さちえさん
2005年10月7日初稿
サチエさんと言うのか、幸恵さんと言うのか誰も知らない。
また、さちえさんという名前が本名なのか、
そして苗字は、なんと言うのかも誰も知らない。
歌舞伎町に変人、奇人、怖い人、頭のおかしい人は、数々居るが、
このさちえさんは、そのどれにも入らない。
ただ、不思議な人である。
どこに住んでいて、どこから来て、どこに帰るのかも判っていない。
はっきりしていることは、歌舞伎町で30年近く夜の仕事をしている。
歳の頃は、60才くらいだろうか。
もっと行っていると、いう人も居る。
150Cmくらいの小柄なおばあさんで、特別飾り立てた服装をしているわけではない。
むしろ、街を歩いていても誰も気に留めないくらいの地味な服装をしている。
そして、極めつけは、歌舞伎町で生計を立てている人たちに共通のアクのある人相を持っていない。
単純に言うと、おとなしいどこかのいいところのおばあさんという人相である。
つまり、外見上は、まったく普通のいや、普通過ぎる人である。
だからこそ、その人相風体と仕事とのギャップに唖然とさせられる。
そのさちえさんの仕事は、キャッチである。
通常キャッチというと、どこかのクラブやバーなどの店に雇われて、
街頭でお客さんを文字通りキャッチする仕事で、
上手くキャッチしたお客さんをお店に誘導するのが仕事である。
ところが、さちえさんは、特定のお店に雇われている訳ではない。
では、フリーの街娼かというとそうでもない。
時としてお客さんが望めばそういうこともあるようだという噂を耳にしたことがあるので、
本当だとすれば、街娼といえないこともないのだろうが、これまた真相は、誰も知らない。
また、歌舞伎町には、路上で酔客に声をかけて、ホテルなどに待機している若い女の子を斡旋する
やり手ばばあが居るが、それとも違う。
さちえさんは、自分の売り上げのためにキャッチをしている。
変わっているのは、そのビジネスのスタイルである。
夜の10時を回って歌舞伎町の街中にアルコールの匂いがたっぷりと充満した頃、
さちえさんは、現れてキャッチを始める。
声をかける対象は、必ずどこかの店でしこたま酒を飲んで酔っ払った一人の客で、
若い男や複数の人間には、声をかけない。
中年、いや歳を取ってればいるほど、つまり老年の酔っ払いほど積極的に声をかける。
ただし、あからさまにキャッチという職業の常套句である
「飲みに行かない?」
と、いう言葉は、発しない。
酩酊している老年の男性が千鳥足で歩いていると、すれ違いざまに小声で、
「酔っ払ったの?」と、声を掛ける。
声を掛けられた男性は、
「うん?」
と、立ち止まり、声の主のさちえさんを見る。
親しげに声を掛けられたので、知り合いかなと、思いを巡らせる。
目の前に居るのは、静かでおとなしそうな、
そして地味な、どう見ても歌舞伎町の往来の真ん中で声を掛けてくる商売女とは違うおばさんがそこに居る。
どこかの店のママかな、それとも昔、どこかで出会ったことのある女性かなと考えていると、
そこから、さちえさんの術中に嵌まることになる。
「久しぶりね」とか言いながら、腕をつかんでいるさちえさんが居る。
もちろん、歳のころは60才を過ぎていようかという見かけだから、いくら男性が酔っ払っていても
そうそう、キャッチできるものではない。
中には、酒は入っていてもしっかりと酔っ払っていない者もいるし、
酔っ払っていても若い娘じゃないと
「なんだ、このばばあ」
と、いうような者も居る。
そういう場合は、
「酔っ払ったの?」
と、声を掛けた瞬間に、何事もなかったかのようにスタスタと遠ざかるさちえさんが居る。
さちえさんのキャッチ術は、最初に男性に声を掛けた瞬間に
今日のビジネスの成功を判断する芸術の領域の人間観察術なのである。
歌舞伎町に限らず、夜の巷に酒を飲みに来る者は、
日常と違った何か楽しいできごとが起こることを期待して、高い酒を飲む。
純粋に酒だけを楽しむのなら、家庭で飲めばビールは250円で買えるし、
スコッチウイスキーでも3000円で買える。
それを5倍から10倍もの料金を取られることがわかっていながらクラブやバーに繰り出すのは、
酒の応対をしてくれる女性との間で、ハプニングが起きて日常と違う世界の夢を見れるかもしれない
と、いう淡い期待があるから、日毎夜毎に男たちは、夜の街に足を向けるのである。
中年や老年の境地に入り、そうしたハプニングに出会うこともなくなってきた酔客にとって、
いかに地味なおばさんといえ、女性から親しげに声を掛けられ、腕を組まれたら天にも昇る心の高まりになる。
偶然、さちえさんのキャッチしている場面を目撃した人は、
客引きをしている女性の人相風体を見て、
あんな冴えないばばあにキャッチされて就いていくやつの気が知れないと思うかもしれない。
しかし、地味で冴えない女性だから酷いことにはならないだろうという安心感も酔客にはある。
そして、さちえさんの
「私の店で飲みなおしましょう」
と、いう言葉にそくされてビルの中に消えていくのである。
カラオケの賑やかな音が外にまで聞こえる店のドアを開け、店内に入った。
ドアを開けると、
「いらっしゃいませ〜」
と、いうホステスさんたちの声がした。
店の中には、他の客がホステスさんたちと楽しそうに酒を飲み、カラオケを歌っている。
(普通のクラブのようで変なぼったくりとかじゃなさそうだ...)
と、酔客は、安心をした。
さちえさんは、客をカウンターの端に座らせて、
「私、あなたとゆっくりお話をしたいから、カウンターで、いいわよね」
と、隣の席に座った。
カウンターの向こうから主任が何も言わず、ウイスキーのボトルと水、そして氷を用意して出した。
「いらっしゃいませ」
と、女性が一人挨拶に来た。
「この店のママ」
と、さちえさんは、短く紹介した。
しかし、ママは、挨拶だけを済ませると、
「ごゆっくりどうぞ」
と、一言告げて後は、さちえさんに任せてすぐ他の客の所に戻っていった。
さちえさんは、手際よく水割りを作ると、客に
「ところで、お名前を聞いてなかったわね」
と、改めて名前を尋ねた。
客が名前を言うと、
「よろしくお願いします」
と、自分もグラスを持って乾杯をする。
後は、とりとめもない世間話をしたり、カラオケを勧めたりと、普通のホステスと同じ接客をする。
しかし、少し変わっているのは、しきりに酒を勧め、そして、何回も乾杯をするのである。
もともと、酒に酔った客を捕まえてきているのであるから、客は、さらに酩酊状態が進むことになる。
そして、1時間ほど経過したころ、
「ああら、今日はずいぶん酔っているのね〜」
と、さちえさんが言い出す。
「今日は、もうお酒は、やめにしましょうか..ママ!お客さんおあいそ」
と、そそくさと酒を片付けて、ママの所に行き、料金を書いた紙を持って来る。
2万円という1時間程酒を飲んで歌を歌っただけにしては、そこそこの料金が請求される。
しかし、クラブで飲むことを予定して歌舞伎町に来た客は、
その程度の金は、持っているし、金払いは、悪くない。
まだ飲みたそうな客も急きたてられて、お金を払わされ、
来た時のようにさちえさんに腕を組まれて店を出て行く。
この時、酒を飲むだけと気づき、期待した何事も起こらなかったことを不満に言う客には、
「いいところに行きますか?」
と、言って店から連れ出すのである。
当然、いいところとは、客の期待するホテルを意味している...
と、客だけは思っている。
しかし、店を出て、ビルの外まで来たときに、
「今日は、それだけ酔っていたら、いいところは、無理でしょう。また今度しゃっきりしている時に、ご一緒しましょう」
と、引導を渡されるのである。
首尾よく、客と別れたさちえさんは、さっきの店に戻ってくる。
そして、ママから、1万円をもらうと、また歌舞伎町の路上で別の客に声を掛ける仕事を始めるのである。
そう、さちえさんは、完全にフリーで、キャッチしたお客を契約した店に連れて行き、
そこから自分の売り上げをバックしてもらうというスタイルの仕事なのである。
契約した店にとっても、給料を払わずに済み、
特別誰に迷惑をかけることもなく1万円という売り上げを落としてくれるさちえさんを邪険にする必要もない。
むしろ、年取った女性が自分の身ひとつで、
文字通り身体を張って稼いでいる健気さを応援しているという気持ちもある。
マンタの身体にへばりついて餌をもらっているコバンザメのような共生関係で成り立っている、
珍しいビジネスのスタイルである。
水商売は、明日をも知れぬ浮き草稼業と言われるが、
さちえさんの場合は、定点すらない歌舞伎町の淀みを流れる泡沫である。
よる年波で、身体を張った人生も辛かろうと思われるが、
しこたま、稼いで貯めているらしいという噂もあるので、 そうならば救われるのかもしれない。
名前のように。