全ては、猫から教えてもらった  その1  2005411new

 

              小学二年生の時に、父が小さな猫を拾ってきた。

              アル中で偏屈な父が、何を思って、その猫を拾ってきたのか解らない。

              小さな漁師村だから、猫は、そこらじゅうのどこにでも居たし、

              飼い猫と野良猫との区別もつかない場合も多かった。

              漁師は、猫を可愛がるし、猫を大事にする。

              一般的には、漁に使う網を食って駄目にする鼠を獲るからといわれているが、

              その他にも、漁師にとって一番大事な観天望気(自然の気象を読むこと)を助けてくれる動物として、

              その鋭敏なひげや、明るさによって変化する目というセンサーが重宝されているからである。

              猫のほうも、漁師村に居ると、落ちている魚などで、餓えることはないので、平穏無事な生活ができる。

              歳を取って、現役を引退した老漁師が日向で網を繕いながら、穏やかな余生を楽しんでいる。

              その傍で、猫があくびをしながら、話し相手になっているという風景が、私の幼いときの村の日常だった。

 

              父が拾ってきた猫は、尻尾の長いトラキジの普通の猫だった。

              大きさは、子供の手のひらに乗るくらいだったから、生後2ヶ月程度だったのだろう。

              すでに、茹でた魚の身をほぐしたものを食べることはできたので、飼えることはわかった。

              しかし、小さな家で、両親と5人の子供という家族構成から、とても猫の入る余地は無いと思ったのか、

              父は猫が魚を食べ終わって満腹になると、またもとの場所に置いてくると、言った。

              その時には、私は、もうその子猫のとりこになっていた。

              小さな塊が、息をして、食べ物を食べ、手足を動かしている。

              日常にありふれて、どこにでも居るはずの猫が、

              その時は、信じられない美しい存在として子供心に入ってきた。

              自分が面倒をみるからといって、父を説得して、飼う事を承諾してもらった。

              父も最初から、そういう気持ちだったのかもしれない。

 

              その日から、私の猫との長いつきあいが始まった。

              名前は、ごく平凡にタマという名前にした。

              野良猫だったので、体中に蚤が居て、一匹ずつ捕っていては、捕りきれない。

              洗面器にお湯をはり、湯船に浸からせながら、退治したのが最初の世話だった。

              お湯を嫌がって暴れるその鳴き声も可愛く、美しい音楽のように聞こえた。

              学校に行っている間以外は、ほとんどこの猫と一緒にいることが生活で、

              寝るときも私の布団の中に入って寝るようになっていた。

 

              1年もすぎるとりっぱな成猫に成長し、しなやかな尻尾と、均整の取れた姿は、

              美しいフォルムを作っていた。

              私は、その後の人生の中で、何度か恋愛経験をするが、

              理想的な女性を夢想し、見果てぬ夢に苦い想いをする女性像の原型は、

              この猫のフォルムだったと思う。

 

              美しく、利口な猫だった。

              それに猫好きな人にとっては、別段珍しいことでもないのだが、

              明らかに人間の言葉を理解していると思われる体験をすることが多かった。

              その後、犬も一緒に飼うことになるのだが、

              たまたま、私の飼った犬と猫がそうだったということではなく、

              明らかに猫の方が、人間を理解するということに関しては、深いレベルで、能力があると思う。

              人間の命令の理解度に関しては、犬の方が圧倒的に賢いし、

              芸をすることや番犬のように有益性を考えたら、犬の能力のほうが高いのは、いうまでもない。

              しかし、喜怒哀楽という感情のレベルになると、猫の神秘的なまでもの表現能力は、

              犬の及ぶところではないと思う。

              だから、犬のほうが賢いという一般論を唱える人や書物には、少し疑問を持っている。

              ただ単に私が猫フリークであるからかもしれないが。

 

              タマは、雌猫だったので、成猫になると子供を産むようになった。

              多いときは、5,6匹を、それも通常は、1年に1回の冬から春に向かう季節に生むだけなのが、

              1年に2回も生むこともあった。

              私が、高校を卒業するまでに数十匹もの子猫を産んだことになる。

              目が開いて、可愛い子猫になって、人手に貰われていくケースはほとんどなく、

              ほぼ全数は、生まれてまもなく私の手によって海に捨てられることになる。

              一番可愛がっているのが私だから、産まれた子猫を捨てるのも私の役目である。

              1年に1回か2回必ずやってくる、一番つらい役目だった。

              しかし、それをやらなければ、可愛がっている母猫のタマそのものを飼えなくなるので、

              やむを得ず子供を捨てなくてはならない。

              生まれたばかりの子猫は、まだ目が開かずミャーミャー鳴いている。

              そして、母猫のタマの乳房に吸い付いている。

              そのまま引き剥がすと、動物の本能から子供を咥えてどこかに隠そうとするから、

              無理に引き剥がさないで、2,3日子猫の授乳に専念させる。

              どうしても空腹に耐え切れなくなったころ、餌の匂いをさせて、食餌を与える。

              産褥から這い出してきて、餌を食べているところを見計らって、子猫をさっと隠し、

              そして、海に持っていって捨てるのである。

 

              子猫は、生まれたばかりとは言え、わずかばかりの小さな手足をばたつかせて泳ぐことができる。

              しかし、それも長くは続かないで、やがて、鳴き声とともに海の中に沈んでいく。

              私は、それをじっと最期の一匹が沈むまで見ている。

              この世に生を受けてわずか2,3日の命である。

              どうして、この子たちは、生まれてきたのか。

              この世に生を受けることに意味があったのか。

              死んで、どこに行くのか。

              神様は、どうして、この子達に生まれてきてすぐ死ぬ運命を与えたのか。

              この子達は、あの世に行って幸せになるのだろうか。

              そうした、結論の出ない自問を繰り返し、何時間も海を見つめながら、子猫たちが逝くのを見送った。

              どんなに考えても、小学生の頭で理解できる命題ではなかった。

              しかし、目の前で自分が手を下して葬り去った小さな命たちが消えていくという事実から目を背けては、

              この子達にすまない気がして、考えざるを得なかった。

              そうして、泣きつかれて、思考が停止するころ家に帰った。

 

              生まれてからすぐ、捨てるという行為は、いくらなんでも可哀想じゃないかと、親に言った事がある。

              しかし、「目が開いてこの世の景色を目にしてから死ぬと、この世に未練が残り、成仏ができない」

              と、いう親の説得に確かにそうかもしれないと考えた。

              また、海に捨てるのではなく、山かどこかの草むらに捨てたほうが、

              苦しまなくて死ねるのではないかとも訊ねた。

              それに対して、「山に捨てたら、自然と餓死するか、山犬に食い殺されてしまう。

              そっちの方がよっぽど苦しんで死ぬ。どうせ死ぬのなら、一思いに成仏させた方が、慈悲というものだ」

              と、いう親の考えにもそうかと納得した。

              子供心に、生と死、それに仏教の教えを教えてくれた子猫達の死をありがたいことだと思う。

 

              海から帰ってくると、もっとつらい出来事が待っている。

              それは、子猫を探して半狂乱で鳴きまわるタマがいるからである。

              1週間ほどは、最低限の食餌と水しか飲まず、大きな鳴き声を上げて、子供を探し回る。

              屋根裏や物置や、床下やどんなに探しても居るはずがないのだが、諦めずに鳴き続ける。

              そして、喉から声が出なくなるほど鳴き続けて、数日が経つと、子猫の匂いも薄れて、

              諦めたのかようやく日常の生活に戻る。

              しかし、たまにドアの軋む音や、金属の摺れる音などで、

              子猫の鳴き声に近い音が聞こえると思い出し、また半狂乱で探し始める。

              母性という強烈な本能を嫌というほど見せ付けられる数日である。

 

              私は、たまたま兄弟が多かったことや、家の家計は、母親の仕事で支えられていたので、

              母親といつも一緒にいて、母親から充分な時間をかけて、かまってもらったという記憶があまりない。

              しかし、このタマの狂おしいばかりの母性を見せ付けられて育ったので、

              母親の愛情というものを疑ったことはない。

              畜生の猫ですら、この母性である。

              いわんや人間おや。