電脳三国志
ワープロの覇者 阿波太郎 その2
2004年12月12日
立川は、病室に入って、驚いた。
村山の顔は、ステロイド剤の副作用で、ぱんぱんに膨れ上がって、丸く、大きくなっていた。
先に声をかけたのは、村山の方だった。
「ムーンフェィスという薬の副作用だ。何とかいい方向に向かっているらしいから心配いらない」
ベッドに横たわって静かに、一語一語息を深くつきながら喋る村山を見て、立川は、涙を流した。
九州で創業した時から、働きづめで、まともな休みなど取ったことが無く、
毎日の睡眠時間が3,4時間という激務が身体を壊したのである。
「会社のことだ。山野証券の蒲田部長に社長になってもらう。
私は、会長になって、病気の療養に専念するから、君は、蒲田さんを補佐してくれ」
山野証券の蒲田部長は、軟体銀行社が株式市場に公開する準備をしているのを指揮している担当者だった。
日本一の証券会社として、スケールや実力だけでなく、
株価や、株式市場における政治力なども突出した大企業である。
その中にあって、新規市場の公開部長という地位は、実力を認められているだけでなく、
将来の山野証券の重役から社長という階段を昇っていくことを約束されているエリートでもある。
戦前からの有名な一流企業である山野証券の部長職と新興企業の社長では、実は天と地ほどの差があり、
日本の経済界では、圧倒的に山野証券の部長の方が、スティタスが高いのである。
ところが、村山の説得と、戦後最大の新規市場と目されるパソコン市場の社長
と、いう注目度の大きなポジションは、蒲田にとっても野心をくすぐる話だった。
蒲田は、村山の提案を承諾して、軟体銀行社の社長に就任した。
世界戦略を狙って、日本の現場は、蒲田に任せ、村山は、世界担当の会長という役割分担と、発表された。
村山の病気は、隠されたまま、2年の間ベッドに横たわって、指揮を執り続けたのである。
軟体銀行社には、副社長の立川をはじめとして、創業時に村山に協力しようと馳せ参じた、5人の侍が居た。
ベッドに横たわったまま、経営の指令を出す村山のつなぎ役の立川、大阪支店長の本橋、
経営戦略室の上松、流通事業部の権藤、出版事業部の梶山の5人である。
蒲田は、村山の依頼を受けて、社長に就任したが、村山とは違う路線で、
軟体銀行社を一流の会社にしなければならないと考えた。
公開上場に向けて、初めて軟体銀行社を訪ねた時の驚きを今でも覚えている。
100人から居る社員のほとんど全員が、ネクタイを締めていないのである。
全社員が、カジュアルな服装で勤務しているオフイィスは、
それまで蒲田が活躍してきたビジネスの現場では考えられないものだった。
役員は、別だろうと入った役員室で出迎えた役員全員もまた、ノーネクタイで、
社長の村山自身からが、ジーンズにポロシャツという服装だった。
アメリカの大学を出て、日本に戻った村山は、ビジネススーツに身を隠して仕事のできない
サラリーマン達を嫌っていたこともあるが、第一、服装に構っていられないほど、忙しい毎日で、
服を着替えるどころか、満足に帰宅して寝るという事すらできない日々が続くこともあった。
会社の椅子やソファーで仮眠を取るのは、日常的で、社員の中には、
自分専用の机の下で寝るための寝袋を出したまま仕事をしているという会社の風潮が出来上がっていた。
戦前から続いている名門の証券会社の役員の息子として生まれ、
何不自由なく育った、蒲田は、泥臭いもの、ラフなスタイルを嫌悪していた。
京王大学でダンスソサエティのキャプテンを務めたほどの洒落た人間には、
床に寝るなどという風習は、低俗で未成熟な企業としか考えられなかった。
蒲田が、社長に就任して最初に発した号令が、男子社員は、スーツにネクタイ着用というものであった。
あわてて、スーツやネクタイを購入する社員達に、この先の軟体銀行の行方が不安となった。
蒲田の描いている将来像は、村山のカリスマ性と新しいビジネススタイルを作っている喜びから、
無茶な仕事の忙しさも厭わない若い社員達の考えとは、反対の極にあるものだった。
蒲田の方向性に疑問と反発を持ったのは、社員だけでなく、役員も同じだった。
特に、経営企画室の
それに大言壮語とも思われるような壮大なビジョンを展開するカリスマ性に憧れ、
信望して人生を賭けてきた男だったから、蒲田の都会的センスには、付いていけないものを感じて反発した。
蒲田からのスーツ、ネクタイ着用の通達が出た後も頓着せずに、ジーンズとTシャツを着て、出勤した。
重要な方向性の指示は、病室の村山から出されたものの、現場は、蒲田に任せるというコンセンサスから、
村山の耳にも蒲田の通達は、もたらされていたのだが、聞こえていないことにしなければならなかった。
社員あっての企業であるという信念を持っている村山ではあったが、
今は、病気を治すという大局の前に小局には、目を瞑った。
徐々にではあったが、若い社員達が一人減り、二人減りして減っていくと同時に、
一流大学を卒業したビジネススーツを着こなす社員達が増えていった。
それと同時に、山野証券から、蒲田の子飼いの部下だった社員達が中堅幹部として入社すると、
会社の雰囲気が変わり始め、蒲田が望んでいた会社らしい、会社に変わって行った。
軟体銀行のビジネスの核は、パソコンソフトウエアの流通で、
日本全国のパソコンショップにソフトハウスが作ったソフトを卸す業務では、
70%近くのシェアを持っており、ほぼ独占といってもよかった。
これも、日本で最初にそうした時代が到来すると予見した村山の先見性の勝利であった。
その主力ビジネスのソフトの中でも、圧倒的に金額ベースでは、ワープロソフトが一番の売れ筋であった。
芝浦電気が、日本で始めて考案、商品化したワードプロセッサは、パソコンに搭載されると、
これまでのペンや鉛筆に代わる新時代の文房具として、また、知的生産性を高める画期的な
思考ツールとして、またたく間に普及していった。
そのワープロソフトの中で、圧倒的に売れていたのが、マネジメント研究所社の“PINE”であった。
PINEは、経営者の関口社長が日本でも有数のソフト工学博士であり、首都工業大学の教授だったので、
その関口社長を師と仰ぐマネジメント工学の英才達が、集まって作ったソフトウエアである。
他社のいくつかの競合商品が競争を挑んだが、高機能でバグもなく、
圧倒的にユーザーの支持を集めていたPINEの前に到底太刀打ちできなかった。