あなみにく 賢(さか)しらに

                              20041129日初稿 1231日校正

 

このエッセイ群のタイトルを“あなみにく、賢しらに”と、しました。

これは、万葉集の歌人である大伴旅人の“酒を賛(ほ)むる歌”の中の一首

〔あなみにく 賢しらをすと 酒飲まぬ人をよく見れば 猿にかも似る〕

から取ったものです。

あなみにく”は、“あな醜く”で、“ああ、なんと醜いことよ”

と、いう意味です。

“賢(さか)しらに”は、“賢(かしこ)そうに”と、いう意味です。

つまり、賢そうにしていることは、醜いという直訳になります。

 

歌全体の口語訳としては、折口信夫の「口譯萬葉集」に、
「へん、ざまを見ろ。其ざまはなんだ。ほんとに賢ぶつた眞似をせうとして、

酒を飮まない人間を、よくよく見たら、猿に似てゐるだらうよ」

と、あります。

つまり、現代語にすると、「賢く見せようとして、酒を飲まないやつは、猿に似ている」

と、いうことになります。

 

これだけで、歌全体の意味は、理解できるのですが、

作者が本当に歌の中に込めている意図の解釈は、解説本の諸本中にも説かれていません。

大伴旅人の“酒を賛(ほ)むる歌”は、全部で11首あります。

その主題からして解るように、酒を讃える歌の群ではありますが、

お題目通りに理解すると、旅人のフィロソフィーが、

単なる酒愛好家を擁護しただけの低俗なものになります。

そして、実際そのレベルの解釈で終始している解説本があります。

 

大伴旅人は、当時の最高知識人であり、教養も豊かな才能あふれる歌人でした。

現代的に表現するならば、インテリジェンスが高く、EQの高い人だといえます。

しかし、名門の家に生まれながら、奈良の中央官庁から遠く離れた、

福岡の大宰府の地での任官ということは、傍流であり、

中央のエリートの出世コースからは、外れた位置にいるわけです。

そして、藤原家の隆盛におされ、没落の悲哀を味わう時流に飲み込まれていきます。

こうした、バックグラウンドを考察すると、この「あなみにく・・・・」の歌が、

中央の本流にいる出世エリートに対する皮肉であり、

酒を飲んで喜怒哀楽を表現する庶民の生活の方が、

はるかに豊かな人間であるというアンチテーゼになっているわけです。

 

この歌の本質は、そうした、

“外形に捉われない、自由で本物のインテリジェンスとは、何か”

と、いう旅人の哲学を表現していると、私は、解釈します。

それが、酒を讃えると、いう磊落な歌になるわけです。

 

そして、この歌は、1300年後の今日に生きている私たち現代人に、重要な示唆を与えてくれています。

現代では、知識が瞬間的にマウスのクリックひとつで、簡単に手に入ります。

インターネットの検索をかけるだけで、知らなかったことや、

知りたいことに関連した情報をほぼ無尽蔵に得ることができます。

情報の裏に潜む本質の考察力や、膨大な知識データを体系的に処理し、

分析する能力が無くとも、とりあえずは、情報を集められます。

しかし、それは、あくまでも集められたデータの塊りではありますが、インテリジェンスではありません。

ここを勘違いしていることに、現代人の持つ不幸が存在します。

 

シンプルにいえば、どんな人でもインターネットに接続されているパソコンの前に居れば、賢さを演出できるのです。

そして、実際に、TVのうんちく番組のように、細切れの情報をひけらかすことで、

賢いと勘違いしている人が多く存在しているのが事実です。

そして、そうした勘違いされたインテリジェンスを勲章とする、

官僚、銀行などの偏差値という亡霊にとりつかれた、本物でないエスタブリッシュメントが、

この日本を動かしている不幸を嘆き悲しむ人が少ないことに驚きを感じています。

 

私自身が、かなり賢しらに持論を展開しました。

 

そんなことよりも、今宵も一杯の酒と、心安らかな音楽に身を委ねて、

醜い人間にならないよう自戒しましょうか。