微微軟体社 と Dr.GK
2004年11月27日 versionT
微軟体社 Mr.BGが、世界一の大富豪になってから毎年記録を更新している。
その契機となったいくつかの出来事に、ある人間の怨念が、
大きな作用を果たしていたことは、パソコンの誕生秘話の中でも語られることは、ない。
1980年 国際商業機会社は、林檎社が発売した世界初の個人電脳
1981年 (電鍵を持って市販されたという意味で)に刺激を受けて、
1982年
新しい個人電脳を開発するプロジェクトをスタートしていた。
特命プロジェクトの責任者に任命された副社長のMr.Fは、OSを自社開発でなく、
同社としては、初めて外部の会社が開発したOSを調達する方針を決めた。
当時、8ビットCPUのOSとしては、林檎社のOSを除けば、DR社のCP/Mが評価を確立していた。
(と、いうよりも競合するOSが世の中に無かったと言ったほうが正しい)
Mr.Fは、モントレーに在ったDR社に電話を入れ、社長のDr.GKに重要なビジネスのアポイントを取り付けた。
この時点では、国際商業機会社がパソコンを開発することは、まだ機密情報であった。
社長のDr.GKは、その名前の通り、当時としては、世界的に希少価値の電脳技師博士で、
天才によくある奇人で変人であった。
話は、少し後年になるが、当時まだ草創期だった日本の電脳会社首脳陣達が集まり
団体視察団として、このDR社を訪ねた。
私は、一番若いメンバーとして、この視察団に参加していた。
Dr.GKは、ホワイトボードに新しいOSの概念を30分あまり凄いスピードで書き込んで一方的に話を終わった。
そして、最後に
「Do You have any questions?」
と、我々に質問した。
日本の電脳業界topの連中とはいえ、新しい概念をしかも英語でまくし立てられ、
質問がないかと言われても、すぐに質問が出るはずがない。
誰も言葉を発しないでいると、Dr.GKは、バーンとホワイトボードを叩いて部屋を出て行った。
そして、部屋を出るときに
「Yellow....」という言葉を発したことをドアの側に居た私は、聞き逃さなかった。
さて、国際商業機会社の副社長Mr.FがモントレーのDR社を訪ねると、社長のDr.GKは、なんと
約束をすっぽかして自分のクルーザーで海で遊んでいたのである。
この歴史的なドタキャンの理由については、
国際商業機会社のアポイントが不遜で横柄だったからとか、
技術価格を吊り上げるためにもったいをつけたなどのの説がある。
私は、ただ単にDr.GKが気まぐれに不機嫌だっただけと思っている。
将来は、社長間違い無しと期待されていた副社長のMr.Fは、
失意と憤懣のまま、ニューヨークに帰る。
Mr.Fは、部下に「DR社の代わりになるOSはないのか!」
と、檄を飛ばした。
その時、ある部下が、
「シアトルの微軟体社が新しいOSを試作中という噂があります」と言った。
「微軟体社?あのBASICのか。よし、早速アポイントを取って契約に漕ぎ着けろ」
国際商業機会社は、翌年発売したPCATに微軟体社の微軟体DOSを搭載する。
怨念の話は、ここからスタートする。
国際商業機械社のPCATは、その後実質的に世界のパソコンの標準機としての地位を確立する。
副社長のMr.Fは、PCビジネスの中興の祖として、
国際商業機械社の中で次期社長の椅子を決定的に手にする。
そして、微軟体社のMr.BGは、いち早くドリームキッズとして注目される。
ドタキャン事件で舞台を微軟体社に奪われたDR社は、巻き返すべく、
マルチタスクの新しいOSであるCCP/Mを開発する。
しかし、その性能がどんなに優れていても、国際商業機械社が採用しないことには、逆転劇はない。
そして、その為には、Mr.Fがネックになる。
何しろ、一時は、ドタキャンでその地位すら危うくしたのだから、Dr社を優遇するはずがない。
ところが、なんとMr.Fは突然の飛行機事故でこの世を去るのである。
単なる事故であったが、スピリチャルな世界に傾倒していた
DR.GKの呪詛であったという噂が一部で囁かれた。
結局、その性能にもかかわらず、その後のOSとしてCCPMは、採用されず、窓sが採用される。
そして、その10年後、Dr.GKは、レストランで転倒しこの世を去る。
これも事故だったとされたが、実情は、離脱できないドラッグの副作用であった。
そして、彼をドラッグの常用者にしたのは、Mr.Fの怨念だったという噂が流れた。