あなみにく、海の変わり様 その1
2004年12月26日 初稿
♪ 我は海の子、白波の騒ぐ磯辺の松原に、
煙たなびく苫屋(とまや)こそ、我が懐かしき棲家なれ
唱歌の“我は海の子”の歌詞に歌われる日本の典型的な海の情景である。
♪ 生まれて潮に湯浴みして波を子守の歌と聞き
と、続くが、その2番の歌詞のように波を子守の歌と聞いて育った私の原点は、海にある。
願わくば、その海の見える故郷の丘で眠りに就きたいと、思うような歳になってきた。
しかし、故郷の海は、私を育んでくれた昔の海ではない。
そして、私の故郷だけでなく、日本全国のほとんどの海が例外なく無残な姿に変貌してしまっている。
それは、変貌などという生易しいものではない。
醜悪な崩壊である。
日本全国にある、唱歌に歌われた白砂青松(はくさせいしょう)の海が、
そして、白波が打ち寄せて、魚が躍り、蟹が遊んでいた磯が死に絶え、
悪臭を放つ汚物の残渣が漂う海の姿がいたるところにある。
この日本中の海のある風景の海岸で、浜で、磯で深く進行している重大な悲劇が、
私たちに伝えられることなく、漁村では、平和な生活が営まれている。
しかし、その平和な生活の影で進行している重大な危機は、漁村を蝕み、
漁村の生活なんか関係ないと思われている都会の生活にまで影響は、侵攻してきている。
世界に類を見ない美しい自然を有していると云われた、黄金の国ジパングが、
世界で一番自然のあるがままを愛してきて、自然と芸術の融合に繊細な美意識を持っている
と、云われる日本人が、実は、一番無残な自然崩壊を見逃して、無頓着でいる。
おどろおどろしい言葉を並べても何の説得力も無いので、事実を検証しよう。
この私の主張を記憶して、漁村に向かうといい。
一見、何の問題も無いかのような見慣れた風景がそこにあるはずだが、それは、昔の漁港ではない。
完璧なまでのきれいなコンクリート製の岸壁がそこにある。
そして、それに続く、海岸線をずっと目で追って欲しい。
そこには、磯でも浜でもなく、全部コンクリートでできた、海岸線があるはずだ。
それが、どうしたと言われるかもしれないが、
これこそが、豊穣の海を緩やかな死に追いやる劣悪なる元凶である。
ところが、このコンクリートの海岸線が、“護岸工事”という美名を隠れ蓑にして、
日本中の海岸線を侵食しているのである。
なぜ、このコンクリートの岸壁が海を殺すかを説明しよう。
海は、大きな自然の循環生態系の母体であり、子供を宿す羊水であり、
生命に有毒な物質を無毒な物に解毒する肝臓機関である。
当然、その機能が損なわれると自然の循環生態系の連鎖が遮断される。
つまり、新しい生命を宿す母体として機能しなくなる。
本来の自然な浜や、磯には、多くの海草や、魚貝類という私たちが良く知る生物以外にも、
軟体動物、棘皮動物、控腸動物、節足動物などが生息している。
また、こうした、動植物たちの周りには、自らが彼らの餌となり、
彼らの排泄物を掃除するプランクトンや微生物が存在する。
数億や、数兆というような数字の単位では、数えられないほどの天文学的に多い生物が、
すべて、海を母体として生命を育み、連鎖の鎖がつながっている。
そして、それらの生物と海の接点は、浜であり、磯である。
自然の浜や、磯が無ければ、生物と海の接点は、断ち切られ、連鎖は遮断される。
その接点の鍵は、浜の砂のでこぼこであり、磯の岩のでこぼこである。
でこぼこは、表面積を多くし、穴は、魚などの卵を海流や他の魚からの食餌から守るので、
生物は、そこに着床し、産卵し、生物として成長する。
それが、コンクリート製の岸壁では、その機能がなく、
ただ単に人間にとって見た目がきれいな生物にとってのギロチンでしかない。
微生物や、小動物は、他の動植物の排泄物を清掃する自然界の大きなクリーニング屋でもある。
そして、海にとって有害なリンや有機金属などを無害に還す解毒作用の肝臓組織でもある。
肝臓が機能しなくなった人間は、体中に毒素が回り死ぬように、
海もこうした微生物の解毒作用を失くしたら、毒素は、海に充満するのである。
日本全国の海岸をコンクリート製の岸壁で覆いつくしていくことは、生きている肝臓組織を摘出して、
解毒作用を持たない身体を作り上げていっていることになるわけである。
見た目も醜悪な、そして、科学的にも愚かなこのコンクリート製の岸壁を壊し、
元の磯や浜を復元しないと、我々人類の未来は、毒素が充満した海で死に絶えていく。