龍と蟻
2005年1月1日初稿
新年にふさわしく、日本の将来と近未来予測などを考えてみる。
1970年代頃、アメリカの宇宙開発、軍事力のパワーが急速に伸びた時、
いずれ日本は、アメリカの52番目の属州になるだろうなどというジョークが流行ったことがある。
しかし、これが、最近では、後2,30年もすれば、日本は、中国の植民地になるだろう
と、いう半分ジョーク、半分は、ジョークじゃ済まされない怖れを含んで囁かれている。
これは、中国のGDP、外貨準備高、貿易コンテナの流通総数、鉄鋼消費量など、
商工業,産業の伸張が著しいことにより、日本がいずれ、中国にキャッチアップされるどころか、
完全に飲み込まれて没するということを意味している。
中国の植民地云々の話になると、ビジネスマンや経営者などの間でも異論があり、
中国に関連の深いビジネスを展開している人達の中でも、楽観論と悲観論が二分している。
楽観論は、中国が伸びているのは確かだが、その間に日本も止まっているわけではなく、
差は縮まるだろうが、飲み込まれる程のパワーは、ない。
むしろ日本の技術力の底力、特に精密加工や、基礎研究力は、
新興勢力の中国では、簡単にキャッチアップできない。
それに、貿易統計が伸びているといっても、日用雑貨、衣服などローテク商品であり、
労働集約産業の成果物にすぎない。
と、いうような論拠である。
一方、悲観論は、日本が戦後30年で達成した成長率を中国は、10年で達成している。
13億から14億もの国内市場を後ろに控えており、そのパワーは、
これまでの、世界のどの国もできなかったエネルギーを孕んでいる。
すでに日本の老舗の工作機械会社を買収するなど、着々と日本併呑の準備を整えつつある。
などである。
私は、そのどちらも正解で、どちらも少し外しているという私見を持っている。
楽観論に対しては、中国の現在のベクトルを過小評価しすぎているという点が上げられる。
正月の新聞などを見ると、一般消費材のローコスト生産から、
もはや脱却しつつあるという認識は、あるようだが、そのベクトルがどこをターゲットとして向かっているか
と、いうことは、述べられていない。
日本の産業と技術に疎い政治家達やグランドデザインを描けない無能なリーダーと違って、中国は、明確な方向性を持っている。
それは、労働集約産業を知識集約産業に転換しようとするIT技術重視型の国策である。
この分野における日本の政府,官僚のお粗末さは、本当に最高学府を優秀な成績で卒業したエリート達を有しているのか
と、疑いたくなるくらいの貧しさである。
日本のIT産業は、完全に民間主導型というよりも、まったく孤軍奮闘といっていいぐらいの環境で世界の強豪と戦っている。
何も、政府主導型の保護政策や、支援政策を実施しろと言っているわけはないが、
10年後,20年後のIT産業が世界の産業構造図の中でどのような意味を持つのかを理解できる真のテクノクラートが存在すれば、
これから述べる中国のベクトルにも充分に伍して競争できる。
それほど、中国のベクトルは明確である。
例を挙げると、アメリカやヨーロッパなどの大学を出た博士号をもつ俊英達を金に糸目をつけず呼び戻している。
また、そうした、アメリカ帰りの俊英達を民間企業に配置するだけでなく、政府関係の研究機関などに積極登用している。
1年に大学の工学部を卒業する卒業生は、50万人と日本の10倍の数である。
北京の中関村のように数千人単位のIT技術者を集めたハイテクパークを各地に擁している。
IT産業では、基幹技術であるOS(基本ソフト)の開発をコンピュータだけでなく、携帯電話でも国産で推進している。
などなどである。
悲観論に対しては、以下の話の後にしよう。
ところで、中国人は、龍の子孫であると言う民間伝承が、当の中国人達の間で信じられていることをご存知だろうか。
これは、中国人のプライドの高さを表すと同時に、ある意味では、中国人の性格を表している正しい伝承でもある。
中国人の思想の根幹を成すものは、中華思想であるが、その最小単位は、一人一人の徹底した個人主義である。
中国人は、数千年の歴史の中を、生き残り、存続するために、そして、十数億以上の人口の中で、
己の存在意義を確立するために、確固としたアイデンテティを保持するしかない。
その継続した意思が龍を象徴する個人の強さである。
数百年の鎖国と単一民族の平和の中で外敵の恐怖がないまま
独自の文化を築きあげてきた日本人とは、個のレベルでの強さが違う。
日本人は、「和をもって尊しとなす」という言葉が象徴するように他人との折り合いを付けていくことで、
民族として存続するという方法論を選択してきた。
そのために、他人を蹴落としても己を主張すると言うような考え方がない。
むしろ個を殺し、公につくすことを美徳としてきた。
そして、常に他人の目が自分をどう評価しているかを気にする蟻のような小心な処世術で生きてきた。
日本人が蟻と云う例えは、中国人が龍というのに対して私が、今勝手に例えたものであるが、
卑下したものではない。
龍は、1匹,1匹は非常に強い龍であるが、常に1匹の龍である。
時として、お互いのエゴがぶつかり合い、食い殺し合いが始まることもある。
一方、小心者の蟻は、1匹,1匹では何もできない力の弱い生物だが、
集団となると大変な結束力とコミュニケーション能力を持っている。
そして、大型の龍ではできない緻密さと繊細さを持ち、小さいがゆえの道徳のセンスを持つ。
話は、産業技術論から、民族の話になったが、中国の植民地云々の悲観論に対する反論の根拠は、
実は、この民族の精神構造から来る。
日本人が、日本人であることの存在理由と、これまで独自に培ってきた芸術、文化、技術などの緻密さ、繊細さ、
そして、日本人が傑出しているセンスをクローズアップし、その分野を伸ばす産業モデルを構築すれば、
中国に呑まれるどころか、伍して戦い、そして、良きパートナーとして次の時代を構築できる。
それにしても、こうしたお互いのアイデンテティの確立もないまま、
靖国神社の問題などの内政干渉を唯々諾々と聞いているような軟弱な政府には、
IT産業のグランドデザインなど到底無理なことだろう。
そして、ここを突破できないようならば、いずれ中国の植民地になるのも仕方ないのかもしれない。