電脳三国志
ワープロの覇者 阿波太郎 その1
2004年12月9日初稿
村山は、ベッドに横たわりながら、これから会社をどうしたらよいかを必死に考えていた。
投薬されたステロイド剤と免疫抑制剤は、神経を弛緩させ、思考を集中することができない。
しかし、そんな身体の状態でありながら、切迫しているビジネスの危機に対しては、
思考を中断させるわけにはいかない。
意識を強固な精神力で集中させては、薬の副作用で眠くなる
と、いう繰り返しを続けて、ひとつの結論に達した。
村山は、ナースコールを押した。
駆けつけてきた、看護婦に対して、「電話を掛けさせてください」
と、言った。
「先生から絶対安静を言い渡されているのは、解ってるでしょう。無理です」
「お願いします。会社がつぶれます。どうしても連絡しないと、危ないんです。
今の私にとっては、身体よりも会社の方が、大事です。」
村山の切羽詰った口調に、看護婦は、少しためらった後、電話を持ってきた。
村山は、副社長の立川を病院に呼び出した。
村山が、女子医大病院に入院していることは、幹部役員と本当の近親者以外には、絶対の秘密であった。
徹底したかん口令が敷かれ、社員すら理由は、知らされず、業界の人間達には、
重要なプロジェクトにかかりきりになっているので一切のアポイントを取れないというように説明されていた。
村山が、重病で、社長としての指揮を取れないとなると、新聞に大きな見出しが躍ることになる。
ましてや、快癒する可能性の少ない、いやそれどころではない、
死に至る可能性のある、劇症肝炎であることが、世間に知れると、会社倒産になるだけではなく、
日本の新しい産業として芽生えたパソコン業界の大きな損失になる。
村山は、九州の長崎県で創業した会社を東京に移し、ここまでいくつかの困難な状況があったが、
ことごとくそれらを打破し、今では、日本のパソコン業界の風雲児として
注目されるまでの急成長を遂げている最中だった。
会社は、{軟体銀行}というちょっと変わった社名で、パソコンソフトウエアの流通を行う
と、いうこれまでの産業には、無い業務内容であった。
九州で創業した時には、わずか5人だった社員も200人を超えていた。
村山のエピソードは、その後も日本のパソコン業界の歴史と友に、多くが語られ、出版物となるのだが、
最初のエピソードは、この社員5人の時代に、みかん箱に乗って、「当社は、1兆円企業になる」
と、宣言したことだった。
まだ売り上げが、数百万円も無い時代に、億ではなく、兆という単位を宣言する社長に対して、
創業の苦労を共にした社員すら、誰も信じなかった。
その会社が、村山の病気で最大の危機にあった。
身体より会社が大事だと言ったもうひとつの理由は、ライバル会社の{明日来社}が、
アメリカの微軟体社と提携して進めている、総合パソコンカンパニーの事業である。
ソフトウエアの流通こそは、軟体銀行社が先行していたが、パソコン雑誌の出版や、
ソフトウエアの開発普及、パソコンハードメーカーとのコラボレーションなどでは、
微軟体社のバックアップは強力なものであった。
微軟体社は、アメリカでのOS戦争で、ライバルのDR社を退け、
世界のパソコンの雄となる基盤を築きつつあった。
この大事な時に、劇症肝炎を発症するとは、強運な運命に生まれついた村山も
さすがに終わりかもしれないと思った。
医者からは、死亡率50%と宣言されていたのである。
安静にしながらの対処療法しかなく、生きながらえるだけの人間としての生活を維持するのが精一杯で、
現場復帰なんかは望めないと宣言されていたのである。
しかし、ここで新しいビジネスを頓挫させるわけには、行かない。
考えられる方法は、女子医大の教授が、「唯一可能性がある」
と、言った、ステロイド剤の大量投与療法というまだ医学会でも認められていない療法を試すしかなかった。
ところが、この療法は、一方で身体の免疫調律を狂わせ、副作用で死に至る可能性もあるという
両刃の刃の療法であった。
村山は、これまで、困難な人生をすべて、自分の意思と、努力で切り開いてきた。
この新しい療法に賭けてみる決断をした。
この療法が村山を死からの生還に導いてくれる可能性があったが、
その療法を行っている間は、会社経営の現場を誰かに委ねるしかない。
その人選を思いついたので、副社長の立川を病院に呼んだのである。