東京東アジア文化交流会55回シンポジュウム
10月2日 火曜日 午後六時〜九時
飯田橋ボランテイアセンターF10のB室 
JR飯田橋西口下車すぐ
会費1000

 
耿諄氏追悼の辞
 
耿諄さんは、洛陽の会戦で日本軍から受けた被弾によって負傷したことがあり、そのときの弾の一部が破片となって体内に残っていたものとおもわれます。おもわれるというのはわたしの推測ですが、彼は、最初に開封のホテルで三日間取材した(1985年11月)ときのこと、被弾して残った傷跡をわたしと劉智渠に見せていたことがあったのです。この戦闘は、日本軍最後の大作戦(大陸打通作戦)というもので1944年五月の洛陽がせんじょうでした。蒋介石国民党正規軍との激戦地でのことでした。大尉だった耿諄さんは、そのとき部下たちと戦争捕虜となって、日本軍の手で捕虜収容所に入れられています。中国に進駐していた日本軍は、占領地の治安を、親日中国政府による要請という形式を踏んでいたので、蒋介石国民党の捕虜という耿諄さんたちの身柄を、親日政権(当時は政務委員会)の側(国民党を名乗っています。)にわたし、その後に帰順兵に切り替えられたということです。その上で、更に耿諄さんたちは労工訓練所に移されていったのです。捕虜という立場を帰順して親日政権の方に移ったという身分の変更が、巧妙に仕掛けられていたわけです。このからくりのことは、今でもほとんどの日本人も若き中国人も知りませんし、理解の外にあることでした。悲劇の深みはここのところにあるわけです。
 戦争捕虜の身分から、帰順したうえで労工に切り替えられているというのは、当時の日本軍と中国地方政府との関係によって成り立っていることであり、このことは学術界のサボタージュも手伝って今尚明確にされてはいませんこと注意すべき点です。
 本人たちにも、詳しい身分の切り替えなどが説明されてはいませんから、捕虜で通すしかありませんでした。本人たちは最後まで納得したものとは言いがたい状態だと見なければなりません。私自身も、当初から現在のような理解の水準に達していたわけではありません。ですが、戦後の視点からのみによって、「戦争捕虜が強制労働させられた」と思い込んでことは進んだのだということです。それ故に、原告団長の意に反して、鹿島と五億円で手をうったという恐怖の「和解」が成立しているのです。戦争賠償を取ってやるといって耿諄さんを原告団長に祭り上げておいて、その実は、戦争賠償金ではない筋のおかねであり、謝罪や深甚なる反省の上に立つものではない「和解金」を弁護士と支援者側は、お金の性格を耿諄さんに戦争賠償金ではない旨の説明をせずに、受け取ってしまったのです。つまり、耿諄さんが目指していたものと、弁護士と支援者が妥結した金の性格は、まるで違ったものだったのです。説明不足というよりは、だましたというべきでしょう。
 鹿島交渉を劉智渠や李振平らと開始したのはわたし石飛でしたから、この間の事情は手に取るほどよくわかるダマシ振りです。後悔先に立たず耿諄さんは、歯軋りをして、こんな金は受け取れぬと宣言したままとなっていました。五億の金がどこに行ったのか、説明されず、原告団長の手を経ずに不明となっているのが現実です。
 耿諄さんの死を考えるとき、かれの人格が高潔であればあるほど、大きな課題として今後も残されているとかんがえます。
 鹿島交渉を開始し、耿諄さんを見つけ出し会見して事実を世に問い来日運動を仕掛けてきたわたしは、その劇的なまでの歴史の真実を暴けたのではないかという自負を持ちますが、いたらなかった非力をも、また恥るものです。耿諄さんとめぐり合わなかったらわたしはここまで「花岡事件」を暴ききれたかどうか解ったものではありません。十月二日のわたし主催の追悼の会では、出来るだけ虫けらのように死んでいった無名の若者の死を追慕し、蜂起のリーダー耿諄の英傑なる姿を伝え、冥福を祈る集いをささやかにも結びたいと思っています。
   2012・9

七月一日「花岡事件」慰霊供養の集い実行委員長  石飛 仁