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以下は亡父・羽根洋揚(はねひろあき)が旧満州で在籍勤務した満州生活必需品株式会社の生存帰国者が出してい た「生必会報」に父が寄稿したものである。
遺品の中に埋もれていたもので、会報の日付は昭和55年5月5日・第29号となっている。
父は明治37年3月1日奈良県十津川村生れ。明治大学商学部卒後、東京市役所に入り、満州生必に移籍。敗戦直前、現地召集を受け、敗戦と共にシベリア抑留。炭鉱での労役で健康を害し、帰国。比較的長命で平成4年3月26日没。88歳。
以下原文に即して転記する。なお、原文にタイトルはあるが、中見出しはなく、これは私が付けたものである。
生必会社と私の俘囚記 〜羽根洋揚〜
昭和十四年暮、十年近く務めた東京市役所(現在の都庁)を辞めて、生必会社に入社した。生必支配人の岩田さんが市役所においでになって、経済局庶務係長だった山下さんと話し合いされ、経済局からは堀江さん、荒川さん、和田さん、武田さんのエリートをはじめ数名の生必入りが決まった。
私は和田さん、武田さんと一緒に渡満し、十五年一月早々出社、錦州支店出向と決まった。
錦州支店を振り出しに、本社市場部へもどり、吉林第二支店、阜新配給所と私の生必生活は地方廻りが多かったので、本社系の皆様と顔なじみは少ない。
満州勤務スタート
最初の錦州支店は支店長・古賀忠四郎さんで、事務所、倉庫は建設中でした。草創時代であり、続々と商品は配送されて来る。職員も次々に配属されてなかなか活気があった。当時の若手職員は山岡、大林、楠瀬、近江、加藤、古波蔵、銘刈(敬称略)まだまだいたのですが今は思い出せない。
倉庫主任は中山さん、会計主任は沢木さん。祖父江さん、阿部彰さんも錦州で一緒でした。
本社に市場部が出来て本社に転属になった。市場部は新京南広場にあり、柴田さんが部長で野口さん、和田さんがその配下であった。望月さん加藤さんもその頃一緒でした。
昭和十六年四月頃だったと思うのだが、吉林第二支店に配転された。支店長はたしか鈴木さんでした。私は清算係で、庶務主任に早川さんというなかなかやり手な方がいました。吉林は北鮮に近いので、羅津や清津から海産物がよく入荷した。ある時、北鮮から入荷した明太魚が、そのお腹に阿片を詰めてあるのが多数発見されたことがある。発送人はどんな手違いをしたのか、不可解なことでした。
昭和十七年八月の或る日曜日、本社人事課職員の皆様が吉林にリクリエーションにおいでになり、私はそのお世話をした。当時未完成の豊満ダムの下流で網を引いて草魚獲りをした。二匹入ったのが一匹は逃げて一匹しかとれなかったのであるが、それでも2メートルもある大物で、それを刺し身にしたり、天ぷらにするなど大変愉快な一日を過ごしたことがある。
戦争もだんだん拡大されて物資の入荷は少なくなり、殊に朝鮮からの生鮮食料品は激減した。吉林市公署からはやかましくいわれるのだが、どうすることも出来ない。そこで市公署に提案して朝鮮に出荷工作に行こうと云うことになった。私と市の経済課長一法師さんと二人で羅津、清津、城津、それに朝鮮リンゴの産地まで廻ったのであるが、結果は思わしからずに終わった。
土地、土地で日本人業者に会っても、もはや日本人業者の出る幕はないと云うことで、北鮮業者に一応お願いして引き下がった。
昭和十八年春、阜新に転属になり、ここが最後の生必生活の場となったのである。阜新市は炭鉱街で阜新炭鉱によって拓けた街で、主坑は孫河湾という処にあり市街地から離れている。官衙、病院、学校、商店等は市街地に集り、従って生必も阜新炭鉱の鉱業所も市街地にあった。また不便にも阜新駅は市街から4キロ近くも離れた処にぽつんとあった。
何といっても生必の得意先は阜新炭鉱の大口労需であり、炭鉱社宅や炭鉱病院の動向が生必の動向をも支配する形勢であった。
私が行った頃の生必は大口労需のいざこざで阜新炭鉱からの未払いが残っていた。何も知らない未熟者の私は鉱業所長の平石さんが私の郷里・十津川に近い和歌山県新宮市のご出身だという、ただそれだけを頼りに広い立派な所長室に平石さんを尋ねた。縷縷経緯をお話してお願いしたところ、万事解決して、炭鉱とはその後何事もスムーズに運ぶようになった。
人と人の縁
人と人のつながりというものは大切にしなければならないものだとつくづく思い知らされた。何の能力もない私は吉林では一法師さん、阜新では市長さん、何れも東京市役所出身で、阜新警察署長さんは同県人、平石さんは郷里近くの方。また阜新部隊の江波戸・主計中尉も忘れがたい方です。この方はどうなさったか?生必で地場蔬菜を統制した時、毎日部隊に納入したのであるが、その他にも地玉子など江波戸さんを通じて大変お世話になったものである。それというのも、江波戸さんは東京本郷曙町出身、東大卒で、話のついでに私の郷里の先輩に曙町に住んで居られる法学博士・乾正彦さんが居ると云ったら、その先生に習ったことがあるという。その後公用で街に来られる度に何時も私の処に寄られるという次第でした。
また、阜新には満系業者にもなかなか好い方が居た。いまだに忘れられないのは弓発福、福玉和という方たちで市街から二、三キロ離れた城内に住んでおられたのですが、いい人たちでした。
苦力に鄒と高という二人が居ました。二人は山東系で私が吉林から阜新に転属になったら、さっさと吉林を止めて阜新の私の処に来たのです。私が応召して終戦後、私の家族は二人の世話になったのである。鄒は阜新でタイタイ(奥さん)をもらった。私の家族は彼の家に世話になった。私がまだ居る頃はシラミだらけのボロを着て、五円借してくれなどと社宅にやって来る事もしばしばあり、全部ではないが鄒の希望を入れてやっていた。
しかし、そんなつまらないことでも忘れる彼ではなかったことを私は真に嬉しく今思い出している。
現地召集の赤紙、そして敗戦
昭和二十年五月、充員召集を阜新で受けた。聖戦ももはや末期的症状で、五月以降の召集は実に武器なき兵員の寄せ集めであり、俘虜要員としての寄せ集めでもあった。私は一老兵として、八月の敗戦と共に俘虜になるまで、かけられた気合、共同責任という名のもとでの責め苦、銃器の手入れの難癖、等々で受けたビンタの腫れは治らなかった。生き地獄というのは正にこれをいうのかと思った。
終戦は奉天で、私はその時アメリカ軍捕虜収容所の衛兵勤務であった。
乱れ飛ぶデマのうちに私達の部隊は張学良時代の旧東北大学へ集結した。「なんだか変だな?」と思いながらも、まだ必勝の信念とかいうものを強く叩き込まれて来た私達には、「負けたのだ」という意識はピンとこないのであった。それでも少しばかりの兵器はすべて没収され、将校以下丸腰にされてしまった。
柵外は既にロスケの兵隊がマンドリン(自動小銃)を斜めに、およそ数日前までの我が軍隊では想像もつかない態度で、煙草を吹かしながら警備を固めている。だんだん敗戦感も強くなり、もはや捕虜は免れない事実となってきた。
私達はそろそろ脱走を考え、集ってはそれを協議し始めた。しかし、幹部将校は軍刑法を説き、更にロスケの刑法は妻子眷族まで銃殺だ!といって脱走を防止した。員数の確保が彼等幹部将校の身の保全だったからだろう。
哀れ迷羊の如き私達は軍刑法におびえながら、混乱した現地に残した妻子の安全をひたすら希い、脱走して果たして安全に妻子の許に辿り着く目算もつかないまま、ソ連への忠誠を強要される引かれ者となったのだった。それでも、今日は誰々が使役に出たまま帰らない、とか、いや、何中隊の某は柵に近寄りすぎてロスケに射ち殺された、とか、私達の混乱した気持ちは名状することも出来なかった。
欺瞞だった『新京で解散!』
九月に入って十日すぎ、「我々は新京以北へ行って、そこで解散だ」と隊長から告げられた。「解散するのに何故そんな所まで行くのだ?」と不信をいだきながら、解散ということに他愛なく喜んだ私達は、関東軍倉庫から運んだ被服類、食料品等々出来るだけ多く背負って汽車に乗り込んだ。
今までなら半日で着くべき新京が、途中の混乱で一週間経ってもまだ着かない。
通過する駅々の混乱は全く言語に絶したものである。顔を黒くしてボウズ頭に戦闘帽の、我々には一見してそれと判る男装の日本婦人が或いは子供を、或いは老人を連れて右往左往している光景に、引かれ者の己の身を忘れて泪し、戦争を呪うのでした。
奉天を出発して八日め、解散目標である新京に着いた。どうも下車する様子がない。そうこうするうちに汽車はまた動き出した。私たちの不安は募るばかり、焦燥、身の置き所を知らず。
新京を出て二日、ハルピンに着いた。私達は、ここで解散だと云って、みんな喜んだ。間もなく……「下車準備」の命令が来た。一同は飛び立つ思いで装具をまとめ、背負った。然し、一時間経っても、二時間過ぎても、準備だけで下車の命令が来ない。待ちあぐんだ末、「装具を下ろして元の位置につけ!」という命令が来た。私達は朽ち折れる様にその場にうずくまってしまった。
車は再び北上を始めた。正に反比例する私達幾千の感情を引きずりながら…
この頃になると、混乱した私達はもう何日であったかも判然としない。「おい、今日は何日だ?」と誰かが云う。離れた処で日記か何か書いていた兵隊が「今日は九月十八日だよ、陶頼昭で中秋の名月だったじゃないか、あれから三日経っているんだよ」と答えた。「そうだそうだ、そう云えば、あそこでニイヤから月餅を買ったなあ…」
月餅と云えば、在満召集の私達には忘れられない懐かしみのある菓子だった。名月も近い頃になると、満人の店ではこれを売り出し、満人の各家庭では、これを供えて中秋節を祝う習わしである。
思い出の月餅から、私達の連想は幼かりし頃、家郷での芋名月、豆名月に思いをはせ、年老いた父母がこの敗戦という世紀の変転をいかに迎えたであろうか?現地に残した妻子は混乱の中をいかに生き延びたであろうか?など何を考えても喜ばしい予感は少しもない。
それぞれのそうした感傷をよそに、私達を乗せた車は北へ北へ、行方知らずの引かれ者。げに、屠所に引かれる羊にも比すべき存在である。もうこうなってはと、皆、真剣に脱走を考えるのだった。
脱走、銃撃!
丁度その夜であった。安達という阜新から私と同時召集の一等兵が四、五名とかたらい、彼が先頭を切って車窓から脱走を企てた。続く四、五名も次々に飛び降りた。車は今や勾配に差しかかり、あえぐような進行だった。車の両端入口で警備していたロスケのいわゆるマンドリンは俄然両方から火を吹いた。ダダダダダダダダ………飛び降りた安達達はものの二、三十歩も走ったか、次々に前のめりに倒れてしまった。斯くして元気者だった安達も死んでしまったのか、その後の消息は知る由もない。
こんなことがあってから、翌々日の夜更け、私は装具を車窓に立てかけ、それによりかかって熟睡していた。
突然、パアンという銃声と同時に顔面、胸部に大衝撃を感じて飛び起きた。瞬間痛いとも何とも分らない。顔に手を当ててみるとベトベトしている。車中の兵はみんなこの音で目を覚まされた。隣に寝ていた本郷が、
「オイ!羽根がやられたぞ、誰か早くローソクをつけろ!」といって騒ぎたてた。
灯をつけてみると上唇が破け、胸をはだけると二、三ヶ所から血が吹き出し襦袢が血糊でベトベトだった。本郷が三角巾で応急包帯をして、「早く軍医を!」と連絡してくれた。
私はこの時、もし弾が内部に入っていたら或は助からないかもしれないぞ、と瞬間非常に死を恐れ、今死んでは、と強い本能的な生への執着を覚えた。
だんだん傷が痛み、頭がジンジンしてくる。胸に手を当てて押してみたが内部の痛みではないようだ。いよいよ耳鳴りがして、痛みがつのってくる。先程の強い死への恐怖も消え、こんどは、どうせ死ぬのなら早く死ね、俘虜になって何処で何時殺されるか知れない運命だ、という捨て鉢な気持ちが支配してきた。傷の痛みはつのるばかりである。
やがて軍医が来て、ていねいに診てくれた。
「弾は内部に入っていないようだから心配はない」と衛生兵に処置を云い付け、軍医は自分の車輌に帰っていった。
傷は痛むが、一体どうした出来事だったのかと、私は自分の不運な経緯を考えてみた。時計は夜の一時半頃、車は名も知らない小駅に停車中であった。この駅は線路より小高い所に建物があって、そのあたりからの盲弾であった。その頃はあちこちで銃声が聞えていた。
翌朝、入口の警備兵が現場検証して、私の寝ていた所を調べたら、敷いていた毛布の端から一センチ程のさけた銃弾がみつかった。警備兵はそれを持って元の位置に戻った。
貨車北上、ソ満国境へ
かくして九月もあと二、三日という頃、私達はとうとう満州も最北端、国境の街、黒河まで運ばれてしまった。大アムールは黒々と流れ、渡ればソ連ブラゴエチエンスクの街である。
今を去る数十年前、即ち明治三十四、五年頃のことか、帝政ロシアの東漸政策盛んなりし頃、約五千の満人をこの河畔に集め、騎馬兵がそれを包囲して漸次その輪を縮め、遂に五千の満人を大アムールの藻屑と消えさしめたという。私はこのブラゴエの惨劇を想起し、今、自分達の置かれている運命と思い合わせるのでした。
私の傷はまだ治らず、唇はすでに化膿し、持ち合わせの破れ鏡で見ると何か黒い物が膿の中に見られる。衛生兵に見てもらい、小豆大の弾片を取り出してもらった。負傷して丁度二週間目であった。
河畔で三日野営し、いよいよ十月一日、アムールを渡ってソ連に引き入れられた。
初めて踏む赤一色のソ連の地、対岸黒河の街から見たブラゴエは絵の様に三三、五五白亜が展望されたが、来てみると店らしきものはなく、灯の消えた死の感じの街である。
背負えるだけ多く背負って、ぞろぞろ引かれ行く私達も実に哀れに違いない。しかし、それにも増して裸足で身に合わぬ大人のオーバーのごとき物をまとった子供や浮浪児が後から後から私達につきまとって、持物を掻っ攫う。物資の極度に急迫していることを如実に物語るこのカッパライには、また違った哀感を禁じ得ないものでした。
ブラゴエの街外れの草原で約一週間野営した私達は、満州からロスケが運び出したおびただしい食料品、衣料品等の運搬と貨車積みの明け暮れであった。哀れ軍馬も数頭積まれた。
貨車西進、帰国の望み断たれる
かくて帰国の迷夢なおさめやらぬ私達は、いよいよ馬糞だらけの貨車へ積みこまれシベリア本線へと運ばれて行くのでした。帰ることにまだ淡い希望をつなぎながら、本線に出た車が東進すればウラジオだから望みはあるが、西に向かえば駄目だぞ、と言って太陽の出没から、地形等を注視するのでした。すでに磁石等方角や地理の判る物は没収されていた。
どうも本線に出た車は東進しているようには思えない。そのうち貨車は西に沈まんとしている太陽に向かって進んでいる事が判った。
今までのあまりにも甘すぎた考えを擲って、静に自己をみつめ、いよいよ腹を据える私達でした。
西に向かった車は数日にしてチタに着き、やがて、明けてバイカルを右に見、暮れるバイカルを見送ってイルクーツクに着いた。この頃になるともはや携帯食料も食いつくし、補給はなく、飲まず食わずの日が数日も続く惨めなものでした。
丁度この頃、駅舎もない平原の小駅に停車した。誰かが下車して近くの畑から取り残しのウラナリかぼちゃらしきものを二、三個取って来た。皆それを割って不味そうに食べた。が私はどうしてもそれが食べられなかった。それは忘れられない。
こんな次第で背負って来た装具の中から襦袢がへり、股下がへり、軍手、軍足、その他の品々が手真似、口まねで駅に着く度に食料や金と換えられた。
帰る望みの断たれた今は、もうどうにでもなれ、破れかぶれ、クソ落着きに落着くより他に仕方がない。箱の中ではノド自慢や漫談で行方知れぬ引かれ者の憂さをまぎらわそうするのだった。また、ある時はでたらめの句会もあった。
○星とんで世界の世紀変わりけり
○枯れ草や野に鉄帽の乱れおり
○バイカルやああバイカルやバイカルや
車はひたすら西進してクラスノヤノスク、トムスク、ノヴオシビルスク、オムスクと過ぎ、ペトロパブロフスクに着いた。ここから南下した車は、ソ満国境のアムールを渡ってから三週間過ぎ、遂に謎の小駅・カラカンダに着いた。
ここで、私達は住み着いたやるせない箱車を捨てねばならなかった。
時まさに昭和二十年十月二十四日。
俘虜監獄で採炭労役
この日はみぞれ降る寒さ、私達は駅からおよそ七キロを歩かされ、入れられたのが、カラカンダ炭鉱・第10ラーゲリというのでした。この炭鉱こそ私達の体力を極度に消耗すべく待ち受けていたのだった。
ラーゲリ(収容所)と言えば何の変哲もなく聞えるが、これがいわゆる俘虜の監獄である。
私達が収容された第10ラーゲリは約二千二百名で、左隣に約八百名の先着日本人の16ラーゲリ、右隣に約三千名のゲルマンラーゲリが接続して作られていた。
およそ四週間、収容所生活の準備作業や坑内作業の予備教育で過ごし、いよいよ十一月二十日から坑夫として入坑することになった。
ラーゲリの付近には十数カ所の坑があり、私達はそれぞれ51坑、59坑、64坑、83坑、20坑と別れて入坑した。何れもラーゲリから一キロ位の処だったが、20坑だけは遠く四キロもあった。
作業は8時間労働で、大体ラパート(スコップ、石炭積込作業)、ブリ(ハッパの穴繰り)、ピラ(鋸のこと、坑木たて)、坑木運搬作業等があり、この他に脱線するとちょっとやそっとでは軌道に戻せないトロッコ(1トン車)押しや、故障の多いモーターの監視などがある。
坑道の最先端である切羽では前の班が爆破した砕炭をラパート組が四、五人でコンベヤーに投げ込む。それがゴソッゴソッと地獄にでも引き込まれるような音と共に流れてくる。曲がり角にはモーターが取付けられ、次のコンベヤーを始動して上からの流れを受ける仕組みである。
このモーターが全くチャチで故障続出、末端のトロッコ受けまでには数カ所もモーターがあり、見張りは楽だろうと思っていたら大違いであった。
受持ちのモーターが故障すると、下流のコンベヤーは止まってしまうが、上からはどんどん流れてくる。ストイ、ストイ(英語のストップ?モーターを止めろ)と死に物狂いの大声でどなっても騒音で上にはなかなか届かない。
コンベヤーの間をくぐったり、横になったりして辛うじて上部に連絡がついた頃には、自分の受持ち箇所は石炭の山。モーターも埋まり、どうにも処置なしだ。
コマンジ−ル(監督)が風の如く現れ、ポチム(何故、どうした)と大声と共に鉄ケンやキックの嵐。私は右眼にそれを食らって真黒にはれ、いまでも眼球に炭じんが一つ残っている。
俘囚の悲しさ、ただただ耐えるより仕方がない。
このように作業はいろいろ分れて、入坑前に班長から命令があり、何れもノルマ(基準)が決められている。
例えばラパートは一日何トン積込、ブリは延べ何十メートル、坑木立は何枠というのであるが、これが容易なものではない。出来なければプロホウ、ラボーター(不良労務者)として食料を減らされた。
食事は一日二回、入坑時と出坑時で、普通、粟か燕麦のお粥とルベツ(山羊の腸の塩漬)か、青いトマトの塩漬のスープである。普通の状態なら到底我慢出来ないような代物で、特にルベツのスープは只塩辛いのみか、プーンと悪臭さえ伴っている。
しかし、空腹は更に大きく、固体維持の本能は味わうこともなく、ただそれを呑むのであった。これらは通常時で、悪い時は一食が玉子大のカルトシカ(馬鈴薯)六、七個だけの日が一週間も続いたこともあった。全く耐えられない空腹である。それにも拘らずノルマに変わりはない。
坑内では意地悪なコマンジ−ルが遠慮容赦なくダワイ、ダワイ、ダワイ(ダワイとは動作を促す言葉?)と、馬方さながら俘虜という小馬にムチ打つのである。
腹の皮が背中につくような空腹感と、耐えられない疲労である。少しでも休んでいると、大声でポチム、スパーチ(何故休むか)、ポチム、ラボート、ネート(何故働かないか)と怒鳴られ、殴られ、蹴られるのである。
実に俘囚の屈辱を禁じ得ない。
極限で思考力も喪失
こうなると、もはや私達は固体維持の本能だけで、只、食いたい、食いたいだけになってしまった。以前は私は何よりも家郷のこと、妻子のことが気に懸って仕方がなかったのだが、今はもう、肉親の情などといっても、二点間の最短距離は直線なり、という公理のように理屈としては判るが、どうにも実感の伴わないものになってしまった。
このカルトシカだけ続いた食事は遂に、坑内労働に耐えず、と私達は入坑を拒否し、隊長鈴木大佐は全員を広場に集め、「死なば諸共、皆と行を共にする!」と悲壮な決意を語って、ロスケ当局にぶつかった。その結果、食事は改善されたが、鈴木大佐ほか二、三の人は苦役大隊へ追われてその責を負った。私は大佐のその後を知らない。
ロスケの収容所長も変えられた。
衣食足りて礼節を知る、と言うが、ダワイ、ダワイ連続の坑内作業に空腹と過労では私達の生命も時間の問題に迫ってきた。
吾が国の軍隊華やかなりし、とは何時のことか、もはや私達の生活には礼儀もなければ、節度もなくなってしまった。ただもう如何にして空腹を満すか、このことに全神経が集中され、善悪の判断もつかない状態に落ちてしまった。
ラーゲリの中では毎日サブサラップ(盗難)が続いた。出坑してからの楽しみにと、無理をして残した黒パンがなくなり、いろいろな私物までサブサラップされるのだった。そして盗んだ者がわかると、全員によって全く立つ能はざるまでの大リンチが、昨日も今日も加えられるのであった。
実に正視できないこの恐ろしさ。誰が悪いのであろう、罪は何処にあるのであろう。何故同胞相食むの争いをしなければならないのか、物か人か空腹か、はたまた戦争か?
疲労と空腹は静かにそれを考える余裕すら与えない。
哀れ二親友の事故死
俘囚生活も一年に近い頃から、私達はだんだん健康を損ない急激に病人が増え、坑内では事故が頻発した。幾十名が或は不具になり、或は懐かしい人や土地を思い続けながら哀れ異国の荒野に淋しくも死んで行ったのである。このようにして亡くなった人の中で私の忘れることの出来ない悲惨事がある。身近でしかも最も親しかった二人、本郷隆一君と上江洲君である。
本郷君は鹿児島県大島の人。関西学院を出て、満鉄に入り、応召の時は奉天鉄路総局の庶務主任であったという。学生時代から庭球選手で、満州でも庭球の本郷といえば、当時その道で知らざるなきスポーツマンだったという。私より二ヶ月遅れて七月の召集であり、撫順で私と同じ隊に入ってきた。それ以来私と彼は同じ行動で、然も大いに面倒を見てもらいながらここまでやって来た。奉天の留守宅には子供二人に奥さん、奥さんの母親の四人を残してあるとのことだった。
非常に子煩悩な彼はよく子供のことを話し、収容所に入ってもはや帰る望みのなくなった或る日、帰ったら子供にと思ってここまで大事に持って来たが、もう駄目だ、一緒に食べよう、と言ってカチドキ飴やキャラメルを出して私に呉れるのでした。そんな親切でやさしい本郷、彼も今は永遠に再び相見るに由なき人となったのである。
それは丁度私達が収容所入りしてから、半年ぐらい経った或る日(正しくは昭和二十一年三月二十四日)、一番方で入坑する時であった。整列も間近で、気ぜわしく朝食のお粥をすすっている時、誰か受け取ったお粥を、ガチャ、ガチャとひっくり返す音がした。私は気ぜわしいまま誰だか見向きもしなかったが、何か不吉な思いがした。ところが後で聞くと、それが誰あろう、本郷だったのだ。
彼はその日入坑すると、今までの坑木運搬をラパートに変えてもらって、切羽の先端で砕炭の積込みをやっていた。もはや出坑も間近くなった頃、積むべき炭もなくなったので、炭層にカイロ(ツルハシ)をかけたのである。
何ぞ知らん、其処に不慮の災いが蔵されていようとは。
不発で残っていたハッパがカイロの一触で大音響と共に爆発し、本郷もその場に打ち倒されたのである。地下二千メートルの坑内から担ぎ出された時は、すでに息絶えていたという。致命傷は頚動脈の切断だったという。私はとうとう彼の最後に会うことは出来なかった。
コーカサスの嵐吹くカラカンダ高原、ゲルマン墓地の隣に淋しく葬られた本郷。あんなに家族思いだった彼。奥さん、子供さん、奥さんのお母さん達はどうされたであろう。奥さんの里は福岡で、帰ったら自分も其処へ行くのだ、と彼は云っていた。その福岡へ安全に引揚げたかどうか、夫の、父の死の状況を知るや否や。大きな大きな無形の負債として、いつまでも私の心を痛めつつ残っているのである。
上江洲君は沖縄、那覇の人、ウエスと読むが、姓だけで名を思い出せない。私と同じ五月の召集だった。彼は満州国錦州省彰武県の経済科長だった。私はその頃から物資の面で常に彼と関連があった。応召後はあまり会う機会はなかったが、収容所へ入ってからは時々会った。彼は、沖縄もやられてしまって、親達もどうなったか知れない、今度帰れたら一つ東京に出てなにか屋台店でもする積りだ、どうだ一緒にやらないか、などと言った。私達はもう東京にいるような気になって、真剣に屋台店のことを話したものだった。
その上江洲君が坑内で坑木運搬作業中にやられたのである。今しもカッターが炭層を切り進んでいる側らを、坑木を引いて通りかかった上江洲君にロスケが、ビストリ、ダワイ!(早く行け)と突き飛ばしたと云うが、或は転んだのかも知れない。そのカッターに片足を巻き込まれてしまった。
一緒に作業していた戦友が急いで引きずり出した時、彼の足は骨ばかりだったと云う。
応急止血をして、名ばかりの医務室へ運ばれた彼、戦友の止血が最も適切だったので、その時は一命を取り止めた。
だが負傷した足は大腿部から切断しなければならなかった。ところが俘虜収容所の医務室のこと、薬品もなければ手術道具もない。
坑木を引く大きなピラ(鋸)で彼の大腿骨は切断された。流石に苦痛に耐えかねて、早く殺せ、と叫び続けたという。応急処置後、ゲルマン病院に運ばれ、其処で死んだとも云うが消息は知れない。屋台店のことを話したのが彼との最後であった。
本郷君と上江洲君のことは私にとって一番悲しいことであった。
女子大生の部下になる
坑内作業にはいろいろあるが、みなあなた任せのロスケの命令通りである。ある時、私は一人、スターリン女子大学の実習生が来たのでその女子大生に就いて、彼女の命令で作業せよと命令された。
作業はコンベヤーからこぼれ落ちた石炭、通路その他の石炭を拾っての積み込み等で大した作業ではなかった。ただ休憩と作業の時間がはっきりしていた。
その休憩の時、彼女が話したことは、ロシア語は話せるか、読めるか、英語はどうか、という問いでした。
私はロシア語は話すことも読むことも出来ない、英語は少し解ると答えると、日本はどこか、学校は、と問うので、東京であると答えると、ロシア語を覚えなさい、紙も鉛筆もないので聞いただけでは覚えられないと云ったら、明日紙と鉛筆を持って来てあげると云って翌日持って来てくれた。
また、片言の英語でトルストイの「復活」を読んだことがあると云ったら、彼女はその中に出て来るマルグリーテという名は私と同じであると云った。紙と鉛筆をくれたマルグリーテというロシア女性は私の記憶から消えない存在である。
ドイツ少年兵
今一つ坑内作業で思い出すのは、コップという名の若いそれこそ十七、八歳位のゲルマンのコマンジ−ルである。
私達の班がそのコップの指揮下で一週間作業した時のことである。この若いコマンジ−ルはなかなかに独逸の合理派で、物事はきちんきちんとする人でした。
休憩の雑談に独逸語を知っているかというので、習ったことがあるが忘れてしまった、ただローレライの一節は覚えていると言った処、それを歌ってみろというので、出たら目な節で、
イッヒワイスニヒト、ワスゾルエスベゾイテン、ダスイッヒゾウトラウリッヒビン、アインメルヘンアウスアルテンツヮイテン、ダスコムトミア…………イムアーベントゾンネンシャイン。
辛うじてなんとか歌うと、自分の国の言葉を知っていると、たいへん喜んでくれた。そして、トラウリッヒビン(悲しい)だと云った。
マルグリーテもそうであったが、自国語で自分を理解させようとするのがよく分った。羽根というのが、うまく発音出来ず、ハナはハラショウ、ラボーターだと二人とも言ってくれた。実はそんなハラショウではなかったのだが。
「労働にたえず」とダモイ
ラーゲリでは月に一回のカテゴリー(体格検査)と二回の滅菌といって被服の熱気消毒をするシラミ退治がある。この時は必ず腋毛や陰毛は剃られるのである。発疹チフスの予防である。
それは医務室でするのであるが、丸裸で野郎ばかり集っている図は見られたものではない。耐えがたい屈辱である。
ロスケの軍医の前に一人づつ前面、背面と見せて、軍医はアジン、ドワー、ツリー、一級、二級、三級と体位を決めるのである。一級二級は坑内作業、三級は地上勤務となるのである。
昭和二十二年十月過ぎ私は体力が極端に消耗し、20坑で坑木運搬作業だったが、肩へ針金をかけて引っ張る坑木がどうしても動かない。力を入れると小落盤でやられた腰が痛む、座り込んでいるとロスケが来て殴り飛ばされた。
其処へ女のコマンジールが来て、ポチム(どうした)と云って助けてくれ、軍医のところに連れて行かれた。
軍医に診てもらったら、「病弱、労働に耐えず」という事になった。
そして十月十日の真夜中に呼び出され、入所以来丸二年のラーゲリを逃げる様に出発、ダモイ(帰国)の途についたのである。
ナホトカに集結したのは十一月十日過ぎだった。ここでのわが国の軍隊のなれの果ての姿は全く凄まじいものだったが、これはまたの機会にしよう。
「国破山河在」杜甫の哀絶。その頃、誰か今の運命を予想したであろう。
アウフヴィーダーゼーン
(1980・2・11)
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