| 年男 石飛 仁の2014年正月メッセージ |
2014年1月12日 堀田ハウス講演進行メモ 続いての1月16日の日比谷梁山泊 ミニ講演の演題として縄文の愛 1969年を中心に 何が私を突き動かしているのか― わが軌跡じぇじぇじぇの縄文 一部 学生時代演劇部 @ (1961年)一年生 テネシーウイリアムズ作「ロンググットバイ」ジョウ役。 ヴィルドラック「商船テナシティー」セギャール役。 A 二年生 モリエール作「スカパンの悪だくみ」中野公会堂、スカパンが大友で国文科で同期、現在の一柳斎貞二・小野三郎・オクターブ役。(校外公演禁止を総長宅に行って面会し打破した。学生課は阻止していたのを打ち破った。後の抵抗実現の先鞭をつけていることが劇研の後輩たちと新反戦派を作ることを通して後の学園紛争反帝学評の拠点校となり、後の新劇反戦を作ることになる話はここでは割愛する。) B 三年生 テネシーウイリアムズ作「ガラスの動物園」青年紳士役セリフがすごい。(披露)国文科の森山文雄(文芸部)と交流し、一方で今村昌平の助監をしていた早稲田の武重を知り性的人間の世界を知る。映画同好会を作る(部員二十名)。 C 四年生創作劇自作「走っていった青年」作演出、犬塚青年、梯と下重、カミュ作「正義の人々」演出と警視総監役。都演連一ツ橋合同公演に参加、評判をとる。卒論「新劇における文学性について」・此の年十月、駒沢大学の横に東京オリンピック開場の公園が出来ます。大学時代は、東京中心の公共投資で世の中ひっ繰り替えしたような変貌をとげていくのです。記憶をたどると二年生になると学園内は、急速にマンモス化して、野球部の肩入れをするようになる、読売の正力松太郎に大学としての名誉博士第一号が授与し、増設つぐ増設で巨大な学園に変貌していった。藤田学監が辣腕を振るって小さな仏教系学園を巨大な総合キャンパスにしていった。1960年に日米同盟強化の政治路線が決まると、池田内閣になって経済発展一辺倒な社会となります。戦後の労働運動が、反戦平和の戦後社会をリードしていきたのですが六〇年安保の敗北以後、労働者が政治的力を失って社会の中心から落ちていき、次第に経営者の時代に変容していくことになるのです。階級闘争という幻想は終焉を迎え、国家目標が経営者の保護育成に傾くことになって行きます。思想的には左翼幻想が退潮していく時代に入るので、壮大なゼロ(米国に隷属していく道のみのとなる時代に入っていく)という安後の思想状況に陥っていき、一方の経営者側の発展は目を見張るものがあり、そこへきてのオリンピック招致であったわけです。 そんな時代に私は青年時代を迎えていた。前衛不在の劇、青芸公演『袴だれはどこだ』を見た私は感激します。プロの演劇集団というものを初めて知るわけです。朝倉摂(日共除名組です)を知るきっかけは戸倉純子(ミスユニバース四位戸倉みどりの妹)と学校では同期として知り合うわけです。朝倉摂さんにデッサンを習うようになり、青芸を落ちて「オッペンハイマー事件」上演が決まっていた劇団「青俳」を受けることになるのは朝倉さんの押しがあってのことです。原爆の父「オッペンハイマー事件」はソ連に情報を売ったのではないかという米上の特別委員会が提訴しての裁判劇で、その戯曲は朝日ジャーナルに載ったほどの話題作です。名優滝沢修と宇野重吉が率いる劇団「民芸」か、それとも岡田英次と木村功の二大スターが率いる中堅の劇団「青俳」か、新劇界では大と中小の争いが生まれていました。私はその一方の劇団「青俳」に入り、研究所生になります(体操の原口さんから野口体操の理論を学び、モダンバレーの堀内完さん、新日文の津野海太郎に時局分析を教わり、縄文芸術を高らかに提唱した岡本太郎の講演会に連れて行かれ、同期に石橋レンジがいます。)その研究所生を一年間経て、卒業公演があって半分以上が落とされ正式に劇団「青俳」への入団となります。此の劇団は、左翼の新協劇団(村山知義系)から発展した劇団でしたが、社会主義リアリズムを否定した前衛劇団として評価されていて俳優中心(映画プロデューサー本田延三郎あり)の路線を歩みます。新進の作家安部公房の作品なんかをやっていた演劇の大御所倉橋健教授指導の劇団です。そこに、ドイツ演劇のブレヒトの演劇論を持ち込んだのがドイツ研究の岩淵達治先生(学習院の教授)でした。 1965年(昭和40)井上光晴の「八月の狩」木村光一演出。(朝鮮戦争で佐世保の労働者が米軍に雇われて毒ガス兵器を使うというミステリー仕立ての書き下ろし戯曲です。)清水邦夫の「逆光ゲーム」(石井部隊の話です。)そして岩淵達治演出のハイナール・キップハルト「オッペンハイマー事件」をやっている。岩淵さんのブレヒト演劇の知的世界を私は知ります。情緒を排し目覚める演劇v効果の存在を知るのです。帝国間戦争を経験しているドイツでもポーランドでもロシアでもパリでもロンドンでも、世界のインテリゲンチャーの苦悩について、演劇人はコミットしていました。社会変革の可能性を願う思想戦線を日本の思想前線でも意識していたのです。その中でヨーロッパ最前線のブレヒトの東ドイツの演劇運動というものを知る。(演劇することの極意でもある沸き立つ芸能を、欺瞞としてみる視点をもつのが演劇前衛の意識でした。一億総ざんげするしかなかった情緒的である゛君の心が戦争を起こす゛日本のインテリ層の対極にあるところの賢い意志の存在というものが在るのだということを知るのです。最前線の演劇には欺瞞の底(社会悪)を捉える力があという存在のことをいっています。これが演劇ならば、演劇をやる意味があると私なりに確信するようになった。)私自身にとっては、芸能は村芝居からの発展であり、大多数の人を喜ばす芸の虫になる道しか知らないし、それしかなかったので、演劇が優れて社会変革の役割を担うものだという、知的世界の存在を具体的には知り得なかった。ところがどっこい、真の演劇運動は、そこにこそ社会的役割があるという想念が私にも湧いたわけです。世界の先進国が世界戦争に突入した苦い事実があり、地下抵抗運動があって、苦悩するインテリという問題があった。 カミュゃサルトルの実存主義があった。で、その総括を踏まえたところの演劇は、その実践の最前線であることを知るのだということを私は理解するのです。私を面白い大衆芸能の世界から転向して社会告発者の道に入ったのだとだけと見る人がいるけど、これは大いなる誤解です。あくまでも娯楽だけに甘んじない演劇論から出てきたものとしての私戦(反戦演劇運動)の数々があるのです。 単なるジャーナリストあるいはルポライターだと思ったりしているだけでは解けない独特な面があるのです。でないと、たった一人で鹿島交渉(1984年)なんか出来るわけがないし、既存の政治的団体による反戦運動とは常に一線を劃すというようなことはできやしないものです。私は、あくまでも演劇の人なのです。芸人ではないが、シャーマンとしての演劇人ではあるのです。だから演劇から見る歴史認識は絶対に一言あるので、なんとしても答えを出さずにはいられない性質を持っているということです。このことが終に出雲縄文史観を見つけることに繋がったのだということです。 昨年、藤圭子がビルから飛び降りて自殺しましたが、自殺というのは、たいがい抗議の篭った異議申し立てを含んでいるものなのです。育ての親であり作詞家の石坂まさをさんと、私は知り合いでした。その石坂さんが亡くなって、石坂さんのお別れの会(8月23日ホテルポール麹町)が開かれたのですが、前日(22日)に藤圭子は新宿で飛び降り自殺しています。彼女の歌には、私の挫折時代の救命歌としての歴史がありあの時代の挫折者にとってはとても大事な救命の歌手でしたので、私は黙っているわけにはいかないという思いがあります。「救命歌手」、「出雲縄文」、「挫折からの再生」という本題に入る前に、劇団「青俳」時代のお話をもう少し語っておかないと、のめりこんでいる「縄文の愛」については語れなくなりますので、わが苦い青春時代の話に戻します。 二部 じぇじぇじぇで3/11の東北大震災から復興をテーマにした娯楽NHK朝テレで、わが青春の懐かしい顔が老人の役で登場しています。一人が宮本信子です。もう一人がわが友蟹江敬三です。劇団ではノブチンと読んでいたし、カニエはカニです。さきほどいいましたように、私は劇団「青俳」に入りますが、ちょうどその時期に、宮本信子も一級上のカニも同時期に、劇団「青俳」で一緒に舞台を作っています。演出助手と主役たちの関係にあったのです。ノブチンの入団は、特別でした横滑りというか、劇団に入った経緯が特例でした。というのは、劇団「青年芸術劇場」(青芸)というのがありました。60年安保後に生まれた演劇人精鋭の集う劇団でした。ここには、演劇のリーダーとして、観世秀夫、福田善之、宮本研、俳優では米倉まさかね(斎加年)岡村春彦が民芸から独立して創った劇団で、東大劇研から京都の大島組を経て入団した菅孝行この人は名著(死せる新劇によせる)を書いています、早稲田の劇研の佐藤信(六本木の劇場から後の黒テント)、あまりにも有名な一世風靡をする直前の唐十郎(状況劇場)が集っていた劇団に、宮本信子は彗星のごとく現れた主演女優でした。そのノブチンを追っかけまわしていて結婚することになったのが伊丹十三監督だったわけです。彼の映画には常に宮本信子が主演女優として出ていた「マルサの女」などです。此の劇団青芸で、演出部を受けた佐藤信が受かって私が落ち、私は劇団「青俳」に入った経緯があるので世の中狭いものです。青芸から劇団「青俳」は同じ道順なのです。それほど青芸はピカ一の劇団だったのですが、試験に落ちた年に此の劇団は解散し、ノブチンの行き先が私と同じように劇団「青俳」になるのです。蟹江も、私も、研究所を経て、劇団員になるのですが、彼女は文学座の研究生から劇団「青俳」の劇団員になっていました。 1966年、劇団「青俳」は黄金期を迎えます。蟹江は私より二つ若いのですが、都立新宿高校から、劇団「青俳」の研究所生になって準劇団員になっていたので一級上でした。ノブチンは三つ下でした。文学座の研究生から青芸経由で(青芸での「三日月の影」を私はみてる。)入団しています。なぜここのところを詳しく言うかというと、此の年二人と私が演出し助手をした作品が大きな二つの演劇賞を取っているからです。正月に蟹江が、同期の仙波綾子と結婚して、清水邦夫作、秋浜悟演出『あの日たち』の主役に抜擢されます。女優は東映の看板女優でもあった真山知子です。私は、劇団の研究生になったばかりで役職はつけない身分でしたが、秋浜演出の演出助手に大抜擢されます。劇団「青俳」は港区三の橋に、目白から移って新稽古場を三之橋に開設し、銀座にあった劇団芸能事務所も一緒になって、ものすごくはり切って当時新進気鋭の演出家を客演に呼んでの力作を此の年仕掛けたていくのです。その作品にカニエは主役を得ます。 記憶喪失がテーマです。産業先進国の日本の社会では、この時代ものすごいことになっていました。戦後の日本の復興は五年後1950/6の朝鮮戦争(消耗戦)四年間を利用して戦後経済を復興させていくのですが、このことが戦後日本の反戦平和のエネルギー(戦後的平和志向)をゆがめていきます。此の劇団が向き合っていた作品のテーマに入る前に、劇団総力を挙げて取り組んだ時代のメンバーたちの記念写真がありますので見ていただきます。 写真 記憶喪失というテーマは、老齢化と共に始まる痴呆症とはちょっと違いまして、一酸化中毒による屈強な肉体労働者である炭鉱夫たちが大量(1963/11死458記憶喪失二百人)に、記憶喪失になるという恐ろしい話です。九州熊本の三井鉱山三池三川鉱で起きた炭塵爆発の後遺症にくるしむという人々の社会的問題があったのです。実際に起きていた事実で、今では差別問題になって採り上げられないでしょうが、当時はぎりぎり表現の自由が保障されてこの恐ろしいテーマと正面から向き合えたのです。蟹江は、記憶喪失に陥った青年労働者の役です。彼に恋をしていた女性が真山知子で、何とか愛しあっていた恋の日々を蘇えらせようと、訓練所の看護の仕事につくんです。失われた愛を蘇えらせようとリハビリ訓練所に勤め、蟹江との愛よ蘇えれと接触する物語が軸となります。『愛よ蘇えれ!』というこのテーマは人生上最大のテーマです。人間ひどい災害や事件に遭遇すると、正常な機能を失います。異常になるのです。現代ではさまざまなストレスによって、少しずつ異常になることがある。不幸が重なるとあまりの心の負担に耐えられなくなって異常行動に出る。ヒステリー状態になるんですね。ですから今や生きるということは、古代の人間には考えられないような精神の異常状態を発祥するんです。躁うつ病などが現代病として非常に増えています。実は、近代文明の発展は便利さと引き換えに、人間が動物として備えている正常な発達機能を阻害しているという面があるのです。薬や医術で高度な手術による改良などで、ひとまず健康を取り戻すことはあっても、もともとはなかった病気が文明の進歩と共に現代になって増えている、それに対してさらに医療技術が発達するといういたちごっこになっています。電車が災害でもないのに良く止まります。その原因の多くは飛び込み自殺です。大事なことは、最も原始的なプリミティブな人間、シンプルライフを進めることこそが最も重要になっているということなのです。その力となるのが、愛というものなのです。 愛は地球を救うものです。記憶喪失した青年蟹江が劇中で歌う場面があります。蟹江の青年役というのはここをスタートにしています。清水邦夫の戯曲は青年のイメージとして蟹江を想定しカニはずっとその面影を担って、じぇじぇじぇの朝ドラにひょっこりと何気なく登場しているのです。その老人役のカニエが青年として時代を背負った役どころをずっと背負ったわけですが、最初の役がこの記憶喪失した青年の役です。そのカニが劇中歌を口ずさみます。 「あの日たち」の主題歌です。 歌う さて、同じ朝ドラのバーちゃん役宮本信子主演の話に移りましょう。劇団「青俳」は秋の芸術祭参加作品として、ぶつけてきたのが、井上光晴のベストセラー作品「地の群れ」の劇化です。外部演出家の招聘を成功させていましたので、八月の狩で経験済みの文学座の木村光一の演出を再度お願いして、話題作を上演することになります。長崎の原爆がテーマで、神キリスト教のメッカ礼拝堂に原爆投下することの欺瞞をつく、ものすごいラジカルなテーマです。井上光晴の出世作の舞台化です。若い青年役を俳優座から来た住吉がやり、相手役の徳子役を宮本信子がやります。 木村光一は文学座の新進気鋭のドル箱演出家として劇団「青俳」での稽古に入りました。問題は、劇団外から客演演出する場合、劇団側を代表して誰が演出助手になるかということです。 「あの日たち」の成功に気を良くした首脳部は、樋口お前がやれと名指します。ノブチンが舞台狭しと演じている、演出席の隣で私は居るわけですからダメだしを代わって本人に伝えたりする役をやるわけです。ノブチンのような同世代の子は気が楽ですが、大スターの岡田英次ゃ木村功と口を利くのは緊張したものです。此の「地の群れ」の作品演出で、木村光一さんは芸術祭賞を演出家として受賞しています。文学座でもまだとっていなかったんじゃないでしょうか。それと、此の年の年間の紀伊国屋演劇賞グランプリ第一回を劇団「青俳」が受けているのです。蟹江もノブチンも主演俳優と主演女優として、光を放つわけです。 ノブチンは此のあと、伊丹十三との家庭生活があり、映画作りに移っていきます。劇団を離れたのだと思います。カニエと私は、栄光の劇団「青俳」を岡田英次側について分裂させベトナム戦争反対デモに全員が出かけていく行動的な劇団に変身させていきます。此の劇的行動は、研究生樋口の仕掛けで確実に動きます。新劇団名は岡田がつけた「現代人劇場」ときまります。二年半必死の決戦が実って1969年九月に清水邦夫作蜷川幸雄演出『心情あふるる軽薄さ』の舞台(反戦派総出)が新宿でブレイクし花開きます、だがその成功は同時に急速に深刻な挫折を抱えて逃げ惑う真情は奈落に落ちていきました。 三部 救命歌 で今日は、縄文の愛についての話ですので、敗北にうちひしがれているときに歌によってすくわれるという話にワープします。したがって、連戦連勝つづきの戦いの上昇期の事柄である「劇的な日々」については省きます。地獄の挫折時代に救命歌に救われる話に飛びます。 場内フェドアウトの中に 赤く咲くのはけしの花 白く咲くのはゆりの花 どう咲きゃいいのさ 此のわたし 夢は夜光る これが私たちの、救命歌です。若い方は、藤圭子よりも娘の宇多田ヒカル(光)の方が 有名でしょうが、二つの反安保反戦運動に敗北した、つまり目的が果たせずに挫折した世代には、1969年九月18歳でデビューした母親の藤圭子のデビューの方がずっと衝撃派が強いわけです。1969年九月といえば、新宿文化アートシアターで、大ブレイクするわが現代人劇場と新劇反戦合同劇、清水邦夫作『心情あふるる軽薄さ』が大ブレークしたときです。先ほど説明した記憶喪失の青年の蟹江が行列にあくたいをつくす青年役で登場し、現代人劇場と新劇人で組織した反戦派総出演での「悪態と鎮圧の劇」です。 写真四枚での説明 主権在民は果たせず、国家権力圧殺に屈する (当時の権力トップは後藤田と中曽根) 藤圭子の売り出しのマネージャーとなった東芝専属の作詞家澤之井龍二は、狂気の仕掛け人 に変身して、流しの少女をメジャーデビューさせるのです。浪曲師の父、盲目の母と放浪の旅芸人の一家として流していた圭子を見つけ出し、必死のメジャーデビュー作戦に出たのです。 当時の新宿は、アングラの牙城であり自称前衛芸術家たちの摩擦の熱い場所だったのです。芸術文化が花開くときはあくまでも暗く深い敗北のときでもあったのです。行き場をなくなったエネルギーだけが渦巻くような時空間の底に現れたのです。ゴールデン街に入り浸る日々のみがある、そんな時代でした。そのよどみの中に聞こえてきたのが、「新宿の女」です。これがじわりじわりと流行するんです。デビュー作「新宿の女」は暗い挫折の世の中に大衆の心をつかんでいくわけですが、第二弾『女のブルース』がヒットし、続いて第三弾め「圭子の夢は夜ひらく」の曲が町に流れるようになったのは1970年三月発売のLPのB面だった。そこそこ行くだろうとは思っていた関係者の思惑をはるかに超えて爆発的な動きになっていった。じわりじわりと此の歌が社会の隅々に伝わっていったその伝わり方は、いかに当時は万博とセットの挫折の時代ならではのことだったのかということを物語っています。 挫折感を眼一杯食らっていた私などは、苦しくかきむしられるような真情の中で、彼女の歌に救われていくわけです。いわゆる芸能の力というものは、行間に棲んでいる愛そのものなのです。人が人を恋うという最も始源的な、琴線に触れたとき、よしもう一度生きてやろうという命の力を自らが突き動かすんですね。 異議申し立てに動いた社会変革のエネルギーは、方向を失って奈落に落ちていったわけですが、同時にそれは、這い上がることの救命歌によって、再び人を全うな道へといざないます。しかし、この底辺上がりの歌に反応しないのが三島由紀夫であり、自害への道に突き進むしかないもう一つの日本人の道です。(東大一高詩人たちの自殺にもついじるもののことは稲垣真美氏が指摘するところでもあります。)清水邦夫は『泣かないのか泣かないのか日本一万年のために』を書き降ろしています。まじめすぎる全共闘の死と三島の死はともにここにその心因があると私は見ています。 此の苦しみの時、少女藤圭子に続く次の救命士が登場します。そのもう一人こそが、現れてスタンバイ状態にあり、全敗北の空気(シーマ)に対応していたのです。 1970年代、同志殺しに狂う反帝国主義運動は、銃を持つしかないかのように追い詰められた気持ちになって、終に、わが黒ヘルの仲間たちは、爆弾を手にし、見失われた敵を討とうと血迷います。ほっておいても時代は、深刻化し公害列島化して世の中をグチャグチャにしていきますが、幻想は若者にトリ付いて最悪なる赤軍幻想に陥っていきます。そんな深刻な世相に、新しい、救命士が現れてきていたのです。 爆笑王タモリの登場です。 写真 顔写真 今年の三月にギネスブックに載るほどの長寿番組「笑っていいとも」が終に終了となります。あのタモリ森田一義の存在は、あの挫折の時代のもう一人の救命士だったのです。 あのひっくり返るほどの可笑しさを、当時のようにはお伝えすることはなかなか出来ません。およそ、放送コードに引っかかる物だらけで、説明のしょうのないギャグの連発は満州帰りの無政府主義状態の世界でした。 突然 石飛流ハナモゲラ語を披露 喋り続けアクションを交えてたっぷり。 写真 福岡バーテンダーの頃のタモリを紹介する。 此の平凡なサラリーマンが、とんでもない道へと突き進みます。 1969年、2月発売のカルメンマキの『時には母のないこのように』と、9月「新宿の女」で登場した藤圭子の歌に救われた私は、一年後、退団届けを出して演劇の仲間たちとキッパリと別れて、ルポライターの道に転進し、ドキメントの世界を学んでから「女性自身」の専属記者になります。母が亡くなった半年後に、結婚した1972年のことでもあります。此の年のタモリの登場は私の新しい友人たちが、彼を取り巻いて面白いことになっていたのです。ジャズピアニスト山下洋輔らと、タモリとの出会いは歴史的なことでした。そのタモリの出現の立役者がジャズピアニストの山下洋輔である必要がどうしてもあったという線が存在していました。 当時の早稲田は、学園内が各セクト間の根拠地死守あらそいの戦場と化していました。わが、駒大はほぼ反帝合評の拠点となっていましたが、早稲田はその本山でありながら、革マル、中核、社学同からインターなど全部のセクトが血で血を洗うキャンパス内陣地争いになっていました。最も新しい、中上健次等の反戦連合が大隈講堂のピアノを持ち出して、敵対する教場に運び込んで演奏するという事件を引き起こしています。内ゲバを山下とそのピットインのトリオによる演奏は、内ゲバを見事に阻止していたのです。ピットインの新進ジャズマンが、血で血を洗う決戦を、シャラクセイとピアノをたたいて阻止したのです。音楽がゲバルトをとめたのです。山下のジャズを肯定し煽ったのが平岡正明と相倉久人ら映画批評の鬼才たちでした。 その山下トリオが、三年後、福岡で歴史的な遭遇を行っています。 山下の文を読む。 中村誠一とはどういう人か、私との珍しい一枚の写真があります。彼らのものすご い芸は、ジャックの豆の木、ソークメナーズから、四谷のホワイトへと移り、シュールレアリストが集まって行きます。彼こそは、暗く辛い挫折の日々に行き場を失った大衆を救う天下一品の救命爆笑王として登場するのです。 タモリや誠一たちが良く出入りしていたホワイトでの写真を見ていただき、ついでに、此のホワイトでの私と友人全員の写真も見ていただきます、ここに小室直樹が居ます。彼は亡くなりました。平岡も、朝倉も、曽我部も亡くなっています。 当時を語れるものが少なくなってきました。……亡くなった皆さんは皆病死です。 生と死をどうするんだ、お前はどう考えているんだという声が聞こえてくるようです。死者たちが残したものを、自分なりに学んで、彼等が落としている思想も拾って補うのも残されたもののし役目です。私は、縄文の愛によってそれを語らねばなりませんが、縄文をやっていて、分ったことは、支配と被支配との関係が歴史の始まりなのだと、のたもう餓鬼どもに、惑わされまいぞという決意があるということです。ここで一休みして、続きをまた書くことにします。 ライフワーク「花岡事件」のシンポの予告をしておきます。 本年3/20飯田橋でのシンポは、現代の思想戦線はどうなっているか、そんなテーマで若い小室直樹の研究者である村上篤直さんを招いて『小室直樹の新戦争論と「花岡事件」』と題してシンポジュウムを開催します。 話は一旦終了いたします。 2014年 正月 |
| 石飛 仁 |
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| 次回の東京東アジア文化交流会のシンポは、 3/20飯田橋6:00第57回東京東アジア文化交流会シンポは、3・11から三年目のシンポとして近代の戦争と平和の欺瞞を見つめます。題して『小室博士の「新戦争論」と「花岡事件」』、小室博士の評伝作成中の村上篤直氏を招き、ルンペン学者発掘者の一人だった石飛 仁との対論形式で、日本近代の病巣をえぐります。ご期待ください。 |
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