発行:石飛仁 東京東アジア文化交流会 03-3821-9651
| 2013年8/20発行 | ||
| 第55東京東アジア文化交流会シンポジュウ報告 8月17日 土曜日午後1時30分~5時 飯田橋ボランテイアセンター10FのB室 テーマ 日中の間隙を衝く ! 二題、中国人強制連行最後の残留中国人朱茂林氏を語る 二部構成シンポ ①戦後日本に残留した中国人強制連行体験者朱茂林を語る。 =金子博文&石飛 仁 ②戦後中国に残って解放軍に従軍した中国人強制連行残留最後の生き証人朱茂林の存在を金子博文と石飛 仁が報告しました。 先ず金子氏が、満州を追われて天津に逃れた朱家の長男として生まれた朱茂林さんが、弟妹を残して、密告によって日本軍に捕らえられ、天津港タンクーの労工収容所から日本に連行され、冨士飛行場建設要員として下請け軍需熊谷組飯場に入れられ終戦時には、松本の作業場で敗戦を迎える。帰国組みとは一人はなれて残留して東京に出て闇市にもぐって食いつなぎ、必死に生きてきた朱さんの知られざる半生を、写真や図録を活用しながら詳細にその軌跡を説明していった。これを受けて、敗戦革命期の闇市に深く関わった朱茂林さんの人柄とその革命性をして、敗戦直後の時代背景を説明しながら強制連行された人々の存在意義を石飛が解説していった。 この、敗戦秘史とも言える放置された中国人強制連行問題の戦後史と対極に位置したのが、中国に残留して、満州を皮切りに中国大陸全土が解放されていくときの解放軍側に従軍看護婦として身を投じたという体験をもつのが山辺悠喜子さんですが、その体験が本人によって語られました。この体験談の貴重な証言の意義を山辺さんとは同世代の作家で評論家の稲垣真美氏が山辺さんとの対話を通して今日の日中問題を解説しました。尖閣列島問題は、このまま放置すると戦争になっていくのではないかとする国際政治の問題とは別に、われわれ自身は、人民同士の交流を優先させる視点が必要であることが強調されました。 ここでの問題提起は12月予定の拡大シンポへと発展させるものです。 12月東京東アジア文化交流会 拡充シンポジュウム準備会発足 基調文は近日発表 ☆☆ お知らせ ☆☆ (一) 10月4日午後2:00 作家・評論家稲垣真美氏国際善隣協会講演フォーラム講演決定 演題は、『日中間にはへだてなし―文学は国境を越えて―』です。 参加費一般500円 新橋(銀座口)にある国際善隣協会では毎月話題の国際問題を取り上げてその原理を掘り下げた講演会をやっています。旧満州にゆかりのある協会として伝統ある講演会を続けています。当協会の講演委員である石飛 仁の推挙で、このたび稲垣先生の日中問題を文学の立場から捉える講演にご期待ください。皆さんの参加を呼びかけます。 (二) 日本酒文化の会が発足。 9月15日府中大国魂神社境内で、「武蔵野国酒祭り」に共催として参加が決定。 日本酒文化の会は、日本主義編集長山岸修氏を中心に、常連出筆者によって提唱された日本再生地方活性化戦略の一環として取り組まれるものです。さしずめ日本酒を日本文化起こしの左様と捉えてのアクションです。組織化、全国化を地域振興と連携して充足させていくもので、会長に毎日新聞の社友の河合喜久男にお願いし暫定内閣をつくって、活動計画を立てています。(石飛文化戦略あり) (三) 9月29日 アジア都市環境学会国際会議 縄文の里茅野市で開催。 上田篤 座長の現代縄文研究会は、国宝縄文のビーナス発見の地である長野県八ヶ岳のふもと茅野市と共催で、縄文をテーマに国際会議が開催します。現代縄文学会は京都の上田篤先生主宰で、東京銀座の尾島俊雄先生の事務所にて研究会を重ねていますが、このたび、拡大会議として上田先生が基調講演する、茅野市での縄文をテーマにした会議です。 現代縄文研究会のメンバーである山岸修氏と石飛も関係しているので、縄文の里へのご案内という次第です。石飛 仁は、縄文中期に最も発展した八ヶ岳の縄文集落は、やがて、出雲と諏訪の関係で、出雲縄文の発祥の地と想定しています。石飛の注目点は、八ヶ岳こそ鉄の原料褐鉄鉱の産地ではと注目している点です。縄文出雲族は、八ヶ岳を源流として朝鮮半島へと拡充したとフンでいる注目の地です。参加ご希望の方はご連絡ください。 |
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| 2013年8/6発行 | ||
| 第16回『7月一日「花岡事件」慰霊供養の集い』信正寺実施報告 「花岡事件」は昭和二十年七月一日の夜十時二十分ごろ、秋田鉱山の下請け鹿島組事業所管理の労働飯場「中山寮」で起きた中国人労工の反乱事件です。この事件は四万人に上る中国人の日本国内への移入製作による国家プロジェクトであって、その責任は日本政府行政官と国策企業体に帰するものでした。しかし、戦後史はその責任の構造を明らかにしそれを弾劾するものは無く、ましてや責任の一翼を担う大企業に償いを迫るものはいませんでした。現実は、ただ事実の風化に手を貸す観念的な一国平和呪文者の小ざかしい活動が垣間見えたに過ぎないものでした。事実を風化させることにしか役だたなかったこれらの観念的平和呪文者の中から、やってはいけない「日帝の走狗」のような妄動が発生し、そのネコババにも助けられて、責任をとらねばならない体制は、利権化した復興計画に参入して延命するばかりでした。 現実の戦後史のなかで「花岡事件」の事実は、断片化して見えなくなっていたわけですが、その相貌をまさぐり一つ一つの事実を重ねて再現していったのが、わが「中国人強制連行調査記録の会」の仕事でした。なんと、事件発生日時が24時間もズレ込んでいたことが、この調査の深化によって明確になったのです。ところが間違いだと判った後になっても、観念的な呪文だけの政治運動は、間違った伝聞の上にあぐらをかいてきた「六月三十日事件発生日」の誤まりを認めず、かえって、真相を捻じ曲げて平然と嘘をつくようになって今日に至っています。 日本人の現場監督等を殺害して中国人労工らが集団逃走し、追っ手となった秋田県人との肉弾戦などによって多数の死者を出した、という双方にとっての不幸の本質たる戦争悪の地平は、敵味方を超えて問われなければならないにもかかわらず、今年も通俗の慰霊祭でお茶を濁しています。24時間も事件発生日時を間違えたままにしていては、アリバイは全部覆ることになり、延命に手を貸すだけのことにしかなりません。案の定事実をつめない利権や達は今日も札束数えてほくそ笑んでいます。 これは遺憾、これでは死者たちの霊を慰めることにはならない。事実が違っていたのではあの世に行っている霊に申し訳が立たないと開始した7月一日「花岡事件」慰霊供養の集いは、今年で16回目になります。 今年も、つつがなく東京から参加した代表者たちによって、7月一日午後四時より信正寺にて、住職ともども慰霊祭が行われたことをここにご報告します。 慰霊祭実施の詳細については、17日のシンポにて久野一郎より報告いたします。 第55回東京東アジア文化交流会 定期シンポジュウム開催のお知らせ。 8月17日 土曜日午後1時30分~5時 飯田橋ボランテイアセンター10FのB室『JR総武線飯田橋駅西口改札出て直ぐ飯田橋セントラルプラザビル内10階 会場の電話03-3235-1171) 日中の間隙を衝く ! 二題(二部構成) ①戦後日本に残留した中国人強制連行体験者朱茂林を語る。=金子博文&石飛 仁 ②戦後中国に残って解放軍に従軍した山辺悠喜子が語る。=山辺悠喜子&稲垣真美(作家) 資料代:1000円 |
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| 2013年5/14発行 | ||
| 5月1日に行われた『プレ「7/1花岡事件慰霊祭」東京会議』 石飛 仁ミニ報告 五月一日の、54回目の「花岡事件」真相を語るシンポジュウム(東京東アジア文化交流会)では、石飛排撃運動が存在することなどを知らずに新美弁護士と田中宏教授が先導する『戦争賠償を求める市民運動』に参加した体験を持つ、山邊悠喜子さんに講師として参加していただきました。 山辺さんは、日中八年戦争(小林説)が日本の敗北によって終わった戦後になって、中国の八路軍こと共産党主導の中国国民解放連合戦線に日本人として参加した稀有な歴史を体験した女性です。中国蒋介石国民党との国共内戦に勝利して中国共産党政権が北京に確立されたのは1949年10月のことです。山辺女史は日本人として新中国建国のために働いた従軍看護師という稀有な体験を持つ日本人でした。山辺さんによると、新中国建設を第一に掲げて、国民戦線を網羅して中国全土を解放していく共産軍の中にあって、過って日本皇軍が侵した中国人民虐殺の詳細は知る由もなかったそうです。共産党の教育方針で、全土解放に協力してくれる残留日本人や新たに助っ人として参加してくれる山辺さんたちのような日本人には、過って皇軍(日本軍国主義)が犯した戦争犯罪については、過去のこととして触れること事態を禁止していたのです。何かおかしいぞと思っていた山辺さんは、政権が蒋介石から、毛沢東共産党中心の人民解放戦線に移行したあとに、次第にその真相を知ります。身の毛もよだつ皇軍の戦争犯罪の過去を見聞きすることになっていくのです。(『日本人は中国で何をしたか』『中国人は日本で何をされたか』<いずれも潮出版>は、平岡正明をアンカーにした、ルポライターの朝倉喬司や石飛 仁の仕事であった。日中戦争中の皇軍の戦争犯罪を網羅した実録本である。このときのレポートは反日武装戦線の兵士たちに影響を与えているとも言われ、石飛は特に四万人日本国内強制連行の事実を解明し今日に至っている。) 山辺さんは、中国から帰国後、日本人が中国で犯した戦争犯罪の告発に一貫して取り組んでこられ、特に七三一石井部隊の細菌戦の後遺症問題の支援に尽力された方であり、日中友好の原点にタッチする市民活動家でした。 その、活動暦故に、新美弁護士や田中宏教授と在日中国系人士によって1995年に開始された「花岡事件」鹿島訴訟運動、に参画することになるのは市民運動家としては必然のことでした。 そこには、理想とする日中友好の旗がひらめいているかのように見えたのです。 石飛鹿島交渉の簒奪が巧妙に行われ、「花岡事件」のリーダー耿諄を家族ごと抱え込むことによって、石飛の配慮義務違反(石飛は未払い労賃の精算を求めてもいた)としての交渉の成立を横取りネコババする道具としての「戦争賠償請求裁判」であったが、その本質は隠されていたので、その裁判を「戦争責任を求める反日の御旗」だとみれば、参加することは可能だったのです。「戦争賠償をとるんだ」というスローガンには、このままではいけないと思っている憲法を守り平和を守る事を信条にしている陣営にとっては平和の御旗だと思って賛同することになるのは当たり前の話だったのです。 現に、この時期の石飛に対する陰口攻撃は、誹謗中傷も含めて悪態極まりないものでしたし、信正寺本堂での石飛 仁グループに対しての暴力事件には市民運動家が動員されてこれに加担していたのです。 日中の政府間同士でのみ可能な「戦争賠償請求交渉」のことは、弁護士なり、まともな国際信義が分かる学者なら誰でもよく知っていることです。新美弁護士も田中教授も私がコンコンと説明していましたから知らないわけはないのです。だから、彼らによる民事裁判への提訴は、即敗訴を前提にしてのものであって、その目的は、交渉の指導権を石飛から奪うための方便であって、裁判所に交渉を持ち込むこと事態が目的であり彼らにはそれが唯一つの逃げ道だったのです。 石飛交渉は、1991年6月12日の段階で、鹿島と三点の原則合意に達していました。①鹿島は事実としてあったことを認めこれを謝罪する。②鹿島として慰霊事業に五千万アルファーを計上して永代供養を行う。③鹿島一社がその責任を取られるものであってはならず他の事業所企業に及び閣議決定した日本政府も参加して広く平和基金を設立して、平和を求める、これに鹿島はaランクで参加する。というものでした。 「良し、それならやれるところから鹿島は取り組むべきだ」といのが私と鹿島との合意の線でした。これを知った新美弁護士と田中教授は、交渉奪還して攻勢をかけてきた石飛の火の粉を払うことのみに必死で、石飛式交渉が踏み込んでこれない「民事裁判の場」に持ち込んでブロックして失いつつある交渉指導権を再び石飛から奪い、裁判所内で一気に「和解」に持ち込むというものです。 もちろん鹿島との「和解」の内容設定は、石飛 仁の「日中平和基金方式」を矮小化した方式でいいわけです。一人五百万円と吹っかけて、裁判所での和解で受け取る実際の額は一人五十万円、それもその半分は、田中宏教授たちの自由になる金として取り上げるというものです。 この、裁判提訴は「戦争賠償を取るんだ」といスローガン化することによって、心ある人々をひきつけ、石飛グループは、それを妨害するニックキ体制派だと攻撃してみせる茶番でした。 耿諄氏にしてみれば、夢にも想像できなかった労賃を求める償い交渉が石飛 仁によって開始され、交渉発展の中で二人の弁護士まで紹介されて、交渉主役の座にまで上り詰めることが出来て、大満足の一瞬がおとづれてもいたのです。 しかし、裁判所に持ち込まれた『和解』の中身は、なんとしても金を受け取ることのみが、優先されるものであり、戦争賠償金が支払われたものなどとは到底いえない代物であったとしても新美弁護士や田中教授は決して自らは取材しないマスコミ(記者クラブ制)を指導(活用)して和解を実現させて見せるのです。 とにもかくにも五億円が原告側にわたるというもの以上ではなく、以後他のケースも含めて一切鹿島とは関係のない手切れ金以上のものではないにもかかわらず、支援者を(戦争賠償金だといって)欺いて金を受け取るのです。「騙された!」ときずいても、もうあとの祭り状態でした。五億円は、新美弁護士と田中教授と原告団事務局を担った家族グループの下に入って全て終わります。そして、金に群がるものによって再び口封じがされ五億円の使い道は以後一切明らかにされないままとなるのです。 「おかしい、これは何事だ!」原告団長が承知していない事態を放置しておいて日中友好など口が裂けてもいえない不実なる事態が発生していると、ごく一部の支援者が立ち上がります。その中に山辺さんはいたのです。先頭に立って、異議を唱え続けてきたのが山辺さんたちのグループだったのです。 この5月1日の講演では、山辺さんによって詳しい「騙しの手口」が、スライドを使って明かされました。醜い日帝の走狗たちの浅ましい姿がそこに現出したのです。 和解は、2000年11月のことですから、既に13年が過ぎ去り、「花岡事件」を知るものも、その不正に動いた日帝の走狗たちの存在を知る人は更にすくなくなっています。先ず金を取ったんだから成功だよと札束を数えてにんまりというわけです。 しかし、「花岡事件」の真実は、日中友好の真の活動によってのみ、ますます明らかにされ、正当な位置づけを獲得することになるでしょう。来る7月一日の信正寺の追悼では、静かに語りかけてくる故耿諄さんの声が蘇えってくることになるでしょう。 7月1日花岡事件慰霊供養の集いが、信正寺平和墓苑と本堂、花岡川にて行われます。 皆様の賛同と集い参加を呼びかけたいと思います。 ※ 今回のシンポジュウムは、二部に移って、現在各自が取り組んでいるテーマを通して広く国際平和を希求する会議へと進みました。 トップバッターは、 ① 大ベテランの作家稲垣真美先生です。 稲垣先生は、今年87歳になる戦前を知る作家(『兵役を拒否した日本人』等多数)です。発言された主な点は、今尚、中国の市井の人との交流があり、しばしば上海を往来していること、翻訳をしている人物との交流があり、真の中国人には教えられるところが多く、特に日中戦争に傾斜していく頃の日本は、情けない限りであったこと、特に述べておきたいのは、近衛内閣のブレーンとして、国策決定に有用な意見具申を重ねていた中国通の尾崎の圧殺は、事実の日中関係を間違いの元とにしていること。満州についても、誤解が多く、特に初期満鉄のあり様は、アメリカの鉄道王の横車の問題があり、戦争へ落とされる原因の一因があることなどを見落してはならない。山辺さんの講演は、実にその存在からして立派なものであり、石飛 仁さんがなぜ、五億円問題から外されているのかその原因が今わかった。遠慮して語らない石飛さんよりもよほど納得のいく説明だった。山辺さんの発言は実に貴重だ。と激賞されました。 ②次に登壇願った発言者は、映画の世界で今も活躍されている武重邦夫氏です。石飛の学生時代(樋口仁一)に大きな影響を与えた、映画の人で、当時(早稲田の学生)から今村昌平監督の弟子の筆頭として今村監督の独立プロを支え、更に映画学校設立に講師兼事務方を引き受けて数多くの映画青年を輩出されてきました。 実は、学生時代早稲田の先輩だった武重さんと私は、私が駒沢で二年ほど下だったこともあり、その接点は偶然なるものですが、駒沢大学の演劇部いた私は、彼の下宿先が小田急線の豪徳寺にあったことから、友人を会しての出会いであり今村監督が作品に取り組んでいるときの実話を直接弟師の口を通して学ぶ機会を得ていたのです、もっぱら映画全盛時代の銀幕の何たるかを教えられた関係にあったのです。武重さんは、その後、私が演劇からルポらイーに進んで必死に取り組んでいた「花岡事件」を、映画にしたいとその作品化を試みたことがありました。その思いは今でも消えていないそうですが、「花岡事件」をライフワークにしていたルポライター石飛 仁が、まさか豪徳寺の下宿に入り浸っていた樋口某であったとは知らないことだったのです。「花岡事件」の石飛の名は、武重さんはしばしば聞かされていたが、その存在は皆が煙たがるもので、暗に接触をやめておけというものばかりであったそうです。確かに、鹿島との交渉をめぐる指導権争いは、石飛の存在を排撃するものになっていましたから、二人は協力しあうことはなかったのです。もし、石飛 仁が演劇界に行った後輩筋の樋口だと知っていたら、ほとんど共通する芸能の場で、相当なる作品を物にしたのではないかと思われるわけですが、それが最近のごく新しい再会でした。 縄文の俳優故三國連太郎との接点にしても、ほとんどニアミス状態にあったのだということです。現在、武重さんは、日本各地に散った教え子たちの映画製作にプロデューサー役で奔走する日々が続いているのです。武重さん!中国のノーべル賞作家莫言さんも感激するような「花岡事件」を題材にした日中合作劇映画を作りましょう! ③ 過っての『現代の眼』編集長時代の書き手を再登場させてオピニオン季刊雑誌『日本主義』編集長をつとめている山岸 修氏です。 日本主義といえば戦前の日帝時代に近代軍事天皇制を盛り立てようとして敗北に手を貸したイデオロギーだったこともあって、戦後はいたって人気のないネーミングです。これはオーナーの指示なわけですが、自らは日本地域主義のつもりでやっているとし、地域と人をテーマに取り組んでいるというものです。確かに、日本列島生き残りのテーマは、都市化するばかりの将来像を、全国地域主義におき変えて、等身大の日本列島に立ち戻らなければならない時期に来ています。 もともと、日比谷公会堂の地下一階に活動拠点を持つ、ローカプレスセンターに関係する日本地域主義は、各地方の豊かな食と産業に眼を向けて、日本再生のビジョンを次々と打ち立てねばならないところではあります。この季刊誌『日本主義』では石飛 仁は縄文出雲古代史を連載中です。 山岸編集長が現在提唱しているのは、現代縄文研究会(上田篤先生)の事務局と「日本酒文化の会」の立ち上げです。彼の地元船橋で、房総の酒蔵三社と組んで、日本の産業お興しの第一歩をスタートさせる旨、アピールがありました。 ④松家 靖氏。佐川急便創業者佐川清の側近役として、日本の宗教と政界への佐川献金に精通し社内報『飛脚』の編集長を経てきました、しかし後に発生する佐川清政界献金スキャンダルに巻き込まれ、そのあおりを食い社外へ。創業者佐川清が何をしてきたか、日本のマスメディアと政界の癒着に嵌められた佐川の悲劇を彼は許せぬこととして日本権力構造のガンを見抜いてきました。国際金融フリーメイソンにも嵌められ、更に手を貸していくどろどろの日本の権力内部を、浄化せねばなりません。若き犯罪ルポライター朝倉喬司を彷彿とさせる松家さんの、腐った日本マスコミ弾劾は、日本よ眼を覚せと訴えずにはおきません。彼の出自は、なんと、二度にわたって国家権力に襲撃された大本教にありということです。彼の父母が大本教の幹部筋なのです。比叡山が世界宗教会のまとめ役として、西のローマバチカンに対して東の平和サミットを開催してきた価値あるメッセージについて、今、松家さんは、関心を寄せています。過って生前の佐川清がそうであったように彼も世界宗教サミットの発展に心を寄せる企画者でもあります。 敵は、ナべツネが握る日本のマスコミ界であり、作文して日本を操る検察であり、金に群がる政界の黒幕たちです。世直しをやるしかありません。松家さんに注目を! ⑤山岳ルポライター金子博文氏は、「花岡事件」の石飛 仁を支えてウン十年の右腕です。既に今度の現地花岡での7月一日慰霊祭のフライトチケットを購入しています。金子さんは、独自慰霊祭が17回に及ぶこと、更に、東京東アジア文化交流会シンポジュウム(54回)開催では、そのつど貴重なゲスト講演があって、それ自体が貴重な記録になっていることを訴えました。 石飛 仁の花岡調査追跡は、1971年から始まりますが、継続し深化する内実には、膨大なる蓄積があり、十数年来刊行を果たせなかった極秘一級資料『「花岡事件」秋田裁判記録』がやっと彩流社で刊行できたのは、彼の努力による点がありその仕事ぶりは、石飛 仁の信頼を一身に受けてとめている点があります。石飛 仁をサポートする同志は、四天王といわれる人たちがいます。男性では、金子さんの次に久野一郎(筑波大卒の学芸員)がおり、その一角を占めます。女性で最も長く石飛秘書役を務めてきたのが、西村悦子であり、金子博文ともども、サポートを続け厚木ハウスの掘田英子さんがこれに続きます。金子さんは、与えられた発言時間が短いことを見込んで、この日の発言は、北朝鮮断固支持というものでした。当然その真意を理解できないものが多いのでしょうが、近代軍国天皇制を勉強しているものには良くわかる話です。 ⑥今日の最後の発言者は、千葉睦沢町立歴史博物館を盛況なものにしてきた学芸員久野一郎さんです。久野さんの「花岡事件」における戦いの足跡は、独自慰霊祭への全出席です。石飛は家庭の事情で二度現地へはいけずに西村等に代行してもらっていますが。彼は一度も欠かさず出席しています。石飛 仁グループでの彼の貴重な任務は、法誹新美弁護士等との法をめぐる論争において彼らの法解釈は失当であることを断言したことです。極めて精緻な理論を積み重ねて、ネコババの事実をあげつらったことです。『情況と主体』誌上での論争は見事なものでした。この日の発言の主要な部分は、戦後未処理問題の指摘で学者として定評のある内海愛子氏との確執です。耿諄来日を工作したのは、石飛ですが、初来日のとき成田で迎えに出てそのときの模様をカメラで記録したのは久野氏でした。その時点で既に石飛 仁排撃がしかれられていて、内海氏はそれを承知で田中グループに入って行動していました。それが、後の「和解」決定前後の段階で、田中教授と在日華僑グループの一連の活動に嫌気がさして離れます。離れたあとで、久野氏は内海氏座長の歴史研究会に参加します。なぜ、田中と袂を分ったのかと聞き出すのですが、意見が合わなくなっただけとしか答えないのだそうです。 12月のシンポでは法誹の内容を開示することになっています。 乞うご期待。 5月1日のシンポは、通常の勉強会をはるかに超えたものとなりました。世直しに向かって行動することのみが必要になっているのが現在の日本の情況です。豊富なテーマを友人たちに提示していただきました。その意味で『プレ「花岡事件」慰霊の集い東京会議』にふさわしいものになったと思っています。ただ、大変貴重な歩みを体験されている。山辺悠喜子女史の話は、あらためて聴く会を設けなければならないと痛感したところです。 では、耿諄の「蜂起花岡事件」という視点で、現地花岡での文化講演会に付き準備に入りたいと思います。ご期待ください。報告を終わります。 2013/5/10 石飛 仁 〒113-0031 東京都文京区根津2-31-5-301 新ご案内 来る17日(金曜日)夜6:00~8:00 会費無料 縄文未来塾・ 講師 斉藤守弘 先生 テーマ 国宝土偶「縄文のビーナス」を解読する。 会場は西新橋二丁目の国際縄文学協会付属「縄文図書館」 (03-3591-7070)です。 主催は、西垣内堅祐弁護士の国際縄文学協会ですが、急遽、石飛 仁が司会役をやることになりましたので、案内役として少し喋ります。大変中身の濃い縄文の世界を記号解きの第一人者である斉藤守弘先生が紐解いてくださいます。 まだまだ知られていない縄文の世界ですが、現代の閉塞感を突破するには最も有効な世界です。 先ずもって戦争しなかった一万二千年のわが日本列島の先祖たちの世界を知ることだと思います。 ご気軽においでください、お待ちしています。 |
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| 2013年5/1 発行 | ||
| ①=花岡の地で、平和文化村づくりをスタートさせるには、一人でも二人でも花岡町民の参加が必要です。残念ながらこれまで、「花岡事件」と何らかの関連した事業を提起すると、それが文化おこしや、町おこしであっても、結実しないのが現実でした。その理由は、「花岡事件」の政治利用が鼻につき、潜在的心理としてブレーキがかけられてきたからです。「慰霊する、弔う」という人間としておこなう行為ですが、ブレーキはかからないはずですが、なぜ文化化が出来ないかということですが、それについて考えて見ますと、「花岡事件」そのものが必ずしも正しい事実に依拠していないことと関連していることにきずきます。つまり、その目的は何かということになるのです。当然事実ではないことや歪曲されたままの政治利用としての形式的慰霊は、人々の心理をなえさせ、歴史の教訓にはならないものとなるということです。花岡では、ずっと長らく、間違ったままの形式的慰霊祭が行われてきたのです。しかし、正しい事実は自らが掘り出して確認して初めて意のこもったものになります。正史「花岡事件」が、事実として浮上するようになったいまこそ、花岡の地に住む人々は胸を張って参加できるものとなるということです。道は整ってきました。事実を受け止め『弔う』行為を正当なものにして、町おこし文化村おこしの町に入ろうではありませんか。 ★ 7月1日に秋田大館市花岡信正寺「七月一日花岡事件慰霊供養の集い」を行います。実施要綱は追ってご通知いたしますが、7月一日慰霊祭は、決して私たちが初めて行ったのではありません。もともと、信正寺住職の手で町の有志と共に7月一日(命日)に「お経をあげる」という行為として密やか(非政治的に)に行われていました。「花岡事件」を政治運動として取り上げる人々が後に新たに登場することによって、事実を離れて、政治スローガンに都合の良い事件利用の観念化が進みました。慰霊は、もともと、7月一日に行われたのですが、事実を問うという基本を欠いたその後の政治利用がアダとなり、いまや岩窟王のごとく、「六月三十日だ」と間違えたままの物語「花岡事件」でなければならなくなっています。政治運動利用は、一部の人によって騙しが横行しするようになって、事実を語れなくなって彼ら自身がそのことに困っているというなさけない状態になってしまったのです。事実を消すことに余念がない左右の政治利用主義と決別しなければなりません。慰霊祭を正しく事実に即して元に戻して心底からの弔いの気持ちを表していかねばならないのです。実際に、われ等は7月一日慰霊供養の集いを実施しています。事実に依拠しているから私たちは、地元の皆さんと共同して国際的視野にたって平和祭を打ち立てることが出来るのです。 今年は、前夜祭として六月三十日(日曜日)の夜に信正寺本堂で、花岡の地を文化村化していくにはどのようにしていくかを話し合います。翌日の7月一日(月曜日)に恒例の灯明供養を平和墓地参霊後に本堂と花岡川で行います。で、今回は、今後耿諄さんをどのように顕彰していくかといことも重要なテーマとして取り組みます。 皆様の深甚なる御賛同をお願いします。 石飛 仁著 『「花岡事件」鹿島交渉の軌跡』 『「花岡事件」秋田裁判記録』いずれも最新刊行の本です。彩流社発行です。 ②—地域主義の時代がやってきた。 東京東アジア文化交流会では、「花岡事件」や135箇所強制連行問題に限らず、活動テーマを広く東アジアの文化交流においています。特に、シンポ開始当初は、吉田実さん(元朝日北京支局長)や外語大名誉教授の河部先生らと共に活動していたアジア問題研究会との連携において、ロシア沿海州開発など、中国と両にらみでその交流を模索するものでした。「花岡事件」は、大東亜共栄圏構想の中で発生した負の事実でしたのでこれを教訓にあらたな東アジア共同体を森嶋道夫先生(ロンドン大学)に共鳴しながら実施していくとするものでした。冷戦構造崩壊の後に築き上げるべき東アジアの文化交流をめざしてのことです。しかし、古典国家主義はまたぞろ頭をもたげて、争いを肯定する空気を興しています。どれも内部矛盾を覆い隠くす政策として出てきていますが、いまさら国家主義でもありますまい。肝心なことは事実を隠してはいけないということです。間違い(過ち)を絶対に隠したり歪曲させてはならないことです。わが、東京東アジア文化交流会は、ますます本来の文化交流活動を急がねばなません。 東京東アジア文化交流会の本来的活動について、少し触れましたが、出雲出身の私であることを活用して、日本の未来展望という意味で、日本海こそ「表文化だ」ということについて、特に取り組んでいるのが古代出雲王朝の歴史的検討というやつです。 考えあぐねた末の『縄文=古代出雲』という視点を掘り下げながらこれを契機にして、縄文晩期の出雲朝時代を追及しているところです。「縄文出雲古代石飛説」をお楽しみ願いたいとおもいます。研究論旨の発表は、季刊誌と、ブログで発表していますので読んでください。 (一) 季刊『日本主義』編集長山岸修(090-2631―あゆうえ3845)出雲古代史連載。 (二) ブログ・npo国際縄文学協会ホームページ縄文コラム上で縄文通信として連載しています。また、この協会主催の縄文塾での講演が予定されています。 問い合わせは、03-3591-7070(新橋事務所)までご確認ください。 ※ 第54回シンポプレ7月一日「花岡事件」慰霊供養の集い5/1東京会議 講師・山辺悠喜子女史の鹿島和解の欺瞞発表を始め活発なる発言をいただき意義ある会が行われたこと御礼申し上げます。 シンポ予告、7/1花岡慰霊祭の次は、 8.17国内最後の生き証人朱茂林=講師金子博文。 その次は、12月8日の日中戦争から対米戦争開始と大敗北、 そして米帝の属国となる戦後史をテーマに、 拡大シンポジュウムを予定しています。 |
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| 2013年4/20発行 | ||
| ①5月1日(水曜日)午後六時より飯田橋ボランティアセンターにて第54回東京東アジア文化交流会シンポジュムを行います。今回は、プレ「7・1花岡事件慰霊祭」とし、講師には、「五億円和解」に反対し続けた耿諄さんの立場に寄り添い、野合の「和解」(田中宏座長)に異議を唱えてきた、山辺悠喜子さんとその同志の皆さんの参加を予定しています。「花岡事件」は、俗説を楯にして責任回避し、デマゴギーによって大いに事実が歪曲され、今だに「歴史の真実」を排撃するものが後を絶ちません。日本人民と中国人民との真の交流は、事実の確認によってしか培われないことを肝に銘じて、昨秋に亡くなった耿諄氏をしのびながら、今回も現地慰霊式を自主的自発的に行うものです。皆さんのご理解と賛同をお待ちしています。 今回の54回目のシンポでは山辺さんの講演の後、第二部として、参加者有志による会議形式による。各自はコメントを予メ求めています。 簡単な人物紹介をしておきます。 稲垣真美氏 作家・岩波新書『兵役拒否の人々』の作者であり、真の中国、真の日本を捉えることのできる数少ない作家です。酒類評論の大家として近著『日本酒は世界一である』が彩流社より刊行されます。 武重邦夫氏 映画人・映画監督今村昌平氏内弟子として映画学校設立などに尽力され、若い第一線で活躍する映画人を続々と輩出されその功績は大なるものがあります。石飛が学生時代の畏敬の先輩でした。 山岸 修氏 編集者・月刊『現代の眼』の編集者として鳴らし、季刊オピニオン雑誌『日本主義』の編集長として論客多数をまとめてきました。断末魔の日本の空気に一言あり。 松家 靖氏 フリーライター。稀代の陸送佐川急便の創業者佐川清の秘書役として機関誌『飛脚』を担当。日本の文化事業に多額の寄付をしてきた佐川清の実像を知る唯一の側近としてその名誉回復にかけながら、日本直しを目指す志士。 金子博文氏 山岳ライター。長年自然と人間の関わりを月刊『山と渓谷』を母体にしてルポを書き、傍らで歪められた「花岡事件」石飛活動を補強支援してきました。7月一日「花岡事件」独自慰霊祭や54回のシンポの記録まとめに奔走。 久野一郎氏 町立歴史博物館学芸員。石飛 仁の中国人強制連行調査記録に初期段階より参加協力人。特にシンプソン記録のGHQ資料発掘や文通、中国での調査同行、独自慰霊祭には全部参加の実績あり。特に耿諄氏がらみの法誹たちを論破してきた功績は大である。 その他、グアム島在住の学者「DAVID/KUNG氏からの石飛 仁著月刊「スバル」での小ルポ「蜂起・「花岡事件」の夏」激賞メッセージ披露など予定。 ② 縄文の俳優三國連太郎氏逝去。4/14九十歳で、あの世に行きましたが、一時、怪物俳優三國連太郎の取材で交流を深めた私は、いまや彼こそが縄文の心を持つゆえの苦悩の俳優であったと理解します。この件彼が「花岡事件」に共鳴したこととあわせてあらためて書きます。 |
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