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(日本主義 書評原稿) |
『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』 (石飛仁著、彩流社刊、二〇一〇年五月発行、二八〇〇円税別) 『花岡事件「秋田裁判記録」』 (石飛仁監修・金子博文編、彩流社刊、二〇一〇年八月発行一万九〇〇〇円税別、) |
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戦時中の一九四二年一一月二七日、東条英機内閣は「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定した。これに基づき、日本は戦時体制を支える重要産業地点の労働力不足を補うため、四四年から四五年にかけて中国本土から約四万人の中国人を日本国内三五企業の一三五カ所の事業場に移入した。戦後、「中国人強制連行」といわれるようになった労働力移入政策の実施である。 主に華北地域で捕らえられた中国人は戦争捕虜として中国本土の収容所に入れられるが、そこで身分を契約労働者に変えられ「華人労工」として日本に連行されたのである。 戦後の四六年三月に外務省がまとめた「外務省報告書」によると、その総数は三八、一一七人(事業場到着人数)。死亡者総数は六八三〇人、死亡率は一七・五%にのぼる。このうち秋田県大館市花岡町にあった鹿島組花岡出張所には九八六人が連行され、全事業場中五番目に高い死亡率四二・三%となる四一八人もの死亡者を出した。 この鹿島組花岡出張所の華人労工収容施設「中山寮」で四五年七月一日夜、虐待や飢えに耐えかねて華人労工たちが武装蜂起を起こして日本人補導員等の殺害や殺人未遂を実行し、また、その鎮圧にともない華人労工たちが殺されたのが「花岡事件」である。戦後、BC級戦犯横浜裁判でとりあげられ、四八年に鹿島組花岡出張所の現場監督や地元の警察官が有罪判決を受けている。 その後、日本人の記憶から消え失せていたこの「花岡事件」を、歴史の闇から明るみにだしたのが、石飛仁である。ライフワークともいうべき「花岡事件」の調査・記録は現在まで約四〇年にもおよぶ。 石飛仁は詳しい資料がないなかで事件の現地花岡に足を運び、日本人関係者を探し出して取材を重ね、また、日本敗戦後も北海道や大阪に残留していた中国人関係者とも交流を重ねて、事実を探り出していった。 取材をすすめるなかで、国外の戦地ではなく国内の生産現場である鹿島組花岡出張所の契約労働者として働いた中国人が多数の死者を出し、賃金未払いや虐待、食糧不足による飢えなどに苦しんだことに対し、鹿島建設が明確な謝罪も犠牲者の声を聞くこともしてこなかった戦後史を知る。しかも、鹿島建設をはじめ華人労工を受け入れた土建企業は、戦後、その受け入れによる損害があったとして日本政府に対して巨額の補償金を要求して受け取ってもいるのだ。 石飛仁は「この非情なる状態を知った日本人として、これを黙って放置しておくことは、事実を世に問う記録者の端くれとしてできぬ」と考え、一九八四年、日本に残留した中国人の代理人として、鹿島建設との未払い賃金交渉(「鹿島交渉」)を開始するのである。 この交渉開始から近年に至るまでの、いまだに知られることの少ない経緯や事実を明らかにしたのが、『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』である。八七年発行の自著『ドキュメント 悪魔の証明』(経林書房刊)の内容に、その後の最近に至るまでの交渉の進展や関連する出来事を加えてまとめたものだ。 本書は、単なる交渉経過の記録ではない。たった一人で鹿島建設に乗り込んで交渉を開始し、相手が逃げることのできない正確な事実の追求に奔走して事件の当事者や一級資料を探し出すとともに、その事実を広く世に知らせようと、かつて自分が属していた演劇の経験をもとに報告劇を作って国内外で上演活動を展開するという、石飛仁をめぐる人間たちとの熱い交流と活動のドラマがある。しかも、そこには世界第二位といわれるまでに経済成長を遂げながら、先の戦争の正確な事実や責任について主体的な検証を避けてきた戦後史の具体的な実態が詰まっている。 「一億総懺悔」といわれながら、しかし、懺悔するべき実相についての認識も理解も教訓もあやふやにしたまま、冷戦や冷戦後の国際社会の流れに身をまかせて身過ぎ世過ぎをしてきた日本の在り方が浮かび上がってくるのである。戦争犯罪の一般論としてあいまいにするのでなく、自分が行ったことのおとしまえはきっちりとつけるべきではないかということなのだ。日本人の主体性が問われているのである。 石飛仁が事実追求のなかで入手した第一級資料を翻刻したのが『花岡事件「秋田裁判記録」』である。 これは、事件発生直後からの大館警察署等による関係者の事情聴取からはじまり、華人被疑者の秋田地方裁判所検事局への送致、検事による被疑者等への尋問、四度にわたる公判、同年九月十一日に下った被疑者十二人に対する有罪判決にいたるまでの捜査・裁判資料を、ほぼ時系列にまとめたものである。 「花岡事件」の裁判といえば、前述のBC級横浜裁判が知られているが、日本の司法当局が戦争直後に行った「秋田裁判」についてはほとんど知られていない。 「花岡事件」の一級資料としては、すでに「外務省報告書」や「事業所報告書」などがあるが、この「秋田裁判記録」は事件のもっとも直近のものである。しかも、事件当事者の証言や現場検証により時時刻刻の事件の詳細な推移や状況が把握でき、超一級の事件記録といえよう。相変わらず「花岡事件」発生日が四五年六月三十日とされているが、この記録により七月一日と確定されるべきである。(金子博文) |
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かねこ ひろふみ 一九四八年、神奈川県生まれ。フリーライター。東京東アジア文化交流会会員。登山専門誌『山と渓谷』に山岳環境問題を中心に執筆。主な著書に『北アルプス山小屋案内』『健康の夏山登山』(山と渓谷社刊)など。 |