紙袋を開けて見せた。
タッパウエアが2個入っていて、そのタッパウエアには、
きゅうりと人参と、セロリがスティック状に切って入れてあった。
「弁当って....」
「野菜、健康にいいでしょう。味噌もある。私、野菜と味噌大好き」
ミシェルは、言葉に詰まっている沼田に頓着せずに、ニコニコと、はしゃいで、そう言った。
沼田は、何と言っていいか釈然としないまま、それ以上、この弁当について会話すると、
二人の間が離れそうに思えて、話題を変えた。
「買い物は、どこに行くの」
「新宿駅の地下。マイシティ」
「えっ、そんな近く?そんなだったら、車要らなかったなあ」
「そうですか?遠いよ。ミシェルこの前、歩いて、遠かったよ」
「まあいいや、じゃあ、そのマイシティに行こう」
沼田は、ミシェルのシートベルトをかけてあげると、車を発進させた。
「何を買うの?」
「この前、ジェニファお姉さんとマイシティ行ったよ。綺麗なコート。ミシェルのコート少し寒い」
そう言われて見ると、ミシェルが来ている防寒コートは、襟の周りに毛皮のようなものが付いているものの、
少し薄手の、いかにも安そうなショートコートだった。
(コートか、少し、奮発するかもな....)
沼田は、今日の買い物に付き合うと決めたときから、
支払いは、自分が面倒見てあげようと、昨日のうちに、銀行でお金を卸して来ていた。
それに、買い物の後、時間があれば、ミシェルには悪いけど、持ってきた弁当ではなく、
ちゃんとした食事に誘うつもりだったし、その後、お店に同伴で出て、海老原も呼ぶつもりだったから、
サイフには、20万円ほどを入れておいた。
ミシェルは、CDから流れているポップスに合わせて、身体をゆすりながら、
楽しそうに小さな声で口ずさんでいた。
「ミシェルは、いつも元気だね」
ハンドルを握ったまま、沼田は声を掛けた。
「そう、ピリピーナは、明るい、元気」
ミシェルは、歌いながら、応えた。
車を明治通りから、靖国通りに走らせ、歌舞伎町の区役所通りの入り口にある地下の駐車場に入れた。
この地下の駐車場が、新宿駅周辺の地下に全部連結していることは、
小さい時母親のデパートの買い物に連れられて来た時に、
運転手が利用していたことを思い出していたので、知っていた。
車を駐車場に留め、マイシティと書いてある出口の階段を登って出ると、
そこは、すぐマイシティのショッピングモールだった。
モールに入って、歩き出そうとしたとき、何気なしに、ミシェルの顔を見た、沼田は、驚いた。
明るい通路の照明に照らし出された、ミシェルは、
マカティに居るときのお化粧をしたミシェルと違い、口紅だけをつけていたが、ほとんど、スッピンだった。
その素顔は、19歳といいながら、まだ、あどけなさを残しており、
あきらかに日本人とは違う、浅黒い肌の色だった。
マカティに居るときは、店の中の証明が暗いのと、さっきまで居た車の中では、気がつかなかったが、
こうして、蛍光灯の明かりがまぶしいほど光っているところで見て、初めて気がつく色だった。
(あっ、やっぱり、外国人だ....)
いきなり、外国人という言葉が、頭の中に閃いた。
そして、その言葉が、頭の中に閃いたことが、沼田自身にとって、衝撃だった。
「どうした?」
一瞬、自分の顔を見て立ち止まった沼田に気がついて、ミシェルが小首をかしげて訊ねた。
「ああ、いや、何でも...ミシェルって、若いなあと思って...」
「ふふふ、ミシェル、若い?沼田さんも若い」
そういったとたん、ミシェルは、ポケットに手を入れていた沼田の肘のところに
自分の手をするりと入れて、腕組みをしてきた。
そして、会話に気を留めずに歩き出した。
どうやら、目的の買い物に一直線らしい。
沼田は少し、気恥ずかしかったが、顔立ちは、可愛く、目もぱっちりと大きいので、
美人の範疇に入る若い子だから、少し色が黒いといっても一緒に歩く分には、映えることが救いだった。
ミシェルは、1軒のブティックに入っていった。
腕組みをしたまま、沼田を連れて入ろうとしたが、女性服だけのブティックに入るのを躊躇した沼田は、
腕組みを解いて、店の入り口で立ち止まった。
いくつかのコートが並んでいるハンガーのところで、ミシェルは、沼田の方を向いて、手招きした。
中に入るのは、恥ずかしいと思ったが、ミシェルの横に居る店員が、
感じのよい笑顔で、どうぞと招き入れるように首を縦に振ったので、意を決して店に入っていった。
ミシェルは、白いダウンのコートを手にとって笑顔で沼田の前に突き出した。
「お客様は、このコートをお気に入りのようです。先日、来店された時も、このコートを試着されてました」
店員は、付いてきた沼田が、支払うことを予見しているのか、そう言った。
「ミシェル、これに決めているの?」
唇をきっと結んで、こくんと、ミシェルは、頷いた。
「じゃあ、これください。いくらですか?」
「セール期間中ですから、9800円です」
「9800円?」
沼田は、思わず声を出した。
予想していた出費と、あまりにも違って、安かったからである。
値段を聞いてから、よくよく店を見渡すと、若者向きな店で、高級なものは、置いてない。
沼田が驚いたような声を出したので、ミシェルは少し、間が悪そうに顔を曇らせた。
「ミシェル、そうじゃないよ。ちょっと安いからさ。本当にこれでいいの?」
再び、ミシェルは、こくんと首を縦に振った。
沼田が支払いを済ませて、店員が大きな紙袋にその白いコートを入れようとすると、
ミシェルは着ていた防寒コートを脱いで、買ったばかりのダウンコートと入れ替えてもらった。
安物では、あったが、白いダウンのコートは、かわいいミシェルを美人に見せて似合っていた。
店を出るときも、出口のところにある姿見で、コートを映して満足そうに笑った。
嬉しそうに、沼田と腕組みをしてきたが、今度は、
ダウンの厚みが肘のところで大きく膨らんで少し歩きにくかった。
「他の買い物は?」
「ないです。It’s finish」
「もっと、いろいろ買えば?」
「いいです」
と、いいながら、笑顔で歩いている。
しかし、その言葉と裏腹に、すぐ腕組みを解いて、化粧品の店に入っていった。
(やっぱり、女の子だな...)
沼田は、苦笑しながら買い物に付き合うことにした。
しかし、化粧品の店でも、雑貨の店でも、いろいろと手に取るが、どれも買おうとしなかった。
沼田は、自分に遠慮していると解釈して、しきりに買うように促したが、
ミシェルは、どれも買わずに「見るだけ」と、しか言わなかった。
結局、白いダウンコートだけを買って、1時間ほどの間、ウインドウショッピングに歩き回っただけだった。
歩きつかれた、沼田は、喫茶店に入ろうとミシェルに言ったが、
これも首を横に振って、なぜか承諾しなかった。
しかたなく、沼田は諦めて、車に戻り、食事に行くことにした。